THE DOOR INTO SUMMER #4





 ──── あなたの恐怖は何ですか?








 消えてしまう、その異常な光景の意味を理解したのは、あの時はずっと後になってからだった。
 燃えるように灼きついた朱い傷跡とか、ほどけて跡形も無くなっていく姿とか、ふっつり途絶えた声とか、鳴り続けたまま繋がらない電話とか。
 彼女の喪失とは、そんな感触でしかなかった。
 後になって、彼女が原因不明の昏睡状態に陥ったまま目覚めないと知った。
 ずっと後になって、データドレインというスキルを知った。
 もっとずっと後になって、異常とは何なのかを、ようやく理解した。
 それが境界線。
 異常と相対できるのはやはり異常でしかなく、手に入れた力は、憑神は、異常と同種だった。
 憑神が暴走した。
 知っていても、その意味を理解してなどいなかった。
 深く貫いた大鎌の切っ先とか、粉々に打ち砕いたデータドレインとか、きらきらと散らばった欠片とか。
 ――絶叫、とか。
 そんな、ひどくおぞましい喪失の感触をこびりつけながら手からこぼれ落ちていって、その時になってようやく手の中に何かがあったことに、喪失した何をも未だ取り戻せていなくても空っぽでなくなっていたことに気づいたのだ。
 壊れていく。
 いや、壊したのだ。自分が。この手で。
 何かがほんの少しでも違っていたら、たとえばあの時でなかったら、たとえば彼でなかったら、取り返しもつかないほどに。
 喰い殺す。そんな勢いだけで吐いた言葉は、口先だけでしかなかったはずなのに。








How many miles to Babylon?


ひとつめのScore








 人けのない場所で、隠れるように膝を抱えている姿は滑稽だろう。
 どんなに人の目を避けたところで、この世界にいる限り、知識の蛇の目から逃れることなど出来はしない。
 結局、こんな子供じみた隠れんぼは成り立たない。
「何であんなことしたんだ」
 だからこの路地裏を覗き込むようにひょっこり現れた、長身のシルエットを認めた瞬間にハセヲは先んじて言葉を投げつけた。
「うん?」
「何であんなことしたんだよ。――あんな」
 しかし近寄ってきて目の前で立ち止まった彼を睨め上げて、手当たり次第に投げつけたかったはずの言葉は、そこで詰まってしまう。
「あんな、か」
 少し困ったように、いつものように、あの時のように、クーンは笑う。
「怒ってるのか? やっぱそうだよなあ、パイにもさんざん嫌味言われちまって」
「違うだろ」
 遮った声は掠れてしまっていて、クーンが僅かに目を瞠ったのがわかって、ハセヲは思わず俯く。
 彼の足だけが見える。
「何でなんだよ。俺、あんたの説教なんかウザイだけだった」
 ふっとその足が、視界の脇に消えて。
「そうだな」
 クーンが隣に座ったのが、見なくてもわかった。
「こっちはマジで本気だってのに全っ然聞いちゃいないし、何だこのクソガキとか思ったな」
 そう言ってクーンは、小さく声を立てて笑う。
「でも、放っとくわけにはいかないだろ。もし取り返しのつかないことになったら」
「ヤバかったのは、あんただろ」
 吐き捨てた言葉は、クーンの並べる言葉を切り裂いて落ちる。
 邪魔されたと思った。どうしてわかってくれないと思った。
 だからムカついた。鬱陶しかった。憎かった。
 ――だから。
「莫迦だろ」
 うっすらとした苦笑を、ハセヲは気配だけで感じた。
「それは八咫にも言われたよ。ハセヲがやる気なら俺もメイガスで戦うって言ったら、真っ先にそれだもんな、キツイよまったく」
「当たり前だろ。いつの時代の熱血教師だっての」
「そんな上等なもんでもないさ。俺の動機は」
 ふと低く静かになったクーンの声に、ハセヲは振り向かないまま目線だけで隣を一瞥した。
 動機。他人が自分に何かをしようとする、動機。
「スケィスが暴走して、誰かを本当に未帰還者にしてしまうことだけは、あっちゃいけないんだ」
 それは、起こりうる最悪の未来の一つだったろう。
 クーンがそうならなかったのは、彼がDDへの対策を講じていたからでしかない。
 憑神を暴走させてしまって、彼を撃ってしまって初めて、その力の重さを思い知らせれた。
「……ずっと考えてた。あんたと、AIDAに感染された奴をDDするのと、どれだけ違うのか」
 AIDAに感染したPC。AIDAに感染した、人間。
 感染してタルヴォスを暴走させたパイをデータドレインした時には、考えもしなかった、気づきもしなかった、あの時パイは無事に助けられたが、それが幸運でない証拠が、何処にある。相手はAIDAであると同時に、人間でもあるのだ。AIDA−PCとはそういうものではないか。
 そこには紙一重の違いしか、ないのではないか。
「不安か?」
「俺は。……あんなことになるまで、何にもわかってなかったんだ」
 今度も上手くやれる、そう断言できるのか。
 あのエンデュランスのことを好ましいとは思っていない。だが彼に勝ちたいとは思っても、彼を傷つけたいわけでもなければ、ましてや未帰還者になってしまってもいいと思っているわけではない。そう、なかったはずなのだ。憎悪のままにボルドーたちを大鎌で薙ぎ払った、あの時は愉悦すら感じた、感触すら今はおぞましい。
 ハセヲは、スケィスは、ただ自らの狂気を凶器に変えて振り下ろしていただけで。
「憑神で、何でも出来るつもりになってた」
 愚かだった。本当に愚かだった。
「そうか」
 志乃を助けたかった。
 三爪痕を斃したかった。
 そのための、力が欲しかった。
 なのに。
 どうして傷つけてしまったのだろう。どうして。
 誰かを傷つけたかったわけではなかったはずなのに。
 助けたかったはずなのに。
「莫迦だろ。俺、何にも出来てない」
 みっともない泣き言だ。
 声まで震えてきて、きっと泣いていると思われただろう。
 ――思わず、亮は椅子の上で膝を抱えた。
「何も出来てないなんてこと、ないだろ。ハセヲは頑張ってるじゃないか」
「そんなの」
 勝手に人のことを全部わかったようなことを言って。
 うんざりするほど優しすぎる言葉を勝手に言って。
「大丈夫さ、おまえならやれる。エンデュランスに感染したAIDAを、ちゃんと駆除できる」
「何、で」
 震える、唇を押さえるように噛みしめた。高性能のマイクはノイズを拾わない。
「おまえは莫迦なだけじゃないだろ。悩みながらでもいいじゃないか。おまえはちゃんと進んでるよ。そりゃ間違うこともあるかもしれないが、その時は俺やパイが引っぱたいてでも気づかせてやるさ」
 ブレーキ役も年長者の務めだからなとクーンは笑って、そして。
「それに。俺たちは仲間だろ」
 莫迦だった。
 本当に莫迦だったのだ。
 頬を滑り落ちる生温い感触に、だから亮は口の端を笑みに歪めた。
「……クサイ」
「あれ、ひどいなあ。俺イイコト言ってない?」
「クサすぎ」
 他に何を言えっていうんだ。
 上擦って掠れそうな声を必死に抑えながら、こぼれそうな嗚咽を飲み込みながら、ぎゅっと目を閉じて。
「ちょっと歳食ってるからって、偉そうに余裕見せやがって」
「ハセヲくんは厳しいねえ」
 それでも湿った声は歪んでいるだろうに、何も言わずクーンはからからと笑うだけで。
「だったら、ちょっと昔話でもしてみるか」
「昔、話?」
「そう。ハセヲは確か高二だったよな。じゃあ七年前は、ええと……小学生か。それじゃ『Pluto again』のことはあんまり覚えてないか?」
「……よくわかんねえ」
 横浜であった火災などは今でもたまにニュースで流れることもあるし、ネットワーク上での被害についても授業で何度か出てきたが、その全貌はあまりにも規模が大きすぎて、たった七年前にもかかわらず現実感に乏しい話だった。
「そっか。俺はその頃、ちょうど今のおまえと同じ高校生だったよ。そんで前のバージョンのThe Worldをプレイしてた」
「長いんだな」
「まあ一応な。んで、あの頃のThe Worldにも、こんな噂が流れてたんだ。――プレイ中に意識不明になったまま、目覚めない奴がいる、ってな」
 今度こそ、弾かれたように亮は、ハセヲはクーンを振り返った。
「志乃と、同じ?」
 クーンが深く首肯する。
「ハセヲは、意識不明になった人をどうして『未帰還者』って呼んでるのか知ってるか? 七年前、何がどうなってそうなったのかはともかく、その人たちはThe Worldの中に意識を閉じこめられて、リアルに帰れなくなっていたからだ」
 だから、未帰還者。
「The Worldの中に? じゃあ、志乃も……?」
「今の未帰還者が七年前のと同じかどうかは、八咫にもまだわかってないらしい。でも七年前はそうだった」
 俺も少しだけ、覚えてる。
 小さく付け足された、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「……クーン?」
 少し困ったように、いつものように、あの時のように、クーンは笑っている。そして。
「なあ、ハセヲ。志乃さんはちゃんと助かるよ。未帰還者になった人たちはちゃんと帰ってくるよ。七年前もそうだった。他ならぬ元・未帰還者が言うんだから間違いないって」
 だから。
「今はまだ、立ち止まってる時じゃないだろう?」



 この手をすり抜けて落ちて壊れて失った、取り戻そうと躍起になっていた、空っぽのつもりだった手の中に、新しいものが在ったと気がついたのは、強く強く握り締めすぎた手のひらが、それを潰してしまう寸前だった。








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バビロンまで何マイル?
How many miles to Babylon?
Three score miles and ten.
Can I get there by candle-light?
Yes, and back again,
If your heels are nimble and light,
You may get there by candle-light.
ナーサリーライムズより。70マイルの表現が独特ですが、これは古い言い方でscoreひとつが20に相当するため。20×3+10=70マイル。「score」は他にも境界線とかスタートラインとか引っかき傷とか意味をたくさん持つ単語なので、含みを考えるのが楽しくなります。

ハセヲとクーン。「未帰還者って何ですか?」
『夏への扉』、そろそろG.U.編へ本格的に入れそうですか。

G.U.全体で一番感動して一番大好きなイベントが、スケィス暴走イベントでした。ストーリー的にも、ハセヲが他者に目を向けられるようになる、とても大事なターニングポイントでもありますし。それにパイとのツンデレ(笑)イベントに続いてクーンとの暴走イベントがあったからこそ、Vol.1ラストで蒼炎と遭遇した時、肩を叩かれハセヲが後ろを振り返ればパイとクーンがいる、あのさりげない1シーンが凄く「もう一人じゃない、仲間がいるんだ!」って思えて、たまらなく嬉しかったのでした。