チリン…と澄んだ音がして、ルックは読んでいた本から顔を上げた。
金属の鈴の音のようでいて少し違う、涼やかな硝子の音色。
その音を奏でているのは、窓際に置かれた木製の三脚架に吊されている、透き通った硝子の鈴だ。最初は普通の鈴を吊していたが、夏の初めに訪れた一人の子供が、これに取り替えろと押しつけてきた。
他ではあまり見かけない、独特の文化を持つ彼の里で作られた工芸品で、名前は確か風鈴といったか。垂れ下がった糸の先に札が結ばれていて、その札が風を受けると音が鳴る仕組みになっている。
ただの鈴ではつまらないからと、これの方が綺麗な音がするからと、がさつな子供に不釣り合いな言葉で語られた理由を一笑に付すと、その子供は怒って窓枠の上の壁に苦無を突き立てて即席のフックを作り、そこに吊して、じっと風を待った末に良い音がするだろうと自信満々に威張った。呆れながらも音色の良さだけは認めると、妙に満足げに笑った子供が、壁から下ろしたそれを手渡してきた。
その硝子の鈴が今、風もないのにゆらゆらと揺れている。
札に描かれた紋様が、わずかに魔力の光を帯びている。
その札が受けているのは、ただの風ではない。
ささやかに鳴り響く鈴の音に、ルックは小さく目を細めると立ち上がり、口の中で短い呪を唱えた。
この鈴を鳴らしている風の待つ場所へ、転移する呪を。
一瞬の眩暈を過ぎると、こつんとブーツの爪先が古い石畳を打ち鳴らす。
グレッグミンスター近郊の丘にある、半ば土に埋もれて崩れかかったその遺跡は、古のシンダル族が遺したものとはいえ、何があるというわけでもない遺跡だった。かつてはハルモニア神聖国の聖都ルパンダと呼ばれていた土地である。かの国が見過ごすはずもなく、調べ尽くされた末に無価値と判ぜられ、捨て置かれ、忘れられ、そのまま朽ちていくだけの遺跡だった。
それでも、ある種の魔力を行使する儀式には最適であるよう造られていて、その魔力に通じていたレックナートは去年の春、そこに一つの門を造った。
閉ざされた小さな庭園に、子供たちが行き来するための門を。
子供たちだけが通ることの許された、秘密の門を。
だから。
秋の色に変わりゆく草はらに立つ、小さな子供の後ろ姿を、何故か、立ちつくしていると思った。
実際、突っ立っている。何をするでもなく、いつものように落ち着きない様子で待っているでもなく、ただ。
ただ、夏よりも色の薄くなった空を、見上げていた。
莫迦みたいに、空を見上げて、立ちつくして。
「何してるのさ」
たといどんなに呆けていたとしても、ルックが降り立った時に草を踏んだ音に、彼が気づかないはずがない。そういった知覚に関しては並外れた鋭敏さを持っている。果たして、ぽつんと立ちつくす背中に声を掛けても、驚いたような素振りは一切なかった。
ただ。
「空、見てた」
ひどく力ない声の、答えだけが返ってきて。
思わずルックは眉間に皺を寄せると、数歩だけ距離を詰めた。
「それで、何か用?」
ようやく、ゆるりと振り返ったサスケは困ったような、泣き笑いのような、ひどく変な笑い方をして。
「わりぃ。ちょっと、逃げさせて」
それでも風は、乾いていた。
二人分の足音が規則正しく、塔の廊下に響く。
「俺さ、十五になった」
「そう」
「中忍に任ぜられた」
「じゃあ宣言は果たせたわけかい。その割には辛気くさい様だけど」
「ん、実は副頭領候補にまでなっちまってよ」
「……ふうん」
ルックがゆっくり立ち止まって振り返るとサスケも歩みを止めて、二人が止まったことに少し遅れて気づいたセラが、ぱたぱたと行き過ぎた分を駆け戻ってきた。
「吃驚したか?」
悪戯を仕掛けた子供のような笑い方になりきれず、肝心なところを失敗したような、そんな無様な作り笑い。
「さあね」
するりと視線を外して、ルックはうそぶく。どちらにせよ歩調の僅かな乱れだけでもサスケは察してしまえるけど。
「ふくとうりょう、って何ですか?」
きょとんと二人を見上げたまま小首を傾げたセラの、その顔を覗き込むようにサスケがしゃがみ込んで目線の高さを合わせた。
「将来、里の頭領──長になる奴のことだよ」
色の薄いセラの目が、僅かに見開かれる。
「まだ候補だけどな。もし本当に副頭領になっちまうとしても、もっとずっと先のことだし」
現頭領のハンゾウはまだ四十代の前半で、今すぐにも急いで後継者を決めねばならないわけではない。だが、解放戦争時に帝国軍の焼き討ちを受けた際、ロッカクは中堅を固めていた世代の忍びを数多く失ってしまった。早くから後継者の育成を行うのも、その穴を埋める必要があるからだろう。
それでなくても今のロッカクの里は、非常に複雑な立場にある。
「動きにくくはなっちまうんだろうけどな」
「そりゃいいね。君もいなくなれば、ようやくここも静かになるよ」
「あ、ひでえ」
しゃがんだまま口を尖らせてルックを睨め上げたサスケの、ぷらんと垂れた手に、不意にセラが自分の小さな右手をそっと押し当てた。
「セラ?」
「もう、ここに、来なくなりますか?」
その声音も表情も、ただ問うているだけのようではあっても。
「そんなことねえって」
きっぱりと言い切ったサスケが、ひたと見上げてくるセラの細い髪を、ひどくおかしそうに笑いながらくしゃりと掻き回した。
その後ろ頭を、苛立たしげにルックは小突く。
「いつまでもふらふら遊んでんじゃないよ」
「わかってんだけどな……なかなか上手くいかねえや」
何が、とまでは言わなかったが。
首だけで後ろを振り返ったサスケは、この子供らしからぬ打ちのめされたような苦い微笑を滲ませて、そう呟いた。
昇格。抜擢。
それをただ認められたと受け取って喜ぶだけは、もう出来ない。
次の日の朝、塔の中はいやに静まり返っていた。
そして何故か、庭園の片隅には花を終えた向日葵が積み上げられていて。
「何してんだい」
ルックは額を軽く押さえて、憮然としながらそう言った。
「んー?」
群生していた一角から重たそうに項垂れた向日葵を刈り取っているのはサスケだ。
そういえば今年の初夏の頃、手入れする者がいなくなった向日葵の間引きなどを勝手にやっていたのも彼だった。放っておけばいいものを、わざわざロッカクから任務の合間を縫って通ってきて。だからこれも、その一環なのかもしれないが。
だが、積み上げられたその側にしゃがんで、ぎっしりと詰まった種をじっと見つめているセラは何だ。
「何って、見てわかんねえの?」
「刈り取ってることはわかったから聞いてるんだけど?」
そもそも向日葵がこの庭園で咲くようになったのは、去年からだった。
真夏には強烈なまでに鮮やかに咲き誇り、夏がが終わると茶色く色褪せ朽ちてゆく、この花が。
春が終わった頃、調べ物があるからと塔に居着くようになった彼が、いつの間にか種を蒔いて、咲かせてしまった。そこから種がこぼれたのだろう、彼がいなくなった今年も芽を出して、眩しい大輪の花を咲かせて。
「だって、ほっといたら一ヶ所に種が落ちまくって芽が出過ぎちまうだろ。それに向日葵の種ってのは結構いろいろ使えんだぞ」
「また植える気?」
「だいぶ余るだろうな。こいつ里でも咲くかな」
昨日の影を一欠片も見せぬ笑い方で、サスケが言った。
「ったく、いい加減にしなよ。だいたいその花は、あいつが勝手に持ち込んで」
と、くいっとローブの袖が引かれて言い返す言葉が途切れる。
「セラ?」
緩く開いたルックの手のひらに、セラが細長い種を一つ、滑り込ませた。
「春に植えたら、また咲きます。きっと」
向日葵の種。
──彼が。約束などと言い出した彼がこの地を離れたのは、一年前の今頃だった。
思わず、くらりと眩暈がした。
セラがこの塔に来たのは、彼が旅に出て半年が経った、今年の春だった。
ハルモニアに囚われの魔女がいる。
最初にその話を持ち込んできたのはロッカクだった。レックナートも国家を超越した情報網を持っているが、ロッカクも大陸各地に独自の情報網を広げている。長く続いた国家が相次いで戦乱による体制の変化を迎えたばかりで、国内のみならず諜報の重要性は増している。ルックは直接関わっていないが、デュナン統一戦争後、奇妙な縁もありレックナートとロッカクの間で情報交換も行っているようだった。
円の宮殿の離宮に、魔女と呼ばれる者が囚われているようです。
使い魔の鳥を手に留まらせて、憂いに表情を曇らせたレックナートがルックにそう言ったのは、春の頃だった。
その離宮は、昔から何かと曰くのある場所だったらしい。
一年前シフォンがやたらと調べていたグラスランド史において、初めて炎の英雄の名が登場するのも、その離宮が襲撃を受けて焼け落ちた事件だった。
そして、かつて自分もそこにいた。
十数年ぶりに訪れた離宮は、あの頃と何も変わらない、風の死んだ空間だった。
息が詰まるほどの、真っ白な牢獄。
と。かさりと草を踏む音が聞こえて、ルックは現実に立ち返る。
「──あまり待たせないでもらいたいね」
腰掛けていた岩から立ち上がることもせず、ルックは少し離れたところに立つ足音の主を辟易とした目で睨んだ。
「すみません。連絡は朝に受け取っていたんですが、ロッカクに寄ってから来たので」
困ったような苦笑を浮かべながら、しかし向けられた棘は軽く受け流して、やんわりとカスミが答える。
ロッカクの代表として、今や里よりもグレッグミンスターにいる時間が大半を占めるようになった彼女は、また髪が長くなっていた。
「中忍昇格と副頭領候補は聞いたけど、そっちはいったい何をやってるんだい」
家出した子供が駆け込んできて迷惑してるんだけど。うんざりとそう付け加えると、カスミがいっそう苦笑を強めた。
「例の密約が正式に結ばれました。ロッカクの里は約定に従い、ハイランド皇家に仕えていた忍びの民の、姫の身柄を預かります」
「ああ、あの話ね」
これまでハイランド皇家に仕えていた忍びが、そう簡単に主人を滅ぼした側であるデュナン共和国に従うわけがない。不服従だけならまだしも、内乱を引き起こされる可能性もある。
だから人質で抑えようという、それだけの話だ。
しかし万が一の時にも逃げられないところに人質を置かねば、人質の意味がない。そこで昨年、デュナンからトランを経由して内々の依頼がロッカクに舞い込んだ。人質として差し出された姫の身柄を預かってもらいたいと。
その姫は、サスケより一つだけ年上で。
「サスケは」
言いかけて途切れさせて、カスミが初めて視線を草原の彼方に投げた。
「その監視役に命じられたんです」
それ故の昇格。それ故の副頭領候補。
種を実らす前に斃れてしまった向日葵は、彩りを喪い枯れ果てた残骸だった。
「それで逃げ出してきたっての」
その前にしゃがんでいた背中に、ルックが鋭くそう声を投げつけると、ほんの少しだけ肩を震わして、身体を強張らせた。
だが何も言わない。ルックはうんざりとため息をついた。
「だいたい、何でここなわけ」
逃げさせて。
細い細い呟きが本物だとわかる程度のつきあいは、不本意ながらあって。
「何でだろうな。俺も気がついたら、ここに来てた」
ようやく振り返ったサスケは、困ったような、泣き笑いのような、ひどく変な笑い方をしていた。
それでも声は、乾き切っていた。
「俺、婚約するよう命じられたんだ」
「……は?」
ぽつりとこぼされたサスケの言葉の意味が、一瞬わからなかった。
「婚約。人質の姫さんと。監視役になれってのは、そういう意味」
そんなことまで、カスミは言っていなかった。だが彼女が知らないはずはない。彼女はロッカクの里の副頭領で、ロッカクを代表してトラン共和国との外交に与る身で、今回の件だって。
「なあ、ルック」
ふらりと立ち上がったサスケが、ひどく硬質な眼差しで、ルックを僅かに見下ろす。ほんの少しだけ上回った身長、これから離されていくだけになるのだろう目線の高さ。
それでも、子供だった。
「変なこと訊くけど、怒んなよ」
「何それ」
「セラをハルモニアから連れてきた時、何て思った?」
ぞっとするほど真剣な、震える息を飲んで止めたような、ひどく切迫したような、そして何処か縋るような、そんな眼差し。
「別に」
逃れるように視線を落としたルックの目に、自分の右手が映る。
あの日そっと差し伸べられたやわらかな手に、この薄っぺらな手を重ねることを選んだのは自分だった。
彼女の盲いた目こそが、この世界で一番最初に自分を見た目だった。
「……僕の手を取ったのは、セラだよ」
「でも、ルックが手を差し出したんだろ。だから」
ハルモニアへの、あるいはヒクサクへのささやかな意趣返し、それとも囚われのセラへの憐れみ。
十数年ぶりに訪れた離宮は、あの頃と何も変わらない、風の死んだ空間だった。
息が詰まるほどの、真っ白な牢獄。
その真ん中に、小さな少女がいたのだ。
ぽつんと一人だけ、いたのだ。
だから。
「外に出たいなら出してやろうと、思っただけだよ」
少女がそれを望むならば。
差し出された手を取ることを選ぶならば。
「その後のことは?」
「さあ?」
僅かに口の端を釣り上げてルックが肩を竦めると、サスケが苦そうに顔をしかめた。
だから、ルックは鼻で笑ってみせる。
「莫迦じゃないの」
「何だよっ。俺だって」
「普段まるで使ってない頭だから、考えても仕方ないことの区別もつけられないんだよ」
鼻白んでそのまま言葉を詰まらせた子供に、ルックはすっと目を細めた。
だからといって、自分に答えなど求めないでもらいたい。
「副頭領候補に、なるんだろうに」
しばらく眉間に皺を寄せて俯いていたサスケが、ふと深くため息を吐いた。
「でも、俺には重たすぎる」
人ひとりの命とか、人生とか。
一人の少女のすべて。
「だいたい人の上に立つってのは、そういう面倒な決断が嫌って程つきまとうものだよ」
「……シフォンさんとかセファルとかみたく?」
俯いたまま、ちらりと見上げるようにルックを窺ってくるサスケに向けて、持っていた向日葵の種を一粒、指で弾く。
「それがリーダーの役割って奴じゃないの」
小さな種を、さっと振っただけの手で危なげなく取ると、サスケは手の中のそれをまじまじと見つめた。
「そっか」
「そうだよ」
すると、困ったような、泣き笑いのような、それでも憑き物が落ちたような変な笑い方で、掠れそうな声を立てて笑った。
飛んできた硬い向日葵の種を、握りしめて。
「俺、帰る。里に」
「やっとかい。とっとと帰りなよ」
この子供は将来、ロッカクの頭領になるのだろうか。
ふと、そんなことを思った。
この子供は、どんな大人になるのだろう、と。
そんなことを、思ったのだ。