「捨てられたんだって」
「孤児だって、ぅわぁ…」
「貧乏人が、こっち来るなよ」
「陰気くさいのよ」
「あんたたちみたいなのがいるから」
いるから―――何?
悲しみの連鎖
あの子は、有産階級には珍しい潔癖さを持っているように思う。
貴族ほどとまではいかなくてもある程度の裕福さを持っている者は、大抵が貧しい者たちを意味なく軽蔑する傾向が見られた。彼女は、そこからすれば例外なのだろう。とはいえ、そんな画一でまとめられるものではないから、何が例外なのかは無駄な論議だろうが。
彼女の潔癖さは、彼女の周囲が彼らに送る侮蔑を非難し、己の目の届く範囲でしかなくても救いたいと走らせる力になった。自分の娯楽に回す金よりも、日々の食べ物にも事欠く者に施しを与え、孤児たちには菓子を与え。そういう子だった。偽善と嗤<わら>われても、決して間違ったことをしているわけではないのは、確かだから。
しかし。手の届かぬ範囲を知ったとき、彼女は己の無力を痛感したと、俺に話してくれた。
「ノイシュタットの貧民救済か…」
執務机の向かいに立つ女性の言葉に、世界的大企業の総帥は思案に目線を落とした。
新しき街などという名を冠した都市は、結局、その名にふさわしい何かが存在しているのだろうか。
「カルバレイスを、知っているだろう?」
「え、はい」
突然の話に、女性は微かに当惑しながらも頷く。
「どうやら、焼け石に水も等しいらしい。あの地におけるセインガルドとの軋轢<あつれき>も根深いものだ。それは、君もよく知っているだろう」
セインガルドからカルバレイスへの、カルバレイスからセインガルドへの。そのどちらも好意的なものはなくて、憎悪と嫌悪に満ちている。
言われ、女性はうつむくように視線を落とした。
「…はい」
今、ここにこうして存在することになった、始まり。
初めて想った人は、このセインガルドへ出稼ぎに来ていた男だった。王都ダリルシェイドから追いやられた者がひっそりと暮らしている、町外れの貧民街にもあの頃の彼女は自分の使命のごとく通っていた。例えばその少し前に蔓延した黒死病のために働き手や親を亡くした、社会的弱者が寄り集まった地域。
そこで、彼と出会って。いくつ年上だったか、彼女が行っている場に偶然居合わせて、彼は明朗に笑ったのだ。面白い女だと。彼はカルバレイスに残した家族のために仕事をし、空いた時間で彼女の手伝いをし始めた。ばらばらで、暴力行為も少なくはなかった貧民街に、ほんの少し、まとまりが見えてきた。
いわゆる官吏養成学校の面も持つダリルシェイドのヴァルナス学園で、医療技術を主に様々な学問を修めつつ、授業を終えれば貧民街へ通う。そんなことを一年も続けているうちに、いつの間にかお互いに好意を抱いていた。
なんとかなる、なんとかする、信じていても、そんなに甘くなかった。
周囲に発覚したのは、些細なことからで。巻き起こった波紋は、なんということだと、教師も友人も、たった一人残った家族である父も、二人を激しく非難した。
彼が逝ってしまったのは、周囲にはとりつく島もないと悟り、駆け落ちすらも覚悟したその日だった。制止に入った何人も一緒くたに、暴徒に殴り殺されてしまった、と。
非常な現実に、彼の遺体に縋って泣き叫んでいたときだった。噂を聞きつけやってきた、オベロン社総帥と出会ったのは。
彼の血に濡れた小箱に収められていた、装飾も何もないけれど、彼にとって精一杯だった指輪の片割れは、今も彼女の左薬指にはめられている。もう片割れは、彼と共に土の中へ葬った。
「表向きにはだいぶ落ち着いてきたらしいが、敵意が消えたわけでは、ないようでな。そう、思うようにはいかないらしい」
基金という間を挟んでとはいえ、カルバレイスへの援助を行っているのはオベロン社に他ならない。それは、カルバレイス支部局長である男がその基金を運営していることからも容易にわかろうというものだ。
それを、売名行為と貶<けな>す者もいるが。
「…わからなくもないがな」
けれど。
これはいわば、彼女への弔いなのだろう。
「結局のところ、社会を根本から変革でもしない限り、こういった問題は一掃できそうにない。残念なことに」
彼の地の現状を真摯に憂える気持ちが、当事者たる"彼"にすらあるのかどうかもわからないが。ただ、いい加減にしてくれとぐらいは叫びたかった。
ほんの少し違うことを、どうしてそんなに敵視するのだろうか。
「根本から、ですか…」
嘘ではない。
が、真実すべて、でもない。
うっすらと自嘲を隠しながら。
男は彼女を引き入れるために語り始めた。
「これは――っ」
エレベーターの扉が開き。その先に広がる光景に、イレーヌは感嘆のため息をもらした。名目上は危険な実験のためにと建造された完全人工島の奥深く。海底に沈む古代の遺跡につながる道を抜け入った先は、意外にも整えられていた。そう、
「すごい…これだけの」
そのままの形で、機能も稼働可能な状態を保って、古代の高度な技術が多く残されている。
「天上都市群の中心、ダイクロフトだ。…ついてきたまえ」
淡々と言うと、ヒューゴは幅も高さも人間にはありすぎるほどにある廊下を歩み始めた。
「神の眼の所在がわかれば――浮上することも可能だ」
あの後に聞かされた話。
この世界の膿を排除し、一から新たな世界を作り直すのだ。と。
(いっそ、そうでもしなければどうしようもないのかもしれない…)
それは半ば、諦念じみたものかもしれないけれど。
ノイシュタットでまたしても見せつけられた現状。貧民街の者は蔑まれ、また、孤児を引き取って奴隷のように酷使しているとも――
「それで…私に会わせたいというのは…?」
ここに誘<いざな>った、一番の目的は。
「会えば、わかるだろう」
ヒューゴは答えにならない言葉を返し、およそ人間にあわせたとは思えない巨大な扉を軽く押した。それだけで、静かに扉は訪問者を招き入れる。その扉の向こうには、高い天井につかんほどの巨大なコンピューター本体が鎮座していて。
「――シオン」
呼びかけるようにヒューゴが響かせた呼びかけに、イレーヌが小さく首を傾げた、刹那。
「呼ばれなくてもわかってるよ」
呆れを含んだ、男のやわらかい声が降って。
イレーヌの前に、ふわりと、無機質なこの部屋とはそぐわぬ、日だまりの色が現れた。
「…えっ……?」
「これとつながってるんだ。当たり前だろう」
長い金髪を緩く後ろでまとめた、かなり整った顔立ちをした男性だった。二十代後半ぐらいだろうか。群青のゆったりとしたマントを翻し、苦笑を浮かべながら腕を組んでいる。
と、ふとイレーヌに目を止めて、
「イレーヌ? イレーヌ・レンブラント、だな」
確かめるように問うてきた。思わず見とれていたイレーヌは慌てて――なぜか背筋を伸ばして首肯した。
「は、はい。あの、あなた、は…?」
「俺はシオンだ。そこのヤツに巻き込まれちまった口だよ」
ついっと顎で彼はヒューゴを指し示す。されたヒューゴの方はどこ吹く風とばかりに眉一つ動かさないが、シオンも特に何も言わなかった。
「とりあえず。よろしく」
差し出され、握った手は、大きくあたたかかった。
――初めてあの人に出会った時を、何故だか思い出した。
「それで今日は? 彼女を連れてきただけなのか?」
いっそ明朗な響きで、シオンが本体へと振り返り様に言った。
「そんなところだ。後は任す」
「無責任なヤツ」
さっさとホールの外へ踵を返したヒューゴに、シオンはやれやれとでも言いたげに苦笑する。だがそれだけだ。
「あの、私は…?」
「少し話をしておけばいい。短いつきあいにはならんだろうからな。私は他にすることがあるので行くが」
言い残した彼は、すでに何か別のことに心を向けているらしく、視線をどこかへ定めていた。
ふぅん、と意味のなさそうな何ともつかぬシオンのつぶやきがあって、するとホールはまともに沈黙に支配されてしまう。
「イレーヌは、どうしてここへ?」
不意にシオンがそう切り出してきたのは、どれほど経ってからのことだったか。そそり立つ巨大な本体を見上げ、静かに彼は問いかけた。
意味はおそらく。ヒューゴの計画に従った理由。
「あなたは、セインガルドとカルバレイスの軋轢を、御存知ですか?」
「…当然、知ってるさ」
半ば、当事者にも近いのだから。
軽くうつむいていたイレーヌが気づかぬほどに、うっすらと苦く悲しげにシオンは目を細めた。
「私は――」
ぽつりぽつりと、イレーヌは数年前の現実を唇にのせていく。我知らず、重ねた両手は左薬指の指輪を包んでいた。
「だから。この世界を、変えたい…っ」
もう、誰もあんな思いをしないでください。
そう願っていたのに。
非情な現実は、あっさりと、祈りを裏切ってゆく。
「なるほどな…」
だから。耳にした噂に、自ら出向いたのだろう。
彼にとっても、"彼"にとっても。あのことは悲しみを残したから。
「らしいというか、らしくないというか…」
たった一つの想いのために、何を利用してでも突き進む狂気じみた一途さを見せながら、その一方で、その生き方をするにはあまりにも優しすぎる一面をかいま見せる。
自分の右腕に肘を立て、物思いに瑠璃色の目をシオンが伏せた。
「もう一つ、聞きたいんだけれど」
目線だけをイレーヌまで上げて、シオンは少し淋しげに微笑む。
「ロスマリヌス自治領のこと、何か知らないかな?」
そこの出身なんだ。と。それだけシオンは付け加えた。
「ロス、ですか…? 四年ほど前の黒死病が流行ったときに、村が一つ、モンスターの襲撃を受けて壊滅したそうですけれど…それ以後、外との接触を極力断っているらしくて、なんのうわさも」
ふと、彼の左薬指にはめられた、銀に鈍く輝く指輪に気づいた。華美ではないがかなり高価なものだと一目で見て取れる。
「そう、か……。ならル、…ロベルト・リーンは? どうしてた?」
「リーン将軍ですか? その直前に確か帰郷されていました。その件で御両親を亡くされたと聞いてますが。あ、あとちょうどその頃に、フィンレイ・ダグ将軍も病死されて」
フィンレイの話が出たのは、ついでのようなものだったが、
「な、フィンが!?」
思わぬ激しい反応と共に、詰め寄られた。
「――っ、あ、あの…」
イレーヌの当惑に気がついて、シオンは苦い微笑を浮かべる。
「………すまない………」
それはどこか、自嘲じみていて。
声音に込められた深い悲しさは、なんなのだろう。
問いかけることは、出来なかったけれど。
「――お久しぶりです」
投げかけられた、久しく耳にしなかった声に、閉ざしていた両の瑠璃を開けば、それまでの光景は泡沫へと消え、漆黒の巨塔が映った。
「始まったんだな……」
血を吐くように苦しい声。
伝えていればよかったのだろうか、と。
生者とも死者ともつかぬ、今の己を。
だが、それさえも結局、苦しめるだけだっただろう。
どの選択こそ最良だったのかなど、わかりえるはずもなく。
今さら振り返ったところで、過去は変えられるはずもなかった。
「おたずね、したいことがあります」
ひどく強張った面持ちで、閉じた扉の前にイレーヌが立っている。
「あなたの、フルネームは――」
その金色の輝きも、その瑠璃色の深みも、そのよく通るやわらかな声音すら、ずっと既視感を覚えていた。
「シオン・ディールライト」
乾いた声で、早口にシオンは答える。そして、はっきりと自嘲を浮かべて、
「"エルロン"と言うと、君は思ってたんだろう?」
イレーヌは驚愕し、思わず一歩身を引いた。
「どうして――っ」
さっき違う名を答えた、なら、違うはずなのに?
しかも、ディールライトだ。ロスマリヌス自治領領主家の、現在の家名。ならば彼は、十一年前に病没と発表され、実に慌ただしく葬儀が執り行われていた、ロスマリヌス領主。
――ロスマリヌス?
「簡単なからくりだよ。エルロンという名こそ隠れ蓑だった、それだけだ」
ひんやりとした本体に額を押しあてて、まぶたを伏せて。
ただ、間に合ってくれと、生きていてくれとシオンは切に願う。
祈る神もいない。それでも、祈らずにはいられない。
「――…無様だな……」
さらりとこぼれた髪に顔を隠し、吐き捨てるようにつぶやいた。
今の己に出来ることは、とてもとても少なすぎて。
ただ、ただ。
悲しませてばかりで。
苦しませてばかりで。
それを重ねるしかない己を歯痒く思う。
泣かせてしまうことしか、出来ないのだろう。
今までも。そして、これからも。
ずっと。ずっと――
「俺の方からも問おう。あの子らに会った、今の君に」
顔を上げ、ゆっくりと振り返り、
「本当に、君は、後悔しないと誓えるのか?」
シオンはまっすぐとイレーヌを見据えた。
「後悔…」
すること、なんて、ない。
「――出来…るわ。だって……っ!」
もうこれしか方法はない。こうするしか、ない。一度全部まっさらに戻して、一からやりなおさないと、もう、どうにもなりはしない。
「あんな腐った世界、どうすればいいのよ、どうしようもないじゃない! 一部の馬鹿な人間のせいで苦しめられている人は多いのに!!」
悲鳴まがいの声を発しながら、だだをこねるように首を左右に振る。
「あなたもそうなんでしょう? ディールライト、――いえ、ローズマリーは排斥された一族、ロスマリヌスという籠に押し込められて」
安穏を得る代償に、その喉を掻き切られた人たち。
安住の地の代償に、その翼をねじ切られた人たち。
「違うことをどうして蔑むの!? 違って、何が悪いのよ?!」
誰も傷つけず傷つけられず、ただ優しく生きていけたら。
それだけ、たったそれだけでいいのに。
「――可哀想に――」
不意に、痛ましげにささやかれて。
気づけばにじんだ視界は青い影に覆われていて、幼い子供をあやすように撫でてくる手に、どうしようもなく、あの日のように、半身と決めた人を喪ってしまったときのように。
号泣した。
とても、優しい空気を持っている人だった。
ただ、自分のことはほとんど何も言わずに、どこか淋しげな光を瑠璃色の奥にいつも潜ませている。
それを問う権利は、自分にはない気がした。
けれども。
現実を知ったときに、その理由も、わかってしまった。
とても、強い人なのだろう。
すべてを許そうとして、すべてを守りたくて、一番傷ついている。
私が、あまりにも弱かった。
私は、ただ世界を厭っていただけなのかもしれない。
――絡みつく鎖を断ち切ることは、とても酷なこと。
「落ち着いたか?」
嗚咽が収まりだしてしばらくした頃、ずっと何も言わなかったシオンの声に、イレーヌは泣き腫らした目を上に向けた。
「………すみません……」
実父の、本当に父親らしい記憶なんて、なかった。もし、と思うのは愚かなのだろうが、羨ましく思う――
と。ふと気づいた。
「どうして、どうしてずっとここに?」
おかしすぎる。
ノイシュタットでスタンを連れだしたとき、彼は呟いた。
団体旅行者の中にいた、一つの家族に。父親に肩車されてはしゃぐ小さな男の子と、母親に腕に抱かれた小さな女の子の、その幸せそうな姿に。
どこか淋しそうに、悲しそうに。
いいな、と。
あのときはその本当の意味がわからなかったし、スタンもすぐになんでもないと誤魔化していたが、彼がディールライトの者だったのなら、こんな現実だったのなら、わかる。父であるシオンは死んだとされここにずっといて、母であるファルンという女性も確か七年前に――
「スタン君には、あなたのことが必要だったはずなのに…」
親のいない寂しさは、イレーヌも知っている。母をイレーヌの誕生と引き替えに喪って以降の父は、家にいることもほとんどなく、一人娘を省みることもなく、ひたすら研究に生きていた。その父を突き放したのは、彼女自身の意志で。
けれど、家族が不当に引き離されて、いいはずがない。
「ここから…離れることも、出来ないんだ」
遠い目をしてそう言った。
その様に、イレーヌはひどく寂寥感を覚えて。
「この都市を管理統御しているのは、このコンピューターだ。これは、ある特定の血を持つ人間を、部品として必要とする。俺がその特定の一人だった、それだけのことだ」
「それは、どういう――?」
透き通った微苦笑は、なんのために?
「もう、死んでるんだ…」
その一瞬、イレーヌの思考が凍りつく。
「え?」
「十一年前に、俺は死んでる。今ここにこうしているのは、…君なら知っているだろう、あのサイフリスの"本来の用途"のせいだ。ここから出ることも、自分で死ぬことも、許されちゃいない…」
ひどい親だろう、とシオンは自らを濃く嘲った。
「自分の息子に、自分を殺させようなんて思ってんだから」
――けれど、あなたなら、きっとそれをなすでしょう――その優しさ故に。
天空が哭いた。
それは、自分で自分を殺めることは、己の為したことに伴う責任からの逃避であり、生きることすらも許されないあの人への裏切りに他ならないと、気づかせてくれたあの人が。
"救う"そのために、その手を朱の血で染めたとき――
『夢の彼岸』初の現代編。A.R.980年、本編が983〜984年なので三年前ですね。シオンさんですパパさんです。あ〜んど「あれ?」と思ってくれたら大成功なヒューゴ=ミオス=ミクトラン。いえ、主役はイレーヌさんですけど(笑) 本編中ではニュアンス的なもののみに限られていた舞台の裏側の一つです。この話がないとイレーヌさんのわりとあっさりした改心は説得力が足りないですしね(^^; なんで、製本したら収録するんでしょう。
この話ではやはり、「普通って何?違いって何?」でしょうか。差別ももちろんですが、いじめの後付原因ですね。誰それだからいじめたいというより、いじめたいから押しつける、そういったものも少なくないでしょう? いじめの正当化(というのも変な話ですが)のために、その違いを持ち出すんですよ。っと、閑話休題。
パパさんを好きになってくれる人、いるかな…? 樹はかなりお気にだったりするですが(笑) この話を書くにあたって、他との設定の都合と共に、シオンさんの人柄にはかなり気をつけました。
彼女の過去捏造はもう今更です。が、設定という視点に立った場合の、今回の話の着目点はやはりシオンとヒューゴ(というかミオスというかミクトラン?)の周辺かもしれない。誰が何をしたくて何をしたのか。ここら辺は作業中だけど現在プロット崩壊してる(泣)続編『夢の涯て』と深く絡んでたりします。