あ る 窓 の 在 る 風 景






 陽のあたる窓辺の椅子に、少年は座っていた。
 茫漠とした眼差しは、窓の外の空をただ、眺めていて。
「兄上…」
 少年の背後から掛けられた呼び声はほんの微かなもので。届く前に風にさらわれてしまったのか、少年が声の主を振り返ることはなかった。が。
「父上は、何を思っていたのだろうな」
 少年の唇からすべり出たのは、問いには足りず、しかし独白にも満たない、ささやき。
「兄上は父上のことがお嫌いでしたか…?」
 緩やかな風が流れ、少年はそっと、両のまぶたを伏せた。
「そんなことはなかったと、思うよ」
 答える声はひどく平らかでかすれていて。
「……きっと、ね」












 陽のあたる窓辺の椅子に、青年は座っていた。
 茫漠とした眼差しは、窓の外の空をただ、眺めていて。
「兄上、……」
 青年の背後から掛けられた呼び声はほんの微かなもので。届く前に風にさらわれてしまったのか、青年が声の主を振り返ることはなかった。が。
「ロスマリンの方々がご無事であられて、なによりだった」
 硬く無機質な響きで、青年がつぶやく。
「――ですが、」
 思わず少し上擦った声が非難じみた色を帯びたが、続けるよりも先に青年が再び口を開いた。
「生きていてくれてよかった、と。思ってる」
 疲れと翳りの残る微苦笑をたたえて。
「本当に。ライラが生きていてくれて、よかったと思ってるんだ」












 陽のあたる窓辺の椅子に、男は座っていた。
 茫漠とした眼差しは、窓の外の空をただ、眺めていて。
「兄上…?」
 青年の背後から掛けられた呼び声はほんの微かなもので。届く前に風にさらわれてしまったのか、男が声の主を振り返ることはなかった。が。
「ライラは、逝ってしまった」
 ひどく淋しげに、男が言う。
「そう、ですか……」
「最期に謝っていた。死を選ぶことを。けれど」
 若草色の目から、一筋だけ、雫が伝った。
「最後に、ありがとうと言って……微笑んでくれた」
 そして男は隣に立つ弟を緩やかに見上げ。
「とても、とても久しぶりだった気がする。あんな笑顔は」












 陽のあたる窓辺の椅子に、男は座っていた。
 茫漠とした眼差しは、窓の外の空をただ、眺めていて。
「シオンが死んだよ」
 はたと。傍らで足音が止んだ刹那に、男が振り返ることなく告げた。風にさらわれてしまいそうなほど微かな声なのに、それはひどくはっきりと聞こえて。
「聞きました。ルートから」
 震えを抑え込もうとしてすっかり声の強張ってしまっている弟に、男はそっと振り向いた。
「なぁ、アッシュ」
 さらさらと、細い金茶の髪が風に揺れていた。
「おまえは、私より先に、いなくなったりはしないよな……?」
 今にも泣きそうな、けれどひどく乾いた響きだった。












 陽のあたる窓辺の椅子に、フィンレイは座っていた。
 茫漠とした眼差しは、窓の外の空をただ、眺めていて。黒茶の机に積まれた書類にはしばらく手をつけた様子もなかった。忙しくないわけがない。今、国は流行病によって死が蔓延しているのだから。
「失礼します。お茶をお持ちいたしました」
 夏草の匂いをはらんだ風が吹いたとき、数度のノック音に続いて若い女の声が扉の向こうに現れた。部屋の主が端的に応を返すと、静かに扉が開かれる。
「見ない顔だな。新入りかい」
 茶器を伴って訪れたのは、王城仕えのメイド服に身を包んだ、十代半ば頃の少女だった。
「……はい」
「でも、見覚えもあるね。君の名前を教えてもらえるかな?」
 その問いかけに、少女は茶をそそぐ手をまともに震わせた。
 無理もないかもしれない。古くから王家に連なる血の当主。セインガルド王国軍の頂点に立つ、若い将軍。あの悲劇が訪れるまで、王の一人娘と婚姻を約し次期国王とも噂されていた貴人。
 そして、たった一つの、守るべき、運命。
「あ、あの」
 しばらく怯えたように縮こまる少女を見ていたフィンレイは、ふと席を立つと少女の傍らに歩み寄る。その動きに気づいて少女がさらに身を竦ませるが、フィンレイは少女を素通りし、カップを手に取ると中身を一気に干してしまった。
「あ…」
 目を見張る少女に、フィンレイは小さく微笑んで。
「これで、話してもらえるかな」
 そのやわらかな声音に、少女が目を背ける。そして、か細く消え入りそうな声で、音の連なりをささやいた。
「そうか。君によく似た子を、私は知っていたんだ」
 空になったカップをフィンレイが手放す。
「君の、お姉さん」
 すぐ側のソファに、くずおれるように座り込んで。
「君たちにというのなら……それも悪くない、かもしれないな」
 窓を見つめて、淡々と言葉を綴った。
「わかって、いたのですね」
 茶にまぜられた、異物に。
「においでね。…そろそろ弟が来る。逃げるなら、急いだ方がいい」
「――おと、うと?」
「アシュレイという。歳の離れた、私の弟だ。今じゃたった一人の家族でね。……あの子まで殺すというなら、私は決して許さないけれど」
 弾かれたように駆け去った少女の背を見送って、フィンレイは長く長く、息をついた。
「間に、合うかな」


 再び扉が開かれたとき、また夏草の匂いがした。


「兄上!!」
 愕然とした弟の声に、振り返る力もなかったけれど。
「アッシュ」
 真っ青になって駆け寄ってきた弟に、フィンレイは、微笑んで。
「私は父をこの手にかけた。裏切って密告したことを、許せなかった」
「私はライラを守れなかった。支え、共に生きることもできなかった」
「私はシオンを喪った。ずっと救われていたのに、何も返せなかった」
 ただ、微笑んで。
「それでもたぶん、私はフシアワセではなかった」
 ――なら、シアワセだったのですか?
 その問いは声にならなかった。
 きっと兄を困らせてしまうから。
 言えなかった。だって。
「……ありがとう」
 兄は、微笑んで。
「幸せに、なってくれ」
 永い眠りに落ちた。


















 陽のあたる窓辺の椅子に、アシュレイは座っていた。
 茫漠とした眼差しは、窓の外の空をただ、眺めていて。時折そよぐ夏の風に、喪章が少しだけ、揺れるだけだった。
「アッシュ」
 声を降らすと同時に、その主はアシュレイの腰掛ける椅子の背もたれに身体を預ける。アシュレイが背後に体重を落とすと、後頭部に親友の――ロベルトの背が触れた。
「早かったな。ルート」
「連絡もらってな。すっ飛んで帰ってきた」
 あっさりとした返事にアシュレイは軽く目を剥く。
「よかったのか?」
「ま、…な。アステルや姉貴がなんとかしてくれるさ」
 俺がいても、あんまり役に立てない。
「おまえは、いいのか?」
 不意に、アシュレイが訊ねた。
「……後悔は、しない。殺すしか、なかったんだ。あの時は」
 この道を選んだ。
 これからも、この道を選び続ける。
「で? そっちこそ」
 気怠げに息をついて、ロベルトが訊ね返す。
「ああ、俺は」
 海の輝きを放つ剣を丁寧に厚布でくるみながら。
「もちろん、同じさ」
 アシュレイは小さく微笑んだ。
「――幸せになれと、兄上に言われたから」






 窓の外は、夏の緑にあふれていた。












* b a c k *







 夏草は、窓の外。窓の中にはないのです。
 明るかったり生命だったりの印象につながりやすい夏の話に、ほそぼそと「死」を語ってみました。どちらかってーと「お彼岸」ですか。過ぎちゃいましたけど。フィンレイとアシュレイ。ちょっとロベルトもおり。

2001/8/22