THE DOOR INTO SUMMER #2





 その瞬間、膝を貫いた痛み以上に、ひどく嫌な予感がして、血の気が引いた。








Humpty Dumpty


こわれたもの








 プロになりたいという夢は持っていた。人並みに持っていると思っていた。
 自負もあった。小学生の頃、当たり前だが六年生と五年生で占められていた代表選手に、四年生で唯一選ばれた。その後の数ヶ月と二年間レギュラーに選ばれ続けた。中学に入ってからは二度目の選抜で早々にレギュラーへ上がった。
 明後日の日曜日も、試合だった。出られなくなったけれど。
 負傷した。膝を壊した。リハビリには半年、一年、それ以上かもしれない、途方もなく長い時間が掛かる。どれだけ回復するかもわからない。たとえフィールドに出られるまで回復しても、二度目が起きてしまえば、日常生活にも支障が出るほど重い後遺症を抱えるかもしれない。
 壊れてしまったものは、もう元には戻らない。
 プロになりたいという夢は持っていた。人並みに持っていると思っていた。
 けれど。
 気がつけば、自分の口はあっさりと、サッカーをやめると言っていた。



 携帯でメールを打つ。
 今日の練習中に怪我をしたこと。
 (右の靱帯が断裂したこと。)
 明後日の試合に出られなくなったこと。
 (サッカーが出来なくなったこと。)
 だから明後日、熱海まで、わざわざ来てくれなくていいよ。
 (だって、どんな顔でどんな言葉でどんな風に、)
 メールを送信して、ふと気づく。
 もう、今までのようにオフで会うことはなくなるかもしれない。サッカーの試合という約束を交わす機会はもう、なくなってしまった。
 初めてオフの話を切り出したのは、『世界』の夜明けを目の当たりにして、興奮した勢いだった。実現可能かどうかを考える前に、メールを送っていた。お互いの住んでいる地域すら、それまで話したこともなかったにも関わらず。
 話が具体的になるにつれ、自分でもおかしなくらい着信音を心待ちにしていた。
 ついに迎えたその日、電車を降りてきた三人の中で誰が彼なのか、一目でわかった。
 初めてリアルで会えた彼は、とてもやわらかに笑う人だった。
 帰路につく彼を見送る駅で思わず口にした「次」の話に、少し驚いた顔をして、すぐに笑って肯いてくれた。
 今でも、何もかも、はっきりと覚えている。



 試合会場に行く気にはなれなくて、川縁に咲き誇る熱海桜をぼんやりと眺めていた、その日。
「こんなところにいたんだ」
 すぐ後ろから聞こえた声に、弾かれたように振り返れば、目を瞠るしかなかった。
「……海斗」
「来ちゃった」
 そう言って照れたように笑う、彼の笑顔がひどく眩しく見えた。
「どう、して」
「メールに怪我したって書いてあったから」
 そう言うと彼は大きく息を吐いて、車椅子の隣に並んで立つ。
「怪我の具合は?」
 視線の先には、身体を支えることが出来なくなって、ギプスで真っ直ぐ固定された右足。
「先生が言うには、治るまではもちろん、リハビリにもかなりの時間が掛かるし、完全に元通りになるかもわからないって」
「そっか」
「うん。だからサッカーは、やめることにした」
 二度目もやはり、僅かの躓きも、震えることもなく言い切れた。
 大丈夫。わかっている。
「いい機会なのかもしれない」
 だって、仕方がない。
「サッカーかコンピュータか。中学のうちに、どちらかに絞るつもりではあったし」
 現実を正しく認識してしまえば。
「日常生活なら問題ない程度には回復するから」
 諦めるしかないのだと、わかっている。
「サッカーはもう、やめる」
 どんなに否定して拒んだところで、現実は変わらない。
 終わってしまった、こんなことはもう、悩むようなことでもないのだ。
 だから。
「こんな時に、そういうこと、そんな顔で言うものじゃないよ」
「そんな顔って?」
「そんな……平気そうな振りした顔」
「平気だよ」
 だから、この人が。
「……僕は知ってるよ。プロになりたいって言ってた時のこと」
「そんな大した夢じゃなかったんだ。やめるって、簡単に言えるくらい」
 この人がそんな顔、しなくていいのに。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「ったく、そうやって無理して強がるところが子供っぽいのかな。それとも、無理でも強がれるところが大人びてるのかな。どっちでも拓海らしいけど」
 痛みを堪えているような、そんな苦い笑い方、しなくていいのに。
──海斗が何を言いたいのか、わからないよ」
 諦めたのに。終わったのに。
 もう何もなくて、よかったのに。
「泣けば」
 小さな小さなその一言は、春先の風のようにあっさりとしていて。
「ってことかな。たぶん」
 初めて、途方に暮れた。
 こんな怪我をしてしまってから、初めて。



 この人のような、大人になりたい。
 そう口に出して言えばきっと、彼は自分もまだ子供だよと笑うだろうけれど。
 今までに見たどんな大人よりも、彼が大人だった。
 理想だった。憧れだった。
 とても、とても特別な人だったのだ。
「拓海がまた歩けるようになったら、みんなで旅行に行こうか。千尋に車、出してもらってさ」
 そう言って、あやすように優しく触れてきた彼の大きくない手を、今でもはっきりと覚えている。



 彼がいなくなって、その約束も消えてしまったけれど。



 二年前のあの日、彼が『世界』に奪われてしまったあの日、自分の歯車も知らず知らず狂っていたのかもしれない。
 狂っていたのだろう、誰よりも『女神』に愛され誰よりも『世界』に愛された彼の、その次が自分ではなくあの男だったことを、莫迦みたいに許せなかったほどに。かの女王にも取り立てられたあの男の技術と知識は確かに尊敬していたが、それでも許せなかった。
 今更そう思う。
 それくらい、彼は特別だった。いっそ崇拝にも近いほどに。
 彼に追いつきたかった。
 彼の次に、誰でもない自分を置きたかった。
 彼がいなくなってしまった、この『世界』で。
「私は、カイトのようになりたかった……」
 けれど。
 あの春の景色は、あまりにも遠すぎて。
 綺麗だった、桜の花びらなんて何処にもなかった。



「私はそんな理由で暴れた、ただの子供だよ。いや――莫迦な子供、だな」
「好きだったんですね、その人のことが」
「それは何の免罪符にもならない」
「やり方を間違えただけです」
「君が言った通り、私は何も見えていなかったのだ。彼のことすら本当の意味では、見ていなかった気がする」
「ですが、あなたがこの場所にいたのは、その人との想い出があったからでしょう?」
「声を掛けてくれたのは彼ではなく、君だったがな」
「……申し訳ありません」
「君を責めているのではないさ。彼の声を、聞けるはずもない」
「それは……そうかもしれませんけど」
「私は彼の見舞いに、一回しか行ったことがないんだ」
「二年間でですか?」
「彼が倒れた直後に一回、それっきりだよ。ハセヲとは大違いだろう?」
「あの子は今も、まめに通っていますね。ですが、あなただって行きたい気持ちは同じ──
「違うな。行く気があればいつでも行けた。病院の名前も場所も知っていた。少し遠いが、行くことの出来ない場所ではなかった。そうだ、アメリカなんて言い訳に過ぎない」
「どうして行けなかったんですか?」
──どうしてだろうな」
「嘘つくの、下手だったんですね。意外に」
「そんな風にしみじみと言われてしまうと困るのだが……」
「そうですね、少しは困ってください」
「手厳しいな」
「さんざん走り回りましたから」
「常々思うのだが……買い被りすぎではないか? いや、今回のことは申し訳なく思っているが」
「価値があるかどうかは、私が決めることですから」
「……そうか」
「そうです」
「君は強いな。羨ましいくらいだ」
「そんなことはありませんよ。それこそ買い被りすぎでしょう」
「強いさ、君は。私なんかと違って」



「あの日……病室で生命維持装置に繋がれている海斗の姿を初めて見たとき、たまらなく恐ろしかった。ここに海斗はいないと考えるのが、たまらなく恐ろしかった。だから目を背けた。現実から逃げ出した。ずっと。いつも私はそうなんだ、臆病で、自分を誤魔化してばかりで」
 今の今まで、泣くことすら出来なかった。








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壊れてしまったのは、何?
Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
Couldn't put Humpty together again.
ワイズマンです。八咫です。G.U. Vol.3。パイのお説教後。
拓海は『ワイズマン』。海斗は『カイト』。千尋は『バルムンク』。
海斗の入院先は、最初は都内の病院に運び込まれ(拓海が行ったのはこの時)、数ヶ月後に母親のいるLAの病院へ移されました。

実は、ああいう性格してた子が、ああいう挫折の仕方をするようになっていたのが最初は意外でした。でも、プロを諦めなければいけないような大怪我を負ったのが中学の時というメールを見て、早すぎると思って、同時に少し腑に落ちたような気がしました。どうすることも出来ない絶望的な現実を境に、歯車がずれてしまったんだろうなと。
『朝露』では、膝の負傷は靱帯断裂で、13歳の頃。この年齢だと若すぎて靱帯再建手術は受けられないはず、たぶん。

カイトへの感情は色分けできないくらい特別すぎて、憧憬とか尊敬とか心酔とか親愛とか敬慕とかいろいろ引っくるめたような『好き』。
10歳の時に出会っちゃったんだから、人生変わっちゃうくらいでもいいと思う(笑)

最後の会話は火野さんと佐伯さん。熱海市のきっと糸川沿いで。