P r e l u d e 3 〜 W h a t C h i l d I s T h i s
始まりは、きっと、出会ったあの瞬間。
「もう、次の婚約が」
切れ上がったアメジストを冷ややかに細め、マギーはつぶやいた。
聞かされたのは、婚約するはずだった男の死。
そして、新たに婚約することに決まった男の名。
しょせんそんなものだ。今更、何を言うことでもない。ボウフォートの家に生まれた娘、ならば。
エドマンド・テューダー。ヘンリー六世とは異父兄弟らしい。ヘンリー五世の妃と恋に落ちたその男の父は家柄は決してよいとは言えなかったが、それ故に、彼女との婚約が用意されたのだろう。マギーはもうじき十を迎えるのだから、婚約から結婚まで普通の倍、そう二年は年月が空くだろうが。
しょせんそんなものだ。今更、何を言うことでもない。ボウフォートの家に生まれた娘、ならば。
すでに一度、覚悟していたことだ。
「その方が、こちらに?」
まだ到着していないが、晩餐を共にする予定になっていると聞いて、さすがにマギーは大きく目を見張った。
十三も年上ということは相手は立派な成人だ、それがわざわざ、会ったこともない決まったばかりの婚約者のもとに出向いてくるとは。
イングランドは内乱のさなかにあった。ランカスター朝にヨーク家が対立を明確に示したのは五十五年、今から五年前のことだった。それは今も続いている。彼はウェールズに領地を与えられているらしいが、東部にあるここリンカンシャーにまで来ている暇があるというのか。
いったいどんな人間なのかと思うが、彼女に求められているのは、ボウフォート家の娘として相応しい生き方のみだ。それ以上でもそれ以下でもない。
しょせんそんなものだ。今更、何を言うことでもない。貴族の家に生まれた娘、ならば。
「私はマーガレット・ボウフォートなのだから」
何食わぬ顔で侍女の目をすり抜け、広大な庭に下りる。色濃く茂る、木々の向こう側。
彼女にとって秘密の空間だった、小さな森のような一角の、小さな泉に。
「……ここは私の場所よ」
後から思えば、他に言うこともあったのかもしれないけれど。
ため息まじりにマギーが言い放った一言に、その男は笑って振り返った。傍らで泉に口を付けている、炎のたてがみと翼を持った白馬の首を、労るように撫でながら。
「それは失礼。こいつが、どうしてもここに来たいって聞かなくてよ」
ひときわ明るく濃い色の金髪が、さらさらと揺れた。
それが、最初だった。
彼が息を引き取ったと、知らされたのは身重のときだった。
――もう少し生き長らえれば、あなたの子を見せることも出来たのに。
吹き抜ける風に何かがごっそりとさらわれたような、空虚が重い。
けれど、何もかも捨ててしまうことなど、出来なかった。
それを諦めではないと、思いたかった。
「だって、あたしはマギーなんだからね?」
大きく膨れた自分の腹を愛おしみ撫でながら、微笑む。
声を上げて泣くことはなかった。
涙が幾筋か、伝っただけだった。
死に別れて、それで終わらなかったら、いつ終われるのだろう。
百年戦争の痛手を引きずったイングランドが王位継承を巡る内乱に突入したのは、ランカスター朝がヘンリー六世の御代、一四五五年五月のことである。
このセント・オールバンズの戦いを皮切りに、国内の貴族はランカスター派とヨーク派に別れ、両派の間で何度も戦火が交えられた。その最初の決着は、六一年の春にヘンリー六世が王位を追われ、エドワード四世が即位したことでつけられる。
しかしそれは内乱の終結とはならなかった。エドワード四世は、即位において後ろ盾だったウォーリック伯ネヴィルの用意したフランス王家との縁談を疎んじ、ランカスター派の貴族の生まれであるエリザベス・ウッドヴィルを妃に選んだ。このことで両者の関係は悪化し、以降ネヴィルは、ヨークに属しながらエドワード廃位の陰謀を巡らせるようになる。
そして一九六九年、夏。白き薔薇のヨークが玉座を飾って八年が過ぎたこの年、ネヴィルは王弟クラレンス公ジョージを味方に引き入れると、報復に打って出た。この挙兵は成功し、重用されていた王妃エリザベスの一族の者を処刑、さらにはエドワード四世も幽閉してしまう。しかし折り悪くもランカスター派の貴族が反乱を起こしたため、鎮定のためにも王の解放は時間の問題と周囲に見られていた。
それは、赤き薔薇のランカスターがヘンリー六世の妃マーガレットの下で再び反撃に転じる、およそ一年前のことである。
「今回のはンな大規模じゃねぇし、どうってことなく鎮められるだろうよ」
キァンはそう言い切るとことさら大げさに肩をすくめた。水のような色をした碧眼も、今は面倒くさそうに細められている。
イングランド南東部サリーの片隅、豪奢な館の一室で、わりと簡素なドレスに身を包んだマギーはそれを聞いて息をついた。我の強さがうかがえる、切れ長の目を伏せて。
「でも、ウォーリック伯はそのつもりじゃないんでしょう?」
返す声は、問いというより単なる確認でしかない。
「あの人は誰かを立てることには長けていても、自分が立つのには全く向いてないね。ヨーク派からも睨まれてきたし、このまま孤立無援、失脚かな」
キァンの傍らに立つミァハがのんびりと肯いた。まるで揺れない笑顔のままで、しかし口にする言葉はどこか辛辣だ。
どちらも年の頃はマギーよりいくらか上だろう二十歳頃、もう立派な成人として扱われるどころか普通ならば子供の一人二人いてもおかしくないが、そんな俗っぽさをまるで感じさせない。双子だというのは、彼女もかつて彼らの口からも聞いたこともあるのだが。
「しばらく荒れるね。僕もエドワード四世解放に一票入れるよ」
「つーか、あの様子だと、そんな先の話じゃねぇな」
鏡映しのようにそっくりでありながらひどく対照的な二人は、揃って言外に促している。それをよくわかっているからこそ、彼女は嘆息した。
彼らが仕えているのは、自分ではない。
「わかってるわよ」
マギーは国内でも有数の貴種の血を引き、この二人はそもそも貴族ですらない。それでも対等の物言いを許しているのは、それだけの理由がある。
「もう数年と経たないうちに前王妃は動くでしょうね、このままフランスを味方につけたら。そうなって、結果がどちらに転ぶかはわからないわ。もしも失敗したら」
「旗頭が生きてる今でさえ暗に警戒されてることだし、もしもヘンリー六世が弑されたらその先、矛先が向くかもしれない、だよね」
誰にとは、口にするまでもなかった。
「混乱してる今のうちに国外へ脱出させるべきなのは、わかってるわ」
うめくように言いながら、マギーは手にしていた、古い金のブローチを見つめる。
「だからこそ、その前に。あの子に誰かを付けてあげたいって、思うのよね」
生きる時代が違っていれば、少女とも呼べる年齢だったけれど。
笑ってみせた、それは紛れもなく母の顔だった。
すべての終わりをこそ、望んでいるわけでは、ないけれど。
「キッツ、遅いじゃない」
ひどく投げやりじみたマギーの呼び声が響くなり、少し赤みを帯びた金髪の男が略式の法服をひるがえして勢いよく振り返る。
「あーくそ、それいい加減にやめろって、マギー!?」
そのままずかずかと大股で、マギーが顔を出しているテラスのすぐ下にまで彼は歩み寄った。
「キッツはキッツでしょ、クリストファー?」
それを見て、気怠げにくすんでいた紫水晶が、一転して挑戦的な光に輝く。
「だからジョーノとなぜ呼ばねぇ? って何度言わせるんだ、おまえは?」
見下ろされているジョーノは歯噛みしそうな引きつった笑顔で、もはや挨拶じみた応酬にお決まりの台詞を返してきた。
「そうね、一生言ってれば?」
「冗談じゃねぇぞ!」
この年にもなってとジョーノが息巻くのも、無理はないだろう。キッツは確かにクリストファーの愛称だが、子猫という意味も持つ。
息子の話し相手として選んであてがった子猫だと、今よりずっとずっと小さかったジョーノに言ってやって、もう何年経っただろうか。
それはそのまま、マギーがたった一人の息子と遠く離れて生きるようになった年数でもある。数年に一度会えるかどうかの日々は、そう、もう十年にもなるか。
「どう? そっちの調子」
建物を回り込んだジョーノが彼女のいる部屋を訪れたと知るやいなや、マギーがすっと目を細めた。声すらも、意識せずとも鋭く冷える。
「概ね上々と言ったところだ。こちらがヨーク側に譲歩してみせたことで、エドワード四世もことさらユギを危険視する必要はないと判断したようだな」
それは、ジョーノさえも同じだ。たわいもない会話をしていたときとは、空気を正反対に塗り替えてしまう。聖職者としての修練を受けたことで自然と朗々たる響きを得た、彼の声も張り詰める。
「相応の利を約束してくれたら無理に王位を望む気はないって、理解してもらえたようね。相続権は?」
「今回はまだ濁されちまったが、なに、吹っかけられずに確保してみせるさ」
口の端を片方軽く持ち上げ、不敵な笑みを刻む。そんな笑い方も、彼がユギに関わる件の交渉役を一手に引き受けるようになって、よく見せるようになった。
「わかった、頼りにしてるわよ。……あの子は、元気?」
それでも。
「ああ、元気だぜ」
ふっとやわらかに、明朗に笑ってみせる、この笑顔も変わらない。
「そっか、……よかった」
そう返した声がマギー自身思わぬほどに細くて、ジョーノが怪訝に眉根を潜めたことにも、気づかない振りをした。
この世に終わらないものなど、ない。
「あなたが生きてたら、なんて言うかしらね?」
グラスを手のひらで遊ばせながら、マギーは肖像画を見上げる。
ずっと昔、婚約してそう間もなかった頃、幼さからの我が侭を押し通して描かせた物だ。今となっては、彼女の手元にあるたった一つの、今は亡きエドマンドの面影を忘れさせない物だ。
「似てる、って言ったら似てるか、やっぱり」
肖像画の不変の年齢と、重ねられていくジョーノの年齢と、近づいてくればマギーにも頷けるようになった。
もともと近しいケルト系の血を引いているのだから、顔立ちや色合いなどの特徴が似通っていても特におかしいことではない。その点で言えば、色素が極端に薄いバクラの双子の方こそが異質と言える。
だが。
「でもなー、やっぱり、あいつは駄目よ、ユギ」
今は遠く海を隔てたブルターニュに暮らす、息子に。
いいや、彼女の記憶の中にある七年前の息子に、呼びかける。
あの肖像画をブルターニュに持ち込み、ユギに見せたことが一度だけあった。
「お父様は今も空の上で見守ってくださっている、か」
あの時もそう息子に言った。
だが、むっと難しい顔をしたユギは、すぐに首を横に振ったのだ。
いらない、と。小さな手に、首から下げていた簡素な十字架を握りしめながら、ユギはそう言ったのだ。
――母上とジョーノの方がいい。
その言葉に、ユギを膝に抱き上げていたジョーノと、その隣にいた自分は、呆気にとられて顔を見合わせる他なかった。
笑ってしまうしかなかった。それ以外の誤魔化し方が出来るほど、自分たちは子供ではなかったし、また大人でもなかった。
あの時の自分は二十一で、ジョーノは十四だった。彼はすでに聖職の道を志すと宣言していた、自分はすでにそれに援助を惜しまないことを約束していた。
あの時の自分の年齢になった今のジョーノは、もうじき司祭叙階式を受けることになると、彼を任せた司教から連絡を受けている。
そして、自分は再婚するのだ。
貴種に生まれた女として。
「だからさ」
マギーは一気にグラスの中身をあおる。
「無理、なのよ……」
陽が沈む。
紺碧のベールを引くように移りゆく光の色を茫と眺めながら、ぽつりぽつり、彼女は子守歌を口ずさむ。
かつて自分に、息子に、歌ってくれた子守歌。
その歌を聴いたことなど数えるほどで、しかも二人は違う言葉で歌っていたから、マギーも旋律しか覚えてはいない。
それでも、歌う。
それでも、忘れていないから。
だから、もう、終わりを望む。