いっこうに鳴り止もうとしないアラームに、とうとう目を覚まされた。
 見えなくてもだいたいの場所などわかりきっている、ベッドサイドのスイッチを半分寝たままの手探りで見つけ出して、ルームライトを灯す。
「今、何時だ……」
 答えてくれる声はない。鳴りっぱなしのやかましいアラームはとりあえず無視して、睨みつけるような半眼で時計のデジタル数字を探し求める。
「くそ」
 舌打ち一つ。
 早起きしたかったのは――それでも、必要だったわけではない――昨日のことで、そして昨日は鳴らなくて、なんで今日に鳴るのだ。
 そんなもの設定を間違ったからに他ならないが、一昨日の自分に悪態をつくよりもまずは、このアラームを止めねば鬱陶しくてたまらない。しかし厄介なことに、誰かさん特製のこのプログラムはうるさいだけでなく、いったん鳴り出すと止めるのに手間が掛かってしまう。
 かくして、この日。
 アラームの解除作業をしているうちにすっかり目が覚めてしまったリオンは、不承不承ながらも、理由なき早起きを全うしたのだった。






黒い種









 世界が時代がどんなに大変でも、日々というのはおおむね平和だ。
 だって人間は慣れる生き物で、忘れる生き物だから。






「なあ、ヒエン」
 頭の上に悠々と寝そべる銀龍が、呼び声にもそりと動いたのがわかった。
「あれって珍しくないか?」
 たとえ思いっきり眼球を上に向けても人間、とても頭の上は見れるものではないけれど。短い前髪の向こう側に、ふらふら揺れる銀色がちらりと見えた。
「何よ、私がいたらおかしいの?」
 朝食と称するには随分と遅くて、しかし昼食と呼ぶにはまだ早いだろう。それにしてはしっかりボリュームのあるラインナップを前にしているアトワイトと、そういえば第一師団は外回りから帰ってきた翌日で、待機中という名のオフのはずだから確かに暇かもしれないディムロスと兄のスタンと。
「おかしいと言ったらおかしいような、いや、違うか」
 食事はおかしくない、だってここは軍人向けの食堂の一つだから。
「だな、おかしいのはおまえの方」
 するりと滑り込んでくるのは兄の声。
「やっぱりそうか。でもアトワイトが一番多いのな」
「失礼ね。私は三時間後に手術だから今が昼なの。執刀医じゃないけど」
 なるほど、リオンが納得した脇で。
「手術前の恒例だよな、奢らされるのも」
「何よ、最初に言い出したのはそっちでしょう。それに今は奢るだけに変えてあげたんだから」
「何だそれ」
 そんな習慣があったのも初耳だが、それ以上に手術を控えているからか、アトワイトもいつになく気が強くなっているようにリオンには見える。
 いやだって。
「いやだって、最初の頃があんまり悲惨だったから」
「ああ、最初の解剖の時の」
 ディムロスに同意を求められたスタンが、小さく肯いた。
「肉類麺類全滅だったな、確か」
「そう、他にも物が食えなくなって面倒見なきゃいけない学生いるからって、キルシェに押しつけられちまって」
「うるさいわね。仕方ないでしょ、あの頃は見たことあったのなんて焼死体くらいだけだったんだから!」
 数年前の思い出話とでも言えば微笑ましいかもしれないが、これはきっと、普通、およそ食事中にするような会話ではないだろう。いやむしろ、食事中以外でもしてもらいたくない内容か。凄惨な戦場に出くわすことなどほとんどない都市内作業専門の面々から、怯えたように遠巻きにされてしまうのも無理はない。
 そんなことを遅すぎる朝食代わりのパンを摘みつつ思いながら、とりあえずリオンは黙って話を聞いていた。






「暇そうだねえ?」
 言うなればここは、植物園。
「暇だ」
 部分的には、もっとぴったりなのは、小さなジャングルという呼称なのかもしれないが。
「ヒールは暇そうじゃないな」
「そりゃあね」
 言って、ヒールはちらりと後方に視線を送り、くつくつと喉の奥で笑う。
 今お姫様の訪問中なんだよ、と。
「それとあと、そっちのも――、そうそれ、お願いね。……あら。その葉、色がイマイチじゃないかしら」
 その先の、深い色の木製のように表面を飾ったベンチの上であれこれと動くのは、癖一つなくさらさらと流れる長いプラチナと、不可思議な色合いをした碧の瞳と、爪まできっちり整えられ清潔な手指と、桜の花びらのような唇だけだ。
「そんなにたくさん、何するんだ?」
 つと疑問が浮かんだので、そのままリオンは訊いてみた。
「病棟のロビーと部屋に飾るのよ」
 彼女は所属の上では軍医だが、第二師団で大規模な作戦でも展開されない限り、普段の仕事は一般医局の医師とさして変わりない。そもそも専門的な技術を必要とする分野においては特に、人手不足が解消されることはない。
「そうね。あなたにもあげるわ、お寝坊さん」
 そして何を思ったか、キルシェは一輪を笑顔で差し出してくる。下手に断っては厄介なことになることは想像に難くない。素直に受け取るのが賢い選択だ。
「……どーも」
「この花は嫌い?」
 数秒の逡巡を見抜いてか、彼女がくすりと笑みをこぼす。
「いや、俺は花なんてわからないし」
「黒種草。種が黒いから、花の名前も黒」
 糸のように細い葉に囲まれた、真っ青な花を指差しながら。
「この種の中には悪魔がいて、陽の光に当てると悪魔が逃げてしまうから、花が咲かなくなってしまうのよ」
 そんなことを、愉快そうに語るキルシェの意図が読めず、リオンは自然と身構える。と。
「あなたの悪魔と花は、いったい何かしら?」
 謎かけのような問いが投げかけられた。
「キルシェ。リオンが困っているよ? その辺にしてあげたら」
「あら。それじゃあ、まるで私が可愛い後輩を苛めてでもいるかのように聞こえるじゃない」
「それはないよ、うん。キルシェが優しいのは、よく知っているから」
 心外だとばかりに腰に手を当て頬を膨らませる彼女に、眉一つ動かさず笑顔のままでヒールは宥める言葉を返した。
「……もしかして俺、あてられてる?」
 そそくさと逃げ出した先で、声を潜めて問うたリオンに、
「さあ。お二人はいつでもこうですから」
 動じないところばかりが上官に似てしまったらしい、ヒールの副官が笑った。
 そういえば彼の名を、覚えていない。






「珍しいね」
 ノックをして扉を開けたリオンに、アイリスはまず笑った。
 すっかり生活感の染みついた、病室で。
「そうか?」
 一昨日にも来たばかりだから、この場合はそういう意味だろうかと、リオンは視界の上端をちらちら掠めている青い花びらへと視線を泳がせた。キルシェに押しつけられた花は、頭上のヒエンがくわえている。
「珍しいよ、リオンが一人なのは」
「そうか?」
 人づきあいは、しない。
 結局は出際にキルシェに捕まって任されてしまった一束の花を、水を入れた花瓶に挿しながら、リオンは首を傾げる。
「いつでもスタンさんとか兄さんとか、シャルティと一緒だもの。一昨日だってそうだったわ」
「そういえば、そうか」
 言われてみるとその通りかもしれない。
 一人で来ることはないし、一緒の相手も、たとえ人数が増えることはあっても、その二人のどちらかは必ずいる。
 ただ単に、わかっている人間以外と交流することがないだけだけど。
「その花、どうしたの?」
「ヒエンがくわえてるのなら、何でかキルシェに押しつけられたんだ。黒種草っていうらしい」
「ええと、ニゲラだっけ?」
「そんな名前もあるのか」
 アイリスは答える代わりに、テーブルに置いていた端末に細い指を踊らせると、画面をリオンに向けた。そこには確かに、ヒエンがくわえている薄青紫の花と同じ写真と、学名や様々な別名が記載されていて、アイリスが言ったニゲラの名もあった。
「やっぱり黒い名前なんだな。ああ、悪魔って名前にもあるのか」
 霧の中の恋など詩的な別名もあるが、学名に由来するニゲラも黒という意味だと書かれている。
 結局は、種なのだ。この花は。
「……何か、言われた?」
 下から覗き込むようにリオンの表情をうかがって、おずおずと訊ねる。
「俺の悪魔と花は何かって」
 隠し立てするようなことでもない。
 そう思ったから、答えを口にするのは簡単だった。
「ナゾナゾみたいね」
「俺にはさっぱりわからない」
 軽く肩を竦めるリオンに、アイリスはくすくすと笑みをこぼした。
 その笑みが、ふっと掻き消えた。
 笑わなくなれば、少女はひどくか細く見えた。
 だが、眼差しだけは、痛いほどに。
「あのね。もう一度リオンと二人だけになったら、訊いてみようと思っていたことがあるの」
 かつてリオンは一度だけ見たことがある。
 彼女の真っ青な双眸を染めた、この、深すぎる色を。
「自分が死ぬ瞬間を知ってるのって、どういうもの?」
 そんな色を前に見たのは、この少女の命の期限が、あまりにも短すぎると知らされたときだった。
 だからリオンは、彼女に自分の秘密を話した。
「……アイリス」
「私は死ぬわ。大人になる前に。いつかはわからないけど、そんなに遠くもない」
 彼女は体の中に時限爆弾を抱えている。いつ動き出すとも知れない、けれど動き出したら死は免れない、そんな爆弾を。
「いつでも私の目の前には、死があるの」
 人間は、死を見つめ続けて生きることはしない。
 ひどく巧みに目をそらして、ほんの少しだけ忘れて生きる。
 だが、そうやって忘れられない人間は。
「俺にとって、俺の視た運命は、命の使い道を知ることだった」
 つと瞼を閉じれば、今でも鮮やかに灼きついている。記憶の中に。身体中に。
 斃れた自分を見下ろして泣いている、二人の子供。
 その向こう側の、真っ青な空。
 自分が生きて存在した、意味になるだろう運命。
「俺は、その時のために生きている」
 だから、それまでは決して死ねない。
 悪魔が死なら、花は意味だ。
 咲く花を、見ることは叶わないけれど。
 だから、他の誰にも言わないけれど。
「……私にはあるのかな、花なんて」
「アイリスが決めればいい」
 苦笑した彼女は小さく首を振る。
「私は出来損ないだよ」
「泣く人がいる」
「うん、きっと泣いてくれるね。兄さんはもう泣かせたくないのにね」
 静かに、だが、はっきりと、アイリスは言った。
「きっと私が遺すのは、未来じゃなくて、呪いだわ」
 その言葉は、預言じみていた。






 世界が時代がどんなに大変でも、日々というのはおおむね平和だ。
 だって人間は慣れる生き物で、忘れる生き物だから。






「あれ、リオン。お迎え?」
 構成する全員が、十代半ばから後半に掛けての年代で占められているその一隊。
「おまえに置いてかれたから昨日と今日半日、暇だったぞ」
「だって寝過ごしただろ? さすがに待てないよ、こっちは任務だし」
「わかってるさ」
 それぐらい、わかっている。
 リオンは何処にいてもいいから。
 リオンは何処にいなくてもいい。
 リオン・カイザイクという人間は、どの部隊にも所属していないから。参謀本部直属の、宙ぶらりんだから。
 何処にいるか何処に行くかの選択は自分の責任のみでしかなくて、したいことは自分でしなくてはならないのだ。
 それは、したくないことから逃げる代償。
 この組織の中で、関わる人間を狭く狭く限定する、代償。
「どうだった」
「うん。今回もなんとか負傷者を出しただけ」
 それは、重みもない、単なる確認としてだけで交わされる言葉だ。
 そしてリオンはその瑠璃色の双眸で、その血で、視る。
「この後は?」
「報告届けたらフリー」
 何かを言いかけながらも口をひたりと閉ざしたリオンに、シャルティエがうかがうように目を眇めた。
「リオン?」
 逡巡するような間を置いて、吐き出されたのは微かな嘆息だった。
「……飲みたくなった。つきあえ」
 その物言いは、何ら普段と変わりない。
 シャルティエがゆっくりと一度、まばたきをした。
 そして背後の部下たちを振り返って。
「だそうなので、みんなで奢られに行こうかー」
 今日もまた生き残ることが出来ました。
 祝杯。
「って、俺の奢り決定済みか?」
「少しぐらいなら僕も出すからさ」
「少しか」
 軽く笑みを交わす、その裏側。
 そっと押し隠して押し殺して心に秘める、決まり事。






 また、視えた。
 真っ白な雪。
 真っ赤な血。
 また、見えなかった。
 沈んだ骸の顔。
 斃れているのは誰だろう。
 わからなかった。
 また、リオンは何も言わなかった。






 また、いつか忘れていく。






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お題no.02「秘め事」。運命の秘密。預言者の沈黙。
「黒い種」は新居昭乃。

リオンが視る運命は、発動すら思い通りにならないし、ひどく曖昧。死を視ても、それが誰か特定できるのは本当に稀。死者が出るという運命を知るだけ。でも多くの人と接すると運命を視てしまうことが増えるから、リオンは滅多に他人と関わらないのですが。

それ以前に、リオンはシャルティと親友だけど、実は相当なブラコンでもある人。自分の運命視の力は、たった一つの運命を視るためにあったと思っている人。
たった一つの運命。自分がいつ、何のために死ぬか。
カールはリオンが自分の死に方を知っていることは知っていますが、その内容までは知りません。
リオンにとってのアイリスは、自分の死を常に見つめて生きている仲間。

キリリク「地上軍名物と化している人々の日常」で書き始めて結局、名物を総ナメできなかったんですが。
……これ、ファイルの作成日が2001年でした orz