あの日、君が死んだ。
「夕斗、なのか……?」
呆然と呟く大河に、少年は何処か薄暗い笑みを刻む。
「大きくなったね、大河。リュシーもセシルも。もうすっかり大人だね」
まるで肯定するような答え。
動かない太一を地面にそっと下ろして、立ち上がった少年が大きく黒いマントを翻すと、その下に着ていた普通の、子供らしい服装が露わになった。
それを見た大河たち三人の動揺はいっそう強くなる。
「そんな莫迦なことが、あるわけがない!!」
振り払うようにセシルが怒鳴った。
その隣で、地面に膝をついたリュシーが震えながら首を振る。
「夕斗が、いるはずないの……! だって夕斗は、あの時」
「死んだから?」
笑った少年がにたりと歪めた口の端から、鮮やかな赤がこぼれた。
左胸にも、見る間に赤黒い染みが広がっていく。
「こんな風に」
言葉の意味に、流れる血の意味に、理解が追いつくよりも先に。
その凄惨な姿に誰もが慄然とした瞬間、押しつけるような強い風に乗って、夕焼け空から真っ白な霧が吹き込んできた。
薄暗い、夕暮れ時だった。
一人の子供と、数人の大人が言い争っているのが見えた。
あそこに行かなければと思った。
行って、あそこから一緒に逃げなければと思った。
あの子供が誰なのか、よく知っている。
だから早く。
早く助けなければ、彼を。
急がなければ、間に合わなくなってしまうのに。
でも何故か、彼のところに辿り着けない。
言い争いは次第に激しくなって、ついに大人たちが彼を捕まえようとする。
すると、子供の傍らにいたオレンジ色が、大人たちに飛びかかって邪魔をした。
その隙に大人たちの腕から上手く抜け出した彼が、こちらに気づいた。
早く。手を振って、そう叫びたくて、なのに声が出ない。
届かない。
大人たちの誰かが吐いた、罵声が響く。
「この、化け物がっ」
彼が後ろを振り返る。
踵を返して、オレンジ色のパートナーを引き寄せて、抱きしめて。
「――っ!!」
誰かが、誰かの名前を叫んだ。
その瞬間、何かが破裂したような、大きな大きな音がして。
ふらりと彼が倒れた。
真っ赤な血が、流れていた。
たくさんたくさん、流れていた。
その子供は、太一だった。
「──いやぁぁぁっっ!!!」
響いた銃声、止まらない赤い血、動かなくなったのは誰?
死んでしまったのは、誰?
「ヒカリ!!」
力強い声。
聞き間違えることなどない、兄の声。
その声に引き止められて、ヒカリは我に返る。
「お兄、ちゃん……?」
目の前に、太一がいる。
そこはもう、あの場所ではなかった。
元の、黒い柱がある森の中だ。
白い霧も消え去っていた。
誰も血を流していない。
生きている。
太一は生きて、そこにいる。
「大丈夫だ」
いつの間にか起き上がっていた太一の手の中で、デジヴァイスが黄金の光を放っている。
「大丈夫だよ、太一はちゃんと、ここにいるよ」
息を荒げながらも笑みを作ってみせる太一の、隣に寄り添っていたコロモンも、安心させるようにそう言葉を綴った。
「今の、は……」
ようやく幻影だとわかっていても、目に焼きつけられた光景の強烈さが拭いきれず、ヤマトが呆けたように太一を見る。
「太一センパイ、無事、なんですよねっ?」
大輔も縋るように、存在を確かめるように、太一の姿を食い入るように見つめた。
「みんなには俺に見えたんだな」
未だ悪夢に半ば囚われているかのような面持ちで、めいめい小さく硬く頷く。
僅かに目を細めた太一が、完全に打ちひしがれたように項垂れうずくまる大河たち三人に目を向けた。
「そっちの人たちには、違って見えたんだろうけどな」
きっと過去の、本当の光景そのままに。
それが、本当の死者だ。
片腕で上体を支えたまま、太一は夕斗と呼ばれた少年を鋭く睨め上げた。
真っ赤な血の痕はもう、何処にもない。
「何がしたいんだよ、おまえはっ」
彼は小さく肩を竦める。
「聞いて、どうするの。君には何も出来ない。何の力もない。そうだろう?」
そして太一の目の前に膝を折って屈み込んだ彼は、両手をそっと差し出した。
「おいで」
と、実体のない見せかけのデータをすり抜けるように、太一の中から金色に輝くデジタマが転げ落ちる。
それは地面に触れた寸前、半透明のコロモンへと姿を変えて。
「コロモンっ!」
体勢が崩れるのも構わず伸ばされた太一の腕をかわしたコロモンは、少年が広げていた腕へと飛び込んだ。
「かえせ、かえせよ……!!」
くるりと振り向いて、太一を悲しそうに見つめて、それでも戻ることはしなかった。
「俺、まだそいつに」
「無理だよ。こうすることがこの子の意志だ。だから僕は、ここに来れた」
淡々と告げながら立ち上がった少年は、厳しい表情で押し黙っているゲンナイや聖獣たちをちらりと一瞥する。
「この子はね、本当はもう、とっくにあの海に溶けて、消えてしまっているはずだったんだ。だから僕が力を与えた。この子がずっと待っていることも知らなかった、君を待つための力を。君に会うための力を」
でも、それももう限界。
「この子がこの子であることの終わりは、もう避けられない」
少年の腕の中で、コロモンの輪郭がじょじょに光の粒子と化していく。
崩れてゆく。
「この子は助からない。でも君は、この子を見殺しになんて出来なかった。だから君は、この子を内側に抱えて、その紋章の力を使ったんだよね。そうすれば君のその紋章は、君が力尽きて死んでしまうまで、この子の死をとどめることが出来たから」
少年はほどけて消えゆくコロモンの光を見下ろして、すうっと緑色の目を細めた。
黒い柱から、少しずつ軋む音がこぼれてくる。
ぴしりぴしりと、ひびが入っている。
「──おまえ」
息を詰めて大きく目を見開いた太一の手の中で、デジヴァイスに灯っていた輝きが震えるように揺らぎながら、つと一点に凝縮し始めた。
「でも、今更そんなことをしたって」
いったん言葉を切った少年は、何処か拒むような硬い響きを込めて、こう続けた。
「どうしたって、この子は死ぬんだ」
だからもう、これでおしまい。
その瞬間、太一のデジヴァイスから解き放たれた輝きが迸ったのと同時に、黒い柱の内側から黄金の光が溢れ出して、柱は硝子のように呆気なく砕け散った。
そして、コロモンが消えた。
かつてデジタルワールドに、死は存在しなかった。
そう言われたことを、思い出した。
黒い破片がきらきらと、金色を照り返しながら降りそそぐ。
うっすらと引き伸ばされた白い雲すらもすべて吹き飛ばされて、ぽっかりと開いた青紫の空に。
柱のあった場所に穿たれた昏い穴から、まるで空間そのものがひび割れていくように亀裂が走る。
その亀裂からは、まるで嵐が近い海のような、重苦しい風が吹き出してくる。
「太一、太一!」
広がっていく昏い昏い亀裂を呆けたように見つめる太一の胸に、コロモンが飛び込んだ。
「太一!!」
その必死の声に、太一はコロモンを力なく見下ろす。
同じであって、違う存在。
「コロモン……俺」
デジヴァイスは今も力強く輝き続けている。
それでももう、その輝きは太一の命を削ってはいない。
「僕が、憎い?」
振り向いた少年が、呟くようにぽつりと言った。
何故か、何処かぼんやりとした表情で。色褪せた眼差しで。
「莫迦野郎……何がしたいんだよ、おまえは!」
太一は足に力を込めて、立ち上がる。立ち上がれる。
「教えてあげない」
そう言った、少年はひどく寂しそうに笑って、そして。
「バイバイ」
ふらりと穴の中に身を投げた。
それと同時に深い深い亀裂の奥深くから爆発的に吹き上がった風に乗って、黄金に輝く巨大な竜型デジモンが飛び出した。十一個のデジコアを纏い、チンロンモンにも並ぶほど巨躯のデジモンは、そのまま太一の目の前を駆け抜けて、さらに夕暮れの空高くへと上っていこうとする。
「待てよっ、おい、――ファンロンモンっ!!」
荒れ狂う突風に煽られながら、それでも目は閉じなかった、そらさなかった。
そして、その名を呼んだ。
絶叫じみた太一の呼び声とすれ違った一瞬、真紅の眼が僅かに揺らいだ気がした。
声は聞こえている。
だが、届かない。
「行こう、太一」
コロモンがぴょんと太一の腕から飛び降りた。
「ボクが届かせてみせる」
翼となって。
「だから追いかけよう」
「……ああ!」
勇気の紋章の、進化の輝き。黄金の輝きの中でコロモンはウォーグレイモンへの進化を果たすと、太一に向けてそのオレンジの腕を差し出した。
「ま、待つんだ、太一!」
その意図に気づいたゲンナイが、慌てて呼び止めた。
「君が行って、奴がまた君の紋章を利用してしまったら!」
呆けたように振り返った太一が、刹那すっと表情を鋭く変えた。
「本気で言ってんのかよ、それ」
その冷え切った視線と声に、ゲンナイがたじろぐ。
「それは」
「あいつだって、俺のパートナーなんだ!!」
言い捨てた太一がふいと顔を背けると、その身体をすくい上げたウォーグレイモンは力強く地面を蹴って飛び立った。
何の躊躇いもなく。
「……ガブモン」
その姿が遠く雲の彼方に消えてしまう前に、ヤマトは自分のデジヴァイスを握りしめてパートナーを振り返る。
「うん。わかってるよ、ヤマト」
ガブモンは一つだけ肯いた。
いつも傍にいて、いつも信じてくれる。
追いかけなければならないと思った理由は、たくさんあるだろう。
だが、追いかけなければならないという確信は、たった一つだ。
「ヤマト!」
メタルガルルモンへと進化したパートナーの背に飛び乗ったヤマトに、空が声をかけた。
「頼んだわよ!」
たった一言。
空が支えていた、ヒカリも無言で肯く。
「ああ!」
たとい姿は四年前でも、あの頃とは違う。
ヤマトが軽く腕を上げてそれに答えるが早いか、メタルガルルモンもウォーグレイモンを追って飛び立つ。全力で駆ける究極体は瞬く間に、地上からは小さな光の点となって薄紫の空を横切っていった。
「センパイ……」
雲に隠れて見えなくなるまで、大輔はその光点を見送る。
どの完全体が振り切られるとしても、彼らと同じ究極体レベルのインペリアルドラモンならば追い縋れたかもしれない。だが自分のパートナーは、あれからずっとチビモンの姿にとどまったままだ。ここはデジタルワールドにも関わらず。
「大輔ぇ」
見上げてきたチビモンが、情けない声を上げた。
わからなかった。何も。
「大丈夫かしらねー?」
額に手をかざして頭上を仰いだミミが上げた声はのんきな響きで、ヤマトの背を押したばかりの空も苦笑いを滲ませた。
「でも私たちじゃ、太一とウォーグレイモンには追いつけないしね」
「まあ、太一さんが一緒なんだから兄さんも大丈夫だよ」
「あの……それって普通、逆じゃないですか?」
伊織が怪訝に首を傾げると、タケルは笑みを張りつかせる。
「いいんだよ。それが『普通』だから」
そう言いながら、隠れるように俯いて唇を噛んだ。
あの四年前の夏と同じ姿をした太一を、自分の足で立った太一を、今の自分は見下ろしていた。当時から太一より高かったヤマトの身長を上回っているのだから、当然だ。だが何故か、今はそのことに愕然としている。元の姿に戻って最初に兄と向き合った時は、上回っていたことを喜べたのに。
だから自分は、追えないのだ。
「僕らは知らないことが多すぎる」
隣に並んだ丈がタケルの肩にそっと手を置いて、ゲンナイに目を向けた。
続いて光子郎も、何処か挑むような目で。
「あれは何者なんですか?」
大河たちはあの少年を、夕斗と呼んだ。
太一はあの金色のデジモンを、ファンロンモンと呼んだ。
そして。
「あれがお兄ちゃんのパートナーって、どういうことなんですか」
肩を落とし立ちつくすゲンナイを見据えて問う、ヒカリの目は硬い輝きに冷えていた。
わからないことが多すぎるが、それでもわかっていることがある。
あの言葉を、太一が許せないと感じたこと。
「そうだな……いったい何から話せばいいのか」
深く嘆息したゲンナイは、空を見上げた。
今更になって夕空を見上げても、もう誰の姿も見えない。
あの日も、あの時も、こんな夕暮れだっただろうか。
「夕斗のことも、君たちには言わないつもりだったんだが」
あの日に起きてしまったこと、そのままの幻影。
デジモンを庇って、殺された子供。
あの日の子供たちは、もう何処にもいない。
止まらない時と共に変わってしまった子供たちしか、いない。
けれどあの子供は、あの日のままの姿で現れた。
あの日のままの姿で、あの日に起きてしまったことを突きつけた。
「――夕斗は」
力なく俯いていた大河が、つと悄然とした声を紡ぎ始めた。
「夕斗は僕の、双子の兄だったんだ」
「大河」
バイフーモンが心配そうに鼻先を寄せると、大河もその首筋に頭をもたせかけるように僅かに傾けて、言葉を続ける。
「でも、夕斗は七年前に死んだ。僕らの目の前で、死んだんだ」
言葉にすれば、生温い赤の感触が今も手に残っているような気がして、大河は思わず握りしめた。
急いで駆け寄って、小さすぎたこの手で触れた時にはもう、兄は息をしていなかった。
そして兄は、そのまま。
「だから、あれは夕斗じゃない。夕斗はもういない。何処にもいない。死んだ人間は生き返らない」
言い聞かせるように積み重ねられていく言葉に、賢が目を伏せる。かつて兄の死を受けとめきれなかった自分は歪み、暗黒の力に飲まれ、大きな罪を犯した。
死は、すべてを断ち切ってしまう。
あまりにも唐突に、一瞬で、在るはずだったものを奪い尽くしてしまう。
気づいた時にはもう、たくさんのことが途絶えてしまっていて。
ただ、途方もない痛みだけが取り残されて。
「夕斗が死んで、僕たちはデジタルワールドから逃げ出した。この世界のことを全部置き去りにして、逃げたんだ。あいつが突きつけたのは、僕らの罪だ」
死んでしまった、消えてしまった、あの日の姿で。
あの時から、もう二度と時間が進まなくなってしまった姿で。
「今でもあいつは憎んでいるんだろう。夕斗を殺した人間も、夕斗を死なせた世界も」
忘れてしまったのかと、なじられたような気がした。
「あいつ……?」
大輔の微かな反芻に少しだけ顔を上げた大河は、そっと微笑にも似た苦い色を作った。
「あれは夕斗じゃない」
夕斗は死んだから。
だから夕斗の姿をした、あれは。
「あれは、ファンロンモンだ」
太一がそう呼んでいたように。
「あいつは夕斗のパートナーだった、ファンロンモンなんだ」
「あの時、ファンロンモンは許せないと言ったんだ……」
絶対に許せないと叫んだ声。
昏く押し寄せた、悲しみと憎しみの波。
「人間への憎悪に駆られたファンロンモンを、我らは止めねばならなかった。たとい戦ってでも」
チンロンモンの暗い声に、リュシーは色濃く自嘲を滲ませる。
「でも私たちは、その戦いを拒絶したの。もう何もかも嫌だ、そんなことを言い出すみんななんて大嫌い、って」
「それで俺たち四人は、逃げた。もう二度とデジタルワールドにも来ないって約束なんかしてな。夕斗があんなことになっちまって、そのすぐ後に仲間を斃すとか、考えるだけでも冗談じゃないと思ってたんだ」
リュシーを支えるように肩を抱いた、セシルも俯く。
自らの手で喪失を重ねるなど、耐えられなかった。
だから、すべて捨てて、背を向けた。
「そうして大河たちが我らの諍いを厭ってこの世界を去った後も、我らは奴を止められなかった。故に奴は暗黒の海の、最も深き底へと堕とされ、今まで封じられていたのだ」
バイフーモンの言葉に、大輔も後ろを振り返って亀裂を見つめる。
亀裂の向こうは、あまりにも昏すぎる深淵の色だった。
「仲間、なんだろ?」
返す声に、思わず責めるような響きが混じる。
「しかし神獣たる奴は、我ら四聖獣の誰よりも強大な力を有する、最も神に近いデジモンだ。奴はこのデジタルワールドを構成する基幹システムにすら、自力で干渉することが出来る。おまえたちの姿を過去のものへと変え、我らとのリンクを断ち切ったのも、奴の仕業であれば頷けよう」
それがもし復讐のために、何かを傷つけるためにその力を振るえば、どうなるか。
スーツェーモンの声は苦い。
「その封印を解いたのは、太一の紋章の力だ。ロストデータのコロモンに送り込まれていた力を、パートナーの繋がりを利用してファンロンモンが奪った」
「ですが、結局あのファンロンモンは、夕斗さんという人のパートナーデジモンなんですよね? なのにどうして、太一さんのパートナーでもあるんですか?」
光子郎が隣のテントモンにちらりと目を向けて、問いかけた。
まさに自分の半身とも言うべき、唯一無二のパートナー。失われたコロモンは欠落した記憶であり、ふたりのコロモンは本来は一つの存在だった。だが太一は、ファンロンモンをも自分のパートナーと呼んだ。
「それには1995年の光が丘で発生した一件が関わっている」
チンロンモンが軽く首を振って、亀裂に近寄った。亀裂はこれ以上広がる気配はなかったが、閉じる気配もない。
「しかし、かの事象のすべてを知っているのは、ファンロンモンの他にはエニアックしかあるまい。かの時代には我らも生まれてはおらぬ。どうする、ゲンナイよ」
話を向けられたゲンナイは、重たい息を吐いて首を振った。
「太一とファンロンモンの間には、確かにパートナーの絆が存在する。太一がどうして知っていたのかはわからないが、それは事実だ。だが……私もあの事件の際に、デジタルワールドをして今の在り方にたらしめた重大な事象が発生し、それに太一とヒカリが深く関わっていたこと、そしてそのためにファンロンモンと太一がパートナーの絆を有していることまでしか知らない。全容を引き出すにはやはり、エニアックに直接アクセスするしかないだろう」
「エニアック?」
明らかにデジモンとは異なる響きの、その名前に怪訝な顔が浮かぶ。
「光子郎たちはデジタルワールドの安定を望むものと接触したことがあったね。エニアックというのはそれの本体で、私のようなエージェントの母体にもなっている、世界管理システムのことだ。厳密な個体として存在しているとは言い難いが、君たちでも話をすることくらいは出来る」
それはつまり、直に接触しても構わないという意味で。
「いいんですか?」
「君たちも無関係ではない。知る権利はあるだろう」
「それじゃ、決まりだね」
丈の締めくくりに、めいめい首肯した。
と、その時。
「……大輔」
上擦って掠れた囁きと共に、大輔は腕を引かれた。
「賢?」
振り向くと、青ざめた横顔はひたすら亀裂の奧を見つめていた。
チンロンモンの枝杖がまるで縫い合わせるように、亀裂の両側に細い光の糸を通している。亀裂の先はファンロンモンが封じられていたという暗黒の海の最深部に繋がっているので、放置しておくわけにはいかないのだろう。
「嫌な感じがする」
「あれが暗黒の海だからってだけじゃなくか」
低く問い返す、そこに込められているのは疑念ではなく確認だ。浅からぬ因縁から来る恐怖ではなく、今まさに迫る危機の警告としての。
「離れるんだっ!」
刹那、大輔の手首をきつく掴みなおして賢が、弾かれたように振り向いた。
そのただならぬ響きに、やはり目を向けたヒカリが血相を変える。
「駄目、何か来る!」
亀裂の奥から響きだしたのは、波の音だった。重々しい波の音は急速に近づき大きくなり、瞬く間に轟音を伴って、亀裂から黒い波が溢れ出る。
そうして現れた波濤はすべてに喰らいつくように、暗い影の顎をもたげた。
チンロンモンが光の糸を切り捨てて跳びずさると同時に、バイフーモンやスーツェーモンと共に壁を作るように、三点の位置を取ってそれぞれの色を帯びた光を放つ。波はそのラインに接触した途端に弾かれたが、その直後に不定形だった波は集束すると、その途方もない圧力で壁を突き破った。
そしてそのまま真っ直ぐにある一点へと、鋭く爪を突き立てる。
「大輔くん! 一乗寺くん!」
タケルの叫びに呼応して咄嗟に進化したエンジェモンが瀧のような黒い水を叩き散らしたが、そこにはもう、誰の姿もなくなっていた。
ぽっかりと空白のように、色彩も真っ白に抜け落ちて、何もなかった。
「消え、た……?」
「――あれが、そうなのか」
「何よ、今の、黒い波って!?」
「ええ。とうとう現出してしまったのよ」
「最初は溢れてきただけだったのが、急に、あんな」
「あれはまだ、実在を保てるだけの情報と認識を獲得していないはずだろう」
「暗黒の海から出てきた、ように見えたけど……」
「今回のは断片に過ぎないわ、不完全で明確な存在も持っていない。けれど、方向性は持ち始めている。僅かに実在化した瞬間、あの子供たちに引き寄せられた」
「あれが出てきた時、何だか凄く怖い感じがしたの……凄く、昏い」
「飲み込まれてしまった子供たちが危険だわ」
「我々にもわからぬ。あのような存在は、このデジタルワールドが識る中にはないのだ」
「エニアックはまだ、あれを認識していない。あれはまだ、この世界に存在していると認識されていない」
「エニアックの認識が及ばぬ存在など、デジタルワールドに存在しうるはずがないのだが」
「だったら、私たちでサルベージするしかないな」
「しかし事実、あれは存在して、二人を巻き込んで消えた」
「急いで。あれはすべてを無にしてしまう」
「とにかく今は、一刻も早く二人を捜さねば」
「このままでは、すべてが失われてしまう」
「大輔、賢くん……無事でいて」
「存在していたという痕跡も記憶も、何もかも」
「――え?」
立っていたのは、くすんだ白一色しかない、砂漠だった。
「あれ?」
まず最初に、おかしいと思った。
ただ一人、砂漠の真ん中に立っていた。
ぐるりと見回しても、誰もいない、何もない。
もう一度、おかしいと思った。
どうして一人っきりなのだろう。
そう思った。
空っぽの両手を見つめる。
誰か、一緒にいるはずの誰か。
誰が? 誰が一緒にいるはずだった?
「あれ……?」
ここは何処なのか。
一緒にいたのは誰なのか。
気がつけば、何もわからない。
どうしてわからない?
「何をしている、本宮大輔」
聞こえた声。
自分ではない誰かの声。
慌てて、声のした背後を振り返った。
誰もいなかったはずなのに、今はいる。
長く伸ばした黒髪を後ろで括った、ずっと年上の男の人。男なのに、何となく綺麗な顔立ちをしている人。そういう雰囲気が少しだけ、誰かも思い出せない誰かに似ているかもしれないと、何故か思った。
「行くぞ」
彼が左手を差し伸べてきた。だから恐る恐るその手のひらに自分の右手を乗せると、大きな大人の手で、しっかりと握りしめられた。
「大輔」
もう一度、彼が言った。
名前を呼んだ。
名前。そう、これは自分の名前だ。
繋いだ手はとても温かかった。
「君は、帰らなければならない」
帰らなければならない。
その言葉を、大輔は胸中で繰り返した。
何度も何度も。