4 :: リリス・エルロン








 初めは、些細な、ほんの少しの違和感。



 そう、違和感を、覚えた。
 兄が帰ってきた時に。
 今までの、どれとも違う。
 何が違うのか、今までの何と比べているのか。
 それ以前に、果たして自分は何を知っていたのか。
 考えても、答えは見つからなかった。



 お兄ちゃんはホント、私がいないとめちゃくちゃね。
 ――おまじないの言葉。繰り返し唱え、唱え続けて。
 
 いないとダメなのは、本当は、私の方だったんです。
 ――それが、真実。笑えるほどに、あっさりとした。



 ずっとずっと、それでよかったから。
 ずっとずっと、つなぎ止めることに必死だった。



 何も知らずにいたのは、自分。



「見つけた」
 並んで立つ二人の間に、後ろから割ってはいると、そのまま腕を二本、リリスは捕らえた。
「って。リリスじゃねぇか、もう着いたのか」
「うん、まぁね」
 壇上から目を戻したルートに、笑顔を返す。
「お兄ちゃんは?」
「あそこですよ。今は近づかないでくださいね」
 言われるままにアッシュの指差す方へ視線を向けると、確かに兄の、スタンの姿を見つけだせた。そばにいるのは、フィリアとウッドロウだったか。
「やだ、なんだかお父さんみたい」
 同じ色の金糸を、同じように金属環で束ねているのに気づいて、リリスが小さく笑う。父シオンのことは写真でしか知らないけれど。
「そういえば、さっき向こうにいましたね」
「ルーティさんとエミリオがいたから。もう一人…いたけど」
 そういえば誰だったのかしらと、今さら首を傾げた。
「ヒューゴさんだろ。あの二人の父親」
「そうなの!?」
 リリスが目を見張ってルートを見上げ、捕まえていた腕をぎゅっと引っ張る。その行為に意味はない。ルートもリリスの力では軽く上体を傾がせる程度でしかない。
「あーそうだから、あんま引っ張るな」
「へぇ…」
 そのままリリスはちらりと先ほどまでいた方を振り返るが、ちょうど人込みにさえぎられて三人の姿は見えなかった。
 刹那。ざわりと、ホールの空気が一変する。
「え」
 壇上のスタンが祭司へ告げた名は、ディールライト。
「っ…!?」
「なんで――」
 ルートとアッシュがまともに色めき立つが、リリスは驚きはしたものの、一人落ち着いたものだった。
「そっか」
 兄はあの名を必要としたのか。
「あーあ、私はエルロンのままなのに」
 兄と違って、まだ、あの名が本当に必要だとは思っていないから。
 これから立つ世界は、少し違ったものになるのだろう。
「? どういうことだ?」
「お母さんと約束したのよ。本当に必要になるときまでは絶対に、嘘をつき続けなさい、ってね」
 置いていかれたわけでは、ないのだろうけれど。



 リリス・エルロン。
 その名前になったのは十一年前で、四歳の時で、だから私はもう一つの、本当の名前を言った記憶はなかった。
 お父さんがいなくなって、しばらくして。
 お母さんが、お兄ちゃんと私に、約束させた。
 私は小さすぎてよくわからなかったから、私にとっては、私の名前はリリス・エルロンだった。ディールライトの名前を知ったのも、実を言えば約束のことも、お母さんが死んでしばらくしてから、教えられて約束し直したことで。
 そう。私は、お父さんの事なんてほとんど何も知らない。
 お兄ちゃんはロスの屋敷にあるお父さんの書斎が好きだった。けど、私は知らなくて、わからなくて、――とても怖かった。
 お兄ちゃんが、お父さんのように突然いなくなるんじゃないかと。
 七年前にお母さんが死んだとき、とても怖かった。
 お母さんが死んだことはあの頃わかってなかったし、みんなが死んだ村にも行かなかったけど、ルートさんが連れて帰ってきたお兄ちゃんは――呼んでも、手を握っても、何も言ってくれないし、笑ってもくれなかったから。
 それから、かもしれない。
 お兄ちゃんにべったりついてまわって、ほとんど離れなくなって。
 料理も覚えて家のことも私が引き受けるようになってからは、のんびりしたお兄ちゃんを引っ張るようにして。
 それがある日、お兄ちゃんはいなくなった。
 最初は大丈夫と笑ってた叔母さんは、手紙が一つ届いてから、私と同じ。毎日そわそわとして、お兄ちゃんの帰りを待ってた。
 そして二ヶ月ぐらいして帰ってきたお兄ちゃんは――変わってた。
 また置いていかれると、不安になって。
 一緒にいられる人たちが羨ましくて。
 でも、どうしようもないことぐらい、わかってた。



 変わらないことだってあるだろって。
 言ってくれたのが、実はとても嬉しかった。



 それは、ずっと古い物だった。
 それは、ずっと在る物だった。
「もう落ちないよね…」
 腕の下に手を回して高い高いをするかのように熊のぬいぐるみを掲げると、そんな苦笑がこぼれた。
 降りそそいだ時間の量を表すかのごとく、初めて出会ったときとは違って、それは色褪せてきていた。
 場所が変わっても、それが座っていれば、安らげる場所だと思えた。
 それはたぶん、慰めとはまた違うだろう。ずっと共に在るモノには他と違う何かが生まれると言うが、それだけでもないだろう。
 確実に言えるのは、それがとても大切な存在だということぐらい。他に付け加えられる言葉があるとするなら、形見と言うべきなのだろうか。
 薄汚れた熊のぬいぐるみは、子供の頃からずっと彼女と共に在った。
 それは、確実。
 あの――最期の日の、一つ前から。
 あの血の惨劇の、一つ前の日から。
 それは、現実。
「ねぇ。私ね、考えてることがあるんだ」
 ささやくように、つぶやく。
 それまでが嘘のように、突然に目まぐるしく変わった世界。
 リーネから、ロスマリヌスの屋敷に戻ることになった。
 叔母は、公私でダリルシェイドにいる時間がほとんどになった。
 でも入れ替わるように三人増えて、賑やかになった。
 そして。
 兄が、ディールライト=ローズマリー家の正当な後継者となった。
 自治領の外務は叔母が一手に引き受けているが、内務は兄がこなすようになった。同居人の一人が秘書官のように補佐して、少しずつ慣れていっている。十一年もの長きに渡って空席だったロスマリヌス自治領の領主になるかどうかは、まだ誰も、何も言ってはいなかったが。
「お兄ちゃんもエミリオも頑張ってるのにさ、私だけ、何にも手伝えないんだよね……」
 ぎゅっと熊のぬいぐるみを抱きしめてつぶやいた、淋しい声は自分でも意外なほどで、思わず笑った。
 知らない方がいいこともあるのだろうけれど、それでもあえて知ることを選んだのは、きっと同じだから。
「私ね、勉強するの。お兄ちゃんたちにはまだ内緒にしてるけど、チェルと相談して、決めたんだから」
 きっかけらしいきっかけはあるようなないようなだが、チェルシーとはお互い歳が近かったこともあって、ダリルシェイドにいた間にすっかり仲良くなった。距離がある上に世界情勢のこともあって直接会うことはほとんどないが、トーン家の地位の高さも手伝って手紙のやりとりは無事に続いている。
 また、お互い、今のままに不満を持っていたから。こっそりと相談して、こっそりと、ある人にお願いをした。
 届いたその返事は今、机の上に置いてある。
「お兄ちゃんたちにはあまり会えなくなるけど――いいんだ」
 声にすれば言葉にすれば、形ない不安に勝る。
 同封されていた入学許可証はヴァルヌス学園の物。仕官養成学校の面も持つ、ダリルシェイド郊外にある上流階級向けの名門学府だ。セインガルドの貴族だけでなくファンダリアなど異国からも入学者は受け入れられており、その筋では名を知られた学府である。
 そこで学ぶのは、この世界のこと。
「今のままでいたくないから」
 だから、決意した。



 大きくなろう。私の世界は、広げられるから。








→ End of Dream