8. R e o p e n i n g o f O r d i n a r y D a y s










 ――もしも、ただの一人で、在れば。
 
 
 
「それは、無意味だ」
 
 声に出して言ったのかは定かでなかった。
 
「オレには他に何もない」
 
 だが、言ったのは定かだった。
 
「名前も。記憶も。身体すら」
 
 
 
 どうしてこんなに、切ないのだろう。
 
 
 
 その瞬間、視界に皓い光が弾けた。
 洪水のようにまぶたの裏に映し出される、それはすべて、このゲームが始まってからの遊戯たちの姿だった。
 何事かを話したり。明るく笑ったり。襲い来るモンスターと闘ったり。着替えた衣装にコメントをつけあったり。小さなことで言い争ったり呆れたり怒ったり、そんなことをたくさん織りまぜながら、このゲーム世界を皆で歩いている、遊戯たちの姿だった。
 遊戯たちを遠くから見つめている、映像だった。
「君は……ずっと、独りでこれを見てたんだね……」
 じわりじわりと染み込んでくるような寒々とした白い空虚が、見つめていた記憶と共に流れ込んできていた。
 これはもう一人の遊戯が抱いていた感情なのだろうか。
「ごめんね……ごめんね……!」
 ぼろぼろと遊戯の目から涙がこぼれる。
 ここは実体ではないけれど、心は体と切り離せない。心の中であっても、感情は動作を通して発露していた。
「そんなに泣かないでくれ、相棒……」
 端正な顔を曇らせ苦笑しながら、もう一人の遊戯が困り果ててささやく。
「だって、君があんなこと言うなんて信じられなくて、でも、何もできなくて、すごくすごく辛かったんだって、なのにボクはずっとみんなと一緒だったから…!!」
 激した感情のままに、泣きじゃくりながら遊戯が叫ぶように言った。
 興奮しているからだろう、筋道はあまり通ってない物言いだが、それでも、もう一人の遊戯には簡単にわかる。
「そんなことは、もう、いいんだ」
 小さく笑って。
「相棒。おまえも、城之内くんも杏子も舞も、それに獏良も本田もモクバも、……ついでに海馬のヤツも入れておくか、"オレ"を知っている」
 一人一人呼びながら、嬉しそうに言った。
「当たり前、じゃないか」
 何をそんなことを改めてと、きょとんとするついでに泣きやんだ遊戯に、もう一人の遊戯は笑みを強める。
「"武藤遊戯"の、おまえだけじゃなくオレも知ってくれている、みんながいてくれる。そうだ、おまえが言うようにそれはもう、当たり前なんだ、何もオレが不安に思うことなんかなかったんだ」
 他ならぬ"自分"に、帰ろうと言ってくれた。
「――そうだよ! 君は君なんだから、……君がいつも一緒なのが、もう、ボクにとっても当たり前になってるんだから……!!」
 たとえ、こうして二人で好きなだけ話していられるようになったのが、ほんの昨日からだとしても。
「一緒に、帰ろう……!」
 そのずっとずっと、本当にずっと前から、心の中に一緒にいたから。
 遊戯が初めてもう一人の自分と向かい会った日から、ずっと。
「そう、だな。オレは、相棒と、いつも一緒だ……」
 もう一人の遊戯は万感の想いを込めて、遊戯にそう言った。
 
 
 
 なのに。どうしてだろう。
 心の片隅で、ちくりと痛みに似た何かが疼いた。
 
 
 
 目を開けて。
 真っ先に、心配そうにのぞき込む、城之内に杏子、舞の顔が見えた。
「……みんな」
 ずっと動いていなかったためかうっすらと気怠い硬さが残る身体を軽くほぐしながら、遊戯はカプセルを出る。
「ったく。心配したぜ……一人だけ、全然起きてこねぇから」
 複雑なことになってしまっていたから、ちゃんと戻れなかったのかなどと不安に駆られてしまったと。
「ちょっと、相棒と話し込んでて」
 いつになく覇気のない声音で、遊戯が苦笑する。
「さっきは慌ただしくて言い損ねてたな。――すまなかった」
 それがいつのことを指しているのか。
 静かでひどく殊勝な遊戯の様に、もどかしそうに城之内が自分の髪をかき回した。
「いや、いいんだけど、あのさぁ、……違うな、蒸し返すのも何だけどよ、きっちり聞いておかなきゃなんねぇ気も、すんだけど」
 言いにくい。何であんな、などと。
 城之内だけでなく、杏子も舞も、知らずどこか硬くなってしまっているこの空気に、遊戯はなだめるように目元を和ませた。
「ああ、相棒にもさんっざん絞られてきたぜ。あれは……オレそのものじゃないが、それでも、オレであることに違いない」
 不確かで、曖昧で、いわばこぼれ落ちた一欠片に過ぎないけれど。
「それって――」
 城之内が目を眇めながら問いを重ねようとした、その時。
「迎えに来たぜー!」
「クリアおめでとうー」
「やったな!!」
 モクバに獏良、本田が部屋に飛び込んできた。
「おまえら…!」
 四人だけだったフロアが一気に七人を迎え騒がしくなる。
「獏良、いろいろと手を貸してくれて助かった。感謝してるぜ」
「大したことはしてないよ」
「だが…」
「そんな話は後だぜ! 兄サマは本社にいるんだからな!!」
 笑みかわす遊戯と獏良に割り込んで、モクバが言い放った。つまりは海馬邸から先に海馬ランドに、遊戯たちを拾いに来たということである。
「これから海馬の所へ行くのか?」
 まともに嫌そうな顔をする城之内をよそに、あっさりとした物言いで遊戯がモクバに確認を返した。
「当ったり前だろ。ちゃんと全員余裕で乗れる車で来てやったんだぜ!」
「うん、大きかったねぇ」
「バカでけぇリムジンだった…」
 長細いことを抜きにすれば部屋と言っても過言ではないかもしれない。もちろんスプリングが甘めのソファは座り心地も抜群で。
「行ってやるか。このままってのも、癪だしな」
 にやりと笑って遊戯がモクバに頷いた。
「どういう理屈だよそりゃ…」
 隣で舞に笑いを忍ばされているのも気づかず顔中で気が進みませんと城之内が力説していると、ふと歩き出していた遊戯が向き直る。
「ああ。みんなに言い忘れていたことがあった」
「言い忘れて?」
 肯いて、遊戯が笑った。よく見せる不敵なそれでなく。
「"ただいま"と……"ありがとう"」
 とてもやわらかで、綺麗な笑顔だった。
「んじゃまぁ、"おかえり"、だな」
 そして、ゲームは終わった。
 
 
 
 ――大切だから。
 
 
 
「ぞろぞろと来おったか」
 天高く屹立するビルに入るなり導かれた、頂。
 むやみに広い一室の奥で、数十枚を留めた書類へ目を通していた海馬が、現れた一団に目線を上げて皮肉じみた一笑をにじませた。
 それを意に介する理由も何もないが。
「海馬、ビッグ5はどうした?」
 瀟洒に飾られた社長室にも気後れしない二人の片割れが、無造作に部屋の主人の方へと近づいて訊ねる。
「今し方処分をすませた。…文句の一つも言いに来たか」
 あまりに迅速だが、もとよりゲームで賭けていたのはビッグ5が重役会にて大人しく解雇を受けるかどうか。ゲーム開始前に召集だけでも掛けていたところで、それはルール違反ではない。
「それはついでだな。もういないんならいいさ」
 肩を軽くすくめてそう言った遊戯の、言外に含む意味を測るように海馬は鋭い目をさらに細める。と。
 遊戯の後ろにいたモクバが、遊戯と目配せ交わしてから兄の隣に駆け寄ってきた。本社ビルに向かうさなかの車中で立てられた、計画開始の合図。
「兄サマも、お昼まだでしょ?」
 じっと見上げる視線と問いかけ、そこに込められた一つの期待に、さすがの海馬の仏頂面も、ゆるんであるかないかの微笑が混ざる。
「……いいだろう」
 その後に続けられた言葉は、予想以上に意外なものだったが。
 
 
 
 ――大好きだから。
 
 
 
 珍しい出来事は、なぜだか重なるものらしい。
 誰に言われるまでもなく率先して行動を始めた城之内は、不意にその様子に気づいて、わずかな思案を挟んでから、口を開く。
「見るの、初めてとか?」
 テーブルの中央に鎮座する黒々としたそれをじっと見ている、遊戯に。
「知ってはいるんだが、本物を見るのは、オレは初めてだ」
 多少回りくどい言い方で答えるも、遊戯は隣の席にいる城之内に視線を返すことはしない。鉄板の熱で盛大に上がる音にごくごくわずかに目を見張りながら、見る者にきっとこれが好奇心なのだと深々納得させる真剣さで、小さな子供のように見入っている。
 もともと遊戯はかなり小柄だが、そこにさらに加えて、穏和な性格を顕著に反映した邪気のない優しい表情のために、実年齢より三つ四つは確実に下の年齢に見られることが少なくない。もう一人の遊戯が表れているときは、それでもまとう凛とした雰囲気が幼さを払拭していた。だが今は、そうとも言えない。言ってしまえば、大差ない。
 それを見て杏子や舞は滅多にないと秘やかに気楽に騒ぎあう。本田はもう一つを作り始めながら何かモクバと話している。獏良は周囲を気にせず湯飲みから茶をすする。
「そっか、初めてってんなら、やってみっか?」
「……ああ、やってみたい」
 手広くこなしたバイトの杵柄とでも言おうか、率先してこてを手にし、慣れた手つきで焼き始めていた城之内に誘いを掛けられて、遊戯は妙に身構えながら指示に従ってタネをすくう。
「…………」
 そもそも。海馬コーポレーションのビルからさほど離れていないこの店は、小さいながらもその筋には名の知れた店だ。モクバが気に入っていたから、今となっては馬鹿げているほど弟とすれ違ってしまうよりもさらに前、何度か来たことがあったから、海馬もこの店を覚えていた。モクバがそう望んでいたから、不本意ながらもこの八人という大人数の昼食を、海馬は認めた。生涯のライバルだと認めた遊戯がその中に入っていても。
 だがしかし。
 こんな所にまで持ち込んでいた書類をめくる手もすっかり止まり。
 そもそもどうしてオレの隣がモクバなのは当然だがそのさらに隣の席には遊戯がいるのかと思ったかどうかは定かでないが、さながら見てはいけないものでも見るかのような目を、おそらく真剣にお好み焼きを焼いている遊戯へと海馬は向けるのだった。
 
 
 
 ――かけがえないから。
 
 
 
「なぁ。あれさ、どれくれーマジだった?」
 こての角で穴をぶすぶすと開けていた城之内が、何の気なしに遊戯にそう問いかけた。ひどく潜めた声だった上に、向かいの女性陣は会話に熱中していたので、気づかれはしなくて。
「そうだな。半分、かな」
 小声でささやき返しながら、遊戯が苦笑する。
「それ、もう一人のおまえは?」
 あんな――いなくても同じ、だなんて。
 もう一人の遊戯はいてもいなくても同じ、だなんて。
 本気でそう思って、言ったのか、なんて。
「泣かれたし怒鳴られた」
 馬鹿なことを言ったと、今なら笑って言えるけど。
「やっぱ、だろーな。――オレもちょっと、悔しい」
「……あんなの、魔が差しただけだから」
 本当に馬鹿だったと、今なら呆れてしまうけど。
「気づけねーでゴメンな。ダチだって言っときながらよ」
 城之内のその言葉に、遊戯が複雑な表情になる。むすっとしたような、しかしどこか装ってるだけのようにぎこちない。本当にさっきから、彼が表れているときにはおなじみの、鮮烈な存在感がなりをひそめてしまっている。
「……そんなことは、ない」
 自分は、自分一人ではないから。
 もう一人の自分がいれば、自分はいなくてもわからないから。
「少し不安になっていたんだ。たぶんな」
 ペガサスに告げられた、千年アイテムの宿命。
 今まで知らなかったことに気づいてもいなかった、自分のこと。
「それで――」
「おまえが何だって、何も変わんねぇから」
 にかっと笑った城之内に、遊戯もすました笑みを返した。
「ああ。ちゃんと覚えてるぜ」
 ただ信じればいいだけなのを、少しだけ、忘れていた。
 
 
 
 ――信じてるから。
 
 
 
 つと海馬が気づけば、弟は楽しげにこてを握りしめていた。
「モクバ」
 相も変わらず自分が初めて焼いている真っ最中のお好み焼きを睨んでいる遊戯に触発されたか、単にお任せが退屈なのか、モクバが向かいの本田に手伝いを申し出たのだ。
「兄サマ、何?」
 そう、楽しげだ。十一の子供らしい笑顔で、今のこの状況を嬉しく受け入れている。
「…………いや。楽しいか?」
 気づいたのは。
「当ったり前だよ、兄サマが帰ってきてくれてこうして一緒にいてくれるし! それに、こんな大勢なのも久しぶりだもん」
 欠落した半年などよりも本当はずっと、長かったこと。
「そうか」
 それでも信じてくれる、待っていてくれる人がいること。
「ところで海馬。ずいぶん忙しくなるんだってな?」
 待ち時間に入ったらしい遊戯が不意に、振り向かないまま声を掛けた。
「それが、貴様になんの関係がある」
 海馬が肯定の代わりに問いを返すと、遊戯は目を細めて口の端に笑みを浮かべる。不敵といえば不敵だが、デュエルのさなかに見せるそれとはまたどこか違って見え、海馬は怪訝なものを覚えるも。
「モクバ。海馬にほったらかしにされて暇だったら、うちに来ていいぜ?」
 それはまさしく、してやったりとでも言いたげな、悪戯を仕掛けた子供が見せる目の輝きだ。
「いいの……?」
 思いがけないこの申し出に目を見張って、次いでうかがうように兄をモクバは振り返る。モクバは確かに今朝、兄が復調したとはいえ不在がちになることを寂しがる言葉を遊戯たちにもらした。今でこそこうして騒げて楽しいが、そんなのはいっときのものでしかない、けれど。
「それなら問題ないさ」
「な、――貴様!?」
 ようやく我に返って思わず腰を浮かせかけた海馬に、
「これで貸し一個返しな」
 遊戯は素知らぬ風を崩さず飄々と告げた。
「どういう意味だ」
「簡単な話だ」
 よっとかけ声を知らずもらし、生地をなんとかひっくり返した遊戯はそのまま手にしたこての先を海馬に向けて。
「そうだな。それぐらいは"信用"してみろってことかな」
 下らん。
 そう言い捨てても構わなかったが、海馬はあえて別の言葉を選んだ。余裕のにじむ薄い笑みと共に。
「端が崩れたな」
「!? ……しまった…!」
 慌てて遊戯が鉄板上に目を戻す。そこには、自重に負けて隅が千切れてしまった、彼にとって初めての自作お好み焼き。
 
 
 
 ――独りじゃないから。
 
 
 
 いつの間に入れ替わったのかという問いかけは、今言うとすれば二回言わねばならないかもしれない。
 海馬の隣の席に座っていたモクバとそのもう一つ向こうに座っていた遊戯が入れ替わっていることと。
 遊戯自身が、ゆるやかな笑みをたたえている――先ほどまでの遊戯とは違っていること。
 どちらも、海馬がモクバがひどく真剣に兄のためにと頑張って焼いてくれた一枚を平らげて、そうそうに持ち込んだ書類に戻ってしまう、その直前までは入れ替わってなかったことを断言できた。
「海馬くん、怒った?」
 だから。その呼びかけの主とその声が、自身のすぐそばから発せられたことを訝しく思い、書類から離した海馬の目が隣に向けられる。
「何のことだ」
 と。先ほどほとんどなし崩しに了承した約束を海馬は思い出して、かすかな苦みをにじませる。今目を通している書類の内容もいっそう苦みを引き立てるに足るもので。
「えーと、うん、海馬くんもモクバくんのことが心配だろうけど、でも海馬くんだって忙しいし、モクバくんだって寂しいだろうし。モクバくんもうちに来たら少しは紛れるかなって思いついたのはボクでね、もう一人のボクは、だから――」
 苦虫をかみつぶしたように海馬の口の端が歪んだのを自分たちのせいかと思った遊戯が、しかしゆったりとした口調で並べ立てる。もう一人の自分があんな話の進め方をした心境も、わからなくもなかったから。それをたとえ面と向かって言っても本人は素直に肯きもしないだろうが。
「海馬くん?」
 それを海馬は聞いているのかいないのか、再び書類に目を戻して何事か思案に沈んでいるらしい彼を、遊戯は困ったようにのぞき込む。
 そして、ふと薄い表情から苦々しさをかき消した。
「遊戯。あのゲームのアドバイザーに入れ」
 代わりに浮かんだのは、おそらく気高くも不遜な、自信に満ちた色だ。
「…………はい?」
「すでにつぎ込まれた開発費もだが、インダストリアル・イリュージョン社にマージンを支払い済みとあっては、忌々しいがここに来て企画を捨てる損失が莫迦にならん」
 書類を冷たく見下ろして、嘆息にもならない、鼻で笑ったような吐息。
「えーと。それって、『Magic & Wizards' World』のこと?」
「他に何がある」
 かなり唐突だと思うのは遊戯の気のせいではないだろう話を、さらりと海馬は肯定した。
「あのままではとても商品にならん。だがオレは急ぐ企画を別に抱えているのでな。便宜はモクバに一任しておく、貴様の好きにして構わんから、使える物にしてみせろ」
 そう言った海馬の顔が愉しげに見えたのは、遊戯の錯覚か。
「そう、かぁ…」
 嫌な思い出がいきなり出来てしまったゲームだけれど。
「それも、面白いかもね」
 遊戯はにっこりと笑って、大きく肯いた。
(モクバくんのこともとりあえず丸く収まるし)
 それに、だ。
 ゲームづくり。
 そんな世界に、惹かれない理由はなかった。
 
 
 
 ――きっと、
 
 
 
「離れ離れにならなくなったね」
 こうしてゲーム世界に降り立つまで、それはもうドキドキしていたのに。
『いいさ。あれはきっと、バグってたんだよ』
 心のすぐ傍らから、安堵した声で笑ってささやかれた。
『オレはおまえと一緒にいるぜ、相棒』
 ちゃんと声が聞こえる。
 ちゃんと一緒にいる。
「だったら今度は」
 パズルを抱くように手に乗せ、遊戯は言った。
「君もみんなと一緒、だね」
 それはもしかしたら、永遠でないのかもしれないけれど。
 
 
 
 ――きっと。
 
 
 
 そんな、たわいない日々が、幸せ。









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