ふらりと足を踏み出しかけて、強く強く腕を引き戻された。
「行くんじゃないよ」
その願うような嘆くような制止の声に振り返ると、彼の手が腕を掴んでいた。
哀しそうな苦しそうな痛そうな、そんな表情で。
「君は、こっちになんか来るんじゃないよ」
引き止める、その手を振り払うことが出来なかった。
けれど、その言葉に肯くことも出来なかった。
──結局、どちらも選べなかったのだ。
目が覚めると、まるで水に飛び込んだかのように濡れていた。
荒い息が音を立てて通り抜けていく喉も渇ききっていて、粘り気のある唾を飲み込めばひりひりと痛むように気持ちが悪かった。じっとりと重たい身体を起こすと、フッチは額に汗で張りついた前髪を掻きあげる。
あれは夢だ。
もう何年も前のことだ。
それでも。
「最悪だ……」
あの時、自分は彼の手を振り払えなかった。けれど彼の言葉に、肯くことも出来なかった。
だから今、ここに来れたけれど。
Hope Isolation Pray
あなたがねがう未来のかたち
「随分とひどい顔をしている」
「だろうね」
実際、今朝は声を掛けてきたのが彼くらいなのだから。いつもはお構いなしに飛びついてくるシャロンにすら遠慮させてしまうほど、今の自分はひどい顔をしているのだろう。
平然と相席に着いたフレッドを一瞥して、フッチは苦笑いを滲ませた。
「どうかしたのか」
「夢見が最悪だったんだ。今はまだ忘れていたかったことを、嫌ってくらいに思い出させてくれたよ」
たぶん、あいつのせいだ。
あいつが、あんなところに立っているから。
「そうか」
短すぎる相槌と沈黙が先を促しているように感じられて、フッチは深い嘆息と共に、呟くように続けた。
「僕は一度、逃げたんだ」
「逃げた?」
「たぶん……とても大事なことから」
引き止めた手を、振り払えなかった。
けれど、肯くことも出来なかった。
「それは必ずしも悪ではない」
即座に返されたのは、奇妙なくらいの断言だった。
「そうかな」
「正義を成すために撤退が必要な時もある。敵わぬものには敵わぬと、正しく認めなければならない。最後に勝つのは正義だ。いっときの意地や臆病に惑わされ、正義の道を見失うことこそ真の悪なのだ」
「……誰の言葉?」
「マクシミリアン騎士団の志のもと、諸国を旅した人の言葉だ」
「少し、意外な気がする」
「何がだ」
「フレッドは目についた悪に向かってまっしぐら、脇目もふらず猪突猛進だと思っていた」
「うむ、俺は修行中の身だからな」
「……それはちょっと違う気がするな」
フッチが苦笑をこぼす。彼の言動は単純明快だが、ときどき理解が追いつかないことがある。だが。
「無限の可能性に、自ら限界を設けるべきではない」
「ああ、うん、それはわかる」
「退くべき時に退くことも一つの道だ。逃げることで得られた猶予が、次に乗り越えるための糧となることもある」
「僕の逃げがその、必要な逃げと同じだと?」
「そんなことを他人の俺が知るわけなかろう。おまえがいるのは、おまえの分かれ道だ。だが俺でも、おまえがそこから進みもしていないが戻りもしていないことはわかったぞ」
分かれ道。
今も目の前に在り続ける、二つの道。その分岐点。
「ああ……そうか」
あの日の光が、自分を誘う緑色の光が、脳裏に甦る。
引き寄せられ飲まれかけた自分を引き止めたのは、彼の手だった。彼の声だった。
「そうだね、本当にそうかもしれない」
あの時、彼の手を振り払うことも出来ただろう。
あるいは彼の声に肯くことも出来ただろう。
しかし自分はその時、そのどちらを選ぶことも出来なかった。
「必要なのは決断する覚悟だ」
けれど、いつかは選ばなければならないのだ。
「選んだなら、あとは信じるだけだ」
力んでいるわけでもないのにそう言ったフレッドの声は、強く響いた。頃合いよく従者の少女が持ってきた朝食に、礼儀正しく手を合わせて取りかかったフレッドも、かつて悩んだ末に今の道を選んだのだろうか。
そして朗らかな少女に挨拶を返しながら、フッチは夢の残滓に鍵を掛ける。
いつか、今度は自分の意志で、この鍵を開けなければならない。
そしてその時、どちらかを選ばなければならない。
あの手は、あの声は、その時にはもう、何処にもいなくなってしまっているのかもしれないけれど。
遠い草はらへと風が吹く。
「……ルック。君は」
彼は、真の紋章を壊すと言った。
ハルモニアを利用して、グラスランドに戦争を起こして、たくさんの人を死なせた彼は、もっとたくさんの人を道連れにすることになっても真の紋章を壊すと言った。
真の紋章。
かつて自分を引き止めたのは、彼の手だった。彼の声だった。
あの時、彼の手を振り払うことも出来ただろう。
あるいは彼の声に肯くことも出来ただろう。
しかしあの時の自分は、そのどちらを選ぶことも出来なかった。
けれどいつかは、どちらかの道を選ばなければならない。
あの手は、あの声は、その時にはもう、何処にもいなくなってしまっているのかもしれないけれど。
それはもう、遠いことではない気がした。