いつ頃からか、夢を見る。



 それは、永い永い物語だった。
 会ったことのないはずの人と。
 見たことのないはずの場所で。
 ときには楽しくて。
 ときには嬉しくて。
 ときには悔しくて。
 ときには悲しくて……
 けれども。
 それは覚めれば溶けて――消えてしまう夢。
 つなぎとめようと手を伸ばしても、するりと抜けて。
 この手に残っているのはあやふやな残滓ばかり。


 ただ。どうしても、忘れてしまうのだけは、嫌だった。
 夢を見たことさえ、忘れてしまうのだけは、嫌だった。
 それだけは何があっても忘れてはいけないんだと、わかっていた。



 そしてボクはまた夢に見る。
 懐かしい、でも見知らぬ日々を――――







遠い約束







「姉ちゃん、御機嫌だね……」
 キラキラと陽の光を反射して輝く、ウロコを連ねたネックレスを誇らしげに首に掛けたレナを見上げると、一休みだと桟橋に腰掛けたその男の子は感嘆したようにつぶやき、ついで自分の隣にいるセルジュを見やる。
 それに対しセルジュは曖昧に苦笑を浮かべるが、
「セルジュ兄ちゃんは、レナ姉ちゃんと結婚するの?」
 この続いた言葉にはさすがに飲みかけていた水を吹きそうになった。水筒から口を離して、セルジュが何か言い返す暇もなく身体を折ってむせ苦しんでいると、
「何を慌てておるか。おまえさんもレナも、もう数年のうちに身を固めにゃならん頃だろうに」
 釣り糸をいつものように垂らし、いつものようにうたた寝していたかと思っていた老漁師がかっかと笑いながら追い打ちをかけてくる。
 さして広い村でもなければ、特に他と交流の盛んだというわけでもない。外部との接触が薄い分、二十を過ぎた頃には村の人間同士で結婚しても何もおかしいことではなかったし、それが普通でもあった。
「……考えたこと、ないって」
 一通り咳も収まって、セルジュはなんとかそれだけ言葉を返すが、
「えぇ? 違うのぉ? お似合いじゃないのかなぁ」
「こらっ! どこでそんな言葉覚えてきてんのよ、あんたは!」
 はたとこちらの会話に気づいたレナが、顔を赤らめて怒鳴りつけてきた。
「うわ〜姉ちゃんが怒った〜!」
 男の子は逃げるように桟橋の板を蹴り再び海に飛び込むと、あっという間に少し離れたところまで泳いでいってしまった。大きく腕を振ってくるのにセルジュが小さく手を振り返すと、大きく息を吸い込みざぶんと潜っていく。
「もう…あの子ったら…っ」
 飛び込んだ際の水しぶきが散った場所を前に、レナが腰に手を当てやれやれとため息をつく。と、応えのないセルジュの方をちらりと見やった。
 何か期待した気持ちが皆無だったと言えば、やはり嘘にはなるだろう。狭い空間で、ただ時間が重ねられるままに、子供の頃の無邪気なささやきでさえ、甘く信じていられた。ずっとずっと近くにいたのだから、ずっとずっと疑い方など知らなかった。信じること、が、当たり前の日々。
 けれど。
「……」
 いつのまにか、セルジュは何かを思うように、遠い眼差しを蒼の彼方に向けていた。遠い、遠い、レナには見えない、セルジュにだけ見えている、遥かなどこかへ。
 すっと、自分には何も捉えられないセルジュの視線の先を、レナは辿って。
「……セルジュ?」
 呼びかけると、何?とばかりにセルジュが振り返る。
「ううん。やっぱりなんでもない」
 ――何かあったの?
 言いかけたそれは飲み込んで、笑ってレナは誤魔化した。
 訊いては、いけないことのような気がしたから。







 それは、いつのことだっただろうか。

 なんの変わりばえもしない、日々の一つだと思っていた。
 ただ流れ過ぎていくだけの、日々の一つだと思っていた。

 けれど。
 そんな"日常"の一つは、実はそうではなかったのではないか。
 そんな思いに、いつ頃からか駆られるようになっていた。

 ただどうにもならない違和感ばかり、感じてしまって。
 置いていかれたような淋しさばかり、募るだけになった。







 男の子は海に勢いよく飛び込んだので、桟橋から投げ出していたセルジュの両足にまで、届いた水しぶきがかかる。その逃げ足の速さに、レナが大げさにため息をつくのがセルジュにも聞こえた。大きく腕を振ってきた男の子に軽く手を振り返してやりながら、彼女に気づかれないようにまた苦笑をこぼして、ふと、吸い込まれるように海の蒼に目を彷徨わせる。
 なんの変わりばえもしない、とどまることなく流れていく日々。
 取り立てて鮮やかに記憶に残る出来事というのは少ない。そうして薄れて埋もれていった幼い思い出の中に、子供らしい無邪気さで大人になったらと言葉を交わしたことだって、あっただろう。
 それを絶対と思っていた時間だって、昔はあったのかもしれないけれど。
 どうしてだろう、今は。
「……セルジュ?」
 レナに呼びかけられ、セルジュは我に返ると彼女に振り向いた。
 怪訝そうな、そしてどこかに心配するような色がうかがえて、自分はどんな顔をして考え込んでいたのかと、心を染めたのはまたしても苦い笑みだった。
「ううん。やっぱりなんでもない」
 レナは一瞬間を空けてから、誤魔化すように笑って首を振る。
 訊かれなかったことに、セルジュは正直ほっとした。
 訊かれたところで、なんと言えばいいのか、まるでわからなかった。
 ただ、そう、これはまるで――時間が、記憶が、ずれたような齟齬感。







 それは、いつのことだっただろうか。

 なんの変わりばえもしない、日々の一つだと思っていた。
 ただ流れ過ぎていくだけの、日々の一つだと思っていた。

 けれど。
 本当にそんな"日常"の一つだったのだろうか。
 あの夢を、その頃から繰り返し見るようになっていた。

 ただどうにもならない違和感ばかり、感じてしまって。
 何か抜け落ちたような淋しさばかり、募るようになった。

 そして。







 それは、いつのことだっただろうか。

――あ」
 何かに伸ばそうとしていた手は、虚しく空を掴むだけで。
 気がつけばセルジュの視界は水で滲み、歪んでいた。

 いつもと同じように、夢が消える瞬間。
 指先にほんの少し触れた何かが、微笑んで、ささやいた。

 ――いつか、会いに行くから。

 涙があふれて、止まらなかった。
 夢からたった一つ取り戻した、それは約束の言葉だった。



 だから、その日からボクは、待っている。
 顔も、名前さえもわからない、誰かを。

 会いに来ると約束した、その人を。







 そして、二度目の夏。







「レナちゃんも知らないのね……いったい何があったのやら」
 マージはやれやれとため息をついた。
「でも本当に……私にもわからないんです。ただ、急にどこか変わったような気がしたことがありましたけど……」
 けれど、あの日に何があるというのだろう。
 子供大トカゲのウロコを集めてもらって、オパーサの浜で話をして、それから急に倒れて。そして次に目覚めたときにはもう、何かが違っていた。
 あまりにも長すぎる一瞬だった。
「……変なこと訊くかもしれないけれど、レナちゃん。この村の子じゃない、あの子と仲のいい女の子とかは、思い当たるところない?」
 突然、何か考え込むように目を伏せそんなことを言い出したマージに、レナが目を瞬く。
「女の子、ですか?」
「ちょっとね」
 マージは曖昧に答えると、少し寂しそうに微笑んだ。







「セルジュ!」
 張り上げた呼び声は、風鳴きの岬の果てに腰を下ろし、海を望む後ろ姿に。
 セルジュは驚いてはっと振り返り、そしてレナの姿を認めると小さく息を吐いた。
 含まれるのは、安堵と、落胆?
 構わずレナは、セルジュの座るすぐ側まで歩み寄った。
「またここにいたのね」
 呆れ笑いを交えてそうレナが言うと、セルジュは苦笑いを浮かべた。
 海風に、レナの艶やかな赤茶の髪が流れる。
 言ってみたのは、本当に、衝動的な思いつきだった。
「……ねえ、セルジュ。私じゃダメなのかな……?」
 先ほどよりもさらに驚いて、セルジュが驚愕に見張った目をレナに向ける。
「気づいてなかったのか、やっぱり。鈍いわよ、もう」
 これはきっと、けじめなのだ。
 だから、笑って言える。
「ちょっと? 人がせっかく思い切って告白したんだから、何か言ってよ。恥ずかしくなるじゃない」
 呆然としているセルジュを、レナは小突いて答えを促す。
「返事は二つに一つ!」
 ぴっと立てた人差し指を彼の眼前に突きつけ、逃げも封じ込めて。
「……違う、んだ」
 ずっと存在していた、答え。
 ほら、大丈夫。
「はは……やっぱり、ふられちゃったか」
 笑っていられるから。
「ごめん」
「いいの。わかってたから。わかってたよ、ずっと前から。私も、それにおばさんだって、わかってたよ。ずっと、セルジュは誰かを、私じゃない、遠い誰かを待ってるんだって」
 ただ、認めたくなかっただけで。
「よくわからないんだ」
 そうつぶやいて、少し寂しそうにセルジュは微笑んだ。
「でも、"会いに行くから"って、誰かが言ったんだ。いつかもわからないし、どこでだかもわからないんだけどさ。誰かが、ボクにそう言ったんだ」
 それは、いつのことだっただろうか。
 それは、夢に浮かんだ記憶の欠片だったけれど。
「だからその人のこと、待っていたいんだ」
 絶対に会えるとは言い切れないけれど。
 会えないとも、言い切れないのだから。
――待ってるだけで、いいの?」
 待ち続ける者の、苦しみ。
 待ち続ける者の、悲しみ。
 それは、なによりもセルジュの母親がそうではないか。
 それはなによりも、レナの母親だってそうではないか。
「いいの? それでいいの?」
「いいんだ。待つ」
 迷う色なく、セルジュは言い切った。
「そりゃ、捜しに行こうかって思ったこともあるけどさ。そしたら"勝手に動き回りやがって、余計に手間かかったじゃねぇか!"とかなんとか言って、殴られそうな気もするし。だから――とりあえず、ボクは見つけてくれるのを待ってることにするよ」
 笑いながら言ったセルジュの言葉の中の、おそらく無意識に真似たのだろう荒っぽい話し口が意外に聞こえて、レナも吹き出す。
「なにそれ。女の人じゃないの?」
「女の子だよ。たぶん」
「どんな人かしら。その人が迎えに来たら、私にも紹介してよね」
 楽しみだとレナが言えば、セルジュも声を立てて笑った。



 顔も名前も、約束以外は何一つ覚えていない――あなた。
 けれど、約束したから。
 その時を、待つ。待ち続ける。
「それにこの前はきっと、ボクが会いに行ったんだ」
 だからきっと、これでお互い様になるんだろう。







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