滔々と読み上げられる判決を、エステルはただ黙って聞いていた。
罪は暴かれた。
だが、それは真実とは異なっていた。
それでもそれが唯一の真実となっていく、そのプロセスをエステルはただ黙って聞いていた。
主たる被告人不在の裁判は、川が流れるように滞りなく進んだ。少しだけ伏せたエステルの目に、騎士団の席にいるフレンの姿が映った。無表情で目を閉じて、彼はただそこにいた。この予め用意されていた判決を聞きながら、彼が何を考えているかエステルにはわからない。彼は必要とされた証言を、必要とされただけ発言した。予め決められていたとおりに。
少しだけ歪んだ真実が、本当の真実とすり替えられていく。
ここで、ここにいない彼の名前が罪人として呼ばれることはない。
そっと息を吐いて思ったことの一つは、この結末を聞いたら彼は何と言うだろうかということだった。
世界は必ずしも、本物を必要としていない。
必要とされなかった真実
昼下がりのテラスに悠々と寝そべっていたラピードが、不意に尖った耳をぴんと起こした。
「どうしたんです、ラピード?」
ティーポットの中の紅茶の色を見ていたエステルが小首を傾げたときには、ラピードは座したまま頭だけを上げていた。その目はテラスのガラス戸を見据えている。
主人が行方不明になってしまった彼は、それまで少しも懐いてくれなかったのに、帰ってくるまで一緒に待ちませんかと申し出たエステルを認めてくれた。おそらく。だからフレンたちと帝都に戻ってきてからは、ラピードと共に下町へ降りることがエステルの日課だ。少し前まで世界の果てだった城門は、今はあっさりとエステルを送り出す。
それはいつもなら昼下がりの、ちょうど今頃の時間だったが、今日は朝から議場に詰めっぱなしだったので少し一休みしてから外出しましょうと約束した。すると彼は了承のように小さく吠えて、以後ずっと広いテラスの片隅で昼寝を決め込んでいたのだが。
と、テラスのガラス戸の向こうに待ち人の姿が見えた。
「エステリーゼ様、遅くなりました。やあラピード、君もここにいたのかい」
ガラス戸を静かに押し開けて、議場での表情が嘘のようにフレンがやわらかに笑う。重々しい正装は外した軽装になっていて、所作も軽やかだ。そのまま足下のラピードへも笑みが向けられると、長い尾を足下に降ろして彼はまた元の寝る体勢に戻ってしまった。その素っ気なさに、フレンはまた笑った。
「いえ、ちょうどいいところです」
ほっとしながらエステルも笑顔を返す。そして。
「ええと、お邪魔します」
「ようこそ。今日こっちに戻ってきたって聞いたんですけど、お時間大丈夫です?」
フレンの後ろからいささか緊張した面持ちで顔を出したウィチルは、エステルの言葉に慌てて両手を横に振った。
「全然問題ないです。それに僕もリタから、エステリーゼ様宛ての伝言を預かっていたので」
「リタから?」
彼らに席を勧めながら、エステルは僅かに身を乗り出す。
海上の捜索を打ち切った後もザウデに残ったリタとジュディスそしてウィチルは、後続の調査団と合流してザウデを調べていたのだ。星喰みなどという、途方もない存在に対抗する手がかりを掴むために。
「はい。僕は帝都で降ろしてもらったんですけど、二人はそのままアスピオに行ってくるそうです。リタは実験したいことがあるそうで、案がまとまったらジュディスを迎えに寄越すからもうしばらく待っていてほしいと」
つまり彼女は、何かを掴み取ったのだ。
「まあ! さすがリタです!」
「あのアスピオで天才の呼び名を欲しいままにしてるんですから、それくらいは当然です!」
「そうですね、リタはとても凄いです」
笑い返しながら、頃合いよく見えた紅茶を純白のティーカップにそそぐ。一つ、二つ、三つ、そこでふと、エステルは顔を上げた。四つめのカップ。
「あ、」
「ソディア? そんなところで何してるんです」
エステルが何か言うより先に、ぱっと振り返ったウィチルが、テラスの前で立ちつくす人影に、呆れた声を投げた。
「いえ、私は……」
俯き加減の彼女は、気まずそうに弱々しい声をこぼす。
ザウデでいなくなってしまった彼の姿を、最後に見たのがソディアだった。
だからなのかもしれない。
転落した彼がその後どうなったかは、今もまだ何もわかっていない。遺跡の外縁に囲まれた形になっているザウデ直下の海は、ザウデ浮上の際に海流から切り離され、大型船では入れない浅瀬になっている。そこを丸二日、夜を徹した捜索を行っても結局、彼の痕跡は何一つ見つからなかった。
もちろん誰も諦めてなどいない。警備のためザウデに残る部隊にはフレンが彼のことを言い含めてあるし、帝都に戻ってからは各地の騎士団へ手配などという手段まで取っていた。
それでもまだ、彼の消息はわかっていないから。
「あの、ごめんなさい、私」
「ソディア」
沈黙を誤魔化したくて咄嗟に口を開いたエステルが、何か意味のある言葉を見つけるより早く、フレンの低い声が隙間に滑り込んだ。
──ああ、また。
エステルは呟きをそっと胸中に沈める。また、議場にいたときのような顔。その言葉に嘘はないけれど、真実すべてではなかったときの。
「失礼だろう」
次いで、困ったように潜めた声で咎めた時にはもう、普段通りの気配をまとっていたけれど。
はっとしたソディアが、即座に姿勢を正す。
「申し訳ありません。大変ご無礼をいたしました」
「気にしないでください。私こそ、ずっと裁判の準備と本番でお疲れのところをお呼びしてしまって」
きっぱりとした口調で頭を下げる彼女に、エステルは即座に笑みを作って席を勧めた。人払いはしてあるから誰かに見咎められることもないし、そもそもこんなことは不敬に問うものでもない。
「恐れ入ります」
ぎこちない空気を振り払って、真っ白なティーカップを配る。
透き通った琥珀色から流れるベルガモットの香りはさわやかで心地よい。
「よい香りですね」
「はい。ちょうど良い茶葉があったんです」
脇によけてあった菓子のプレートを真ん中に置いて、用意はおしまい。
「まずは裁判、お疲れさまです」
努めて晴れやかに、エステルは笑顔を浮かべた。
「エステリーゼ様こそお疲れさまでした。騎士団法会議への御出席は今回が初めてでしたよね、進行の速さに驚かれたのではありませんか」
「はい。そうだって知ってはいたんですけど。本当に、あっという間に裁判が終わってしまうんですね」
小休止を挟みながらとはいえ、朝から昼過ぎまで一気に駆け抜けた。その間にエステルも証言を行った。なにせ帝都を襲った異変は自分の、満月の子の力を利用されてのことであったから。
「今回はアレクセイが死亡していましたし、事前の筋書きがあったので滞りなく終わりましたが、いつもなら丸一日は完全に潰れますよ」
用意された筋書き。
今日の裁判は必要とされた証言を必要とされただけ発言し、公式記録として残す、それ以上の意味はなかった。
エステルがフレンたちと共にザウデから帝都へ戻ってきて間もなく、アレクセイの裁判の日程が決まった。緊急時における臨時措置として代行に任じられたフレンに指揮権が与えられていたが、事件が収束した以上、謀反の事実を確定させてアレクセイを正式に騎士団長から罷免する必要がある。また騎士団の再編のためにも、事実関係は明らかにされていなければならない。
「隊長は初めてじゃないんですね」
ひょいとクッキーを口に放り込んだウィチルが、甘いと呟いた。
「議場に入ったことは何回かあるよ。でも証言台に立ったのは今回が初めてだな、認められたことがなかったから」
持ち上げたカップを少しだけ傾けたフレンは軽く笑うと、小振りのチョコレートを二つ、一度につまむ。
「フレンも甘い物、好きですよね」
ふと気づく。旅に出る前にもこうした場は何度となくあった。そこに添える菓子はエステルの好みにつきあわせる形だったが、クリームの多いケーキでも彼が苦手そうな素振りを見せたことはなかった気がする。
エステルの呟きに、フレンが笑う。
「さすがにユーリには及びませんが」
「ユーリはすごく好きですよね。作るのもとても上手ですし」
「ああそれは、菓子は出来合いより材料を買って作った方が安上がりなので、それなら自分で作れるようになった方が手っ取り早いって言って」
「それでだったんですね」
エステルもクッキーを一つかじる。口の中に転がり込んできた砂糖漬けのフルーツが、ひどく甘い。紅茶を含めば舌の上を僅かな柑橘の香りと、ほのかな苦みが撫でていった。
かつりとカップを降ろす。
「あのリヴァイアサンから逃げてきた人はどうなるんです?」
「犯罪者には違いありませんから、そのうち裁判が行われるでしょう。評議会の管轄になりますが、どんな結果になるにせよ身の安全は保証されます。死罪もありません。そういう取引ですから」
「そうですか……」
事の発端は、ザウデでイエガーが死亡した数日後、ザーフィアス城にリヴァイアサンの爪の幹部を名乗る男が転がり込んできたことだった。それもリヴァイアサンの爪がラゴウやキュモール、そしてアレクセイの命令で遂行してきた行動すべての、詳細な記録を携えて。
その男は、帝国に取引を持ちかけてきたのだ。
アレクセイの裁判の準備を進めていた評議会と騎士団は一時騒然としたが、フレンや投降した元親衛隊の情報に基づく検証の結果、持ち込まれた資料はアレクセイの陰謀をつまびらかにするための証拠として有効であると認められた。またこれによって、いったんは誤魔化されたラゴウの所業すら、その全貌が白日の下に晒されることとなった。
かくして取引は成立した。
そして。
「あのことは、私たちだけの真実になるんですね」
「ええ」
フレンは僅かに目を伏せて、しかしはっきりと肯定を口にした。
ユーリがラゴウとキュモールを死に至らしめた罪で帝国から裁かれることは、ありえなくなった。
真実は、真実でなくなってしまったから。
「僕も議場に入れてもらえたんで見てましたけど、しれっとした顔で証言してましたね隊長」
アレクセイの命を受けてフレンの隊が駆けつけた時には既に、キュモールはいなかった。マンタイクでの件について、それ以上を証言台のフレンが語ることはなかった。用意されていた筋書き通りに。
「なんだか引っかかる言い方だな。頭に叩き込んだ台詞すらまともに言えないって思われていたのか、僕は?」
「そ、そういうんじゃないですけど」
言葉を濁すウィチルに、フレンが笑う。
「わかってるよ。でも、あんな証言が出てきてからバラすくらい馬鹿正直な生き物だったら、とっくに告発してるんじゃないかな」
「ああ、それもそうですね」
即座に納得してみせるウィチルの横で項垂れたソディアが、消え入りそうな声で呟いた。
「……本当に、これで良かったのでしょうか」
何処かぼんやりとしていて、本当に独り言のように。
「知られなければ、罪がなかったことになるなんて、そんなことが本当に、許されて……」
それでいて何故か、まるで何かに怯えているかのように。
泣き出しそうにすら見える彼女に、ふとフレンが笑みを消した。
「帝国によって裁かれなければ、罪はなかったことになるのか」
そして何かを削ぎ落とした声で、切り捨てた。
「法なければ罪なく、法なければ罰なし。そうはいっても帝国法は国民共通のルール、物差しというだけだ。法に定められているだけが罪じゃない」
珍しく早口でそうまくし立ててフレンは、疲れたような嘆息をこぼす。
「裁かれなくても罪はある。本当になかったことになんて、ならない」
そう、罪が消えることはないだろう。
罪。たとえば殺した罪。たとえば殺してと願った罪。たとえば。
「こんなことに僕の短慮で巻き込んでしまって、申し訳ありませんでした、エステリーゼ様。ノードポリカであのとき僕が言ってしまわなければ、こんな風に秘密を押しつけるようなことにもならなかったでしょう。ウィチルにも、ソディアにも、すまないと思っている」
フレンが一呼吸置いてから、思い出したかのように謝罪を述べた。
「そんな、僕は別に。ラゴウにはさんざん煮え湯を飲まされてましたし、あちこちから恨みを買ってたんだから自業自得だって、ざまあ見ろってくらいにしか思ってなかったので……ちょっとビックリしただけですよ。あの人も思い切ったことしたんだなって、感心しちゃったくらいです」
ウィチルは騎士団の人間ではないからか、ストレートな答えを返す。
ソディアは唇を硬く引き結んで、何も言わない。その表情を今にも泣き出しそうだと、もう一度思った。もしかしたらずっとそうだったのかもしれない。──ずっと?
エステルはほろ苦い紅を口に含んで、小さく苦笑を作る。
凍った水面のように、彼の碧眼は透かせない。けれど。
「フレン」
少し生温い。
「私もいいんです。その前にマンタイクでのユーリとのお話、聞いてしまっていたから」
「というと……キュモールの時のですか」
エステルに目を向けて、フレンが戸惑うように瞳を揺らした。
「はい。ごめんなさい」
「ユーリはそれを?」
「知ってます」
「そうだったんですか。あれを見られていたのか……」
ひどく決まり悪そうに彼は、吐息混じりに呟く。
「私は、フレンが一生懸命に帝国法の勉強をしていたことを知ってます。それが、ユーリや下町の人を守るための道具としてだったことも知ってます」
そもそもエステルがフレンと親しく話をするようになったのは、城内の図書館で出会ったことによる。エステルはずっと本が友達だったから入り浸っていたのだが、そこにフレンが帝国法の勉強のため通うようになったのだ。そうして何度も見かけているうちにエステルも彼を見慣れてしまって、独学だった彼が難儀していた様子に思わず声を掛けてしまったことが、その後の交流の始まりだった。
「だから、あの時のフレンがユーリにあんな言い方をしてしまった理由も、わかるかもしれません」
あの時は気づかなかったが、今なら気づけることがある。
人が人を裁くこと、そして私刑を下すことを否定し、人は法によってのみ裁かれるべきだとフレンは言った。だが今はその法が充分に機能していないのも現実だ。貴族が平民を虐げているように、ラゴウにまんまと逃げられたように。今この時に苦しめられている人たちのために、だからユーリは選んでしまった。けれど。
そのことを、あの頃からフレンは理解していたはずだ。
「だからフレンは、ユーリのことを裁かないんです?」
作っていた笑顔が強張る感覚を覚えながら、エステルはフレンを見据える。
ユーリのしたことは、ひとつの罪だ。けれど。
「そうですね。ユーリのしたことに気づいた時だって僕は結局、裁かれるべきだとか、罰せられるべきだとか、そういう風に思いつきもしませんでした。単にあの時は」
フレンは困ったように、苦い苦い笑みを滲ませた。いや、これは。
「あの時の僕は、法を出しにでもしなければ、ユーリに二度とそんなことはしないでくれと、言うことすら出来なかっただけなんです」
色濃く落ちた陰りは、後悔と自嘲だ。
「僕はいつもそうなんです。肝心な時に限って、下らないことしか言えない」
カップの底に残る紅い色を見つめるように俯いて、フレンが独白のように言葉を綴る。なめらかに。
「やっと隊長にまで昇格しても、ラゴウには手も足も出なかった。僕も当事者の一人だったのに、簡単にあしらわれてしまった。自分の無力さを、いきなり一番嫌な形で思い知らされました。ラゴウがのうのうと裁きを免れたことを嘆いた、ユーリに何も言えなかった。あの時、本当に悔しかった。そんなことをなくすために僕は、騎士団に残って上を目指すことを選んだはずだったのに」
さながら罪の告白のように、なのに彼の声は綺麗に流れて、濁ることも躓くこともない。
思わずエステルは、薄く唇を噛んだ。言葉かもしれない、涙かもしれない、ともすれば溢れそうな何かを押し込める。けれど。
「だから権力が欲しかった。たとえラゴウのような大貴族相手でも、僕が何とかしてみせるから心配するなとユーリに言えるくらいの。それで功を焦って、アレクセイにもいいように利用されて、挙げ句にあんな莫迦なことまで言ってしまって、本当に情けない限りなんですが」
「でもそれは、フレンだけのせいじゃないです!」
悲鳴のように甲高く響いたエステルの叫びに、フレンが驚いたように顔を上げた。
「エステリーゼ様」
「すみません。いきなり大声を出して」
エステルはゆっくりと深呼吸をする。
あの夜に見た、笑えていない彼の笑い方を覚えている。だから。
「私だって同じです」
あの時の、黒く苦い感情が胸の奥に残っている。こびりつくように。
吐き出すように言葉にしても、それは消えないのだ。
「ラゴウの行いを私も見ていたのに、私の言うことなんて聞いてもらえませんでした。あの頃の評議会が皇帝に推薦していたのは私だったはずなのに、私の言葉なんて、何の力もなかったんです」
ダングレストでユーリに、何とか正当な裁きが行われるよう自分も努力してみると言った、そんなことが本当に出来るのか、一番疑っていたのは自分だ。皇族のエステリーゼは空っぽだと思い知った自分だ。だからフェローの真意を求めることに必死になっていたのだと、今ならわかる。
「ずっと、皇族に生まれて良かったことなんて全然ないって思ってたのに。あのとき初めて、もっと自分に力があればと思いました。貴族たちに私を無視させないだけの、力があれば」
指を重ねて絡めた自分の手を、エステルはきつく握りしめる。
「そしたらきっと、ユーリにも……あんな辛いことをさせなくて、済んだはずなのに」
彼は決して殺したくて殺したのではないと、知っている。だからこそ殺すしかなかったのだ。きっと。だから。
「だから私は、こうなってよかったって、思いました」
ユーリがラゴウとキュモールを死に至らしめた罪で帝国から裁かれることは、ありえなくなった。
本当の真実は、真実でなくなってしまったから。
「アレクセイの命令を受けてリヴァイアサンの爪は、用済みになったラゴウをダングレストで暗殺し、マンタイクでは逃亡したキュモールを始末した。それが真実になるんです」
数日前にヨーデルが告げた冷たい言葉を、そっくりそのままなぞる。
そして。
「私は、その真実でいい。ユーリは嫌がるかもしれません、でもユーリが帝国に裁かれなくちゃいけないなんて思えません。ユーリひとりにすべて押しつけてしまうくらいなら、私はそんな真実なんていらない」
エステルは歌うように呪うように、熱っぽい言葉を吐いた。
あの時、感じたのは歓喜だった。
ヨーデルに裁判での証言を頼まれたあの時、自分は歓喜したのだ。
アレクセイが自分を利用して行ったことのみならず、ラゴウの非道も今度こそ言えた。誰もが聞いてくれた。
一度は捨てられかけた真実を、白日の下に晒せることに喜びを感じた。
そして真実をひとつ沈黙によって葬ることに罪悪感と、ほの暗い安堵に似た喜びを覚えた。
静まり返ったテラスを囲む、木の枝がさらさらと風に揺れた。
その音を聞きながらエステルは、どうしてか滲んだ涙をきつく目を閉じることで溶かす。
「エステリーゼ様……」
ゆるやかなフレンの声が、気遣うように優しい。
「罪はあります。罰もあったかもしれません」
それでも泣けない。
泣くわけにはいかない。
「でも、許しもないです」
惑いなく言い放って、きっぱりと顔を上げる。
「私にも、あの人にも」
「……僕にもありません。許す資格も、誰にも」
「だったら、私たちは同じですね」
言ってエステルは、晴れやかに微笑んだ。
「そうですね。そうなんです」
フレンは吐息のような声を重ねて、凍った碧眼をうっすら細めた。
「もし本当に罪に問われていたら、あいつは潔く裁きを受けたかもしれません」
そのまま無感動なまでにひどく寒々しく、もしもの話を呟くように語る。
本物のように偽物のように。
「証拠らしい証拠は、本人の自白くらいしかないかもしれません。ただ相手がどちらもかなり上の貴族ではありましたから、他の貴族が過剰に騒ぎ立てたかもしれません。そうなったら無理やりにでも立証されて、斬首刑になっていたかもしれません」
「無理やりって」
「それまで一人もいなかった目撃者が、何処からともなく現れますよ。今の帝国で平民が貴族を相手に争うというのは、結局そういうことなんです。それを僕も、ユーリも嫌と言うほど知っています」
ふとフレンが、寝そべっているラピードに目を向けた。
「だから僕は……本当なら、わかっていなければいけなかったんだ」
それは、きっと独り言だった。
ひどく暗い声で。まるで別人のように。
「隊長?」
「何でもない」
ウィチルが声を掛けた途端にその薄暗い気配は霧散して、エステルはいつの間にか飲み込んでいた息を吐き出した。視界の端でソディアも、凍えたような顔をしていた。だがそれだけだった。
「そうやって言い訳しながら、本当は僕も、ほっとしてるんです」
ほろ苦く、フレンは笑う。
「ユーリが無事でいてくれたら、それでいい」
最後のそれは、やはり独り言のようで、祈りのようだった。
旅に出て、喜びと絶望を知った。
この目で外を見る喜びと、知り得たことをその先に繋げていけない絶望を知った。
そうして無力に膝を折って、彼の二度と消えない傷に罪を知った。
だが、ヨーデルはいずれ皇帝に即位してからも、きっとエステルの言葉に耳を傾けてくれるだろう。
皇位を継がなくても、皇族であることに変わりない自分は、これからも出来ることがあるだろう。
だから。
「ラピード」
傍らに屈んだエステルが伸ばした手が届く前に、ラピードはぱちりと片目を開けて立ち上がった。
「フレンは明日からダングレストにお出かけだそうです。フレンが帝都に帰ってくるよりユーリが帰ってくる方が早かったら、よろしくと言ってました」
微笑みながらそう言ってエステルも立ち上がると、ふんわりと揺れたスカートを手早く整える。
もうしばらくしたら暮れゆく空に、きっと明星が見えるだろう。
「外へ行きましょう」
城からでは見えないことも、私は見に行ける。
ユーリを待ちながら。
罪への許しは請わない。罰も恋わない。
不均衡な「囚人のジレンマ」。
プレイしていて感じたことですが、意外とユーリの方が理想主義で潔癖な思考を持っていて(あえて汚れ役も選んで)、実はフレンは割と現実主義っぽく割り切った思考もできる(けどユーリには理想を見たい)んじゃないかと思っています。フレンの考え方がとにかく法は守るべきなんだと絶対視しているわけではなく、法を守ることで結果的に守られるものをこそ重要視しているのではないかしらと。
フレン個人がユーリを裁いて罰するとかは彼が否定した私刑になるのでありえませんが、それでも帝国に告発して法の裁きを求めなかったことから、フレンには法を抜きにしたら「罪には罰を」という考え方は特にないのだなと感じました。ユーリもそうでしたが、良い意味でも悪い意味でも、二人の信条は因果応報と自己責任なのかもしれません。
みんなからユーリに向けられている感情を考えたとき、パーティインしないフレンもですが、この時は捕まっているエステルもあの「ユーリを泣かす会inクオイの森」に参加してないんですよね。帝都突入前、ハルルをこっそり出ていくユーリにヨーデルが思い出したフレンの言葉とか、デイドンでのカロルとデュークの会話とか、本当に切ない。
騎士団法会議=軍法会議です。「軍」という単語を使っていいのか迷ったので、置き換えました。