不可視の力場が、投げ出された身体を受け止める。
「危ういところでした」
傍らでクロームが暗い声を落とす。彼女が差し伸べた救いの手は、途方もない落下の勢いをやわらかに削ぎ落として、水面すれすれで音もなくふわりと静止した。
ザウデの頂は、遥か高みにある。この高さを落ちれば、人間の身にはひとたまりもない。たとい落ちた先が海面であっても、人間は落下の衝撃に耐えることが出来ない。砕けるだけだ。
そしてそれを免れたとしても。
ぽたり。
赤黒い雫が海に落ちて、滲むように広がる。
黒い服をさらに重く濡らし、さらに滴り落ちるまでに出血している。位置は脇腹。傷口そのものはさほど広くないようだが、内臓にまで傷が達している可能性もあるだろう。
「放置すれば命を落としかねんか」
「どうするのですか」
「……」
突きつけるように問いを向けられ、目を伏せた。
人間はいとも簡単に死ぬ。
砕かれた人間も潰された人間も焼かれた人間も引き裂かれた人間も貫かれた人間も、数え切れないほど見た。その惨劇への嘆きもまた、数え切れないほど。
強靱なエンテレケイアに比べ、人間はあまりに脆い生き物だ。
そのくせ愚かで、ひどく傲慢な。
この、こぼれ落ちていくばかりの赤黒い血を、弱々しく消えていく命を、引き止めるならば。
「一度は拾った命を、わざわざ捨て置くこともあるまい」
憐れむべきは、いったい何であろうか。
殊更に音を立てて水を蹴り、術式を組み上げて傍らに片膝を落とす。そうして血にまみれた傷に手を伸ばした、刹那。
不意に、血の気の失せた青白い瞼が震えた。
「あ……?」
夢うつつのようなものなのだろう。
半ば闇に沈んだ意識の曖昧さを表すかのように、意志の光を灯さぬ彼の眼差しもまた不明瞭だった。
「地獄、か……?」
「まだ死んではいない。だが深手だ」
もう痛覚すら麻痺しているのかもしれない。
聞こえているかも定かではなかったが、答えを返してやる。
「そっか」
届いたのだろう。そして殺されかれた自覚も持っているのだろう。微かな自嘲が彼の口の端を歪ませる。
「みんな、は」
「今ここにはいないが、おまえの仲間は無事だ」
おそらくは今頃ザウデの上で血相を変えて、消えてしまったこの男の姿を捜していることだろう。それを考えれば、このまま応急処置を済ませて、彼らのもとへ返してやればそれで済むことだ。この傷も高度な治癒術があれば助からないものではない。それこそ満月の子の治癒能力であれば、万に一つもあるまい。と。
「エステル、にバレたら……ぶっ倒れ、られそうだな……」
「他人の心配をしている場合か」
この状態からとなれば確かにかなりの負担を強いるだろうが。
さすがに呆れて言えば、乏しい息で彼はさらに言葉を紡ぐ。
「でも今、は……あいつも、命懸けだから」
その声は、一音ごとに遠ざかっていく。
ひとかけらだけ踏み止まっていた意識も、闇の奥へ落ちていっているのだ。
だというのに。
「無理、させらんねえ……」
最後に彼が残していったのは、まるで慈しむような苦笑の色だった。
──思わず、瞠目した。
「やはりかの娘は、自らの生命力を……」
こぼれたクロームの呟きは、幾ばくかの感嘆を帯びている。
このザウデに来てから、満月の子の力がエアルを乱すことはなくなっていた。おそらく彼らが救出後に対策を講じたのだろう。だがエアルの他に、力の根源となりうるものは限られる。
「そうなのだろう」
だからなのか。
夢うつつのようなものなのだろう。次に意識を取り戻したときには、この男は何を押しつけようとしたかも覚えていないだろう。だからその意を汲んでやる必要はないだろう。聞かなかったふりを、気づかなかったふりをして、このまま突き返してやればそれで終わるだろう。
だが、懐かしさにも似た、ひどく奇妙な感慨が胸にある。
人間はあまりに脆い生き物だ。そのくせ愚かで、ひどく傲慢な。
──理解、しているのだろうか。
思いも寄らぬ、敵ではなかったはずの人間に襲われ、死に瀕して。
残す言葉は、想いは、それなのか。
「重症だな」
ほどいた冷たい指から宙の戒典を取り上げ、デュークは僅かに苦い笑みを浮かべた。
ザウデ、ユーリ転落後。
いつかの夜明けを告げた光、そして。
どうかエルシフルの詳細をお恵みくださいナムコ様。
エルシフルの名前は、明けの明星こと「Lucifer」のもじりに違いないと固く信じています。