「お帰りなさい」
 もう四十が近いというのに未だ壮年の美しさを保った女性が、あでやかに微笑んだ。期待した答えを返されず、彼女は少し苦笑を交えながら再び口を開く。
「やっぱり変に思ってるのかしら。それとも呆れてるのかしら。ここは私たちの家じゃないからそれは違うだろうって言いたいんでしょう? でもね、私、この言葉が好きよ」
 "自分"ではない自分に向けられた、愛しさにこもった声。
 何度繰り返しても、それを認めない。
「ここが病室でも、あなたが私の元に帰ってきてくれるのだから、いいでしょう?」
 繰り返すだけ、無駄と悟ったのはいつだったか。
 一切の感情が欠け落ちたような少年の面に、一瞬苦みがよぎる。が、こんな思いすらすでに徒でしかないのも、とうに知っていた。
 そして、凍りついたまま、いつものように抑えた声でつぶやく。
「……ただいま」






消えない虚構






 俺が十の頃、父が死んだ。
 もちろん老衰なんかじゃない。でも、別に珍しいことじゃなかった。星の災厄、天上の支配、そして天地戦争。こんな御時世、二親、いや家族が揃っていたことの方が珍しかっただろう。たいていが、父なり母なり、または子なり。誰かを喪っている。
 だから――これも別に、さほど珍しいことじゃなかった。
 父の死に、母が狂った。
 いや、まだ"発狂"と言い切れるほど重度ではないかもしれない。精神の安定を失して、己の記憶を作り替えた。父の死を、愛する人の死を、認めなかった。ただ、それだけ。そのため、母は医療区の片隅にある一室に隔離された。何がきっかけで現実を取り戻し、そのまま精神を崩壊させるかわからないから。いつか伝えなくてはならないことだとしても、時期を見極めねばならないらしい。
 母は真っ白な病室で、真っ白な服を着て、まさしく絵に描いたような"病気がちな女性"の日々を送っていた。俺が様子を見に行くと、扉を開けると、誰何の声に上がるのは息子の名ではなく夫の名。もうこの世にいもしない人の、名。そしてそのたびに、言い直す。俺の名を呼んで、また来てくれたのねと笑う。彼女の中では、自分は重い病を患ったために"ここ"にいるのであって、俺も父もちゃんと家にいるということになっているらしい。もともと父は、情報部の統括を努めていたほど階級が上の軍人だったので、顔を見せに来ない――しかし、父の死の記憶さえ歪めた母からすれば、たまには来ているという記憶を捏造するのも容易かったようだ――ことは忙しいからということで納得しているらしい。
 実際、父が生きていた頃でも似たようなものと言えたかもしれない。ただ、母は家にいたが、俺はよく情報部の方に連れられて行っていた。別に仕事場にまで入れることはしないが、手の空いている部下たちに預けらる。情報部なのだから、もちろん属している人は情報処理に長けた者だ。まるでゲームかなにかの攻略のように、触らせてもらうままに俺が基礎を覚え込んでいったのは、言うまでもない。
 そんな前歴があったため、父の死から四年経って俺が十四になった頃。周囲からの推挙もあってその情報部に所属することになった。階級が下の方なら、俺程度の年齢のヤツも少ないわけではない。特にこの手の分野、慣れるには早ければ早い方がよかった。結果は、稀にみる逸材といわれるほどにはなったが、本当に"天才"と呼ばれるようなヤツらは別にいたので、俺は特にそれ以上というわけではなかったが。
 情報部所属を示すピンは当然父の頃と変わりはなく、少しの懐かしさと、奇妙なくすぐったさだって感じた。生前の父――つまり俺の幼少期も知っている――人は、制服を着た俺を見て、父によく似てきたと目を細めていた。十四にしては、これまた父に似たのか背が高かったのもあって。
 なのに、俺は気づけなかった。






 いつものように、病室のノブに手をかける。
 いつものように、誰何は父の名で行われる。
 真新しい制服に身を包んだ少年が扉を開けきったとき、いつもと違うことがあった。
 いつものように、母は息子の名前を呼び、笑いかけなかった。
 しばらく、めいっぱい見開いた目で息子を見つめ、そしてやおら、笑みを湛える。それまで少年に向けていたものとは明らかに違う、女の笑み。
「来てくれたのね――」
 その唇が紡いだ名は、また、父の名だった。






 ――悪夢のはじまり。






「助けてっっ! 誰か! あの人を助けて――っ!!」
 一枚の板のようにぴったりと閉ざされた扉に縋り付き、金切り声で女は周囲に叫んでいた。"母"ではない、"女"だ。
 周りの者はなだめる言葉もなくただ、無慈悲に一切の命令を受け付けないコンソールの前に敗北するのみだった。その中には、少年のよく知っている、いつも少年にコンピューターのことを教えてくれている者の顔も多数ある。だが、そのすべてが一様にして、この状態を手に負えない自分の無力さに、悔しさに、表情を歪めている。この扉の先の区画に、空気の循環の止められてしまった区画に閉じこめられている数名の中に、彼らにとって最高の上司がいるのだから。それはそのまま、泣き叫ぶ女の夫であり、立ちつくす少年の父であった。
 ことの始まりは、紛れ込んだ天上群の間者が起こした破壊工作だった。大規模なクラックを起こされ、一部のプログラムが暴走を起こした。いや、もしかしたら意図的にそう仕組まれていたのかもしれない。考えたところで、もはや知り得ることではないことだけが事実だが。
 原因はどうあれ結果としてプログラムは暴走し、一区画を閉鎖密封し、さらに火災時に作動するはずの酸素を排除する機構が働いている。中に数名の人間を閉じこめたまま。そしてもう一つ揺るがせられない事実として、今ここにいる技術者の能力では、どうすることもできないということだった。
「ドクターベルセリオスは!!?」
 焦燥に上擦った怒号。
 走ってきた一人。
 低くささやかれた声。
 ――ノルズリ――ドクターカドウィード――天上のスパイ――全滅――
 聞こえた音は断片的で、一つの意味を形成しえなかった。
 ただ。
 "間に合わないかもしれない"。
 その一言だけ、子供にも理解できた。
 報告を受けていた男が、沈痛な面持ちで少年のそばに来る。締まりかかったシャッターの隙間から父親に無理矢理押し出されたときに出来た、額の擦り傷に彼が手をかざすと人口のそれよりもずっと深い色の光が子供の握り拳ほどの大きさで生まれた。そして、無理矢理で悲しげに歪んでしまった笑みを浮かべ、小さな手を握った。






 十数分後。
 一人の青年が息せき切って現れ、コンソールにその両手をかざす。
 キーを叩く音以外、一切の音がふつりと止んで。
 どれほど経った頃か、扉は開いた。
 刹那、誰かが耳障りなほど息をのみ。
 イクティノスの手を握っていた男が、引き寄せて、抱きしめた。なにも見えないぐらいに、きつく。ただ強く抱きしめた。そして、つぶやく。
「すまない、イクティノス……」






 ――あの日の記憶は、そこまでしかない。






「っきゃ――」
 角を曲がるなり勢いよくぶつかってきた小さな影に、イクティノスは咄嗟にその細い腕を掴む。
「あ、ありがと」
 言って無邪気に笑った少女は、まだ十二歳前後のようだ。すぐ後ろにいたもう一人――こちらもさほど変わりないだろう少年?少女?も、イクティノスが手放してしまい散らかった書類を拾い集めると、やはり笑ってきた。
「あ…」
 声がうまく出ずに、イクティノスはそれでもなんとか小さく礼を絞り出す。
「悪いな、こいつのせいで」
 書類をまとめて、どうやら口調から少年と思っていいらしい、紅い髪のその子が手渡そうとする。と、
「………これ――」
 一番上の書類に印刷された、傍目には記号の羅列をざっと目で撫でる。そしてやおら、声変わり前の幼い声が、いささか不似合いな言葉を発した。
「な〜、ここんトコ、穴あるぜ?」
「なに――?」
 思わずそれをひったくって、イクティノスが凝視したそのとき。
「おい、二人とも!」
 廊下の先から、イクティノスと同年代ぐらいの少年が顔を出し、呆れた声を投げかけてきた。
「あ、やべぇ」
 ぱっと他の書類もイクティノスに渡すと、少年は少女を伴って呼ばれた方へ慌てて走り出す。
「――あ、おいっ」
「じゃあな!」
「またね」
 最後に、めいっぱいの笑顔を残して。
「……」
 足音が遠ざかって、もれたのは沈んだため息。
 ――あんな笑い方、とうに忘れてしまった……。
 彼の母は相変わらず"イクティノス"が見えず。
 結局、彼は母の前で"父"を演じるしかなかった。
 母の中には、息子の存在は残っているのか、それすらももうわからない。
 母にその名を呼ばれなくなって、どれほど経っただろうか――
 違うと叫ぶことも、嘆くことすらも、もう疲れた。
 いや、叫ぶことは許されなかった。今、母から"父"を奪えば、今度こそ発狂してしまうかもしれないから。演じ続けるしか、なかったのだ。
 ただ、独りでいるとき、届かぬ声をつぶやくだけ。






 そして、これからまた演じる。
 うまく納得させることは出来るだろうか。情報部の中枢に近い方へと転属になったために、母の元へ通う間隔が開いてしまうことになった。それを伝えねばならない。
 見慣れた扉。
 開ければ、かかる声は彼の名ではなく、そして開けきったあとも、呼ばれるのは彼の名でなく――
「あら、どうしたの? そんなに難しい顔しちゃって」
 "名前"を呼ばれる前に、笑われた。
「いや……そうかな?」
「そうよ。ねぇ、カールもそう思うでしょう?」
 イクティノスからは扉の死角に向かって、彼女は同意を求める。誰かいるのかとそちらをのぞき込むと、
「な――ベルセリオス大佐…!?」
「その呼び名はうざったいな……、イクティノス――だっけか?」
 不敵じみた笑みを浮かべて、まだ十分青年と呼べる域の彼が言ってくる。カーレル・ベルセリオス。現在参謀本部に属す、一言で言ってしまえば若きエリートか。しかし、父が昔情報部を統括していたとはいえ、そんな人物と母が親しげに話をしているのは驚き以外の何物でもない。イクティノスなどからすれば、彼は雲の上に近いのだ。
「しかし、フィースの言うとおり、ほんっとに父親似だな」
「そうでしょう。私もこんなに似るなんて思ってもいなかったわよ。ねぇ、イクティ?」
 ―――!!?
「え…」
 今、なんと言った?
「…? どうかしたの、イクティノス?」
 また。
「あ……いや、驚くに決まってる、だろう、だって――」
 うまく子供らしい言い方が出来るだろうかと、奇妙な不安に襲われながら、とぎれとぎれにだがなんとか言葉を発する。
「そうかもしれないわね。みんな忙しいから、あなたが物心ついてからはまともに会えてなかったし。でもね、彼とは古い友人――といったら歳の差が変かしらね?」
「ま〜、俺は十九だしな。すっかりおばさんになっちまったフィースと友達って言うと、かなり不釣り合いかもなぁ」
 組んでいた足をほどき、カーレルが立ち上がる。
「言うわね、ったく。預かってるんでしょう、子供たち。そのタチの悪さうつさないようにね。イクティも、こうはなっちゃダメよ」
 やはり。
「厳しいねぇ、ったく。じゃ、フィース、ちょいと借りるぜ」
 カーレルは言うと、ぽんと立ちつくすイクティノスの肩を叩いた。
「え、え――?」
「いいから。ちょっと話がある」
 愉しげに笑って、戸惑うイクティノスの腕を掴んで部屋から引きずり出す。途端、
「辞令、聞いたな?」
 一転して、笑みを消した彼の声音には威圧感があった。
「あ、はい」
「明日からだ。…どうするつもりだ? 今はどうやら正気に戻っているようだが」
 ああ、やっぱりこの人は知っているのか。
「回りくどいことを言ってもどうにもならないと思いますので、率直に言うつもりです」
「…そう、か」
 少し寂しげにも見える笑みを浮かべ、かなり長身のカーレルは多少荒々しくだがイクティノスの頭を引き寄せて、その短い青銀の髪を掻き乱した。
「俺が見てるおまえぐらいのガキは、もちっとしたたかだぞ」
「……はい?」
「いんや」
 ふらりと彼はそのまま廊下の向こうへ消える。怪訝な思いを抱きながらも、イクティノスは再び扉の中に入った。
「あのさ――」
「何か話があるんでしょう。さっきからそんな顔してるわ。言いにくそうな」
「……ああ」
 なにもわからない色を湛えた眼差しで見据えられ、糸を引かれたように頷く。
「屋上へ出ない? 作り物でも、最近全然外に出ていないから風が恋しくなっちゃったわ」
 このいまいる医療区が収められているのは空洞エリア、地下の大きな空間にかつての都市を小規模ながら再現しているエリアだ。位置から十まで人口の紛い物だが、狭くいかにもな区画よりも開放感がある。大半の居住区と医療区がこういったエリアに割り当てられているのだ。
「いいけど…」
 出てはいけないという理由はない。病室の窓は、いわゆる見晴らし窓、大きな一枚ガラスをはめ込まれた窓だ。それは開くこともできないものだった。空調が副産物的に生み出す風すら、部屋の中には入らない。不満も残るだろう。
「ありがとう…」
 にっこりと笑った母に、どこか違和感にも似た念を覚えた。






「イクティノス。転属になったのでしょう?」
 屋上の中央辺りにまで進み出るなり、振り返った彼女は言い放った。
「どうして――」
 問いかけて、気づく。カーレルだ。
「先に聞いてたんだ」
 緩い風に真っ白な服をなびかせて、彼女は屋上の端まで行くとその手すりに両手を置く。そして、彼方の天井に視線を彷徨わせると、
「ごめんなさいね」
 いきなりのこの言葉に、イクティノスは一瞬首を傾げる。が、彼女は構わず続けた。
「私のせいで、あなたにいろいろと重荷を背負わせて。でもね、もう、いいのよ…」
 手すりをしっかりと掴んだまま首から上だけを振り返らせた母は、ふわりと微笑んだ。
「ごめんね、イクティノス……」






 ――人とは、簡単に死ぬものだ。それは、嫌と言うほど知っている。






「兄さん?」
「うるせ」
 瓜二つだがあまり似ていない――いや、もしかしたらひどく似ているのかもしれないが――双子の弟の呼びかけを、カーレルはひどく不機嫌そうに一蹴する。
 突然の自殺者に――すべてに対し予告ある自殺者というのもそうそうないだろうが――騒然となった棟の中庭からは、少しばかり離れた木の陰。
 自分でも驚くほど冷静に、落ちてきた影を見つめていたものだった。
「八つ当たり、あの子たちにはしないでくださいね」
 あの子というのはもちろん、カーレルが指導監督役を引き受けている子供たちのことだろうが。
「不気味で通ってる科学者様が子煩悩なんざ、知られたらいい笑い話だなぁ、ハロル」
 弟――ハロルドに、揶揄を帯びた口調でカーレルは言い返す。
「放っておいてください。それに"子煩悩"とはなんですか」
「そのままだよ。俺より熱心じゃねぇの?」
「なにを。当然でしょう」
 ハロルドが忌々しげに吐き捨てた。
「…ま、俺もその点に関しちゃ同意だ。じじいどもの道具になんかさせねぇ。――させてたまるか」
 一つ前の世代の因が、どうしてここまであの子たちを苦しめるのか。
 あの子たちがいずれ迎えるであろう悲劇に、どうしてという言葉はまるで力がない。
 どうしようもない。きっと、それは避けられない未来。
「ところで…フィースさんとなにを話したんですか?」
 死を選んだ以上、それはすなわち狂気を脱したということではないのか。
「……嘘と気づいてる嘘でも、思い込めば"真実"にだってすり替わるもんなんだよなぁ…」
「は?」
 いまいち答えになっていない答えに、ハロルドが眉をひそめた。
「けどまぁ、結局のところ」
 認めるのが怖くて、狂った振りをして逃げて。"愛した人の子"を生け贄にして。
 それでも――
「"嘘"ってことは、誰よりも自分が知ってたってことだな」












 え〜、イクティの不遇の子供時代編でした。げふ。人嫌いというのは昔からあったのですが、その原因がこんなコトになったのはつい最近でございます。このお話、TVドラマ「らせん」の1話を見て思いつきました(笑) その頃は考査期間だったので、プロット起こし止まりだったのを、終了後途中まで一気に書き上げ、締め方に詰まって以後放置……
 それと、キャラとしては初出のベルセリオス兄弟。カーレルはカールで、ハロルドはハロル。面倒みてる子供たち、というのはもちろんカイザイク三兄妹+ディムです。この子らの多少常識外した性格はこの二人の影響大という説が最有力。この二人がどんな人物かかいま見える…でも子煩悩(笑)
 本編でイクティがディムに妙な突っかかりした理由と言うことで後記にちらっと書いていたエピソードもこれに含まれてるです。技術が至らず、扉が開けられなかったために死んだのです。だから。ということは次はリリーと和解できたあたりがいるのか!?
 ちなみに、イクティの父親が死ぬ羽目になったあの事故の裏では、ディムの母親シアシーナが殺されました。つまり事故の原因は彼女を狙った天上人がわざと狂わせた、そういうつながりもあるワケです。