「陛下。私たちがテムザへ行くことをお許しください」
 彼女は静かに、だが迷いなく決然とそう言い放った。
 その言葉を聞いて、その意味を理解して、デュークは跪いたまま驚愕に目を瞠った。
 テムザ。その地は今、滅ぼされようとしている。







輝くもの天より墜ち







 その日、夜が明けたばかりのザーフィアス城内は騒然としていた。
 皇帝をはじめ上位の皇族が住まう上層の居住部はまだ嵐に巻き込まれていないが、既に下層では騎士団や事務官が血相を変えて走り回っていることだろう。まだ空が白み始めたばかりの頃に城に辿り着いた、テムザからの使者がもたらした報告はそれだけの衝撃を帝国にもたらした。
 そしてそれはデュークにとっても、絶望的な意味を持っていた。
 だから。
「デューク」
 聞き慣れた呼び声に顔を上げて、デュークは自分が深く深く項垂れていたことに気づいた。それから目の前に現れた彼女を見上げて、自分がどれだけ呆けていたのかを数秒遅れて理解して、慌てて椅子から立ち上がる。
──アルシオーネ様!?」
 現皇帝クルノス14世が皇妃アルシオーネ。
 今のデュークは帝国騎士団近衛隊に所属していて、皇妃の近衛を任じられている。だから時間になれば朝の支度を終えた彼女を部屋まで迎えに行って、彼女の公務に付き従うのが仕事だ。その時間にはまだ早い。しかも通常、同じフロアにあるとはいえ近衛隊の詰め所に皇族は立ち入らない。
 なのにどうしてかアルシオーネはいつもと変わらぬ美しさで、しかしいつになく厳しい眼差しで、デュークの目の前に立っていた。
「陛下のところへ参ります。あなたも来なさい」
 彼女は立ちつくすままのデュークの手をさらうと、有無を言わせず引っ張っていった。
 そしてテムザ行きを、夫でもある皇帝に直訴したのだ。



 始まりは、今から半月も前のことだ。デズエール大陸のテムザ山にある町の周辺で、尋常でない数の魔物が群れを成しているという目撃報告が多数上がった。
 テムザの町そのものは魔物を寄せ付けない結界ブラスティアの保護下にあるが、山麓の港から町に至る道は結界の外になる。まだ被害は出ていなくとも、このまま放置すればテムザは孤立しかねない状況であった。
 帝国皇帝クルノス14世はこれを由々しき事態と認め、即座に現地調査と住民警護のため騎士団派遣を決定した。その調査結果に基づいて、さらなる討伐部隊の編成が行われる計画だった。
 しかし騎士団の先遣隊がテムザに到着して最初に送り出したのは、魔物の調査報告などではなかった。
 テムザ陥落。
 夜も明ける前に城へ飛び込んできたこの火急の知らせは、これが単なる魔物の大量発生事件などではなく、もっと大きな異変の始まりだったことを帝国に思い知らせた。
 後に人魔戦争と名付けられた、それは人間と魔物の戦争だった。



「おまえたちはテムザの件をどう考えている」
 妃の唐突な申し出に諾否を答えることなく、クルノスは問いを返す。
 クルノスも既に詳報は受け取っている。デュークを伴ったアルシオーネと入れ違いに、騎士団長のアレクセイが緊急の増援を組織するための勅命を携え走っていった。
 多くの騎士たちにとって得体の知れぬテムザの事態だが、一部の皇族にとってはそうとも限らない。
 果たしてアルシオーネは、後ろに控えるデュークを一瞥すると悲しげに翡翠色の目を伏せた。
「おそらくエンテレケイアが関わっているのでしょう。あの結界ブラスティアを一撃で破壊しうる存在など、彼らの他に思いつきません」
「私もだよ」
 魔物を寄せ付けない結界ブラスティアに、人間と家畜の他に触れることが出来るのは超越者エンテレケイアのみだ。巨大かつ堅牢な結界ブラスティアを一撃で破壊することも、彼らの力を持ってすれば容易いだろう。
 その答えは、デュークの辿り着いたものと同じだった。
 エンテレケイアたちは、何らかの理由でもってテムザを滅ぼすと決めたのだ。
「……気持ちはわかる。だが向こうの状況もわかっていない。危険すぎる」
 真相を確かめる必要はある。だがテムザへ向かわせて、二人に彼らの爪や牙が降りかからない保証はない。テムザに入った騎士団の先遣隊は混乱の中、その半数以上が生死不明だ。
 苦悩の滲むクルノスに、しかしアルシオーネは笑みを浮かべて首を振った。
「危険は承知しております。ですが陛下、これはヒュラッセインの義務でもあると思うのです。気高きエンテレケイアが、無意味な殺戮を行うとは思えません。きっと私たち人間が、何か重大な禁忌を犯してしまったのでしょう。ですから私は皇帝の名代として、彼らに話し合いを求めたいのです。今もテムザに取り残されている人々を救うために、そして私たちのデュークが、大切な友を失わないために」
 デュークは、彼女の言葉にきつく唇を噛みしめる。
 アルシオーネはすべてわかっている。
 だからテムザ陥落の報せに打ちひしがれていたデュークの手を引いて、ここまで連れて来たのだ。



 テムザの前触れと時を同じくして、デュークの友にも一つの異変が起きていた。
 人ならざる友エルシフル。偉大なる超越者がどんな気まぐれか、小さな人の子と友誼を結んで十年が過ぎた。深遠なる世界の理を語り、すべての生命を愛し、異端の子をも慈しんだ彼は、しかしデュークに何も告げず、仮の住み処としていた森から姿を消してしまった。



「デューク」
 立ちなさい。促されるまま立ち上がったデュークの前に、クルノスは腰から鞘ごと引き抜いた剣を差し出した。
 宙の戒典。
「よろしいのですか、陛下」
 咄嗟に受け取ってしまったこの剣は、帝国皇帝の証だ。
 驚きに目を瞬かせてデュークが問い返すと、クルノスが困ったように笑った。
「良くはないのだろうが……何かあってから後悔したくはない。それにこの剣は、ただの剣ではないのだよ」
 その言葉どおり、それまで鈍い緑色を帯びていた刀身は、デュークの手に渡ると透き通った真紅へとその色を変えていった。その輝きに嬉しそうに目を細め、クルノスは言葉を続ける。
「ああ、美しい、良い色だ。──デューク、この宙の戒典はエアルに直接干渉する力を持っている。それにこの剣を造り上げたのは、我ら満月の子の祖とエンテレケイアだと伝えられている。皇帝の名代たる証として、これ以上に相応しい物はない。きっと、おまえたちの助けになるだろう」
 だから。
「二人とも、必ず無事に帰ってきてくれ。そして私にもデュークの友を紹介してくれないか」
 それを約束してくれなければ、行くことは許可できん。
 宙の戒典を持つデュークの手に、クルノスが手を重ねた。
「……お約束、します」
 どちらも手袋越しだったが、その手は不思議とあたたかかった。



 船の向かう先に、陸地が見えた。
 その遥か向こう側、山の中腹から細く立ち上っている幾筋もの黒い煙も見えた。
 もう手遅れではないのか。
 うっすらと滲んだ黒い予感に、デュークは腰に佩いた宙の戒典の柄をきつくきつく握りしめる。
 もうすべて殺し尽くされてしまったのではないか。
 もう彼の手も、おびただしい血に染まって。
 と、デュークの手を包み込むように、細い手のひらが重なった。
「デューク、一人で勝手に諦めてはだめよ」
「アルシオーネ様……」
 小さな子供に言い聞かせるような優しい声で、そして優しい笑顔で、アルシオーネは微笑んでいた。
「ちゃんと会って、まずは彼の本当の気持ちを聞くの。それからデュークの気持ちを伝えるの。友達だもの、話せばきっとわかりあえるわ。またみんなで一緒に生きていけるように、出来ることを探しましょう」
 大丈夫。きっと何とかなる。
 それはデュークが彼女と初めて会った時から何も変わらない、母のように姉のように優しい笑顔だった。










 父の言葉どおり、宙の戒典は守ってくれた。
 狂わされた満月の子の力から。
 焼け野原にたった一人立ちつくす、デュークの手で宙の戒典は紅く輝く。
「エルシフル。アルシオーネ様」



 ──どうして自分だけが、生き残ってしまった。
 答えは返らない。







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人魔戦争関連を含めPLANETESシリーズの捏造設定はXbox360版当時にあらかた作っていたので、レイヴンやジュディスの公式外伝小説とはいろいろ異なります。すっかり固まっていて作り直しようがないので今後もこのままです。

当時のデュークは17歳くらい。まだ人間社会に身を置いていた頃。
皇妃アルシオーネは一応は継母だけど12歳しか違わないで、デュークを弟のように可愛がってました。クルノスとは8歳差の夫婦。戦争末期、エルシフル殺害に利用されて非業の死を遂げることに。