十一時も半ばを過ぎれば、昼休みまではもう一息だ。
横長の机の上にだらしなく肘をつきながら泰彦は、今日の昼食はどうしようかと考える。安さと量だけは優秀な学食も、天下のCCジャパン本社ビル内にある社食のメニューの豊富さには遠く及ばないので、例のバイトに行っている海斗ほどの選択肢は持ち合わせていないが。
見上げた時計は、あと残り半周。と、細かな振動を発し始めた携帯を、億劫に引っ張り出す。出るつもりはなかったが、発信者だけ確かめておこうと思ったのだ。しかし。
「うちから?」
この時間ならば自宅には母親しかいないはずだ。思わず目を眇めて呟くと、気づいた周囲の友人たちが、訝るようにちらりと視線を送ってきた。
液晶に映った時計でもう一度、現在時刻を確かめる。十一時半過ぎ。母親もこの時間はまだ授業中だと知っているはずだが、携帯はなおも低く唸り続けている。電源を落とすでもしなければ、通話を取るまで止まないかもしれない。
――何のために?
「ちょっと出るわ」
小声で友人たちに断りを残して、泰彦は大教室の後ろのドアから外に抜け出した。
どうしてか、ひどく嫌な予感がした。
――CCジャパン本社ビル火災。
ニュースで今もまだ燃えていると、怪我人もたくさん出ているらしいと、そう興奮した声で捲し立てている母親の声が聞こえた、その後のことはよく覚えていない。
ちんと軽い音がして、泰彦はガラス一枚向こうを行き交う人の流れをぼんやりと眺めていた視線を正面に向けた。
白い口広のカップに慣れた手つきでミルクをそそぎ、ゆるゆるとマドラーでかき混ぜる。黒っぽい茶色の中身が、あっと言う間に明るくやわらかな色合いに変わる。
と、速水晶良はマドラーを手放して、深く嘆息をこぼした。
「こればっかりは、慣れない」
二度目でも。
出来の悪い苦笑を滲ませて、彼女が呟くように言う。
「千尋もそんなこと言ってたな」
「植野は立場逆転よね」
「まあな」
深く深く、眠るより深く意識が沈んでいってしまった、抜け殻のような姿を前に、血が凍るような寒気を覚えた。
「……何でこんなことなっちゃったんだろ」
声は、途方に暮れたように力ない。
「たぶん海斗は、エルクに自分を重ねてたんだ」
忘れもしない半年前、去年のクリスマスイヴの夜。アウラに呼び出され戻ってきた彼は、心ここにあらずとしか言いようのない有様だった。
そしてその日を最後に、アウラは誰の前にも現れなくなった。
「だから止められなかったっての?」
「あのプロジェクトがヤバイのは、海斗だってわかってたよ」
それから数ヶ月後、ミアまでが姿を消して、カイトはエルクと共にその行方を追い求めた。その末に、あの極秘裏に進められてたプロジェクトに辿り着いたのだ。
「何を言えばいいのか、わかんなかったんだ」
海斗が何を思って何を願って、あのプロジェクトに加わることを応じたのか。
「……なんか、そう言っちゃうのって、ずるい」
「ああ、それは俺もそう思う」
からんと、アイスコーヒーの中で氷が音を立てた。
一回目の面会が許されたのは、事件から一週間も後になってからだった。
千尋に案内された病室はバイタルの音が規則正しく打ち鳴らされ続けるだけの静かすぎる部屋で、ぴくりとも動かない身体は胸が浅く浅く上下しているだけで、何もかも悪い夢のようだった。
三日前まで危険な状態で面会許可が出なかったと、でも今はもう落ち着いたからと、自身もまだ包帯だらけの千尋が言った。
それからようやく、未帰還者になった海斗が、残していった言葉を聞いた。
「何が出来るかな」
改札を入って、路線が違えばすぐに道が分かれる。
「連絡つけて回る以外は何もないだろ。今は」
「今は?」
「そ。今は。だから速水は勉強に専念してろよ。来年は教育実習だろ?」
「そうだけど」
「あいつなら大丈夫だよ」
「何それ」
「千尋もヘルバも確信してる。アウラがカイトを守ってるってな」
「そっか」
くしゃりと微笑んで、彼女はホームへ続く階段を見上げた。
「海斗ってさ、いつからアウラのこと好きだったのかな」
それは独り言のようでもあったけれど。
「……好きって言われて好きになることも、あるんじゃないか」
特別を特別たらしめるのは、あまりにも大きな、あまりにも小さな、きっかけなのかもしれない。
わかっているのは、あの日から何かが変わったという、ただそれだけ。
「そうかもね。アウラ、どんな告白したんだろ。――ちょっとだけ、悔しいかな」
騒がしい電車の音に埋もれてしまいそうな、最後に付け足された言葉はそれでも、はっきりと聞こえた。
事故から一週間後。オルカとブラックローズ。
何も言えないまま見続けて、残された、真冬のような真夏。