ぽつんと立っている、約束の石版。







Innocent Water

水うみ







「だぁれもいないんだね」
 つと呟かれた声にフッチが弾かれたように振り向くと、長い黒髪と真っ白な服をふわふわと風に流しながら、長い杖を持った少女が立っていた。
「ビッキー」
 突然どうしたのかと問う前に、彼女はフッチの隣まで駆け寄ってくると、
「うん。ここって、誰もいないんだ。不思議」
 ぼんやりと石版の周囲を見回しながら、ぼんやりとした声で言った。
「あいつが……いないからね」
 石版を一瞥して答えたフッチが、ひょいと彼女の顔を覗き込む。
「でもビッキーがここに来るなんて珍しいな、またくしゃみでもしたのか?」
 先ほど突然に現れたことを暗に示す声に含まれている、隠しきれない呆れ笑いに気づいてビッキーが小さくむくれた。
「もうっ、フッチくんまでルックくんみたいなこと言うんだからぁ」
 刹那、風に流されてきた雲に遮られて陽が陰る。
 押し黙ってしまったフッチに気づいて、今度は逆にビッキーが顔を覗き込んだ時には、もう流れ去って再び太陽が現れていたが。
「フッチくん?」
「ビッキーはさ、また今度も、あの時のままなんだよな」
「うん?」
「解放戦争があって、統一戦争があって……あの時のままなんだよな」
 石版を見上げるフッチの表情は、ビッキーからはよく見えなかった。
「うん、そうだよ。私びっくりしたんだよ、フッチくんはこんなに格好いい大人になってて、アップルちゃんはあんなに綺麗な大人になってるんだもの」
 そして並んで、同じように石版を見上げた。
「みんな元気?」
「ああ、サスケも元気だし、カスミさんも美人になった。他の人たちにも二年くらい前に会ったけど、結構みんな相変わらずだったよ」
「いいなあ、私も会いたいなあ。あ、シフォンさんは? 解放戦争の後はふらーっといなくなっちゃったって言ってたよね、また行っちゃった?」
「似たようなものかな、しばらくはトランにいたらしいけど、また旅に出たって。でも僕がブライトと竜洞に帰った頃シフォンさんも帰ってきてて、それからは、ふらっと旅に出ては帰ってきての繰り返しでさ。そのたびにサスケやカスミさんや、──ルックも巻き込んでさ、バカみたいに騒いでた」
「いいなあ……私もいたかったな」
 つとフッチの横顔を見上げて、それから再び石版を見上げて、ビッキーはぽっかりと空いた天間星を指差した。
「ねえ、あそこってやっぱり、ルックくんの場所なのかな」
 それはまさしく、フッチの視線の先にあったもので。
「え」
 まるで見透かされたようで、わずかにフッチがたじろいだ。
「いつも、ここだったよね」
「そう、だけど。でも、僕自身、三度目なんて最初は信じられなかったし、今回はデュナンの時と違ってそういう人もかなり減ったから、ルックじゃない、まだ出会ってない誰かなのかもしれないよ」
「でも、フッチくんはルックくんがいいなって思ってるんでしょ?」
 ひどく自然に、当然のように。
──そう、なのかな」
 それでも煮え切らない返事が意外だったらしく、ビッキーは不思議そうに目を瞬かせながら首を傾げた。
「そうじゃないの?」
 あまりに不思議そうで、そう言われてみればそうなのかもしれないと思わされる。と。
「あ、同じだね、それ」
 唐突に脈絡なく彼女が上げた指摘の声に、真似をする彼女の姿に、フッチは自分の右手に肘をついて左手を口元に当てる──シフォンが考え込む時の癖だった仕草を我知らず取っていたことに、はたと気づいた。
 そして、もう一つ気づいた。
「ビッキーだって、同じだろう?」
 組んでいた腕を崩すと、目線より下に見える黒髪を撫でるように触れた。苦いような呆れたような、寂しいような、そんな笑みがこぼれる。
 いつもふわふわと笑っていて、ともすれば憂い知らずのようにも思ってしまうような彼女が、本当にただ笑っているだけなど、あるはずがない。
「うん、そうだ、僕もそう思ってる。でもビッキーだって、そう思ってるんだろう?」
 フッチがそう言った途端、ふにゃりとビッキーの顔が歪んだ。
「あのね、ここに来た時、石版の前にいたフッチくんがすごく寂しそうだったの。すごくすごく寂しそうだったの、フッチくんこんなに大人になっちゃってるのに、どうしてかな、とても小さく見えたの」
 そのまま溢れるに任せて、ぽろぽろと涙をこぼしながら。
「私わかんないよ、何でルックくんがいないのか、わかんないよ。どうして? こんなの、寂しいよ……」
 小さな子供のようにぐしゃぐしゃに泣きじゃくる彼女の頭を何度も撫でて宥めながら、フッチはきつく奥歯を噛みしめると、たまらず瞼を閉じた。
「僕もわからないんだ……おかしいよな、あんなに長いこと一緒だったのに、本当、あいつのこと何もわかってなかったんだ」
 今はまだ、泣けない。涙も滲まない。







かえり道