暗い、暗い水の底だった。 ただ一人、見ていた。 「――相棒!! 城之内くん!!」 血を吐くかのごとき叫びも、どこまでも沈みゆく二人をとどめらることなど出来なくて、何の意味などなくて。 手を伸ばして走り出す、しかし不意に腕が捕らえられ、それすら叶わない。 「離せ……!」 剣呑さをはらんだ視線が振り向いた先を突き刺す。 濃い影に隠された誰かが、彼の腕を固く握りしめて離さない。 離れない。 必死に振り解こうとしても、びくともせず。 「離せ!!」 張り上げる声も、ただ虚しく響くだけで。 「手を、離せっ!!」 影を睨みつけた彼の眼差しは、鋭く研ぎ澄まされていた。 いや。いっそ。 胸中に剣呑な激情すら滲みかけた、その時。 薄く開かれた影の口元が見えて、何かをささやく―― 「貴様……!!」 彼は我を忘れて影に掴みかかる。 すぐ近くにまで詰め寄ったことで、影が薄れて。 「今、――っ、な、に……?」 露わになった相貌を目の当たりにして、彼は凍りついた。 見間違えるはずもない。 そこにいたのは、もう一人の自分でもなく、彼自身だった。 ――おまえのせいだ―― 身体の震えが止まらなくて、影の胸ぐらを掴んでいた手も力を失い、よろめきながら彼は後ずさる。 ――おまえのせいだ―― 繰り返し、繰り返し。 いつの間にか影の姿もどこにもなくて。 ささやきだけが、木霊していた。 ――おまえのせいだ―― いつの間にか、目の前にぐっしょりと濡れそぼって微動だにしない二人が横たわっていた。 ――おまえのせいだ―― その傍らでくずおれるように膝をついた彼の伸ばした指先が触れた、二人の頬はまるで氷のようで。 ――おまえのせいだ―― ぬくもりなんて、どこにもなくて。 「何もかも。オレのせいだ」 つぶやいた声は、深い絶望に彩られていた。 冷たい、冷たい水の底だった。 「夢」 声に出してそう言ったのは、誰かに笑って肯いてほしかったからかもしれない。 一気に覚醒する頭で、遊戯は一つずつ現実を認識していく。 バトル・シティの決勝トーナメント会場たる飛行船。割り当てられた部屋。 「――ああ、そうか」 このソファに座って、二人でデッキの確認をしたまでは覚えているが、どうやらそのままうたた寝してしまっていたらしい。部屋の掛け時計を見ると、さほど長い時間だったわけではないようだ。トーナメント開始の八時まではまだしばらくある。寝起きすぐなどというはめにならずにすんでよかったとため息をつく。 そうしているうちに、早まっていた鼓動は落ち着いてきたが、背筋にひやりとした痕跡を感じた。先ほどの夢にうなされ多少の冷や汗をかいたらしい。 拭いきれない重苦しい気分に再び息をつきながら、ようやく自分がステージに上がっていることに気づき、遊戯は当惑した。 自分は奥にいたはずなのに。 「相棒……?」 ゆっくりと意識を内に向けると、すぐに、未だ穏やかな眠りの中にいる遊戯の心が感じ取れた。 ――そのことが、こんなにも安堵を与えてくれる。 「あれは夢だ。相棒も城之内くんも、生きている」 それこそが紛れもない現実。 微笑もうとして、けれどうまくいかず、結局はどこか泣き笑いのように歪んでしまう。 「生きて、いるんだから……」 ねっとりとした唾を飲み込むと喉がひりつくような乾きを訴えだして、遊戯はソファから立ち上がった。 部屋の隅にある小型冷蔵庫から適当なスポーツドリンクを拾って飲み干すも、不快感は消えず、ちょうど目に留まった洗面台に向かう。洗面台があるならもちろんトイレなどもあるわけで、至れり尽くせりだなとどうでもいいことが脳裏をよぎった。どうせ決勝トーナメントが終われば、この飛行船はもっと相応しい用途に再利用されるのだろう。 ちゃんと冷水が出るのかとまたどうでもいい感嘆を覚えながら、遊戯はいささか乱暴に顔を洗った。備え付けのタオルに手を伸ばし、じっとりと水気を含んだ前髪ごと顔の滴も吸わせる。良質のタオルのようで肌触りも吸水性も申し分なく、ふと海馬を思い出して笑いがこみ上げた。あの傲慢ですらある彼とは何処かかみ合わないような、不思議なこれは、バランスなのかアンバランスなのか。 そして、ふと顔を上げた遊戯の視界が、大きな鏡で埋め尽くされて――鏡の中の影が、夢の中の影と同じ言葉をささやいた、気がした。 「……っ」 たまらず鏡から目を背けた。 タオルも棚に投げ捨てると、目に留まった扉へ足早に駆け寄り、逃げるように遊戯は部屋の外へと出た。船内にマリクも入り込んでいる以上、あまり不用意な行動をとるべきではないとわかっているが、あのまま部屋でじっとしていたら気がおかしくなってしまいそうに思ったのだ。 案の定、船内の廊下には誰の姿も見えなかった。あまり離れていない城之内の部屋からは、他の皆もいるのか微かに騒ぐ声が聞こえたが、こんな有り様のままでその輪に入る気になれない。一瞬だけ扉の前で足をとどめかけるが、遊戯はそのまま通り過ぎてしまった。 そのまましばらく、足下を照らすフットライトが点々と並ぶ廊下を道なりに歩いていると、その気はなくても、だいたいだが船内の様子を伺い知ることが出来る。 夜の街並みを眼下にどこかへ向かって航行を続ける飛行船の中は、例えば大会に使われる区画などは、無骨な金属壁が露出したままがほとんどだ。しかし、遊戯があてもなく彷徨っているうちにふらりと行き着いた、関係者以外立入禁止と仕切られた先はまったく趣を異にしていた。一切の灯りが消えているので良くは見えないが、待ち時間に割り当てられた各部屋の内部のように絨毯が敷かれ、壁や天井などの装いも整えられている。 「なるほど」 そこに、今回の大会を主催した企業というだけでなく、もっと広い世界、世界有数の大企業としての一端が垣間見えた気がした。 「それにしても、静かだな……」 飛行船とはいえ多少の振動か何かもあるのではないかと思うが、ほとんど体感されるものはない。 微かな明かりだけがぽつぽつと朧に浮かぶ奥は、先であるほど光が届かず、なんとなく声に出してみたつぶやきも廊下の暗闇に飲まれるだけでしかなかった。 ――だから、なのか。 遊戯はふらりと引き寄せられるように、歩み入ろうと、して。 『――ク……! もう一人のボク……!?』 ふと聞こえた声に、はっと我に返った。 「相棒? 起きたんだな」 『いくら呼んでも気づいてくれないんだから……何してたの?』 ちょっと拗ねたポーズを含ませた苦笑と共に、ステージ表層近くにまで浮かび上がってきた遊戯が問いかける。 「ぼんやりとしていたようだ。すまない」 何度も呼びかけていてくれたのを気づけないほど、何かを考え込んでいたつもりではなかったけれども、そう思っていたのは自分だけらしい。 案の定、何か問いたげな気配を感じる。 『――ここ、なんかすごいね。やっぱり海馬くんの会社ってすごいんだなぁ。でも、どうして君はこんなトコにいるの?』 そう問いを重ねられたときには、もう声音が帯びているのは苦笑などではなく心配げな色に変化していた。 「気晴らしに散歩、かな」 逆にステージ上の遊戯の声音に苦い微笑がまじるが。 『ウソじゃないかもしれないけど、ウソっぽいよ』 矛盾したような物言いながら、おそらく外れてはいないだろう。言われた側は奇妙な関心じみたものを覚えながら、返す言葉に迷う。 「……そう、なのかもしれないな」 ほぼ目前にあった立入禁止の札を見下ろして、そうつぶやくと、遊戯は踵を返した。どうやら少しは冷静になってきたらしく、こんなところを万が一にも海馬に見つけられてさらには何かしら言われでもしたらとの念がわき起こったのだ。しかし。 「……」 『あ』 振り返った先に立つ人物に、思わず遊戯は歩き始めることを忘れる。 その人物はちょうど遊戯が戻ろうとしている道にある扉の一つから出てきたところだった。しかも遊戯の存在にはすぐさま気づいたらしく目を向けてきたので、まっすぐ視線が絡んでいる。こうなってしまうと、何事もなかったように立ち去るのもいささか踏み出しにくい。当の相手は薄闇にもわかる無表情のまま、微かに眉を片方持ち上げるだけの反応しか見せはしなかったが。 「……神<オシリス>は入れたのか」 しばしの沈黙の後、不意に海馬が問うた。 「ああ」 かなり離れているとは言い難いが、そう些細な表情を読み取れるほど、近くもないし明るくもない。特に海馬と違い、窓と窓の狭間にたちこめる暗闇の中の遊戯など、うかがい知れるものではないだろうが。 遊戯の首肯を受け取った海馬は、笑みに似た形に口の端を歪めた。 「ふん。その情けないザマで、果たして神を御せられるか見物だな」 その言葉に、遊戯は見透かされたような気になって。 「……何が言いたい」 動揺も何もかも押し隠して怒りを装って、無造作に距離を半分ほどに詰めた海馬を遊戯は睨め上げた。 「そのままの意味だが? もう少し鏡を見てから物を言え」 冷め切っていながらも抑えきれない苛立ちが、暗がりでもなお青い海馬の目によぎる。 「貴様の"答え"とやらも、しょせんはその程度ということか」 「――何?」 「決勝が始まるまでに、頭を冷やしておけ」 嘲りのようでありながら、そこにはどこか失望の色があって。 怪訝に眉をひそめた遊戯が問い返すよりも早く、言い捨てた海馬はコートをひるがえすと不愉快だとばかりに立ち去った。 「あいつは――」 しばらくして何かを言いかけた遊戯を、さえぎって。 『ほら、海馬くんだって心配してくれてるじゃない。それだけ君の様子が変なんだよ』 さも何も疑う余地もないとばかりにさらりと言い放つ遊戯に、ステージにいた遊戯は面食らうしかなかった。 「ま、待て相棒。今、海馬が心配してる……と言ったか?」 なんて似合わない言葉だろうか。対象がモクバでない限りあいつに限ってそんなことはありえないと断言したい気持ちに駆られるが。 『そんなことより! ねぇ、言ってよ。話すだけでも楽になるかもしれないよ?』 心から気遣ってくれているとても優しい声。 『……それとも、何か、……ボクのせい?』 また、あんな危ないことをしてしまったから? 「おまえのせいじゃない」 だから、そんなに悲しそうにしないでくれ。 手近な壁にもたれかかり、遊戯はくずおれるように床に座った。そして遊戯はゆっくりと首を横に振ると、目を苦しげに半ば伏せたまま、吐き出すように掠れた声で言った。 「本当にすまない。全部、何もかもオレのせいなんだ。城之内くんも杏子も。そして相棒、おまえも。関係ないのに、オレがいたから、巻き込まれただけに過ぎないんだ……」 「また、おまえと城之内くんに助けてもらったな」 深い自嘲を微笑に込めて、遊戯はつぶやく。 「オレはいつも、オレのせいで大変なことになっても、見ていることしかできてないぜ……」 ブラック・クラウンで猛火に包まれた時も。 そして、城之内がマリクに洗脳されたときも。 「また、命を失いそうになったっていうのに、オレは――!」 もしかしたら、泣き出したかったのかもしれない。 けれど涙がこぼれることはないし、声が濡れることもない。 それすら、憎らしかった。 『もう一人のボク。そんな悲しいこと、言わないで』 ステージにいない遊戯に実体はないけれど。 けれど、ふわりと包まれたような、そんな気がした。 『友達ってさ、一緒にいて楽しいってだけじゃないよね。辛そうだったら支えたい、助けたいって……そんなことは君だって、思うでしょう?』 城之内が目前に迫った妹の失明に途方に暮れていたとき、デュエリスト・キングダムへ一緒に行こうと手を差し伸べたではないか。 『それなのに――ほんっと、君って意地っ張りだなぁ、どうして何もかも自分一人で背負い込もうとしちゃうんだよ!』 泣き笑いのような声が、心の中から響く。 「……前にも、よく似たことを聞いたことがあったな」 それは懐かしくて、とても懐かしくて。 『へへ、半分は城之内くんの受け売りだからね。覚えてる?』 肯き浮かんだ遊戯の微笑みから、陰は拭い消されていた。 「ああ。ちゃんと覚えてるぜ」 存在を受け入れてもらえた日。嬉しかった。とても。 『だから、ね。"ごめん"よりも"ありがとう"がいいな』 謝ってなんかほしくないから。 自分でそう決めたことだから。 「そう、か……」 まっすぐ向き合われて。 もうどんな誤魔化しも逃げもしないと認めたら、清々しい気分になった。 「どうもオレは、妙な夢にとりつかれていたらしい」 聞き流してくれと前置きをして。 ぽつりぽつりと、あの夢のことを遊戯は語りはじめた。 手が届かなかったこと。 なにもかもが冷たかったこと。 そして――とても、悲しかったこと。 『大丈夫だよ』 話を聞き終えて、遊戯がはっきりと言った。 『絶対に、大丈夫だから。そんなの、ただの悪い夢だから』 心を包んでくれるあたたかさは、きっと。 『だから。もう、独りで苦しんだり、しないで……』 心からあふれそうな何かがあって。 「――ありがとう――」 知らず閉じた目にうっすらとにじんだのは、涙にも満たないけれど。 あの夢の影は、きっと消えない。 なのに。 とても穏やかな気持ちになれる。 静かな、静かな水の底のように。 トーナメント開始を告げられて。招集場所である中央集会所に向かうさなかのことだった。 「……海馬」 集会所のゲートすぐそばでモクバと話していた海馬はその声に目を向けると、口の端に愉悦を含んだ笑みを刻んだ。そしてモクバを先に中へ行かせると。 「ふん、少しはマシになったか」 「どうかな?」 答えて遊戯はあることを思いつき、意地の悪い笑みを忍ばせた。 「ところで相棒がな……さっきのおまえが、オレを、心配していたと言ったんだが」 一節一節を強調するように区切って遊戯が言った言葉に、海馬がそれこそ弾かれたように勢いよく振り返る。 「貴様……もう一人はどういう目をしている!?」 心から心外だと力説しているその苦々しそうな表情に、遊戯は肩をすくめて涼やかに不敵な笑みをたたえた。 「安心しな、後でオレが思いっきり否定しておいてやったぜ」 「……」 そして、無言のまま遣る方ないようにさっさと集会所へ入った海馬の背を見送ると、してやったりと言いたげに遊戯は吹き出す。 『ちょっともう一人のボク? 何、今の』 不満げな声が心の奥から投げかけられるが。 「おまえって、最強かもな?」 『……君は、意地悪かもね』 お互いにそんなことを言い合って、また笑った。 |
あとがき。暗い重い後ろ向き。暴走しやすい極論。いえ私がです(苦笑) でもって。ごめんね闇ちゃん。ごめんね社長、通りすがり&オチで(笑) ……平謝り。脱兎。 |