彼の帰還 ―――――――
「残念、入れ違いです」
目を通していた書類から顔を上げ、ヨーデルはおっとりと苦笑を浮かべながら、開口一番そう言った。
「──はい?」
思わずフレンは、帰還を報告する決まり文句も忘れて立ちつくす。
入れ違い。フレンは今し方、ダングレストから帝都に帰還したばかりだ。アレクセイの裁判が片づいたので、事件の詳細をユニオンにも報告に出向いていたのだ。星喰みのことはもちろん、リヴァイアサンの爪の所業はドン・ホワイトホースを喪った彼らにも決して無関係ではない。
現在も結局ユニオンとの関係は友好的とは言い難いが、帝国側も身内の不始末に誠意を見せる必要はある。かつてラゴウとバルボスの謀略を潰した一人であり今は騎士団長代行にあるフレンの来訪とその意図を、ユニオンの幹部たちも一定の理解を示してくれた。おそらくレイヴンの根回しもあったのだろう。シュヴァーンを葬った彼はギルドに根を下ろすと決めてしまったようだが、それだけに帝国とユニオンの間に良好な関係が築かれることを望んでいる。
またその途上の主要都市と各地の騎士団も見て回ることも出来たため、隊長歴すら極端に浅いフレンとしては今後の地固めとしても都合が良い旅であった。
しかし、入れ違い。
「どういうことでしょうか」
ひとしきり考えてから、フレンは問い返すことを選んだ。往復ともに天候に恵まれたため、予定より二日早い帰還となった。そもそも間に合わないようなことに心当たりはないと、そう思いかけて、はたと気づく。
あるではないか。
思考が顔に出たのか、果たして苦笑を強めたヨーデルは頷いた。
「ユーリさんの無事が確認されました。六日前の朝です」
「六日前……」
ヨーデルが強調した最後のそれを、思わずフレンも繰り返す。
「はい。残念ながらそのまますぐに旅立ってしまいました。あのバウルというエンテレケイアがここから北へ向かうのも目撃されたので、アスピオに寄って、もう次の目的地に向かってしまったでしょうね」
「……そ、そう、ですか……」
その瞬間、無性に頭を抱えて何か叫んでしまいたい衝動に駆られたが、すんでのところで飲み込んだ。
理解するのは容易だった。
バウルの迎えがあったのであれば、かねてからの約束通りにジュディスがエステリーゼを迎えに来たのだろう。北に向かったのであればおそらくはアスピオでリタと合流するためであり、その次に向かう先となればレイヴンとカロルのいるダングレストであることは考えるまでもない。ユーリが無事に見つかったなら尚のこと、少しでも早く仲間たちに顔を見せてやるためにも合流は急ぐだろう。
しかし六日前。ダングレストから馬を乗り換えながらの帰路は、七日を要した。
つまり、確かに入れ違いになったのだろう。
ふと気がつけば、いつの間にかヨーデルは笑みを噛み殺している。いったい自分が今どんな顔をしているのかは、あまり考えたくなかった。
「殿下……」
「ああ、すみません」
思わずフレンの口をついて出た声は情けないほど恨めしげに響いてしまって、悪びれた様子のないヨーデルの謝罪は形ばかりでしかなかった。と。
「あんまり気を落とさないでください。そのことで、エステリーゼからあなた宛の手紙を預かっています」
言ってヨーデルは、机の上に一通の封筒を差し出した。
「私にですか」
「ええ。それとユーリさんを確認したのはルブラン小隊らしいので、詳しい話は彼らから直接聞いてください。朝早くからエステリーゼたちと一緒に、元気に出ていったそうですよ」
フレンは一礼し、そうっと手紙を受け取る。流れるような筆跡でフレンの名が書かれたその真っ白な封筒は、エステリーゼの用いる紋章で封が施されていた。
彼女の罪 ―――――――
ヨーデルの執務室から出てきたフレンが、おかしいと一目で気づいた。
その顔は、強張っているような、わなないているような、ひどく奇妙な表情に陥っている。
帰還の報告のため部屋に入るまでは、少なくとも普通だった。
ならば中で。
「何かあったんですか?」
いち早く疑問を口にして投げかけたウィチルに追従するように、ソディアも目を眇めた。
「ああ、あった……」
絞り出すように答えたフレンのその手に、白い華奢な封筒が摘まれていることにふと気づく。勢い余って握りつぶしてしまわないように、そっとそっと。宛名書きに見える美しく繊細な筆致は、女性的だ。それも貴族の。この手紙が原因なのだろうか。では差出人は何者なのか。この人を、これほどまでに動揺させる、何かが。
「……ユーリが、見つかったんだ」
噛みしめるような確かめるような声が、ほろ苦く巡っていたソディアの思考を一瞬で、真っ白に塗り潰す。
──彼が、見つかった。
「ちゃんと生きてた」
彼は生きていた。
生きて、帰ってきて、見つかって、会って?
「ユーリさん、無事だったんですか!」
「無事、らしい。エステリーゼ様たちと一緒にもう出発してしまったそうだけど、ルブラン殿たちも出発間際のユーリたちに会ったとかで」
「ああもう相変わらず忙しない人たちですね。でも、無事がわかって良かったですね隊長」
「ああ……本当に、良かったよ」
晴れやかに笑うウィチルに、フレンも安堵が滲む笑みを返した。
そして。
「ソディア。君にもいろいろ心配をかけてしまっただろうが、それももうおしまいにするよ」
「い、いえ……」
向けられたフレンの目を見返せず、ソディアは咄嗟に視線を逃がす。
生きていた。彼が。
あの時、ナイフを突き刺した、ザウデから落ちていった、彼が。
自分が殺したはずの、この手で殺してしまったはずの、彼が。
「本当に……良かったです……」
生きていた。死んでいなかった。
微笑むように表情を歪めて、今にも脱力してしまいそうな足をソディアは、必死に踏み止まる。何が嬉しいのか何が苦しいのかもわからない、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
生きていた。彼が。
──ならば自分は、ユーリ・ローウェルを殺していなかった?
なんて、愚かで、醜い。
そんな考えを一瞬でもよぎらせた己の浅ましさに、吐き気すら覚える。それでも真実を何一つ言葉に出来ないでいるのだから、本当にどうしようもない。
「生きていて、くれて……」
凍えそうな虚脱感に身を投げて、いっそ大声を上げて泣きわめいてしまえれば、楽になれるのかもしれない。
それでも、なかったことになんてならない。
犯してしまった罪は、消えないのだから。
暁は地平線を過ぎた
彼女の手紙 ―――――――
フレンの帰還予定の日までまだしばらくあるので、この手紙を残します。
帰ってくるまで待てなくてごめんなさい。
先にヨーデルから聞いていると思いますが、ユーリが帰ってきました。
急にラピードがお城を飛び出して下町に向かったので、最初はビックリしました。やっぱりラピードは凄いですね。ユーリが下町に帰ってきたこと、すぐに気づくなんて。
ユーリはちゃんと無事です。ちゃんと元気です。
フレンは、ユーリからデュークという人のことを聞いたことがあるでしょうか。宙の戒典を持っていて、私たちの旅にも今まで何度かご縁のあったその人が、ザウデから転落したユーリを助けてくれたそうです。
みんな心配していたのに、どうしてもっと早く無事を知らせてくれなかったのかと尋ねたら、怪我のせいでさっき目が覚めたばかりだから仕方ないだろうとユーリは言っていました。
そのユーリの怪我ですが、左の脇腹に刺し傷が一つありました。ナイフのように鋭く尖った物が刺さった傷でした。ザウデの崩壊に巻き込まれた時に負ってしまったそうです。
幸いなことに致命傷にはならなかったらしいのですが、かなりの深手で出血もひどかったようですので、ずっと意識が戻らなかったというのはこの傷のせいなのでしょう。
もちろん怪我はきちんと手当てされてありましたが、まだ傷口が完全には塞がっていないようでしたので、私もしっかり治癒術を掛けておきました。
うっすら傷痕が残ってしまってますけど、もうちゃんと治っていますので、心配しないでください。
とはいっても、フレンもきっとユーリに会えるまでは気になってしまいますよね。
一日も早くフレンとユーリが再会できる日が来ることを、私も願っています。
それでは、行ってきます。
追伸。
私はフレンが知りたいことを、ちゃんと伝えられているでしょうか。
彼の決心 ―――――――
封筒の隙間にナイフを差し入れて封を開ける。逆さにすれば待ち受けていた手のひらの上に、綺麗に折り畳まれた便せんがすべり落ちる。そっと開けば、宛名書きと同様に流麗な筆致が文字を綴っていた。
彼女が残していった手紙は、さほど長い文面ではなかった。
「──参ったな」
思わず呟きながら、フレンは空っぽの片手を額に押し当てた。
そういえば彼女は聡い人だった。だが彼女が真実を知ってしまうことを、ユーリは決して望まないだろう。おそらくは誰に知られることも望まないだろう。
自分に知られることさえ、きっと彼は望んでいないだろう。
窓から見える帝都の街並みは斜陽に染まっていた。分厚い城壁の外に広がる下町は、ここからでは少し遠い。四年前、もういられないと、初めて聞くような声で、消え入りそうな声で一度だけ嘆いた彼は、それから間もなくあの壁の向こうへ去ってしまった。四年前、あの時の自分は何も言えなかった、何も出来なかった。
何が許されないのか、わかっている。
だからこそ、決めねばならない、覚悟があった。
もうとっくに、選んではいたのだけれど。
受け取った知らせ。
待ち焦がれていた夜明けは、地平線の彼方。
エステルは、フレンとソディアの様子がおかしいことは気づいていますが、ソディアのしたことにまでは考えが及んでいません。エステルがそんな発想を出来てしまうほどの決定的なヒントは彼女の前には落ちていないので、エステルにとってソディアの奇妙な態度は、魔核の落下に巻き込まれたユーリが転落したのを為す術もなく見ているしか出来なかったからあんなに大きなショックを受けているのだろうという結論になっています。
だから当事者たち以外でわかっているのは、ラピードとフレンとレイヴンだけ。