Silly-Go-Round #1



 必死に、手を伸ばす。
 こぼれ落ちていきそうな、それに指先が届いた瞬間、無我夢中で抱き寄せた。



 世界が止まってから、どれほどの時間が流れただろうか。
 ふと微かな揺らぎを感じて、アウラは小さく呼び声を紡いだ。
「カイト」
 波にも満たない、水の一滴が落としていった波紋のような、それでも存在を示す、確かな音。震えた瞼が重たげに持ち上がり現れた空色の双眸は、意思の光を帯びている。
――アウラ?」
 それが、どんなに消え入りそうなほど微かでも。
 この声に再び名を呼ばれたことに、甘く痺れるような歓喜を覚えた。
「私のことがわかるのね、カイト」
 アウラを見上げる眼差しの曖昧さは、彼の意識が未だ微睡みに半身を沈めていることを示している。それでも、ここに彼の意識が存在する事実は揺るぎない。
「よかった。間に合って」
 安堵の吐息をこぼし手を伸ばしたアウラの指先が、触れぬままカイトの顔かたちの輪郭を確かめるようになぞる。
 彼が目覚めないかもしれない、彼を失うかもしれない、それは耐え難き恐怖だった。彼女が愛し彼が愛した世界の崩壊に目を向ける余裕すら残らないほどに。
「間に、合う……? ――ああ、そっか、僕は」
 ぼんやりとしたまま反芻したカイトの表情が、不意に強張り歪んだ。ようやく冴えてきた思考のひとかけらは、目の前にあるアウラの存在で一つの理解に辿り着く。
「やっぱり、未帰還者になったんだ」
 記憶の最後にあるのは、動けないのに遠ざかっていく親友の怒鳴り声、すべて塗り潰していく黒い泡、何処までも落ちていく冷えていく感覚。
 まざまざと蘇ってきた眩暈にカイトは思わず額を押さえて、深く息を飲む。
「これって……『カイト』?」
 ひどく見慣れた、ひどく馴染んだ緋色の姿。もう一つの自分。分身の形。それが今はカイトそのものになっている。
「そう。カイトとカイト以外の境界線が必要だったの。でなければ何処までがカイトかわからなくなって、カイトの意識がばらばらに散らばってしまうから」
「僕が最後に使ってたの、碑文使いだったのに」
「私が、こうしたの」
 言いながらアウラは、視線をカイトの右腕へとそらした。そこには今も、アウラが生み出した薄明の腕輪が存在している。
「アウラが?」
――この方が、カイトらしいと思ったから」
 答えた声は震えてはいなかっただろうか。自然に言えただろうか。
 愛した人。愛した声。愛した姿。
 アウラは真っ白な袖の内側で、きつく自分の手を握りしめる。
「うん、僕もこの方がいい」
 彼は問わない。それ以上のことは。
 だからアウラは上を向いた。
 大きな大きな、真っ黄色に染まった銀杏の木。
 その葉がひとひら、一本だけの木にもたれて座るカイトの膝の上に落ちた。小さな黄色を拾って彼は、指先でくるくると回す。
「ごめんなさい」
「アウラ?」
「今の私では、カイトや巻き込まれた人たちを還すことが出来ないの」
 すると彼は困ったように苦笑して首を振った。
「謝らなきゃいけないのは、僕の方だ」
「どうして」
「The Worldを殺してしまった。僕は止められたはずなのに、止められなかった」
「カイト一人で止められた流れではないわ」
「違うんだ。取り返しのつかないところまで来て、やっと気づいた。最初に断らなかったのはミアを探すためだったよ、けれどあの時は、それだけじゃなくなってた」
 呟くような、懺悔は独白のようだった。
「僕は、何処かで期待してたんだ。天城はアウラの代わりになる究極AIを作ろうとしていた。代わりが出来たら、もしかしてアウラも自由になれて」
 眠りにつかなくてもよくなるのではないかと。
「また会えるかもしれないって、思ったんだ」
「カイト……」
「ごめん」
 力なく項垂れた彼に思わず手を伸ばしかけて、届く前に引き止める。
「……謝らないで」
「え?」
 あの日のことは、ひどく昔のようにも、ほんの一瞬前のようにも感じる。
 彼に想いを告げることは、認めて受け入れることでもあった。この想いは恋であると。この恋は叶うことなく潰えるものであると。横たわっている境界線は決して越えられない。想うことは許されるかもしれない。だが、彼の隣に並んで、彼の見るものを見ることは、ありえない。
 それでも彼を想い続けるために、ただ一人を想うことで世界を歪めないために、The Worldの神であることすら捨てたけれど。
「謝らないで」
 噛み締めるように震えを押し殺して、アウラは繰り返す。
 今の、この感情は何だ。彼の言葉に膨れ上がる、この感情は。
「嬉しいって、思ってしまうの。だから」
 伸びた枝から、はらはらと銀杏の葉が落ちている。尽きるはずもないのに散っている。
「ごめんなさい」
 とめどなく。



 これは夢だから。



 彼が喪失したのは、肉体であり時間であり、現実そのものだ。
 この声も、手も、今の彼には夢のような感覚でしかない。ここは彼の現実ではなく、銀杏の木が一本あるだけのこの場所は何処までも真っ白で、地面が二人の影を映すこともない。
 それでも今は、ここに彼がいる。
 これは夢だから。
「君に会えたって、思えたらいいのに」
 指先の黄色い葉を見つめて、ぽつりと呟いた彼の声は静かすぎるこの場所では聞こえすぎて、ひどく寂しそうに微笑んだ、その表情はまるで泣き顔のようだった。
「カイト」
 その手を包み込んで、アウラは微笑む。
「必ず還れる。今すぐには無理でも、いつか」
 黄色い銀杏の木の下にいる彼はアウラを見つめ返す彼は動けない今の彼は。
「私も、あなたに会いたい」
 今の彼は、境界線のこちら側にいる。
 だがそれは、こちら側へ落ちてしまった彼の影だ。
 これは夢だから。
「じゃあ、約束してくれる?」
 彼の手にある黄昏色の葉は、やわらかすぎた。
「僕が還れたら会いに来るから、アウラも会いに来て」
 そうしたら何もかも、夢ではなくなるから。
 影すら存在しない空白の世界でも、本物になれるから。
「うん。会いに行く」
 指を絡めて交わした約束は、二重の誓いだ。



 あなたが還るその日まで、あなたを守る。









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事故当日。カイト放浪AI化?
カイトの目の前にアウラはいますが、実はカイトのいる領域が既にアウラの内側です。
銀杏の木の部屋にあった碑文は、影についての謎かけでした。