▽ 「表」と「裏」と、「闇」の遊戯
update.2001.6.5.

 せっかく『遊戯王』ページをつくったのだし、一つ書いてみたり。
 「遊戯」の捉え方について、思ってること。


1. 二 人 の 遊 戯

2. 二 人 の 邂 逅

3. 二 人 の 存 在






 1. 二 人 の 遊 戯


 私は小説の文中など以外では、遊戯の呼び分けに「表」と「裏」と「闇」の3つを使っている。本来の「武藤遊戯」たる遊戯を「表」、そして古代エジプトのファラオであるらしいところの遊戯を「闇」。なら「裏」はいつ使ってるということになるが、これはもう今となっては滅多に使わない呼び方。私にとってはという但し書き付だけれども。

 私の呼ぶ「裏遊戯」は、DEATH-T篇までの闇遊戯のことになる。
 「もう一人の遊戯」たる闇遊戯は、表遊戯が千年パズルを完成させたその時からときどき現れるようになるが、その頃の彼と今の彼とでは、いろいろと特に内面が違うように思える。また、これこそが最たる理由なのだが、表遊戯はその存在を「知らない」頃でもある。
 表遊戯は、この頃は裏遊戯がステージ(※)に立っている間のことを覚えていない。にもかかわらず、裏遊戯は表遊戯の記憶をなんら違和感なく持っているし、それはその後も変わりない。
 これはおそらく、表遊戯が「もう一人の自分」の存在を知らなかったからだろう。「遊戯」は確かに裏遊戯の間の出来事も記憶しているが、表遊戯がその記憶の存在自体に気づいていない。本当は知っていても、呼び起こそうにもその記憶は「ない」ことになっていて、表遊戯からすれば「知らない」こととなる。
 裏遊戯にとっても自分は「遊戯」であり、どこまで区別していたのかは定かでない。シャーディーの接触で混ざり合っていた二人が明確になったという気もする。なにしろ裏遊戯が一人称に「ボク」と使ったこともある(対海馬初戦の#10など)。

※ステージ:いわゆる「意識」上のこと。どちらかの人格が表面化することを「ステージに上がる」などとして、この文に限らず当サイトでは用いている。

 2. 二 人 の 邂 逅

 これが一変するのが、DEATH-Tの終盤。表遊戯が感じ始めていた「もう一人」の存在を、城之内と杏子の言葉でもって容認し受け入れたことで、表遊戯がステージ上になかった間のことも知ることが出来るようになる。これは同時に闇遊戯が闇遊戯として在ることを、身近な人からも目を向けてもらえたことで、闇遊戯自身がはっきりと認識したことにもなるかもしれない。
 ここから表遊戯と闇遊戯は、お互いがお互いの存在を認識して、はっきりと「別人格」として歩み始める。

 対闇獏良戦中の#53でついに初対面を果たし、ペガサスに破れた直後の#63では表遊戯が闇遊戯のことを内側で感じ取っている。さらには城之内対竜崎戦のさなか、城之内へ助言するか否かの時に秘かに初会話も成立していた(と見なしていいと思う)。
 この会話でも多少は意見の相違が現れているがそれ以上に、その後の対海馬戦の終局こそ顕著だ。
 「この後」はもうありえないとばかりにひどく思い詰めた闇遊戯と海馬の二人はそれぞれ、ここでとんでもない決意をしてしまう。海馬はモクバを助けられない自分など到底許容できるものでなく、負ければ死ぬことを宣告する。一方で闇遊戯も負けることで祖父を助けられなくなることを恐れ、海馬を殺すことになってしまっても勝つことを選ぶ。
 結局すんでの所で割って入った表遊戯によってこの一戦は遊戯の敗北で幕を下ろすが、表遊戯は命のやりとりまではらんでしまったゲームを、そして闇遊戯のことを「怖い」と言った。しかも舞が返すと言ったスターチップを、闇遊戯ならきっと受け取らないと言っていったんは断ってしまう。
 表遊戯にとっていつもすぐそばにあったはずの闇遊戯の心が、このことで理解できなくなってしまったからだろう。存在を認めてからずっと一緒に歩んできたもう一人の自分が、間接的にせよ突き落としてでも勝とうとしたことは、表遊戯にとってはありえない、理解できない選択でしかない。

 ところで闇遊戯に、本当に海馬を殺した十字架を背負う覚悟があったのか定かでない。目前の負けを受けとめ次を求める覚悟さえなかったときに、まさかそれがあったとも思いがたい。思いあまって取り返しのつかないことをしそうになった自覚はあるのか、その後もあの時の遊戯の行動を否定的に感じているようなシーンは見られなず、むしろ肯定的のようだった。いやさすがにこれは贔屓目か?

 3. 二 人 の 存 在

 二人はいつも同じではなく、思いも考え方もそれぞれで持っている。
 そして対ペガサス戦のさなかマインドシャッフルに至り、それからは対外的にはともかく二人の中では、二人は二人として存在しているも同然の、確固たる状態を獲得する。二人はお互いの存在を尊重しあい、お互いの心を「自分と同一」ではないと気遣いあうようになる。

 だがしかし、安定を得たかと思ったら今度は、闇遊戯の出自の謎が舞い込んできてしまうことになった。それまではどんなにすれ違っても、二人の存在の根底にまでは波及していなかったが、まるで次元が違う命題である。特に闇遊戯にとっては、「自分は遊戯である」という自分自身の存在の足場がいきなり崩れるようなものではないか。
 表遊戯の「記憶をあげる」の言は、つまり「自分は遊戯である」拠り所を共有した別人格のままでいたい表れだろう。闇遊戯の自分探しをとどめるような発言は、闇遊戯の本当の場所が見つかって、そして闇遊戯が自分のそばから去ってしまうことこそ、恐れている。「自分の中のもう一人の自分」なら、決して「自分」のそばから離れることはないだろうが、他人となるとそれは言い切れない。
 自分探しを闇遊戯が行うことは、すなわち自分は表遊戯の別人格ではなく、まったく別の他人であると認めることを意味する。「遊戯ではない自分」を探すということはつまり、「自分は遊戯ではない」という闇遊戯の認識からすべて始まる。
 そして自分探しの結果もたらされる何か、表遊戯の感じた別れの可能性などに対し、不安を覚えているかもしれない。表遊戯を気遣いながらも、自分の恐怖をまったく映していないとは思えない。

 それでも、かけらでも知ってしまったからには、もう知らなかった頃には戻れない。どんなに見て見ぬふりをしていても、一度わき起こった不安がきれいさっぱり消えることもないのだ。
 闇遊戯は「遊戯ではない自分」を探すことを選び、表遊戯はその道を一緒に歩むことを決意する。
 行き着く先にある何かを受けとめる覚悟を持って。

 蛇 足

 一応これって小説で書いてみたいテーマなのです。一説ぶろうってのよりもホントはそっち本命(笑) でも大きすぎてそう簡単にはいかないので、潰れてももったいないし先に一度まとめてみました。
 この文も今後、ちょこちょこと書き直したり書き足したりするかもしれません。

 ところで、私は表ちゃんは闇ちゃん=名の失われしファラオの(ある意味で)生まれ変わりではないかと思っていたりするんですが。真DMでうかがえるあれこれが今後どう関わるにせよ。
 でも、どんな答えが出されても、いつか二人が分かれても、表ちゃんと闇ちゃんは別れ別れにはなってほしくないですよねやっぱり、絶対に。