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歴史には、事実しか残らない。 歴史とは、真実は、記さない。 理解はしていたつもりが、現実は予想以上に重すぎて。 これほどかと、文字を追う己が手は震えた。 切り捨てられるのは、目には捉えられぬ数多。 ここは、神のおわす社<やしろ>などではなく。 ここは、ヒトの住まう邦<くに>に他ならない。 慰霊碑に刻まれる名簿から拾った、一つの名をなぞるのは、白く青ざめた指。 目を落とした手のひらが、一瞬だけ朱に染まって映る。 ――きっと、幻ではない。 |
私のしたことは、あなたの救いになれたでしょうか? |
神に救いは求めない。 神に祈りは捧げても。 神は、救いをお与えには、ならないから。 |
「お母様」 昔は、あの旅に出る前にはとても出せなかったような、はっきりとした声音でフィリアは硬い面持ちで呼びかけた。 この緊張を呼ぶ一因はこの部屋の空気に違いない。王都ダリルシェイドにあるストレイライズ神殿の、奥の一室、それも新しい大司教のために用意された、広く瀟洒に飾られた部屋だ。本来ならば司祭位のフィリアが到底足を踏み入れられる場所ではなかったが、今やフィリアは世界を救った英雄の一人であり、現大司教の一人娘である。 そう。新しく選出された、大司教。 ダリルシェイド神殿は、総本山の機能が失われた時点で実質上の本山代理を果たすこととなった。ダリルシェイド神殿をまとめる最高司祭が、――フィリアの母ソニア・フィリスが、先の騒動の中で亡くなったマートンの後を継いで大司教となったこともある。最大の理由としてはやはり、世界的な寒冷化で奥地は人が住める環境でなくなったためだが。 「その様子だと……知ってしまった、のね」 母の力ない微笑みに、フィリアは無言で首肯のみを返した。 「あなたにも、あなたの仲間にも。謝らなくてはならないこと、いくつも出来てしまったわね」 「いくつも?」 思わぬ言葉にフィリアが反芻する。てっきり凱旋の祭儀のことだと思っていたのに、まるでそれだけではないような言い方ではないか。 しかしソニアはわずかに目線を上げただけで答えることはせず。 「今まではまだ総本山が遠く離れていたからなんとかなっていたけれど、これからはそうもいかない。総本山はこの冬が終わるまで閉鎖される。そして新たな大司教になったのは……」 自嘲気味にこぼれた最後の言葉は、声を伴っていなかった。 「そのくせ、ひどく縛りつける」 封が解かれた封筒の、厚みをなぞるようにソニアの手が滑る。フィリアはその中身は知らないが、封に用いられていた印章には見覚えがあった。枢機卿会。 「中を御覧なさい」 命令と呼ぶには弱々しく。だが、フィリアは言われたとおり、すでに封印を解かれた中の書類を取りだした。そしてさっと目を通す。 速読には慣れていた。概要を捕らえる程度なら。 だから、すぐに気づいた。 「先のバーンハルト大司祭による背約行為に関して、唯一の神殿内生存者であり、また一部始終を見届けた者として、この記録内容に異議を申し立てます。――大司祭はカルバレイス国民とのつながりは一切ございません。引き込まれたのは神殿関係者のみです。ましてや、首謀者など! それにそもそも、あの方は御息女であるアルメリアさんの……!」 うっすらと怒気をはらんだ声でさらに続けようとしたフィリアの言葉をさえぎるように、ソニアが首を軽く振った。横に。 「もう無理なの。また、本当のことは残されないの。すでに枢機卿会で承認されてしまったことだわ。これを撤回するには……そうね、どうすればいいのかしらね」 「お母様は教団の最高位にあられるのではないのですか」 詰問するかのように厳しい娘の視線を受けて、ソニアはうっすらと嘆息をにじませる。 「大司教が持つのはその血だけ。血に刻み込まれた使命だけ。私は、伯父上ほどの権力さえ、持ってはいないのよ」 当惑を浮かべるフィリアに微笑んで見せてから、ソニアは書類の影から一つの首飾りを手に取ると、フィリアの前に差し出した。小さな鈍い銀鎖でつながれただけの、指ほどの細長い、何の飾り気もない透明な三角柱。ガラスにも似ているが、光沢はどこか滑らかだ。 「これは司教の証。直系のあなたがこの地位に就く意味も、あなたはよく知っているでしょう。受け取るかどうかは、あなた自身で決めなさい」 あまりに突然のことで言葉を失うフィリアを軽く抱き寄せながら、ソニアは言葉を綴る。 「これから、いろいろなことが起こるかもしれない。あなたのお友達も、大変なことに巻き込まれるかもしれない。これが必要に…なるかもしれない」 そして見つめ返す視線に映り込むは、色濃い悲哀。 「見定めなさい、すべてを。どんなことがあっても、決して逃げない、後悔しないだけの覚悟が、あなたにあるのなら」 |
私にとって、ストレイライズ総本山の中だけが、世界のすべてでした。 私にとって、世界の果ては、神殿を囲む高い壁そのものでした。 ゆるやかに時が流れ、今日と明日の違いなんて些細なものでしかない、そんな日々をずっと、十九年間も送っていました。 神殿に仕えることを定められた家に生まれ、父や母のように聖職となり、古い書物に記された歴史をただ、紐解いていました。 ストレイライズ教団が担う役割として、聖職の他に、もう二つ。研究職に就く者による古代知識の研究管理と、そして史書の管理があります。星の災厄と続く天地戦争を生き抜いた、その後の人間の歴史。それを記録し、保管することが長らく行われていました。 その記述に疑いなど抱いたことはありませんでした。 その記述に、この世界を知った気になっていました。 記録されているのは、保管されているのは、真実。疑念を挟むことなく、欠け落ちてしまっている歴史を、数ある伝承の中から拾い出すことに喜びを感じてもいました。 それが、アルムさんの復讐のためにグレバム様が神殿を去ったことで、何もかもが大きく一変して。 初めて神殿の外に出て。 今までどれほど狭い世界に閉じこもっていたかを知り。 初めて教団に関わりない多くの人たちに会い。 人の思いも願いもどれほど様々であるかを知り。 初めて、想いを胸に秘めて。 そう、それに。 初めて、人を殺めて。 初めて、理不尽に奪われた命の存在を目の当たりにして。 初めて、世界は優しくないことを知りました。 初めて、世界の果ては手の届かないものと知りました。 |
これが現実なのかと、何も知らなかったことを思い知らされ。 初めて、知らないことを、苦しく感じました。 |
ストレイライズ教団。五七四年にセインガルド王国から国教の認定を受けた、現在では世界最大規模を誇る教団である。 もともと教団の存在は神の眼を守るための隠れ蓑だったが、その真実を知らされるのはごくごく限られた一族のみでしかなかった。連綿と大司教の座を継ぎ、司教の大半をも占める、古くからの血族。 その他の大多数の信者は、過去の遺物のことなど何も知らずにただ女神アタモニを崇めているだけに過ぎない。そのためにか、ストレイライズ教にも他の宗教同様に、主神たるアタモニにまつわる伝承は多く存在した。たとえばセインガルドとファンダリアの二王国発祥に関わる伝えや、女神の寵愛を受けた聖王子の伝えなどは、民間にも広く流布している。 そういった中の一つに、女神を守護する騎士の伝承がある。強大な滅びの力によって世界が死に瀕したとき、世界と世界を守る女神を救うために、その力を扉で閉ざし剣で封じた八騎士の物語だ。天地戦争にも似ているが、それとは別に、幼い子供に読み聞かせる語り物の代表となっている。 もちろんフィリアもよく知っていた。彼女はもとより歴史研究に身を置いていた上、その中でも伝承と史実の関わりを専門としている。いわば本職だ。 しかし、その女神の騎士の再来として、まさか自分を含めたソーディアンマスターたちが扱われるとは、さすがにフィリアですらすぐには信じられるものではなかったが。 「……けれど」 意味など、きっと、ない。 聖堂の扉を開くと擦りあわせたような軋んだ音を立てるのは、古くなっているからだ。 「司教位なんて私の身には余ります」 聖堂の床はこんな時にでも磨き込まれていて、足音は静かに高らかに鳴り響き、仰いだ女神も冷たい石に慈愛を浮かべている。 「お母様は何を考えていらっしゃるのでしょう?」 「下っ端でしかない俺に聞くのか、それを」 半ば独り言でしかないのに、苦笑まじりに応えられた。 「お久しぶりです……バティスタ」 教団と――いや、母ソニアと?――何かしら取引のようなことをして不問に付されたと、母の部屋を辞するときに聞かされたのをフィリアは思い出す。 「アルムは……?」 「消えてしまいました。グレバム様と一緒に。神の眼に飲み込まれて」 そうか、というバティスタのつぶやきに意味などない。 墓所にあるのは名だけ、一欠片の遺骸さえもない。 「グレバム様は、確実に破滅するとわかっていて、それでも話に乗った。他に、どうすることもあの方にとっては意味など持てなかった」 フィリアが驚愕に振り返った。 「許せなかったと仰っていた。何よりも御自身のことを。知り得たのに知らずにいたこと、結果として見て見ぬふりをしたこと、アルムの復讐をせずにはいられないこと。何もかも」 泣いて、泣き叫んで、ただ悲しんでいられたら、よかったのに。 「もう、終わってしまいました……」 もう、涙は止まってしまったから。 「何が終わったのかなんて、本当は知らない」 「何が始まっていたのかさえ、知りませんでした。そういえば」 だから、求めるしかないのだ。 |
すべてを、知るために。 |
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