「ヒギリ! ヒエン!」
 
 幼い子供特有の高い音でもって庭園内に響いた呼び声に、小さな金色の龍は葉の茂りから顔をのぞかせ、眼下に主の姿をその深紅でもって見いだした。
 
「………さよなら、してきた」
 
 横合いからこぼれ落ちた、幼女の微かなつぶやきに目を向けたのは。
 まっすぐに木の枝から幼き主の肩へ舞い降りた金色でもなく。
 またすでに主の傍らに控えていた、金によく似た銀のそれでもなく。
 
 少し長めの深紅の髪が、空調が生み出す人工の風に緩く揺らめく。小さな己よりもさらに小さくやわらかな栗色に、鮮やかな翡翠を少年は瞬かせた。
 
 
 ――幼女の母に死が告げられたのは、その日のことだった。














「……兄さん」
 微かに聞こえた足音に、ガラス張りのホールの片隅にいた少女は振り返ると、兄と呼んだ青年に視線を向けた。十代後半だろう少女より、兄の方は七、八歳は上だろう。
「エリカ。あの子らは?」
 青年は片手を軽く上げてそれに答えると、目線で、すぐそこに並んでいるソファの一角を差す。座ろうということだ。
「庭園に出てる。アイリスも一緒。ハロルドが側についてるわ」
 促されるまま兄の隣に腰を下ろすと、少女は微笑む。どこか複雑さを秘めた面持ちで。
「そう…、か。あのハロルドも変わったな、最初は険悪のかたまりだったガキがあれでもずいぶん丸くなった」
「仕方ないんじゃないかな。潔癖なんだよ…あの子たちは。知っちゃったから、それが、許せないのね」
 少し淋しそうに目を細めた少女の声音は、諦めと悲しみを表していて。
「……怖いのか」
「そうじゃないなんて、とても言えない……」
 憮然とした色を浮かべる兄に対し、少女はそう言って自嘲気味に笑った。
 
 
「お断りします」
 カーレル・ベルセリオスとハロルド・ベルセリオス。似ていないようでその実、気性はひどく似通っている双子は、揃って拒否を口にした。
 一卵性なため容姿が酷似しているので見分けがつくようにと、その濃いグレーの髪を短くしているカーレルも、長く伸ばしているハロルドも。歳は十四を数えたばかりとはいえ、ただの子供とはもはや言えない。地上軍でも指折りの科学者シアシーナ・カドウィードの元にいた彼らは、その歳で並の大人顔負けの技術を習得している。正式に軍に所属するように達しがあっても、なにもおかしくはなかった。
 まさにとりつく島もないとばかりに漆黒の瞳を拒絶に染めた兄弟に、通達を持ってきた男は途方に暮れ、育ての親とも言えるシアシーナに助けを求めるように振り向いた。が、
「でしょうね」
 艶やかな深紅の髪を結い上げた女性は、ふわりと微笑んだまま、鮮やかな翡翠を和ませた。見かけは二十代後半ほどとも思えるが、どこか掴みきれないのはその翡翠の、底知れぬ深みのせいだろうか。
「シア様…」
 憮然としたカーレルのつぶやきがもれるが、
「この子たちの後見人として一つ条件を出すから、それをメルクに伝えてほしいんだけれど」
 メルクリウス・リトラー、地上軍の総司令を昔のままに愛称で呼ぶのは、地上軍結成に携わった彼女のようなごく一部だけだ。
「…はぁ…」
 言われた男だけでなく、兄弟も怪訝に首を傾げる。
「この二人を私のところ――つまり、ノルズリのシステム管理に、もらいたいの。これは絶対条件ね」
 了承を求めるように、シアシーナはカーレルとハロルドへ目を向ける。
「………それなら」
 兄弟は目を見合わせ、首肯を返した。それから、条件付きの承諾を持っていくために男が退室すると、
「シア様…どういうことですか?」
「そうですよ、そりゃ確かに…」
 こちらの気性を知ってくれている顔見知りも多いが。その方が下手に干渉されるより、やりやすいとは言えるだろう。嫌いな人種もいなかった。
 二人は揃って説明を求める。
「まだ手放したくなかっただけよ。ディムもアイリスも、懐いてるしね」
「エリカさんもいるじゃないですか」
 シアシーナによく似た息子と、先日亡くなったローカスト博士の一人娘。二人ともまだ十にも届いていない子供だが、あまり誰にでも心を開くわけではない。シアシーナが多忙の時に面倒を見るのは彼女の部下であるヴァインやその妹エリカ、またはこの兄弟ぐらいだった。他に脈のある者は属している都市が違う。
「子供たちの理由は一番の理由じゃないわよ。言ったでしょう、まだ手放したくないって。それに、今のあなたたちじゃ外に出したって衝突しか起こしそうにないから放っておけないわ」
 いわゆる人嫌いに分類されかねない傾向の二人へ、シアシーナは笑いながらつけ足した。
 
 
 
 
 
 
 虚偽にまみれた現在。
 そのための、犠牲、悲傷。
 引き裂かれた片割れを想って、涙するのか。
 現実を知った瞬間に覚えたのは、えも言われぬ嫌悪だった。
 そして、いつか突きつけられるだろう、十字架の――
 
 
 
 
 
 
「なんか変なの」
 真新しい制服に袖を通した二人を、ディムロスは見上げてつぶやいた。長いところなら肩に少しかかるぐらいの不揃いの髪は、その瞳と同じく母親譲りの深紅で。頭に乗った金龍ヒギリが、首を傾げるような仕草をして見せた。
「変…かな」
 苦笑まじりに、ハロルドは白衣を整える。十四の少年にしては背が高い二人ならば、まぁ様になる方だろうと言いながらシアシーナはこれを置いていったが。
「おば様とおんなじのだぁ」
 ふわふわとした栗色の髪を背に流しているアイリスが、ぱんと小さな手を叩いてぱっと顔を輝かせる。少女の膝の上で眠っていたような銀龍ヒエンは、その音に驚いたように頭を巡らせた。
「…? なぁ、ピン知らねぇか?」
 軍内での所属と地位を示すピン。きょろきょろと探すカーレルに、無言でアイリスは握った右手を突き出す。もしやとハロルドもディムロスの方に目を向けると、右手に何かを持っている。
「母さんが話してるの聞いてた。カールもハルも、いつかは別の都市に行っちゃうんだ?」
 ディムロスの口振りはあっさりとしたものだったが、
「行っちゃうの?」
 かがみ込んだカーレルの白衣の胸ポケットへ、にこにことピンを刺していたアイリスの顔がふにゃっと歪む。肩に移っていたヒエンが心配するように彼女の顔をのぞき込んで。
「簡単ですよ」
 同じようにディムロスにしてもらいながらのハロルドが笑っていった一言に、二人はきょとりと彼を見上げた。
「二人も一緒。それならなんの問題もないわけだ」
「なるほど」
 カーレルが笑い飛ばす。
 逃れられないのなら。
 それを、最大限に利用してやるまで。
「何吹き込んでるのよ…」
 不意に呆れた少女の声が投げかけられた。振り向いたディムロスにエリカが笑顔で応えたところへ、
「吹き込むだなんて人聞きの悪い。それに、それを求めているのは僕らだけじゃないですし、僕らは――ただ、護りたいだけですから」
 ハロルドは薄い笑みを浮かべ言葉を返した。そこから感じられるのは、拒絶。
 もともと、信じてなどいない。
「あんた方ももちろん知ってんでしょう、こんな馬鹿馬鹿しいからくりぐらい。俺らより年上なんだし」
 びくっと肩をふるわせ、エリカが思わず一歩後ずさる。と、そこへ、
「なんの話?」
 ワケがわからないとむくれたディムロスがハロルドの白衣の裾を引っ張った。アイリスもむすっと頬を膨らませる。周りの人が勝手に繰り広げるわからない話にはディムロスもアイリスも慣れている。だが、この二人にまで置いていかれるのは面白くなかった。
「気にしなくて――」
「今はやめとこう、面白くもなんともない話だからな。でも、いつか、ちゃんと教えるよ」
 エリカが慌てて誤魔化そうとしたのをさえぎって、ハロルドはまだ小柄なディムロスを引き寄せると、穏やかに言い聞かせた。
 
 
「わ〜」
 双子の姿を見つけるなり、ぱちぱちとのんびり、プラチナブロンドの少女が手を叩く。
「すごいね、着てる着てる、ホントに」
「何が言いたい、キルシェ」
 のほほんと笑う同輩の一人に、カーレルが憮然と言い放った。当の彼女も真新しい白衣を制服の上に羽織っている。所属を示すピンは医療部の物だった。
「そりゃそーだよ。だってさぁ、おまえらがこんなにも素直に入ってくるって思ってなかったから」
 横合いから、明るく笑いつつヒーリアスも口を挟んでくる。普段はのんびりとしたキルシェと、こんな時代には珍しく明朗なヒーリアスは、どちらもいろいろな意味で油断出来ない面があった。カーレルやハロルドとなんの引っかかりもなくつきあえるばかりか、負かすことすら時にはあるほどなのだから。
「悪かったな」
 双子の兄との外見上の違いである、長めに伸ばした髪を鬱陶しげにかき上げながら、ハロルドはつまらなさそうに毒づいた。
「知ってる、シア様のトコなんでしょ?」
 くすりと悪戯めいた笑みを湛えるキルシェに、
「何か言いたそうだな…」
 かき上げる手をひたと止め、ハロルドは黒い瞳を眇める。
「言わないの?」
「こいつが言うタチか?」
「それも言えてるな」
 訊ねるキルシェに間髪入れず突っ込む兄、そしてそれに首肯を添えて同意するヒーリアス。
「なんなんだ」
 苛立ち始め声にトゲが含まれてきたハロルドに、しかしキルシェはしれっと聞き返した。
「だって。好きなんじゃないの?」
「――なっ?!!」
 思わずびくっと身を引き、ハロルドが同様を露わにしてしまうと、カーレルをのぞいた二人がやはりとばかりに数度頷きあった。
「報われないなぁ…」
「本当にねぇ…」
「報われようとも思ってねぇからいいんだろ」
 軽く笑い飛ばしたカーレルに、ぎっと不機嫌そのものの視線をハロルドは向けた。
「兄さん…」
「横で見てっと、もろバレなんだよなぁ」
 淡く、透き通った憧憬。
 
 
 
 
 
 
 遠いね。
 遠すぎるよ。
 
 
 ………
 
 
 ――羨ましい。
 
 
 
 
 
 
「あなたは、どうして降りてきたの? ヴァイン」
 問いかけることには、意味があるのだろうか。
 囚われの心。
 あまりにも酷な、これは咎なのだろうか。
「あなたと同世代のメンバーは、大半が上に残ってる。確かに、もう一つ後の子供たちはほとんどが一緒に降りてきた。でも、それは」
 庇護者と被庇護者。
「……シアシーナ様。"我々"の"親"があの星によって地上ごと消し飛んだ瞬間<とき>に、どうするべきだったんでしょうか?」
 あなたは、知らない。何も。
 ヴァインは問いかけた彼女と同じく、手も止めず、目も離さず、ただ口だけを会話に使う。
「自分勝手にやっています。だから、来ました。黙っていれば表面だけででもとけ込めていると、私は思っています。"違う"ことを知られなければいい、ただそれだけですから」
 そう。知られなければいい。
 すべて歪んで壊れてしまえば。
 そうすれば、知られることもなくなるだろう?
 
 
 昔と、何が変わっただろうか。
 ぼんやりと、薄い青を蓄えた絵筆で空白を埋めていたエリカの、脳裏をかすめた。
 こうやって絵を描くことが趣味、と言えるものかはわからない。それでも、いつの間にか手放せなくなっていた行為だった。
「空。青い空。いつかの」
 どこか歌うように、ささやく。
「いつか、見れる?」
 いつも、飽きもせずにこうして色が与えられていく世界を見つめている子供が問いかけた。
 匂いたつ花のような深い紅の色。
 大地のようにあたたかな土の色。
「そうだね…。いつか、本物の空も、見れるよ」
 かつて見た空は、初めてその目で見た空は、哀れだった。
 それはもしかすると、己自身だったのかもしれないけれど。
 星が降って、彼女は空を見ることが、叶ったから。
 自分たちはいつも、真っ白な牢獄の中にいた。逃れることの叶わない、見えない鎖につながれて。
 願っていたのは、実験ばかりの日々を終えること。
 それが灯火は手中に囚われているとはいえ叶った今は――何を、望む?
「ねぇ、ディム」
 先ほど寝付いた妹のような存在の傍らにいる、少年の名を呼ぶ。
 ――まだ、七歳なのに。
「ん?」
 起こさないようにそっと、立ち上がるのが億劫なのか四つん這いで近寄ってきた少年の真正面に、席を立ったエリカはしゃがみ込んだ。
「エリカ…?」
 間近にあるエリカの琥珀に、ディムロスは身じろぎながら翡翠を瞬かせた。
「ディムの一番の願いって、何?」
 エリカよりも十も年下で、まだ子供で、だからきっと自覚していない。でもいつか芽吹くかもしれない。それはきっと、苦しみを生むのに。
「――ん……せめて…これ以上なくしたくない。増えるのは構わないけどさ」
 視線を落とし、子供らしからぬ感情の薄い声音でささやいてきた。
「…え……」
 掠れた声をエリカが紡ぐと、
「なんとなく、だけど。母さんがいつも悲しそうにしてるから。きっと父さんがいないからだろ?」
 男の子だが母親のそれとよく似た面差しに、ディムロスは翳りを浮かべる。
 知っているのは、ふと生まれる空白の時間。虚空に目をたゆとわせる母の姿は、ひどく悲しげに映った。
「俺、なんにも知らないんだよな……」
 寂寥を込めたつぶやきが聞こえ、エリカは思わずきつく抱きしめる。
「――ぇ、エリカ?」
 少し照れながらも戸惑うディムロスに、ごめんなさいというエリカのささやきは、声を伴うことが出来なかった。
 
 
 
 
 
 
 知らないでいてと、願うことは傲慢でしょうか。
 傷つけてしまうとわかっていた、これは罰でしょうか。
 
 
 
 
 
 
 勝手なものだ。
 巧妙に隠されたラインで届けられたメッセージに再度目を通し、ヴァインは冷淡に鼻で笑う。
 とはいえ、反発し従わない理由は、存在しなかった。
「私も大概、勝手なものだな」
 このノルズリ中枢のコントロールルームにおいて中心に位置する席に腰掛け、ヴァインはゆっくりと室内を見渡す。
 周りには、動く者は三人だけ。たちこめる血臭にも嗅覚は麻痺したのか気にならなくなっていた。今は、動くには厄介すぎるほど厄介な存在であるシアシーナもベルセリオスの双子もいない。ここにいる時間がずれているために。
 目の前には、実行命令を待つ表示が映し出されたディスプレイ。
 ずっとずっと前から潜ませて、根差させていた、それ。
 今から行うことは、裏切りなのだろうか。
 それとも、これは――
「ヴァイン様」
 準備作業の完了を伝える部下の声に、ヴァインはどこか嘲笑を帯びた笑みを口の端に浮かべた。
 あの二龍は、間違いなくそばに付き従っているだろう。
 それがこの世界の"理"。そして、代償。
「それでは――始めようか」
 求めていたのは、自由だった。
 欲しかったのは、何だろうか?
 
 
 奥底に眠っていたそれが、目覚め、その触手を伸ばす。
 侵入。途端、瞬く間に塗り替え狂わせてゆく。
 
 
 それは、唐突だった。
「な――」
 ぶぅん、と鈍い音を残して照明が不規則にちらつく。と、向かう先の通路に非常用の隔壁が轟音を立てて降り始める。
「……」
 シアシーナとディムロスの手が強く結ばれる。直接会ってしたい、大事な話があるというジニアの呼び出しに応じて、ヴェストリへのゲートに向かう最中だった。
 この異常事態に、定位置で寝そべっていた二匹の龍たちも張り詰めた仕草で首を巡らせる。刹那。
「ヒギリ…ヒエン…?」
 明らかに苦しげに身を震わせ、力なく床へと崩れていった。慌てて、ぐったりとしている二匹をディムロスは母親の手をほどいて抱き上げる。
「なんで、…?」
 心配そうに見上げてくる息子の腕に抱かれている象龍に、シアシーナが手を伸ばしかけて、
「、まさか――」
 弾かれたように周囲を見回した。と、それを見つける。
 空調のための通気口から、光のもとに出ればわからないほどうっすらと白濁を帯びた靄が流れ出ていた。シアシーナがかざした指の神経に走ったのは、覚えのある感触。"自分たち"が"処分"されるときに投与されていた、あの忌まわしい薬の。
「大丈夫よ。その子たちは、大丈夫だから」
 一切の象力の発現が閉ざされてしまった。そのために、その存在から深く象力と交わらせている象龍は力を失ったのだ。
 けれど。そんなことをする、意図?
 はっとシアシーナは振り仰いだ。
 地下都市全体が揺るがされたような、大きな揺れ。
 場所は、
「地上へ出るつもり…?」
 見つめる先、そして唯一通じる道の先にあるのは、地上にほど近い区画。思わず声がこぼれた直後、先ほどよりも大きな揺れが襲いかかってきた。
 いったい何が起きたのか。
 今現在ノルズリ都市の機能はほぼ完全に麻痺しているようだ。間違いなくスパイがいたのだろうが、その特定すらままならないだろう。
 けれども。そう簡単に落とせる代物が管理コンピューターをやっているわけではない。さらには一ヶ所からの侵食でなく一斉に狂い始めたことからすると、
「………そう――」
 ごく内部にいた者。そして、その中でも隠し通すことが出来るのは、
 
 
 
 
 
 
 生きることさえ、罪なのですか。
 生まれることに、抗えないのに。
 
 
 
 
 
 
 軍に所属したときに、それは渡された。
 いつか来るだろう、こんな時のために、それのために、軍に所属したのかもしれなかった。
 その――冷たい鉄のかたまりを突きつけ、カーレルはゆっくりと口を開いた。
「俺はあんたが大嫌いだよ」
「……そう」
 眠っているアイリスの、やわらかな茶色の髪をそっと撫でながら、エリカはぼんやりとつぶやいた。
「私も、そう思うわ」
「とんでもねぇ皮肉だ」
 エリカはカーレルの方を振り返ることなくすっと立ち上がり、
「リビングに戻れないかしら。アイリスを起こしたくないの」
 返事を待たずに、銃の存在にもなんら怯えた様子を見せずエリカは一つ手前の部屋に歩いていく。
「どういう性格してんだ…」
 エリカと部屋の扉を結ぶ直線上に立ったカーレルは、片手の銃をもてあそびながら吐き捨てた。
「それは、あなたが知らないからよ」
「だから銃なんざ怖くねぇってか? あいにく、俺の"武器"もこいつだけじゃない」
「……そうね。でもね、"私たち"は、失敗作であり大成功作らしいわ」
 人形のように硬い無表情のまま淡々と話すエリカに、カーレルは不快そうに眉をひそめる。
「力比べなんかをしたら、私も非力よ。だから、失敗作の烙印を押されて、ひどい扱いもさんざん受けた。そのさなかで、"私たち"が変異らしいことがわかって――…結局、苦痛には違いなかったけれど」
「昔話されたところで、俺が物心ついたときにはもう星は落ちてたんでな。力関係も逆転してたわけだし」
 こんな話は無意味だと終わらせるようにカーレルが言い捨てると、エリカの顔に始めて感情が表出した。濃い悲しみと、自嘲。
「確かに逆転してたわね、私たちにとって"親"にあたる科学者たちはほとんどがあのときに消し飛んで、残ったのは二流以下ばかり。でも、甘んじてるわけないじゃない、自分たちがつくりだした"モノ"に逆に主導権を握られてるなんて」
 知っている。
 だから、あいつらは代行者の奴らと手を結んで。
「"私たち"が抗えないの。死ねればよかったのかもしれない。でも、それすらも許されない、命令が深くまで根を張って、抗う道が存在しない」
 存在そのものが、囚われている。
 どうでもいいとでも言いたげに吐き捨てられたため息に続いて、
「そんな話は別に構やしないさ。なんで、わかってて、ずっといた?」
 眇めるように見据えて放たれた、カーレルの問いは。
「そうね。わかってて深入りしたのは、卑怯だわ」
「顔を合わせたことから、卑怯だよ」
 まったく名前も顔さえも知らなければ、傷つけないのに。
「深入りしたのは自分の意志だわ、きっと。だって、笑ってくれたから」
 無邪気に笑って、伸ばされた手を、取れば傷つけるとわかっていた。けれども、思わず、取ってしまった。
「あなたも――そうでしょう?」
「でなきゃこんなトコにいねぇよ」
 守りたいから。
 ただそれだけだから。
「これは餞別代わり」
 すれ違い様に、エリカはカーレルの耳元でささやく。
「鍵は――"いつか、青い空の中へ"」
 
 
 
 
 
 
 ごめんね。ごめんね。
 何度も何度も、繰り返す。
 いつも、いつだって――どうして。
 ただ、優しく生きていたいだけなのに。
 
 
 
 
 
 
「――これがあなたの選んだ道なのね」
 地表に最も近いホールに、シアシーナのつぶやきが微かに反響した。
 出くわせたのは、故意。
 ホール中に、絶対的な嫌悪、そして死の恐怖を与えるにおいが満ちている。"ヒト"ではないモノに、それは等しく。
「ようこそ」
 天上に開いた大穴から、土まじりの雪が吹き込む中で。ヴァインが張り付かせた冷ややかな笑みに、シアシーナの影でディムロスが身を強張らせる。
 そして。地上とつながった穴から鈍く黒光りする巨大な首がのぞいた。飛行竜、などという呼び方をする者もいたか。
「……あんなものまで出してくるなんて、大層なことね」
 しかも、地下都市に突っ込ませてまで。
「それぐらいはしませんと。なんと言っても、お迎えするのは天上お――」
「ヴァイン!」
 シアシーナの鋭い制止に、ヴァインはおどけたように首をすくめた。
「知られたくないと? ミオソティス様と、あの二人の子供を、あなたは見捨てたというのに」
 シアシーナが目を見張り、言葉が一瞬途切れた。が、すぐに、眇めた厳しい視線を向けて。
「言い訳はしない。確かに私はあの人もあの子たちも置いて、地上へ来た。けれど、心まで裏切ったつもりは、ないわ!」
 凛と言い放った。
「……」
 それを眩しげに見つめ、ヴァインは目を細める。
 自分はいったい、何が欲しかったんだろう。
「それでは困るんだそうですよ」
 だって、もう、後戻りは出来ない。
 終わりをここに、告げるのだ。
 身体の影に隠れていた右手はまっすぐと、その手に握られた銃身を掲げた。
 向けられた先に、
「――ディム!!」
 気づいた、刹那、動いて――
 
 
 
  ゴ メ ン ネ  …  ゴ メ ン  ネ  …
  イ ツ モ  、  ツ ラ イ オ モ イ  バ カ リ  サ セ テ  …
 
 
 
 一発の銃声。
 かすれたささやき。
 見開かれた翡翠に映るのは、――赤?
 
 
 
 
 こぼれて、伝う、流れ出る、真っ赤な色が。
 
 
 
 
「シア様っ!!」
 声が出たのは、逝ってしまったのだと、頭のどこかが認識してからだった。
 命がこぼれ落ちた母親に抱き込まれた少年は、虚ろに目前を翡翠に映す、だけで。
 ヴァインが動くことのないシアシーナを抱き上げて。部下が残されたディムロスに手を伸ばす、寸前に。
「……おや」
 間一髪で飛び込んだハロルドが、忘我状態のディムロスを片腕で抱きしめ、もう片方で、銃を突きつけていた。
「君は、片手では撃てないだろう」
「残念ながら」
 にやりと口の端を持ち上げていったハロルドに、ヴァインはふと周囲に視線を彷徨わせる。そして、
「そうか……薬が切れたのか」
 効果は本来ならまだ続くはずだが、現実はすでに象力の封印は解かれて、象龍もその身を起こしている。
 肩で大きく息をしながら、虚ろな表情をした子供を守ろうとする少年に、ヴァインは小さく吹き出した。
「どうやら、君から取り上げるのは骨が折れそうだ」
 十四の少年がするには似つかわしくないほど剣呑で強圧的な視線に、ヴァインの周りが気圧されたようにひるむが、
「彼女だけでも、目的は達成されたことだし。もともと、ディムを殺すつもりはなかったことだし。不用意なことをして、世界を敵に回すつもりはないさ」
 ヴァインだけが意に介さず、人を食ったように笑みを交えて言い放った。部下と共に飛行竜へと踵を返した、その背にハロルドは口を開く。
「……………――だったんじゃないのか」
 ぴたりと動きを止め、ヴァインは振り返ることはなく言葉を紡いだ。
「手に入らないものは追いかけても無駄なんだよ」
 だったら、奪ってしまおう。と。
 そう思ったのは、いつだったか。
 だって本当に欲しいものは、いつだって手に入らないから。
 決して。
「俺は違う――」
 身動き一つしない子供の、深紅を抱き寄せてつぶやく。
 初恋と呼ぶにもまだ満たないかもしれないけれど。
 
 
「御苦労様」
 にやにやと、卑屈じみた笑みを張り付かせてねぎらう言葉を口にした男を、ヴァインは一瞥し、まぶたを伏せた。
「あなた方のためでは、ありませんから」
 だって、天上の腐敗の根だから。
 どこから狂ってしまったんだろう、歯車は。
「従順じゃないね、君たちは。本当に。つくられたモノのくせに」
 つくったのは、生み出したのは、"あなた"ではない。
「それでは。これで失礼します」
 近い空間にいるのすら不快と感じる。
「三人目の子供はどうした?」
「不可能ですよ。世界に反逆することなど」
 世界の理に刃向かうなど、愚行以外の何でもない。
 ヴァインは冷ややかな笑みを残し、足早にその場を去った。
 訪れる再会は見たくないと、思った。
 己の袖に付着した血痕に目を向け、泣きたくなって、顔を上げる。
「…エリカ?」
 と、一緒にいる少女は、確か。
「リルア――?!」
 面影からヴァインが彼女の名前を導き出した瞬間、そのリルアがエリカの頬を張った。ぱん、と乾いた音がヴァインの元まで聞こえたのだから、エリカの頬は見る間に赤みを帯びていく。
「あなた、自分のしたことをわかっているの?!!」
 リルアは肩に掛かる不揃いの金髪を乱し、紫紅の瞳を痛いほどの怒りに輝かせていた。地上に降りた朗らかな弟とは違い、天上に残った彼女の気性は、表面上は大人しく振る舞っていても真実、苛烈と言える。
「わかってる…つもりよ」
 うつむいたように目をそらしたまま、ぽつりとエリカは答えた。
 出会ったことさえ、罪なのだ。
 裏切るために出会うなど、罪以外の何物でもない。
「わかってない、わかってないでしょう…っ! どうして傷つけるの、どれほどの傷を負わせたのかなんて、わかるの?! 信じてた人に裏切られて――っ!!」
 悲鳴じみた声で叫んでいることは、リルア自身もわかってはいた。エリカが痛みを覚えていることも。
 それでも許せないと、こうして訴えるのは傲慢だろうか。
 旧き柵のせいで残らざるをえないために、慕ってくる弟を突き放した自分は。最後まで、弟にとって悪い姉だったろうとリルアは思っている。罪滅ぼしのつもりはないが、無意識ではそうなのかもしれない。策略にはまってこの腐敗した天上に取り残されてしまった姉弟の面倒を見ているのは。
 己の手に残されたのは、あまりに痛くて激しすぎる後悔ばかり、だったというのに。耐えられたのは、この地に弟を残させるわけにはいかない、その一念だった。
 それなのに。
「リルア」
 ヴァインが割ってはいると、リルアは涙のにじむまなじりで振り向き、
「あなたもどうして――なんで、なんで終わらせられないの?! どうして巻き込むのよ、あの子たちには終わったはずの時代なのに……!!」
 己らに絡みつく束縛の糸など、あの子たちには無関係なのに。
 がくりと、リルアはその場に膝を折って、声を上げて泣く。
 悲劇はもはや止まらないと、目に見えていた。
 そして、
 
 
 ――ヒトとは、いともあっさりと壊れるものなのだ、と。
 
 
「ハロルド!」
 廊下の、向かいから走ってくる、女性。
「クリティおば様…?」
 なぜここに、とハロルドは面食らった表情になった。ここノルズリではなく、彼女は本部のあるヴェストリにいるはずの存在だ。参謀本部に属しているのを、さらには総司令であるメルクリウス・リトラーの妹であることを逆手にとって、勝手気ままに動いているという話もあるが。
「……何か、あったみたいね」
 翳っていたのは、ハロルドの面<おもて>か、それとも。
「悪いんだけど、時間がないの。火災時の消化機能が働いて…隔壁の中に、人が取り残されてるのよ」
 ハロルドが抱き上げていたディムロスを、起こさないようにそっと自分の腕に抱きなおしながら、クリティが口を開く。
「……それで、なんで俺なんかを探すんだ」
 なげやりにも聞こえた返事に、クリティは一瞬眉をひそめ、
「あなたしかいないから。どうなってるか知ってる? 今、他の都市との行き来もできないの。ゲートシステムもダメになっててね。さっき本体にたどり着いたカーレルが復旧を指揮してるけど」
 いったい何があったのかは、まだ知らないけれど。
 白に染みついた、暗い赤の飛沫にうっすらと予想はつきながらも、あえてクリティはそう続けた。
「マイナード少将も中に閉じこめられているのよ。今このノルズリにはあなたしかいない、そうじゃないの?」
 もういなくなってしまった彼の人に勝る者なんて、このノルズリにいるはずがない。上から順に、指を折って何人めかなど、考えたこともないけれど。
「あなたはいきなさい。後悔、しないように」
 壮年の見かけ以上に本当は年を重ねている女性は、少年を促した。
「…………わかりました」
 まるでうなだれたように頷いて、駆け出す、寸前。ふと、自分の手を、あの直後に意識を閉ざしたディムロスの額に、かざすように持っていった。そのままさらりと、深紅をかき上げるように――手を離す。
「お願いします…」
 悲しみを増やしたくなかった。
 けれど、
 
 
 人の命とは、容易く喪われてゆくものなのだと、再び思い知る。
 運命の絶望と現前の拒絶、悲痛な叫び声が、木霊した。
 
 
 数時間後、仮復旧を果たしたためにゲートシステムが再起動し、他の都市からも技術者が応援に寄越され、時間に空白が訪れた。
「ダメだったんだってな」
 床に座り込んで、ディムロスが寝かしつけられているベッドの隅に伏せていたハロルドの肩を、戻ってきたカーレルが小突く。
「手遅れだった。なにもかも」
 あと少し。あともう少し、早ければ。
 何かが、違っていたのかもしれない。
 何かが、変わっていたかもしれない。
 喪うことも、なかったかもしれない。のに。
「仕方ねぇよ…仕方ねぇ」
 シアシーナ・カドウィードがヴァイン・ミルテ――天上のスパイに殺された。
 都市機能管理システムの暴走に巻き込まれ、ハロルドが呼ばれた箇所以外にも多くのところで死傷者が出た。
「なんで……なんで、こんなことになる……?!」
 重ねた両腕に顎を埋めたまま、くぐもった声でハロルドが吐き捨てる。
「――まぁ、な…」
 ベッドに背を預けるようにして、カーレルが弟の隣に腰を下ろした。真上を見上げれば、なんら変わらない、いつもの部屋の天井、なのに。
「とりあえず」
 薄ら寒い。空虚。憤りを覚えるには、まだ悲しみが痛すぎて。
 すぐそばの兄の横顔に振り向いて、ふと、ハロルドは痕を見つけた。
「カイザイクのおじ様が二人とも引き取るって言ってたぜ」
「……おじ様が?」
 シアシーナとは姻戚による義兄妹になる、地上軍の元帥。彼のもとには、三人の子供がいる。ディムロスやアイリスと近い年齢の。
「それは――」
「君たちの行き先は、君たち自身の意思を尊重しよう…」
 一つ手前の部屋から、疲労のにじむ沈痛な面持ちで、壮年も終わりに差し掛かったと見える男性が現れた。
「すまない。本当に。我々が逃げてしまったせいで、辛い思いばかりさせてしまって。許してくれなど…とても言えたものではないが…」
「わかってらっしゃるんですか、きっとこの子たちはすぐには――」
 怯えてしまう。新しい存在に。
「笑ってくれるかさえも、わからないのに……!」
「すぐに連れていく気はない。いきなり一緒に住まわせる気もない。逃げ場をなくして追い詰める気はないよ」
 関係したくなければ、断ち切ればいい。
「ただ、君たちにはヴェストリに移ってほしいだけだ。それを、今は言いに来ただけだよ」
 悲しみを秘めた、あたたかな微笑み。
「後は…そうだな。今のうちに泣いておけばいい。あの子らの前で、君が泣くとは思えないからね」
 大きな手で、濃く沈んだ灰色の髪をくしゃりと撫でられた。
 ――泣く?
 ひどく呆けて、ハロルドはがくりと肩を落とす。
「ああ…、そうか」
 思い出した。
「まだ、泣いてなかったんだっけ……っ」
 
 
 慟哭。
 これがきっと、最初で――最後の。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 それは、いつだっただろうか。
 
 
 
 
 
 
 天空を捨てたときに垣間見た、黒くうねる海の上に広がっていた現実の青は、ひどく虚しいモノに見えたけれど。
 
 
 
 大きな、青の天空と、緑の大地の、風景画。
 失われてしまった、かつての有彩色の世界。
 
 
 
 それから。
 
 強く心を惹かれた少女は、まだ見ぬ空を描くようになり。
 少女の兄は、絵と引き合わせた彼の人を慕うようになり。
 ヒトを嫌悪し憎悪していた兄弟は、希望を夢見た。
 
 
 
 
 彼の人が、うたうように言っていた。
 
 
 
 
 空は必ず晴れるから。
 本当に綺麗な世界を、見に行こう。
 
 
 
 
 
 
 いつか見る、青い空。