雲一つない陽射しに、一瞬だけ目が眩んだ。
 咄嗟に腕で影を作ってフレンは、目が慣れるのも待たず周囲を確かめる。
 滲みの残る視界に映ったザウデの頂は、惨憺たる有様だった。中央に落下した巨大な魔核が突き刺さり、砕けた床が瓦礫となって散乱している。
 それでも風と波の音ばかりで、静かだった。
 ユーリたちはアレクセイを追いかけていったはずだが、既に戦いは決したのだろう。だがやはり、それだけではない何かが起きたことは間違いないようだった。
 ひび割れた空から、不気味な何かが覗いている。
 吹きすさぶ生ぬるい風には、海よりも濃く、血の臭いが混じっている。
「ユーリは……」
 痛みを訴える傷を力尽くで追いやって、黒衣の人影を探す。と。
「隊長」
 傍らのウィチルがはっと声を上げて指し示した先を見やれば、そこには彷徨うようにふらふらと歩いてるエステルひとりの姿があった。
「エステリーゼ様!」
 フレンの声に、緩慢な所作で彼女が振り返った。
「……フレン?」
 エステルがゆっくりと息を飲む。目尻に涙が滲む。
 そうして。
「いないんです。ユーリが、何処にもいないんです……」
 今にも泣き崩れてしまいそうな声を、苦しげに吐き出した。
「ユーリが」
 いない?
 ぎこちなくくずおれていく彼女のもとに慌てて駆け寄ってから、フレンは視線を巡らせた。
 増えたフレンとウィチルの姿と、そしてとうとう膝を折ってしまったエステルに気づいてか、散らばっていたユーリの仲間が集まってくる。帝都解放後に紹介を受けて、フレンも今は彼ら全員の名前を知っている。ユーリが所属するギルドの首領だというカロル・カペルと、同じくメンバーであるクリティア族のジュディス、アスピオの若き天才魔導士リタ・モルディオ、そしてレイヴンと名乗っている騎士団隊長のシュヴァーン。一様に険しい表情で俯き加減で、足場の悪さを差し引いても足取りが重い。そこにユーリの姿はない。
 ユーリがいない。
「何があったんですか」
「それが……アレクセイは追い詰めたのだけど、あの魔核が急に落ちてきて。どさくさでユーリを見失ってしまったの」
「魔核はまっすぐ落ちてきただけだったから、真下でなきゃ無事なはずなんだけどねえ」
 息を潜めたフレンの問いに、嘆息まじりの声でジュディスとレイヴンが口を開いた。まだ幼い二人は押し黙ったまま、表情を歪ませる。
「真下って……」
「それはないでしょうよ。あれ二人分って感じじゃなかったし」
 レイヴンは気のない声でそう付け足して、重たく息を吐いた。
 彼が確認し、暗に示唆されたそれが、この血臭の原因なのだろう。
「死んでたの……?」
「ガキんちょは見に行っちゃ駄目よー」
 おそるおそる魔核の方を振り返るカロルに、辟易した面持ちのレイヴンが即座に釘を差す。
「グロゲチョだから」
 ひっと悲鳴を上げ身を縮こまらせたカロルの後ろでリタも無言のまま口元を押さえ、二人とも生々しい血の臭いから逃れるようにエステルの側に駆け寄ってきた。見ればフレンの隣でウィチルも、青い顔をしかめている。
「ま、そういうわけだから」
「ユーリは、魔核が落ちてきた時、その近くにいたんですね」
「ええ」
 ジュディスの首肯に、フレンは目をつむり唇を噛む。
 床に深くめり込んでいる巨大な魔核はしかし、下部が鋭く尖っているために下敷きにしている面積はさほど広くないようだった。そして既に一人を巻き込んでいることが確認されている。
──くそっ」
 嫌な頭痛のように、疼く痛みが思考を苛んでくる。
「さっきの怪我です?」
 ぼんやりと顔を上げたエステルが、フレンの右手が押さえつけた位置に目を瞬いた。それから少し遅れて気がついたように立ち上がり治癒術を使い始めた彼女の手を、フレンはやんわりと押しとどめようとしたが、払いのけられた。
「エステリーゼ様」
「フレンの怪我を見たら、きっとユーリが悲しい顔をします」
 だが疲労し、なにより集中力を欠いている今の彼女では術も安定しないのだろう、か細い光は不安げに揺れた。
「……申し訳ありません」
 自力で施したのは血止め程度だ。アレクセイを追ってユーリたちも頂へ上がる大型リフトに飛び移った後しばらくして、立っていられないほどの大きな震動が起こった。事態を把握するためにも、発見したサブの小型エレベーターでソディアを先に向かわせ、またフレン自身も応急処置もそこそこに上がってきたのだが。
 そこまで考えて、ふと思い至る。魔核落下の際のものだろう轟音の直後にここへ来たはずの彼女なら、もしかしたら何か見ていないか。
「すみません、ソディアを見ませんでしたか」
「あんたの副官のお嬢ちゃん? こっちにゃ来てないねえ」
「私たちが見に行った向こう側は崩壊が激しくて、魔核の反対側には回れなかったの。彼女はそっちに行ったのかもしれないわ。ラピードが逆から回り込んだはずなのだけど、まだ戻ってきていないのね」
 首を傾げるレイヴンの横で、怪訝そうなジュディスが瓦礫と魔核の死角を覗き込むように身を乗り出す。
「ラピードがですか?」
 彼は賢い犬だ。もしユーリを見つけたら、すぐさま吠え声で知らせるだろう。しかし障害物だらけのこの惨状で、彼の嗅覚が人間の視覚より手間取ることはないはずだ。
 今度こそエステルの手を押し返してフレンは立ち上がった。引きつるような痛みは、噛み殺す。
「フレン?」
「ありがとうございます。もう大丈夫ですから」
 反対側。
 エステルをリタとカロルに預け、急く気持ちと言葉に出来ない不安に、ともすればもつれそうな足で床の亀裂を飛び越える。
 頭の片隅が最悪の可能性を、冷たい声で小さく小さく囁いている。
 レイヴンとジュディスがすぐ後ろにいる気配を感じながら、ひときわ大きな瓦礫を回り込む。
「ラピード!」
 ずたずたに引き裂かれた床の上で、フレンたちに背を向けたまま身じろぎ一つせず座っているラピードの姿が見えた。声は聞こえているとばかりに、長い尾が一度だけ左右に振られる。
 そしてその向こうに、ソディアが立っていた。
 頂の縁に、風に吹き飛ばされそうな軽さで、立ちつくしていた。
 思わずフレンの足が止まる。
 ユーリはいない。
 いない。だが。
「ソディア!」
──は、はいっ」
 強く張り上げたフレンの声に、びくりと肩を震わせて彼女が、弾かれたように振り返った。
 だが、いつもならまっすぐ見返してくる目は、フレンを見ない。
 様子がおかしい。何もかも。
「ユーリを見ていないか? 見つからないんだ」
 深く、傍目にも見えるほど深く息を飲んだ彼女の、躊躇いがちに開かれた唇も、紡がれた声も、ひどく戦慄いていた。
「わたし、は」
「ソディア」
「……見ました」
 耳を塞ぎたい、衝動は一瞬。
「ユーリ・ローウェルが、ここから……落ちました」
 その時ごうと音を立てて押し寄せた海風が、声にならないいくつもの悲鳴を飲み込んだ。
「落ち、た……?」
 繰り返し呟けば、息が詰まった。
 目を向けた、青ざめた白い床が途切れた、その先には何もない。
 その向こう側には、真っ青な海面しか見えない。
 ユーリがいない。
「そんなっ!! そんなこと──っ!!」
 風の音をつんざく悲鳴に引き戻されたフレンが我に返るより早く、ぐらりと傾いだエステルを、駆け寄ったジュディスが支えた。
「落ち着いて。まだ何も決まったわけではないわ」
「でも、こんな」
「大丈夫、あいつなら大丈夫に決まってんじゃない。そうよ」
 蒼白な顔で震えるエステルの手を、その隣からリタが支えるように包み込んだ。ひどく強張った表情に辛うじて笑顔を貼り付かせながら、言い聞かせるように噛みしめるように、唱える。
「リタ……」
 包み返すようにエステルが手を重ねた。
「そ、そうだよ、だってユーリだもん、だから、だから……っ」
 今にも声を上げて泣き出しそうなカロルの頭を、黙ったままレイヴンがくしゃりと手荒にかき回した。
 だから。
「行ってください」
 絞り出すように言いながら、フレンは力任せに手を握りしめた。
 この高さを落ちるとはどういうことなのか。
 無意味な理解を装った、残酷な諦念は投げ捨てる。
「皆さんの船はここのすぐ側に付けてあったでしょう。すぐに我々の船団も呼び寄せて付近の捜索を行いますが、今は一刻を争う」
「そうね、ここに突っ立っててもしゃあないわ」
「走って下まで降りる時間も勿体ないわね。バウルに迎えに来てもらいましょう。ほら、二人とも。カロルもよ」
 レイヴンに肯き返し仲間たちを招き寄せたジュディスが、空を仰いだ。
「ソディア、ウィチル。二人は先に船団に戻って、大至急ユーリの捜索を。あと一隻だけここに回してくれ、僕はそれで合流する」
「はい!」
「ちょい待ち。見つけたら合図ちょうだいよ。治癒術師はこっちのが多いし、嬢ちゃんもいるしね」
 待ったをかけたレイヴンの言葉に、ウィチルがフレンを振り返る。
 確かに無傷ではいられまい。
「では赤を三発で」
「あいよ」
「わかりました。急ぎましょう、ソディア」
「……はい」
 項垂れたまま反応の鈍いソディアを、もどかしげにウィチルが引っ張ってリフトへ走る。
 その背を見送って、肩を軽く小突かれた。
「あんまり取り乱さないのね」
 おっさんちょっと安心とうそぶくレイヴンの小声に揶揄の色はなかったが、しかし何の色かも読めなかった。もとよりフレンは機微を読むことには長けていない。いつも察してもらえていたから、それに慣れて、甘えてしまっていた。
「そう見えますか」
 フレンは苦笑を作る。
 今もまだ、喉が痛むほど暑いのに、ぞっとするほど寒い。
「本当は、叫びたいくらいですよ。今だって、気を抜いたらあっという間に頭の中が真っ白になりそうです。でも最近、ユーリのことで感情的になるたび後悔する羽目になってるので、今は必死で我慢しているだけです」
 ずきずきと傷の痛みが、感覚を刺激している。
 その鼓動のような痛みすら、意識を現実に辛うじて繋ぎ止めてくれている楔だ。
「そうかい」
 もう一回、鎧に覆われたフレンの肩を小突いてから、飄々とした足取りでレイヴンはバウルを呼び寄せた仲間のもとへ向かっていった。
 傾き始めた太陽が、影を少し伸ばしている。
 夜が来れば海上の捜索は難しくなる。それまでに。
「みんな行ったよ、ラピード」
 ユーリが足を踏み外した場所さえわかっているのかもしれない、ずっと黙ったまま動かなかった背にフレンが呼びかけると、ようやくラピードも腰を上げた。
 死角になっていたその影で、ぎらりと何かが光を弾く。
「これは」
 血のこびりついたナイフ。
 フレンが拾い上げると、まだ新しい、真っ赤な血がぽたりと落ちた。
 このナイフには見覚えがあった。騎士団で支給されるナイフだ。恒常的に武器としての使用に耐えられる代物ではないが、日用には事足りる。フレンはもちろん、ユーリも持っていたはずだ。
 だが。
 ならばこの血は、誰の血だ。
「ラピード、おまえ……」
 生ぬるい風に吹き消されそうなフレンの声に、振り向いたラピードは一声だけ小さく吠えて、仲間のもとに駆け出した。
 フレンはナイフを手にしたまま立ちつくす。
 ──血に濡れたこのナイフを前に、ラピードが見つめていたものは何だった。ユーリの居場所を誰よりも理解できるはずの、彼が見つめていたのは。
「僕は……」
 今更、疼く痛みにその場で膝を折る。
 ほんの少し前、ユーリを庇って受けた傷。



 委ねられた、気がした。







夕星は夜の前に沈む














ザウデ、ユーリ転落後。
彼がいなくなって、夜が来た。

続、く?