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ふっと目を開ける。 静けさに沈んだ世界。 奥底が熱を持ったように、痛みを訴える。 すっと手を見下ろす。 灯りの消えた深い闇。 冷え切った手が赤く濡れていたのは一瞬だけ。 それなのに、手に残り続ける感触。 忘れられない忘れない、あの肉を貫く―― |
――吐き気すら、覚えた。 |
繰り返し、繰り返し。 あんな終わり方しかなかった。 わかって、いても。 でも、どうにもならなかった。 どうすることも、できなかった。 そうすることしか、できなかった。 そして、どうしようもない。 いつかのように、閉ざしきったりも、した。 けれど。まだ手が届くものだけを見て。 痛すぎる光のもとへ、扉をこじ開けた。 だから、もう。隠せない。誤魔化せない。 消すこともできないのに。 きっと、澱となって突きつけ続ける。 |
ぞっとするような冷たさに、息が詰まる―― |
「……ひどいもんだな……」 不意に見たガラスに映る影に、スタンはか細い息でつぶやいた。 もうずっと抜けることはないのだろうかと思うような、だるい重み。疲れてそのまま眠って、その疲れが抜けるどころかますます重みを増している。 ふらりと部屋を出たのも、気晴らしにもならない気紛れだった。 今が朝なのか昼なのか夜なのかはわからない。 空は暗い幕の向こうに見えない。 塗れた視界の向こうで、最後に見た空は、透き通った青だった。 さようなら、と。笑えたから心配かけなかっただろうか。それとも、見抜かれていただろうか。 生きている。彼らの願ったとおり。 でも、今、彼らはいてくれない。 独りではないかもしれないけど。 かけがえのない存在を、喪ったのもまた真実。 自分は何をすればいいだろう。 自分は何が出来るのだろうか。 「スタン・エルロン」 はっきりと呼ばれた名に、気づきながらもすぐに振り返れなくて、スタンは齟齬感にも似た何かを覚えながら声の主に振り向いた。 「……ひどい顔ね」 苦笑のような微笑を湛えて、アステルがゆっくりと歩み寄る。そして。 「思い詰めないで……あなたは確かに、救ったのだから」 言われた言葉に、スタンが瑠璃の目を見張った。 「聞いた、んだ」 硬い面持ちを微かに歪めて。 「まぁ、ね」 アステルの眼差しが遠くを見るように細められる。 「叔母さん…?」 「それは、これからしばらくはなし。いいこと? スタン・エルロン君」 繰り返されて。 はっきりと、違和感を覚えた。それはきっと。 「でも、俺は」 何年も呼ばれなくて、エルロン姓にも慣れていた、けれど。 「スタン」 アステルが困惑を浮かべ、首を横に振った。 「駄目よ、許すことはできないわ」 「けど」 「どうしてもなの、お願い、わかって」 譲れないと、懇願を繰り返す。 「俺は、でも――」 それでも。 |
俺は、父親のことはほとんど覚えてなかった。 父さんがいなくなったのは俺が六歳の時だったか。今でも覚えていることといえば、出発の前に笑って抱き上げてくれたことと、門を出たところで振り向かないまま手を振ってる姿と。そんなことぐらいだろう。 それはもしかすると、父さんを見送りながら母さんが言った言葉のせいも、あったのかもしれない。 ――忘れないで。 昔も今も、母さんがそう言った理由は、よくわからない。まさか、父さんはもう帰ってこないことを、母さんがこの時すでに知っていたとは、さすがに思えないから。 それでも、一度母さんを見てから、俺はすぐに父さんの方をまた見た。もう後ろ姿しか見えなくて、束ねていた俺と同じ色の髪が、さらさらと揺れていた。 他に覚えていることは、ひどく曖昧なものばかりだった。初めてあの丘にある大木に登ったのは父さんに抱き上げられてだったこととか。天辺に着いたときのこととかを、ほんの少し覚えてるだけだけど。 そういえば剣術の真似事も、最初はやっぱり父さんからだった。きっかけはもう覚えてない。ただ、握り方を教わったのだけは、今でもわりと覚えてる。 大きな手でくしゃりと頭を撫でられるのが、好きだった。 そのときに約束したんだったっけか、母さんもリリスも、守るって。 父さんが死んで、母さんが泣いていて、父さんとの約束を守りたくて、でも守れなくて。 俺の髪も瞳の色も、父さんと同じなんだと、母さんは教えてくれた。 結局、今の自分というのは父さんを追っかけてるようなところばかりがあるような気がする。 髪を切らなくなったのは、いつからだったろう。 剣をちゃんと習おうとしたのは、いつからだったろう。 ロスマリヌスの外に出たかったあの頃、セインガルドに行きたいと、ダリルシェイドに行きたいと、思っていたのは――結局。 |
結局、俺の先にはいつも父さんがいた。 シオン・ディールライト。それが俺の父親。 |
ストレイライズ教は、女神アタモニを奉じている。信仰の発祥は天地戦争直後といわれているが、セインガルド、ファンダリア両国の始まりと同様、正確な記録は存在しない。それでも、歴史の長さだけは疑うべくもないところだった。伝承に基づいた祭儀も相当数が存在し、枢機卿の強い要望から執り行われたこの凱旋の祭儀にも元になった儀があるらしい。 「……なんだか」 その主役の一人にされてしまったことに改めて苦い笑みをこぼすスタンも、慣れぬ正装に身を包んでいた。二大国の上級貴族、ストレイライズの枢機卿に司教が集まるこんな場は、ひどく縁遠いもので居心地の悪さも当然だ。あの二人が欠席したのも、それをわかってのことだろうか。 「祝聖の儀、ですね。ファンダリア国王もいらっしゃるというのに」 壇上で述べられる聖句を聞いて、呆れを含んだ声音でフィリアもささやく。アタモニの祝福を与える儀式に、神権政治で成り立つファンダリアの国王を出席させるというのも問題があるのではないかという呆れは拭えない。 「さすがに聖油は辞退させていただくよ」 「そうなさった方が無難ですわね」 くすりと笑みをこぼし、ジョニーを伴ったリラがそっと歩み寄る。 「今はどんな火種も遠慮したいからな」 「まったくだ」 ウッドロウとジョニーも同意をつぶやき、ついで三人揃って壇へを歩を進めた。そこへアステルが――ロスマリヌスの領主代行までが合流し、まさに世界の中心を握るといえる一団に、周囲が大きく波打ち、壇へと至る道を譲る。狙ったようにちょうど聖句の区切りを迎えていたこともあり、壇上の司教も黙礼をして中央を空けた。 何事かと困惑の中にあったのは、スタンやフィリアも例外ではない。スタンも一瞬壇上に並ぶアステルと目があったが、すぐに伏せられてしまう。 「突然ではあるが、この場に集った世界の未来を担う者たちへ、伝えたいことがある」 あえて低く落とした声音で、前に立つリラが口火を切った。 「我らは確かに勝利を得たが、この世界は混迷を迎えることとなってしまった。前途にも、多くの難題とまみえることとなろう」 「その現在において、多くの民を守る我ら三国が手を取り合わずして、どうしてかつての安寧を取り戻すことができようか」 「過去に起きた多くの不幸、悲劇を忘れられようとは思わぬ。しかし、協調なき復興など叶うことはないだろう」 一息の間に、すべてが固唾をのみ。 「我らはここに誓約する。ロスマリヌス領主の立ち会いのもと、セインガルド=ファンダリア=アクアヴェイル間に、和約を結ぶことを」 言い渡されると同時に、当然だが場は騒然となった。 対等とは言い難い関係だったセインガルドとファンダリア。長らく冷戦状態にあったセインガルドとアクアヴェイル。国交など無きに等しかったファンダリアとアクアヴェイル。その三大国が、正式に、友好的な国交を開こうというのだ。 「スタンさん…!」 「…あ、ああ、こういうことだったんだ……」 どよめきに巻き込まれるフィリアが驚いて呼びかけてきたが、スタンはかえって納得していた。このことがすでに胸中に秘められていたからこそ、アステルはあんなにも渋り続けていたのだろう。けれども、最後には折れてくれた。リリスには決してさせないという条件付きで。 きっと、後戻り出来なくなる。けれど。 祭儀は進み、正式に出席したソーディアンマスターは壇上へと招かれる。堂内を見渡せる場所から、そっと端の回廊に目を向けると、見慣れた人影が三つ、こちらをうかがっているのにスタンは気づいた。 自分は、譲らない。たとえ、これから何が起こったとしても。わがままなのかもしれないけれど。本当には何もわかっていないかもしれないけれど。心配も迷惑も、どれほどかけることになるか知れないけれど。 順に名乗りを求められ、声を張り上げるために息を吸う。思えば長い間ずっとエルロン姓で、この名を声に乗せるのは初めてかもしれない。 今頃になって、どうしてこんなにもこだわりたくなったのかは、自分のことながらスタンはよくわからなかった。 ただ、そう呼んでくれた父の声が、新しい記憶の中にある古い過去の声が、忘れられなくて。 |
はっきりと、その名を告げた。 |
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