まるで置き忘れられたような、白を見つけた。
だが、それが持ち主の手に戻ることは二度とないと、知っていた。
Life goes on
しゅっとかすかに空気の抜ける音、部屋の扉が開く音に、アセムははっと顔を上げた。
「あら」
驚いたような、そうでもないような声が、逆光に立つ細く人影からこぼれ落ちる。
ミレース・アロイ。
「艦長?」
「あなた、ここにいたのね」
扉がすっかり閉まってからミレースは照明のスイッチを入れると、真っ暗だった部屋の中でただベッドに座り込んでいたアセムに小さく微笑みかける。その様に常日頃の厳しさはなく、ただ穏やかだった。
「たぶんお父さんが探していたわよ」
「たぶん?」
「口にはしないけど、視線がね。ドアが開くたびにチェックして、なんだかがっかりしているから」
「……俺、行った方がいいですか」
まだブリッジなんですよね。そう申し出たアセムに、ミレースがおかしそうに笑った。
「もう少し落ち着いてからでもいいのよ。お父さんも待ちきれなくなったら自分の足で探しに来るんじゃないかしら。そのくらいの時間はあるのだし」
その言い方に、アセムは目を瞬く。
ともすればからかっているようにも聞こえるそれは、上官に対するものではないだろう、たぶん。そう思ったところで、はたと気づいた。彼女の使った呼び方に。
「それに、そんな泣き腫らした目のまま外を歩きたくないんじゃないの。あなたも男の子なんだから」
言われて、アセムはきゅっと腕の中にある物を握りしめる。きつく。
白のフライトジャケット。
「それ、ウルフのでしょう」
「はい」
アセムは戦場に出たまま最後まで着艦することなく大気圏にも単独で突入したから詳しくは知らなかったが、ディーヴァも危うく敵要塞ごと落下しかねなかったりとずいぶんな混乱続きだったらしい。
すべて終わって、静まり返ったブリーフィングルームに取り残されていたのを、最後に帰還したアセムが見つけたのだ。
「艦長は、どうして」
だってこの部屋には、もう誰も還ってこない。
あの人は死んでしまったから。
「ちょっとブリッジを追い出されてしまって、だったら今のうちにと思ったの。遺品の整理もいつかはしないといけないし」
連邦軍の基地に着いたら、また忙しくなってしまうだろうから。
「ここも片付けてしまうんですね」
今はまだ、この部屋に彼がいた痕跡が残っている。でもそれもすぐに、跡形もなく消え失せてしまうのだろう。
あの人は死んでしまったから。
「そうね。だから、よかったらもらってあげてくれない? あなたの持っていける物だけでいいから」
「え、でも」
「いいのよ。このまま置いておいても、引き取り手なしで全部処分されてしまうだけだしね。それに形見分けするならたぶん、あなたにもらってもらうのが一番喜ぶと思うの」
膝の上の白にいったん目を落としてから、アセムはもう一度ミレースを見上げた。
なんとなく、彼女の物言いには艦長と小隊長という以上に踏み込んだ情があるように感じたのだ。
「艦長は、隊長とは……その」
「長いわよ。あなたのお父さんと同じくらい」
まさか恋人だったんですかと聞くのは無粋すぎて適当な言葉を探していたら、察したようにミレースが笑みを含んだ答えを返す。
「じゃあ父さんが最初にガンダムに乗ったときの?」
「ええ。ディーヴァのブリッジにいたわ。それからは同じところに配属されることなんて滅多になかったけど――これも巡り合わせかしらね」
「だったら、俺なんかより艦長の方が」
自分が生きてきた二倍以上の時間なんて、今のアセムには想像もつかない長さだ。
しかもずっと軍人として戦争に身を置いていれば、そんな古くからの戦友など多くは生き残っていないのではないか。
「いいえ、あなただからこそよ」
それでも彼女の微笑みは悲しみより、ひどく穏やかな色をしていた。
「少し話をしましょうか。これフリットには内緒よ」
アセムの隣に座ると、ミレースはわざとらしく声を潜めて言った。
「は、はい」
「いい返事ね。最初からそれくらい素直で可愛げがあったらよかったのに。あなたがディーヴァに配属されて初戦闘の命令無視から始まって、いろいろ無茶ばかりして、手を焼かされたものだったわ」
「……はい」
「そうやってあなたが何かやらかしてくれるたびに、まだ子供なんだなあって思っていたのよ。あなたには面白くないでしょうけど」
「でも本当のことです。俺のせいで、みんなにも艦長にもたくさん迷惑かけたし」
自分は子供だ。本当に、どうしようもなく子供だった。
「そうね、冷や冷やさせられっぱなしだったわね。ただ……何て言ったらいいかしら、あなたの普通の子供らしいところが、私たちには嬉しくもあったの」
「嬉しかった?」
思いがけない言葉に、アセムは首を傾げる。
「あなたのお父さんが戦場に出たのは、まだ14歳の時だった。今のあなたよりも子供で、ずっと生意気だったけど、子供らしくないところもたくさんあった。子供らしいことなんて見向きもしないで、難しい顔でガンダムばっかりだった。小さな頃に両親と生まれ故郷を失って、そしてまた第二の故郷まで失って、たぶん仕方のないことだったのでしょうけど」
それでも。
「仕方ないってだけで割り切れないものもあったわ」
懐かしむように目を伏せたミレースの声はほろ苦い。
「昔の父さんのこと、少しだけ、母さんから聞いたことがあります。ハイスクールに進学するときに」
「普通のハイスクール?」
「はい。家の近くの学校に行ってました。軍とかは卒業してから考えればいいって」
「そう」
ミレースが嬉しそうに頷く。
「フリットとエミリーが結婚して、子供が生まれたって話では聞いていたんだけど……やっぱりね、今みたいな話とか、普通に子供らしく笑ったり膨れっ面してるあなたをこの目で見たときが一番、ああ、この子は普通の幸せの中で、ちゃんと愛されてきたんだなあって実感できたの。私も、それにあの人もね」
そっと包み込むようにささやく声は優しくて、あたたかかった。
「あのフリットがお父さんになれて、こんな良い子に恵まれたんだなあって、ちゃんと幸せになれたんだなあって、あなたを見ていてそれがわかって、嬉しかった」
苦しいくらいに。
「けど隊長は、俺なんかのせいで、俺が莫迦だったせいで……っ」
自分はそんな風に言ってもらえるような、立派な息子にはなれなかった。もっと小さくて、ずっとみっともなくて、愚かだった。
泣き崩れてしまわないように俯いて、アセムはきつく唇を噛みしめる。
けれど。
「あなたを守って死んだのでしょう。それはとても悲しいことだけど、あの人はあなたを守りたかったのよ。命を懸けるくらい。あなたが好きで、あなたに生きていてほしかったの。だから自分を否定するのはやめなさい」
あの人が生きた証の一つが、今のあなたなんだから。
縮こまって強張ったアセムの背を、あやすようにミレースの手が撫でる。
乾きかけていた涙がまた滲んで、あふれてくる。
「俺も隊長のこと、好きです。俺がここまで来れたのだって、隊長が信じてくれたからです。俺は父さんみたいにはなれないけど、隊長みたいな人になりたいって、思います」
ぽたりぽたりと手に落ちた涙は、生ぬるかった。
「ふふ。フリットが聞いたらきっと妬いちゃうわね」
「父さんが?」
「可愛い息子の目標を取られたんですもの」
冗談めかしてそう言うと、ミレースはぽんと一度だけアセムの頭を撫でた。
「あの人の遺品、もらってくれる?」
たとえばそれとか。今もアセムの腕の中にある、白のジャケットを目で指しながら。
「これ、俺が着てもいいですか」
長いような短いような沈黙を挟んで意を決し、おずおずと言い出したアセムに、ミレースは少し目を瞠った後すぐに破顔した。
「じゃあ最初に私に見せてちょうだい。それなら許可します」
パイロットにとって制服にも等しいフライトジャケットの色は、標準色以外はよけいな混乱を避けるために機体とあわせてパーソナルカラーとして登録される。今のアセムのそれはAGE2とともに与えられたものだった。
その青を脱ぎ捨てて、アセムは白に袖を通す。
艦長が味方になってくれるというなら、自分のこの子供じみたわがままも許してもらえるだろうか。
「なかなか白も似合うじゃないの」
「……艦長、顔が笑ってます」
身長も体格も一回り違っていたのだから当たり前だが、ウルフのジャケットはアセムには肩も袖も少し余ってしまう。
「むくれないの。すぐにちゃんと合うようになるわよ、まだ18なんだから」
すぐに大きくなる。
小さく笑いながらミレースは、アセムがずっと抱え込んでいたせいで崩れていた形を手早く整えていく。
そして、ふっと目を細めて。
「あの人は、自分は父親になる資格なんてないって言って、ずっと結婚もしなかったし子供もつくらなかったけど、でも……だからこそかしら、父親というものに憧れているようでもあったわ」
「隊長が?」
「あなたを息子みたいに想っていたんでしょうね。バカな子ほど可愛いって本当だなって笑ってたもの」
ぱちん。最後に涙の跡が残る両頬を包むように軽く叩いて、ミレースの手はするりと離れた。
「胸を張って生きなさい、アセム。あなたは今までもこれからも、たくさん愛されて生きている。それを覚えていて」
それはまるで別れのような言葉だった。
それはきっと、彼の死を受け入れて、彼の命を背負って、そうして生き続けていくということだった。
and on
音を立てて開いたブリッジの扉をくぐったところで、ミレースは足を止めた。
この上なくしっかりと目があってしまったフリットは、どうやら視線を外すべきか逡巡しているようだった。気にしているのはミレースではなく、手に持っている物の方だろうが。
──素直になればいいのに、とは言わない。
男は格好付けたいんだよと訳知り顔で言っていた彼のようにその心境を理解することができないのは自分が女だからなのかもしれないが、ならば女だから気づくこともあるだろう。
躊躇うようにもたついていたフリットが、ようやく口を開く。
「ミレース艦長。その手に持っているのは」
「ああ、これですか?」
軽く持ち上げて改めて見せつけるまでもなく、わかりきっているはずだ。
青いフライトジャケット。父親が与えたこの色をまとっていたのは、この艦ではあの子だけなのだから。
「雛鳥がぶち破っていった卵の殻、といったところでしょうか」
「それはどういう……?」
くすりと笑みを含みながらミレースは答えると、怪訝に目を眇めた父親の手にアセムのジャケットを返した。
「私も少し驚きましたけど、彼なりの決意の表し方みたいです」
あの子供はすぐに大きくなるだろう。
そしてあの色を、自分のものにするだろう。
「だから、認めてあげてくださいね」
だからいなくなってしまった彼の分も、あの子が大人になるまでもう少し、見守っていようと思った。
ウルフ隊長追悼と、アセムが受け継いだ白の話。
自分は『理想的な息子』になれないと苦しんでいたアセムと、自分は『理想的な親』にはなれないと諦めていたウルフが、その欠落を埋めあうように擬似父子関係に結びついたという妄想はありですか。ぶっちゃけ擬似家族萌えとしてはたまらん感じなのですが。
そういうわけでウルフの解釈を小説版に拠っています。あんな若い頃から自分は父親に相応しくないとか、人の親にはもっと真っ当な人間がなるべきだみたいに考えてるウルフの理想の父親像って、アセムが背負い込んでた理想の息子像ばりに完璧すぎる高みにある気がする。これはもう小説版で二人の掘り下げ期待するしかない。
あとアセムにとってウルフが戦場の父ならミレースが戦場の母も面白いんじゃないかとか思ったけど、結局フリットが乗り込んできてからはおまけだったなあ。
しかしアニメ#28、まさかアセムのイメチェン白にまったく触れない、だと…!?