3 :: エミリオ・カトレット








 生きることに、意味を見出せなかった頃があった。
 ただ、それでも、死ぬ気は欠片もなかった。
 裏切られるのにひどく怯えて。
 けれど、ずっと信じ続けていたのかもしれない。
 ――奥底では。



 ずっと名乗り続けていた、名前。
 それは虚像の名前。
 由来を知ったら、自分の支えとしてすら利用してやった。
 それは虚飾と隠蔽。
 戸惑う親友に有無を言わせず、使うことに決めた。
 そうすれば、そこにまた別の虚像ができあがった。



 けれど、それももう。
 すべて、意味を失ってしまった。
 すべて、役割を終えてしまった。
 あの名をくれた親友は、もう亡い。
 あの名を名乗る理由も、もう無い。



 ――ふと、振り返れば。



 虚像が葬られたあとに。
 今の"自分"に、なにが残ったのだろう――?



 この場所に立つことを、ずっと、考え続けていた。
 幾度となく通ったことがあった先に存在する、この場所。頑丈で大きな鉄製の門。広い前庭に刻まれた道。そして、ブラウンの色も深い木製の扉。
 ようやく前に立ち、恐る恐る左手を伸ばし、鈍い金のノブに手を触れようとして、しかし力を失った腕は重力に引っ張られてしまう。と。
「何をしている、おまえは」
 かすかに笑いがまじったような声と共に、背後から髪をくしゃりとかき回された。びくりと弾かれたように振り返ると、
「驚かさないで、くれ…」
 そんな力ない抗議を、エミリオはまっすぐより上にある目線に重ねて口にした。いろいろとあった間に背もだいぶ伸びていたが、まだこの男には――父には追いついていない。
「事を起こす前に、ほとんどの者には暇を出していたはずだ。入ったところで人にはほとんど会わんだろうさ」
 そういうことではないのだと、わかっていても。
 そう言ったヒューゴは息子の肩に置いた手を軽く押し、エミリオは父に押されて一呼吸おいて、扉を開いた。
 人気が失せて閑散とした、広い広いホールが、それでも最後に見たときそのままに、目の前に存在している。
 一歩踏み出せば、厚みのある敷物が足音すらのみこんでしまうので、知らず知らず歩みを進めるうちにエミリオは早足になっていった。二階分のホールの、中二階への階段を駆け登って、目を閉じていても間違えないだろう屋敷の廊下を迷いなく走る。
 この角の向こう。
 あまりに見慣れた自室の扉を大きく開け放つと、脇目もふらず奥の机に駆け寄った。
 机の天板に両腕をつき、少し上がった息を整えながら。
「僕は、僕は――」
 何かを言いかけて、でも何も明らかな言葉にはならなくて。
 けれど、二つ並んだ写真立ての伏せられたままの方を起こせば、映った光景に自然とつぶやきがこぼれた。
「――やっと、わかったんだ……」
 泣き笑いのような、表情で。
 どこかに置き去りにしていた自分に。
 そして、今は亡き大好きな人たちに。



 僕は、父さんにエミリオと呼ばれていた。
 僕は、父さんにリオンと、呼ばれていた。
 いつ頃からか、父さんの呼ぶ僕の名前はリオンだけになった。本当の名前はエミリオなのだと、記憶の一番深いところで知ってはいたが、最後に父さんにエミリオと呼ばれたのは、あの人がいなくなったときで。
 エミリオという名にはずっと前から母さんと同じ家名がつけられていて、それは大切なものとしてそっと、内緒にして、通り過ぎるだけの他人から隠した。
 だから、エミリオ・カトレット。
 リオンという名には他に何もなくて、けれどシャルティがもう一人のリオンを教えてくれて、僕は、僕の偽物の名前にシャルティの偽物の家名をつないで、使った。
 だから、リオン・マグナス。
 母さんのことはほとんど覚えていない。
 父さんが優しかった頃のことは、少ししか覚えてない。
 エミリオだった時間なんて、ほとんど覚えていない。
 亡霊は、僕をリオンと呼び続けたから。
 そう、――亡霊。
 私はおまえの父親にとり憑いている亡霊だ、と。
 おまえの父親を返してほしかったら、強くなることだ、と。
 亡霊は自分のやり残したことを終えたときに成仏するものだ、と。
 おまえは誰だと、ずっと昔に訊いたときに返された、まるで冗談のような真実。それなら僕は強くなって父さんを助けようと思ったことがあったと、ふと思い出す。
 その言葉を信じたのが、もう一人の僕にとって最後だろう、疑いもせず素直に他人の言葉を信じたのは。
 僕の父さんの中にいた、シャルティの父親。シャルティはそれを言おうとせず、向こうも――いや、もしかすると、ソーディアンには誰かの精神が移されていることさえ知らなかったのかもしれないけれど。
 僕のことを道具扱いしながらも、時に違和感があった。いったい、僕に何を見ているのかと、時に訝りたくなるようなことをした。
 結局、あの亡霊はリオンという名にどんな意味を見ていたのか。
 呼び名の違い、本物と偽物の意味、わからないまま。



 父や姉や、仲間と共に、僕は生き残った。
 もう莫迦な生き方はするなと、彼らに言われて。



 凱旋の祭儀。
 その立場上フィリアとウッドロウはわかるが、スタンが出るというのはさすがに驚かされたものだった。事実、今こうして祭儀場の隅で、エミリオと同じく傍観に徹しているルーティも聞いたときには目を丸くしていた。
「……和議、か」
「なんか言いたそうね?」
 壁に背を預け、発表されたばかりの内容を繰り返す彼に、姉がささやく。
「いや、別に」
「確かに、気楽に構えられるものではないな」
 どこか苦笑に似た表情をヒューゴは浮かべた。
「どういうこと?」
「昔、二十五年ほど前だったかにも、和議が結ばれる直前まで話が進んだことがあった。結局は要人暗殺なんかがあって冷戦になだれ込んでしまったがな。そのときのようにまた妨害されるかもしれないと、気にする者は多いだろう」
 とうとうと語るエミリオの言葉に、黙って聞いていたヒューゴの口からため息がもれる。他ならぬヒューゴ自身もその一人だ。あの日のことを、夜闇を赤々と切り裂く炎を、今もはっきりと覚えている。火を吹き上げ崩れゆく建物を前に、なす術もなく、立ちつくす人々の姿を。
「それは今あの舞台に上がっている彼らもよく知っているからな。なにがなんでも成功させる気でいるだろう」
 父の言葉は軽く聞き流し、エミリオは壇上に目を戻した。当時のことはあまり詳しく知っているわけでもなかったし、何より直接関係してくるとは思っていなかったからだ。これからを生き残るために、頭の固い老人どもの相手も、多少の強引さも辞さずやっていくのだろう。そうあることが必要だ。そんな感慨があっただけだった。
 生ぬるい時代は終わってしまった世界はこれから、激動を迎える。
 これから。
 その中で自分は、これからどうしようか。
 すべてをただ待っていただけの頃のように、客員剣士の座にも望めば戻れるだろうが、今となってはそれに何の意味をも見出せない。望む気になんてならない。相棒がいなくなっては、なおのこと。
 これから。
 ずいぶん長い間、そんなことは考えたこともなかった気がして。
「聞こえてないの? それとも無視」
 不意に耳元で聞こえた声に、エミリオはびくりと身を引いてから振り向いた。
「あ、なんかひどい反応」
 言いながらもくすくす笑う、少女の金糸が照明を受けてきらきらと光の瀧を流した。
「覚えてる?」
 自分を指差し訊ねる少女の向こうで、姉と父がどうやら笑いをこらえているらしいのが見える。
 そちらに向けて怒鳴りでもしたい気はするが。
「――リリス」
 それよりも今は彼女を優先すべきだと、脅迫のような声が脳裏にささやかれた、気がした。
 一度だけ、ロスマリヌスで会った。スタンの妹。つまりはシオンの娘。どうにも、それなのになのか、それだからなのか、彼女には何故か気圧されてしまう気がエミリオはしていた。
「覚えてた」
「当たり前だ」
 だからどうしたとばかりに、少し憮然とした声でエミリオが言い返すが、
「エミリオ」
 はっきりとその名を呼ばれて、見据えられて。柄にもなく、これは緊張なのだろうか、返す言葉は霧散して、思いつかなくて。
 けれど、唐突にそれは現れたのだ。
「――あぁ、僕は」
 小さく笑うと、見つけた言葉を声に乗せた。
「よろしくね」
 ふわりと微笑んで、大きな瑠璃の瞳をリリスが細める。
「…ああ」
 そういえば何故リリスがここにいるのだろうかと、疑念がわき起こった、その刹那。
「あ。ねぇ、また後で、いいかな?」
 ふとリリスはホールの中心の方を見やるとそんなことを言い出した。エミリオがなんとか頷いてみせると、ありがとうと言い残してホールの中へ走り去っていく。
 何とはなしに、その行き先を目で追う――七将軍の一団。
「おっかしー!!」
 と、そのとき耳に飛び込んだ声にエミリオは我に返ると、慌てて後ろを振り返った。いつのまにか堪えるどころか、涙がにじむほどに腹を抱え大笑いしているルーティが、一部始終を余さず見ていたのは間違いなくて。
「何なんだっ」
「だってあんた……あーもう、涙出て来ちゃったじゃない」
 しまいには指をさして笑われる。
 無性に腹が立つ。優先順位も、今は――これが一番だ。
「いつまで馬鹿みたいに笑ってるんだ!!」
「やだ、そんなホントに怒っちゃ嫌よー」
 けらけら笑いながら逃げ出すルーティを追って、エミリオもホールを離れた。やれやれと苦笑する父親を残して。
 旅していた頃にも似た、たわいない姉弟喧嘩。
 悲しみを忘れたわけではないけれど、変わらないものも知っているから。



 笑って生きてみせよう、今のままで。








→ End of Dream