「あ、満月なんだな」
 薄い青にひっそりと浮かぶ、白い月を見上げて。
 視界の端で揺れている芒を一本、指で弾きながら、アークがぽつりとつぶやいた。
「……?」
 それがどんなことであろうとも、理由らしい理由に満たなくとも、声を導いた何かに誘われるように、中にいたエルクがアークのいる縁側に近寄る。
 この緩慢な時の隙間を持て余していたのだが、それは彼も同じようだった。
 エルクが寄ってきたことに気づいたのか、不意にアークが立ち上がって、芒野に歩み出た。と、同時にエルクはぴたりと足を止める。
 アークとはまだ少し距離がある。だが、これ以上は近づかない。エルクはその場から、空に向かって視線を彷徨わせた。だが、山の空気に澄んだ蒼の視界に、これといったものは見つからなかった。
「月だ」
 アークは背後を振り返らずに、籠手類も外した素手で、すっと空の一点を指差した。
 ――白い真昼の月。
 素っ気なささえ感じさせる彼の言い回しはいつものことで、エルクはそういうものなんだと思っていた。
 いつも涼しい、けれどもどこか硬い顔をしていて。
 ふざけているときには特に、何となくだが近寄りにくくて。
 歳がほとんど変わりないなんて信じられないほど、大人びた雰囲気があって。
 キメラ研究所本部を潰して共に行動するようになってから、さほどの日数が経っていないこともあるのかもしれないが、くっきりと越えがたい一線が横たわっている。そう感じていた。
 なんとなく、今、月を見上げているアークの雰囲気には、違和感にも近い戸惑いのようなものを覚えたけれども。なにがそう感じさせるのかもわからないけれども。
 と。
「やっぱり――」







月のおもて







「って、ちょっと待て! こんなところで火を出すヤツがあるか!」
 咄嗟に展開された障壁の表面から、薄い煙が霧のように周りに散った。
 その向こう側、抑えきれなかった衝撃を受けて地面に両手をついたアークが、芒の中から抗議の声を上げる。
「た、ただの物の弾みってヤツだよ! これっくらいでいちいち目くじらたてんな!」
 むくれた顔でエルクも言い返すが、狼狽えて視線をアークから外さずにいられないのは罪悪感からか。だが。
「おまえなぁ、今のはなんとか閉じこめられたからよかったものの」
「へいへい、アリガトーゴザイマシタとでも言ってほしいのかよ?!」
 この瞬間に戸惑ったような色は、きれいさっぱりと消え失せてしまった。
「そうじゃないだろ!」
「じゃあなんだってンだよ!」
「だから!!」
「だぁら!?」
「ああだから、こんなガキの癇癪みたいなコトをするなってことだ!!」
 さらに畳みかけるような強い口調でアークが怒鳴る。
「ガキガキって――っ」
 だが、感情的で反抗的で、ある意味不自然な一方通行がその刹那、ふと、途切れた。
「どーせおれはガキだよ、おまえみたいな勇者サマからすればよっ!!」







 ずきり…
 と、痛みを覚えていたのは、どっちだっただろうか。







「ふむ」
 とてもとても頑丈な箱の中で起きた爆発のような音に、何事かと慌てて来てみれば、なんとも――確かにアークの方は一見正論を吐いているようにしか見えないが――子供じみた口争いが繰り広げられているではないか。
「フクザツなこった」
 ほんの刹那の硬直、そしてアークはその場から動けず、エルクは居たたまれないかのように、傍観者の存在に気づいているのかいないのか、こちらを向くことすらないまま反対方向へ飛び出していった。
「放っておいてよかったの……?」
「燻らせっと後に響くんだよ、あーいうのは」
 身体を強張らせたまま深くうつむいているアークと、もう見えなくなったがエルクの去っていった方を交互に見ながら言ったポコに、にべもなくトッシュが答える。
「でも……」
 おろおろとエルクの行ってしまった方を見やりながら、リーザが何か言いかけたが、
「それも一理あるな。エルクにとってはひどくやりづらいだろう、ああいう性格が相手では」
「単に、見えてないだけなんじゃないの」
 出来るだけ擁護するような表現を選んで言った保護者の言葉に、シャンテは笑って容赦ない言葉をつけ足す。
「けど……このまま放っておいたら、どん底になっちゃうんじゃないかなぁ……だって、二人ともすごく頑――」
「頑固?」
「うん、そう――って、あ、アーク……」
 背後から囁く思いっきり低くされた声音に、ポコが乾いた笑いを立てた。
「こういう性格で悪かったね。風向きでまる聞こえだったんだけど」
 不機嫌さを欠片も隠さない表情で軽く腕を組んだアークは言い捨てると、そのままさっさと寺の中に引っ込んでしまった。
「あー……」
「確かに、ちょいと面倒かもしれねぇなぁ……」
 あれは相当に機嫌が悪い。
 他よりもアークとのつきあいが長い二人が、厄介なことになったかもしれないとばかりにため息をもらした。
「それにしてもあの二人があんなケンカするなんて、発端ってなんだったのかしらね?」
 形のよい顎にその細い指を添えて、まるっきり他人事のようにシャンテがつぶやく。いつの間にやら、隣にいたはずの少女の姿は消えていた。







「見つけた」
 息を弾ませたリーザは、それでもエルクの顔をのぞき込むとにこりと笑った。木の根本に寝転がっていたエルクもはっと上体を起こす。
「リーザ」
 控えめな橙黄色はとても小さいのに、少々離れていてもその存在を感じさせる強い、しかし甘く優しい香りを放っている花を見上げると、リーザは言葉を続けた。
「エルクってば足速いんだもの。この花のにおいがなかったら、ここってわからなかったわね」
 そして一度深呼吸をすると、エルクの隣に腰を下ろした。
「リーザ?」
「ねぇ、なにがあったの?」
 本当に――心底不思議そうに、リーザはエルクに訊ねる。
「ああ……うん」
 これでは歯切れの悪い、答え以前だ。
「……俺、なにやってんだろぉ……」
 しばらく意味をなさない唸りをもらして後、やっとエルクの口をついた言葉は、ひどく情けないものだった。
「エルク?」
 根気強く待っていたリーザも、これには首を傾げる。
「リーザさぁ、アークって……どんなヤツに見える?」
「え、うん……なんだかとても大人びた人みたいだよね。ちょっと近づきにくい感じもするけれど、いい人だと思うよ」
 いきなりの質問に答えを返しながら、先ほどの二人のケンカはなにが原因だったのだろうかとうかがうようにリーザはエルクを見やる。
「だろ!? あれで俺らと大差ない歳って言うんだから、信じられたもんじゃなかったよな」
 リーザのセリフの中に出た、大人びたという単語に反応し、エルクは勢い込んでそんなことを口走る。
 それはどうやら、そのまま――
「羨ましかった?」
 くすりと笑ったリーザの一言に、エルクがぴたりと動きを止める。やああって、
「まぁ、こんな歳が近いんじゃさ、ああなりてぇなって思うよりも先に、なんでこんなに違うんだろうって――ならねぇ?」
「うん、わかる」
 即座に返され、少々ペースを崩したように空回りするが、
「それはまぁ、置いといて」
 決まり悪げにエルクが頭をかくと、くすりとリーザが笑みを忍ばせた。
 なんとなくわかってきたのだ。
 それはきっと、他人からすれば不可解なぐらい、本人たちにとってだけ、とてもとても大きなコト。今だからこそ、特に。
「……だからさ、ただ、……ちょっと、驚いたんだよ」







 あのとき何気なく続けられた言葉。
 それはとても意外に感じられるものだったから。







「……ぷ」
「何だよ……」
 思わず吹きだしたエルクを、アークは半眼で睨む。その仕草さえ照れ隠しのようで。つい調子に乗って、からかうようにエルクは笑って言った。
「いーやあ、なんかすっげぇの聞いちゃったなーって。ガキみてぇじゃん」
「ガ、ガキ?」
「だって、そうだろ?」
「そっちこそ、よくもまあ俺を仇なんて誤解してくれたな。少し考えれば、ありえない年齢って気づかないか?」
 こうなると売り言葉に買い言葉、揶揄にも似たアークの言い様に、
「な、んだと――っ!!」
 カッと一気に熱した感情に倣ったかのごとく、文字通り火がついてしまったのだった。







 言ってはいけなかった、一言。
 制止しようとする心とは裏腹に、それは声となってしまって。
 残されたのは、ひどい後悔と情けなさ。







「なぁ、イーガ」
 部屋の隅で、人形のように壁にもたれかかり両足とも伸ばしてぺたりと座っていたアークが、ぼんやりと天井を見上げながら細い声を上げる。
 禅を組んでいる彼の人から明確な言葉での反応はないものの、気配でこちらに意識が向けられたことを悟ったアークは、続けて本題を切り出した。
「俺って……ガキかな」
「自分でそう思うのなら、そうなのではないか」
 すぐさま切り返された言葉に、アークはうぅと呻きをもらす。
「……わかってる、つもりなんだけどなぁ」
 つぶやいて、がくっと力が抜けたように項垂れた。
 あの時、咄嗟に顔をかばった右腕の、袖がほんの少し焦げているのが目に入った。これだけで済んでよかった。とはいえ、もともと暴発なのだからあっという間に拡散したし、ちょっとした光と熱程度のものだったのだが。
「何かやらかしたのか」
 先ほど騒ぎがあったことぐらい、ここにまで爆音は届いているはずなのだからイーガもわかっているだろう。
「やらかした……んだと思う。たぶん、俺が」
 自分で思っていた以上に、引っかかった棘のように、あんな誤解をされていたことが残っていたらしい。
 だからといって、あんな風に口に出していいことではないはずだ。
「すっごく莫迦だ」
 望んでいながら、拒絶している。
 自嘲のような、苦笑のような、安堵のような。
 そんなものがない交ぜになった複雑な表情を浮かべて、アークは独り言ちた。
「共に行動するようになってまだ短い。行き違いもあるだろう」
 だから。
「わかってる。気づいたんだから改めろ、だろ」
 顔を上げて、額にかかる前髪をかき上げるように、右手を額に押しあてる。
 エルクの言葉に苛立ったのは、間違いなく図星だったからだ。だからそのままあんな言い争いになって、あんな言葉で言い返したのも、自分だから。
 と。
「しっかし、いったいなにやったってんだ?」
 ふと割り込んできた声に、アークはそちらを横目で睨み付けた。
「誰が言うか」
「そぉか? そう言われるとますます気になるってモンだがなぁ」
 剣呑な視線も意に介さず、トッシュはこの状況を面白がっているらしく笑みを張り付かせ、重ねて問いかけてくる。
「だぁまぁれ。鬱陶しい」
 なおもまとわりつくトッシュに、吐き捨てると同時に思わず手が出た。
「っぐ?! って……ぉいアーク、鼻が、今まともに」
 アークの裏拳が直撃した鼻の頭をさすりながら、トッシュもさすがに文句を言おうとしたところ、
「ほう、少しは鼻の形もよくなったんじゃないか?」
「ぁにおぅ!?」
 ぐいっと振り返りトッシュは口を挟んできたシュウを睨みつけるが、向こうはどこ吹く風と、
「エルクが失礼をしたようで、すまなかった。あれで決して悪いヤツではないのだが、いろいろあったばかりで今はまだ精神的に不安定なようでな」
「あなたが謝ることじゃない。それに、非は俺にある」
「なんだ、えらく素直じゃねぇか」
 またまた横からトッシュはにやにや笑ってくる。
「やかましい」
 一転して刺々しさ丸出しの声音で言い捨てて、刹那、
「そう言われても気になるわよね、あれだけ派手にケンカしてたんだから」
「そうだよ〜、ねぇ、何があったの?」
 立ち上がったところでひょっこりと増えた野次馬の質問に、一瞬アークが視線を目の前以外に彷徨わせる。が、それを話すと取ったらしい期待を帯びた眼差しを感じて、すぐにはっと現実に立ち戻った。そして、
「絶っ対に! 言わないっ!!」
 突き放すように叫びながら、心なしか、アークは耳がじんと熱を持っている気がしていた。







「顔、赤いね」
「ぅわ、マジにだな……」
 庭先から中をのぞき込んでいたエルクとリーザが、声を潜めて言い合う。それでもこっそりと、先ほどし損ねていたことだが、アークが火傷などしていないことを確かめてほっと安堵する。
 しかし、それにしても。
「なんだか……意外かも」
 意外だ。なおもしつこく訊いてくる三人に怒鳴り散らし、さらには顔を赤らめているのも、遠目でもしっかりとわかる。
「俺の方は意外続きだよ……」
「あ、うん。私もびっくりしたな、その話」
 疲れたように脱力するエルクの隣で、リーザはまた笑みを浮かべる。
「でも。ケンカ両成敗だよ」
「わぁってるって。馬鹿やっちまったのは俺だしな」
 エルクはくるりと身体を入れ替えると、建物にもたれかかるようにして空を――白い月を見上げる。昼の月なんて、まるで目立たなくて、こうして改めて見るのは今日が初めてかもしれない。
「フォーレスではね、貴婦人の横顔って言われてるよ」
 同じように振り返ったリーザが、ぽつりと言った。
「ふうん……、アルディアはどうなんだろうな」
 ここグレイシーヌとも、フォーレスとも、そしてスメリアともまた違うものだろうか。
 今までそんな風に考えたこともなかった。けれど、次に帰ることがあったら、のんびりと見上げてみるのもいいだろう。
「とりあえず、頭下げるか」
 壁から身体を離し、そのまま騒々しく室内に駆け込んだ。
「エルク!?」
 背後からのリーザの声に、エルクに気がついたアークの声が重なる。その彼の前でぴたっと足を止めると、殺しきれなかった勢いで少し前によろめきながらも、ぱんっと小気味いい音を立てて顔の前で手を合わせた。そして、
「さっきの、さ。――いや、とにかく悪かった! すまねえ!」
 軽い物言いだが、少し上擦った必要以上の大声で言い切った。
 呆気にとられたように少し目を見張ったアークもすぐに、どこか戸惑ったようにだが口を開く。
「……あ、ああ、俺も、その――悪かったよ。すまない」
 そのまましばし、二人揃ってぎこちなく固まってしまう。ギャラリーも下手な茶々を挟めず、居心地の悪さすら醸し出しかけたとき、不意に、
「あーでもよ、今度スメリア行ったときに、ちゃんと確かめさせろよ!」
 この沈黙に耐えかねたのか、焦ったようにエルクが付け加えた。周りには何のことかさっぱりわからなかったが、しかしアークはわかったらしく突然吹き出すと、
「ああ、月が丸かったらな」
 笑いながらそう答えた。つられるように、エルクも頭の後ろで腕を組みへへっと笑う。
 久しぶりに、その年相応の晴れやかさで。







 ――やっぱりウサギじゃないんだな。


 月を見上げて、そう言っていた。
 だから、そのウサギがいる月を、見てみたくなった。
 月なんて、どこから見たって変わりはしないと思っていたけれど。
 また、違った面(おもて)が見えるかもしれない。














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『お月様にはね、白いウサギが住んでいるんだよ』


 馬鹿は私ですね……。思いあまっての暴発、この辺りまではまだギャグだったはずなのに(時系列に沿ってケンカの応酬をまず最初に書いた)、その直後にちょっとマジ入ってるし。ちょっとずれてしまった気もしますが、いろいろなところが難産でしたが、ネタ的には気に入ってマス。
 アーク。うちの彼って人付き合いって不得手のようです。でもってやることなすこと、さりげなく身内には非常にきつい(^^; でもこれは下手くそな甘え方というだけで、毅然と冷静に振る舞ってたりする二つの間でかなり複雑らしい。
 エルク。ミリルのことでもいろいろあったし、出会ったばかりでうちのアークの二面性わからず、大人びたところに憧れる以前に違うこと気にしちゃって、それで自分の中でかなり頑張ってみたりしてて。ちょっと気を張ってたようで、それでつい感情と火が一緒にカッとなったみたいで。
 昼の月で影が判別できるのか、…山の上ですし、空気も綺麗そうだから許してください。
 ところでアメリカの月も女性の横顔なのですか?