「コゲンタ!」
 暗い森も難なく駆け抜けていく、後ろ姿はあっと言う間に遠ざかる。
 ちらちらと揺れる白い色の、さらに前方には標的の妖怪。
 目まぐるしく跳び回る、その影をようやく爪が捉えた。
「ヤクモ!」
 振り返ることなく発せられる声は、強く呼ぶ声。
 その求める声に応じて、ヤクモは印を切った。
 ずきりと、痛みが走った。






赤根









「また、ただの妖怪か……」
 あの会津での一件以来、何一つマホロバの動きが掴めない。本当に静まり返っているのか、それとも見つけられないだけなのか、それすらもわからない。
 何もわからない。
「まあ、そう言うなって。妖怪退治でも戦いに慣れといて損はねえよ」
 ふわりと戻ってきたコゲンタは沈むヤクモを宥めるように小さく笑ったが、つと眉をひそめて。
「おいヤクモ、その腕」
 無造作な所作のようでありながら、白い手に掴まれた手首はそっと持ち上げられた。
「え?」
「怪我してるじゃねえか」
 肘に近い腕の外側が、すっぱり開いた裂傷から流れた血に塗れている。
 これは、たぶん。
「たぶん森の中で枝に引っ掛けただけだよ」
 木々が鬱蒼と生い茂っていて視界が悪い森の中を、走り回ったから。
 ――本当に、そうだったっけ?
「おまえな……いや、そんなことより、血が出てるんだぞ!」
 ますます眉根を寄せるコゲンタの声に混じった苛立ちも濃さを増すが、微かに口を尖らせたヤクモはそれをわざと受け流し、自分の傷を改めだした。
「わかったって。あーあ、服にもついてるや。血って乾いたら落ちにくいんだっけ、早く帰って着替えた方がいいよな」
 腰の辺りで血に汚れた腕が擦れたのか、すっかり赤黒い染みが出来ている。
 今では家事全般をイヅナが預かってくれている。それまで見知らぬ他人だったのに、あの日から当たり前のように家にいて、まるでそれまでがそうだったように、食事の用意も何もかも。それを享受していても、さすがに余計な仕事を増やすのは申し訳ないと思う。
 と、焦れたコゲンタがずいと詰め寄って。
「そういう問題じゃねえ!!」
 ヤクモのすぐ目の前で、怒鳴った。
 その毛を逆立てたような剣幕に、ヤクモも思わずたじろいだ。
「お、おどかすなよっ」
「うるせえ! とっとと帰るぞ!」
 そうして怒りに任せても、決して怪我を負っている腕をそのまま引くようなことはせず、そっと肩に腕を回して促してくる様に、言い返しかけた言葉を飲み込んでヤクモは口を噤んだ。
 心配、されているのだ。
 危険な目には今までにも遭っているが、こんな風に傷を負って血を流すということはなかった気がする。
 赤黒い血。
 嫌な色だと、思った。
「ヤクモ。妖怪に斬られたんだろ、それ」
 刻渡りの陣が本来の時代への道を開いた瞬間、コゲンタがそう言った。





「さほど深い傷でなかったのが不幸中の幸いです……」
 真っ白い包帯を腕に丁寧に巻きつけながら、イヅナが顔を曇らせる。深くはないが、小さくもない。術による縫合が必要だった程度には。
「今日は早めにお休みくださいね。少し熱が出ると思いますので」
「熱?」
「妖怪とかの瘴気に当てられっと大抵の人間は障りを起こすんだ。傷なんかで体内に入ったら特にな。覚えとけ」
「ふうん」
 するりと零神操機から抜け出したコゲンタが口を挟むと、ヤクモは気のなさそうな返事を返す。そして手首から肘までしっかり包帯に覆われた自分の腕を見ると、小さく笑った。
「何か大怪我したみたいだ」
「当たり前だ。派手に血ぃ流しやがって」
 手当てを受けている時に痛みはないと答えていたが、あれだけの血が流れて、本当に気づかないものだろうか。それとも、気づかないことすら瘴気に当てられた影響なのだろうか。
 式神は血を流さない。
 しかし人間は、血を流す。
 あの時のモンジュが、そうだったように。
 人間の血は、鮮やかな真紅は、命そのものだという。
 ならばあの赤黒い色は、こぼれ落ちて死んでしまった血の色だ。
「なあ、ヤクモ。自分を守る方法も覚えねえか」
 思いついたまま、声は出ていた。
「どうやって」
「闘神苻があんだろ」
 コゲンタがそう言い返すと、一瞬だけヤクモが神経質そうに顔をしかめた。
「……闘神苻」
 一瞬だけ。
「そうですね、そろそろヤクモ様も符術を学ばれてもよい頃かと」
 ヤクモの教育係たらんとするイヅナも、笑顔を浮かべてコゲンタの提案に乗ってくる。
「あの会津の青龍使いも使ってただろ。基本は闘神士が自分の身を守ること、んで次に式神のサポートだな」
「属性変化の苻とか?」
「ああいうのは、ややこしい術を符に予め仕込んでおくことで、簡単に発動させられるようにしたもんだ。狭い範囲とはいえ、周囲の環境を変えちまうくらいだしな」
「へえ」
 それでも話を始めれば、身を乗り出して聞き入ってくる。
「弱っちい雑魚妖怪なんかも闘神苻で祓えるぜ」
「ツクヨミさんが氷漬けにして式神を斃したみたく?」
「まあ、式神をですか?」
「大物ならともかく、雑魚はちょっと突っつきゃ消滅しちまうよ」
「そうなんだ」
「モンジュ様も、闘神士としての第一線を退かれた後も、闘神苻で数多の妖魔を祓っておられたんですよ」
「へえ、あのモンジュがねえ」
「知ってる。うちにもときどき闘神士の人たちが来てたし。父さんの力を貸してほしいって」
「符術師としても非常に有名な方でしたから」
 それ故にマホロバの黄泉送りを担うことにもなったのだろうが。
「だからな、ヤクモも覚えといて損はねえと思うぜ」
「ん……」
 けれど返事は曖昧で、目線だけがそっと逃げていった。





 手を、繋いでいた。
 大きな手と。大きな、大きな。
 いつもと違う、黒い着物の父を見上げた。
 怒った時のような、でも怒った時のように怖くない、顔で。
 真っ直ぐに何かを見つめていた。
 何かを。
 白くて大きな箱を。
 振り向いた父が、小さな小さな声で何かを言った。
 何かを。
 するりと、繋いだ手が離された。
 そして繰り返される。
「出来るな」
 何を。
「――にバイバイって、出来るな。ヤクモ」





 とうさん、と叫んだ声は声にならなかった。
 微熱を帯びた息が、詰まったように喉に引っかかっている。
 生温い、汗か涙かわからない何かが一筋、つうと頬を伝っていく感触。
 浮き上がったような感覚の中で、それを妙に生々しく感じた。
「ヤクモ、起きたのか」
 つと枕元で強まったコゲンタの気配が、そっと囁きながら覗き込んできた。
「熱、上がったか? 巫女を呼ぶか?」
「いい……」
 夢の中の、声が耳の奥にこびりついている。
 もう何ヶ月も、聞いていない声。
「そうか」
 触れ得ぬ霊体の手が、そっと撫でるように額をなぞる。
「巫女がだいぶ浄化してたんだが、結構辛そうだな」
 子供の身体じゃ無理もねえか。
 そう独り言つ声が聞こえて。
「ごめん」
「何だよ急に」
「いろいろ」
 上手く言えないけど。
「あんまり気に病むなって。俺も迂闊に離れちまったし」
 ちゃんと守ってやれなくて、悪かった。
 静かに囁かれて、ヤクモはきゅっと目を閉じた。きつく。
「傷、痛むのか?」
 きつく目を閉じたまま、首を横に振る。
 痛みなんて、わからない。
 ただ。
「夢、見たんだ」
「ぁん?」
「父さんの夢。たぶん、母さんが死んだ時の」
 からん、という鈴の音が、すぐ傍から聞こえた。
「……そう、か」
 目を開けて、見上げれば目の前に。
「ごめん」
 上手く言えないけど。
 怪我をしたから。
 怪我に気を向けなかったから。
 ――闘神苻を使うことに、頷けないから。
「無理しすぎんな。おまえは、頑張ってるよ」
 何処かあやすようなコゲンタの声は、近くて遠かった。
「そのうち何とかなるさ」
 何もかも。















 でも。これが父さんを石にした。
 その言葉は口を噤んで飲み込んだ。喉の奥に、深く深く。











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 赤い根。赤い色。内側に、根を張る赤い何か。

 赤根は茜。植物の茜。茜色の茜。茜色は暗い赤色。濃くて深い、赤色。
 アカネの染料は根っこから取ります。実の方は止血・解熱剤になります。

 つまり、そういうお話です。相変わらず痛々しげなお話ですみません。
 かなり直接的な描写、表現を避けていますが……
 基本的には、根ざす喪失を繰り返す恐怖や、焦燥による自己の軽視、とか。

 吉川母は、太白神社に今いないことだけは間違いないようですが、パターンとしては死去か離婚か、何らかの事情で別居。生きていても死んでいても、その理由が本筋に絡まない限り漫画で語られることはないかなと思っています。だから勝手にでっちあげで死別にしてしまいました。だいたいヤクモが五歳くらいの頃を想定。父一人子一人の吉川家。コゲンタっつーかアカツキはモンジュさんの奥さんも知っているはずなんですよね、十年前の関空事件は九月のことだから、秋分生まれのヤクモも生まれているはずで。

 妖怪とか瘴気とか闘神苻の解釈は、まあ、それっぽくオリジナルですので。
 でもモンジュさんはアカツキを喪ってからすべての式神と契約を解除した後も、妖怪の祓えには参加していたんだろうなと思ってます。ヤクモも、モンジュさん以外の闘神士を見たことがあるんだろうなと思ってます。でなければ、ヤクモが知っているわけがないから。そこら辺でも一本、何か書けるかな?