ずらりと一面に並んだ大きな窓から、色硝子の嵌め込まれた窓から、色鮮やかな陽の光が幾筋も幾筋も射し込んでいるというのに。
 なのに石造りのこの聖堂は、いつも薄闇に満たされていた。
 そして、いつも静寂に沈んでいた。
 その奥には、救世主を磔にした十字架。



 ――不思議と。この薄闇が静寂が、心地よかった。










− 聖戦の終わりと英雄の十字架 −








 終わりの始まる、時を告げる鐘の音が響く。
 誰もいない薄暗い聖堂の中で一人跪き祈りを捧げていたカイは、その鐘の音に、ずっと閉ざしていた両の瞼を開いた。
 その奥に湛えられた深い青の双眸で、凪いだ湖面のように静かな眼差しで、ゆっくり立ち上がりながら内陣の十字架を仰ぐ。ただそれだけのささやかな動作にも少し長めの前髪はふわりと揺れて、端正な顔を縁取る金糸が側廊から降りそそぐ陽光を弾いた。
 聖堂の両側にある回廊の上にはステンドグラスを嵌め込まれた大きな窓が並んでいて、光が幾筋も射し込んでいて。それでも真昼の光には足りなくて、堂内は薄暗くて。そんな霞むような闇にも浮かびあがる、それは鮮やかな光だった。
 巴里で最も新しいこの聖堂は、美しくはあったが、取り立てて華美に飾り立てられてはいなかった。その規模も装飾も歴史も比べるべくもない聖堂は、欧羅巴には手にあまるほど存在するだろう。
 だが、聖戦と称される、ヒトとヒトならざるもの――ギアとの長い戦乱の最中、この巴里の地には世界の何処よりも眩い光が存在していた。それは偉大な竜殺しの英雄クリフ=アンダーソンという形を象ったこともあれば、神器の一つに選ばれた若き英雄カイ=キスクの――すなわち彼の形を象ったこともあった。ギアに対抗しうるだけの卓越した戦闘能力を有する精鋭を集めた聖騎士団においても、それはひときわ輝かしい光。悪魔の如きギアを討ち滅ぼす者として、まさしく希望の具象として、人々の祈りを願いを、その一身に受けていた。
 そして今日、決戦とも言うべき作戦が、発動する。
 これを、成功させれば。
「団長、こちらにおいででしたか」
 開いた扉の外から投げかけられた呼び声に、カイはことさら鷹揚に踵を返した。
 もう何年と戦場を生きてきた自分も、再びこの地に帰ってくることはないかもしれない、そんな思いがなかったわけではなかった。そんな思いは誰にも、おくびにも出さないが。
 最前線に立つのだ。死んでもおかしくないのだ。
 それは紛れもない現実で、カイとて無数の仲間の死を見てきていて、生きている限り自分が死なないはずはないことも知っている。なのに、追いついてこないのだろうか、恐れも気負いも、不思議と重苦しくなかった。
 ただ。
「今、行きます」
 神の定めた正義のため。ギアを倒すため。聖戦を終わらせるため。
 自分はそのために生きている。そのために、たとえ死んでも構わない。
 聖戦が、それで終わるのならば。
 クロスの感触を、布の上から確かめるように押さえつけた。
 これを成功させれば、聖戦は終わる。
 これで、終わるのだ、聖戦は。
 これで、終わりに。



 本当に、終わり?



 目の前にある空間が、ぎむっと音を立てて歪んで。
 世界の色が、塗り替わって。
「Go to glory……」
 本当に、成功した瞬間そう声に出して言ったかは、自分でもわからなかった。
 本当は、わかっていた。これは、奴にとっての死ではないことを。
 数キロメートルに渡ってジャスティスを包み込むように展開された結界の、唯一の結び目を睨みつけながら、我知らずカイは封雷剣の柄をきつくきつく握りしめていた。
 淡く光るオーロラのようなベールがたなびく向こう側、次第に薄れゆく空間の中は、今はまだ辛うじて視認出来た。この封印を成すための作戦で命を落とした、もう弔うことも出来ない、多くの聖騎士の躯さえ。
 それも、わかっていたことだったが。
 もうこの方法しか、封じるしか、なかったのだ。ギアは兵器として生み出され、その意味で確実にヒトの能力を凌駕している。一対一で屠れるだけの能力者はあまりにも少なく、さながら暗い海が波打っているかのように群れを成したギアの大群を抜けて、その上で最強のギアであるジャスティスを討ち取るなど、そんなことは聖騎士団でも、百年かかっても不可能だった。
 頭では冷静にそれを理解していたが、感情のどこかが、落ち着かない。聞き取れないほどの微かさでわめかれているような、不快感が沈殿していく。
 不意に、ベールの向こうで影が揺らいで。
 思わずカイは目を凝らした。もう輪郭もぼやけて見えるジャスティスの、鮮血のように赤い眸がまっすぐこちらを見ていることは、なぜかわかった。
 罠に陥れられたことへの怒り?
 人類を滅ぼしえなかったことへの憤り?
 思いつくどれもが、もはや次元牢を止められないとはいえ、静かにたたずんでいるかのような、まるでこの運命を受け入れるかのような、そんな姿にそぐわない気がした。
 その答えを、知ることは出来ないが。
 もはや音は届かない、何一つ。厚さなどという概念を超越したものであるベールの向こう側で、たとえ空気をびりびりと震えさせるほどの大音量が放たれていたとしてもだ。
 問いは意味などなく、答えは存在しない。
 もう、終わってしまうから。
 ゆっくりベールは収縮して塊となると、飴細工のように伸縮しながら、ついには細く背の高い門を形作った。その他に何もない、扉だけがそこにそびえ立っている。
 彼我の唯一の接点となる結び目だ。術は完成したのだ。
 聖戦は、終わったのだ。
 この作戦に殉じた者の、そして聖戦におけるすべての犠牲者の冥福を祈って、カイは目を閉じて十字を切った。ギアの血でべっとりと濡れた封雷剣を左に持ち替えて、右手で、額から胸に、左肩から右肩に。
 刹那、作戦終了を告げる鐘の音が、風の法で広大な戦場にくまなく響き渡った。
「まるで鎮魂の鐘だな」
 ふと自嘲気味につぶやいた、その声は誰に向けたものでもない。ここには聞いてくれる相手も話しかける相手さえ、もはや一人として生き残っていない。
 そういえば、こんなことが昔にもあった気がする。
 おぼろげな遠い記憶を手繰りよせるように、首からサーコートの中に掛けていたクロスを引っ張り出すと、黒ずんでいた鎖がふっつりと切れた。
 切れてしまった。
 と、鎖と共に緊張までが切れたのだろうか、立っているのが辛くなってカイはその場にくずおれる。今更ながら身体のあちこちも悲鳴を上げてくる。残りわずかな法力で辛うじて止血だけはするも、それで完全に傷が癒えるわけではない。疲労も限界だ。
 血塗れの戦場で、無数の屍の中で。
 誰もいなくなった、たった一人で。
 こんなことが、昔にも。
 いつのこと、だっただろうか。
 どうしても思い出せなくて、なぜだか、両腕を投げ出してカイはその場に寝そべってみた。その時になって、自分が眠りに落ちつつあることも気づく。
 もう、眠ってしまいたかった。
 背中に当たる、地面は当たり前だが固かった。
 雲が吹き飛ばされて、空はただひたすら真っ青だった。
 鎖の切れてしまったクロスを、きつくきつく握りしめる。
 視界の端に、次元牢の扉が見える。
 今、目の前にある、この扉。



 ――これは、開いてはならない扉。



 生き残れ、と。
 いつか誰かがそう言ったのを、今でも覚えている。



 逆光の中で、肩越しに少しだけ振り返った、射し込む光を弾いて瑪瑙のように赤い、その目を見て、何かを言いかけて、なぜだか息が詰まって声が途切れて、手も伸ばせなくて。
 ただ、見ていることしか、出来なくて。
 唐突に目が覚める。
 その時になってようやく、あのまま意識が沈んだことにカイは気がついた。
 空ではなく板張りの天井が見えて、聖騎士団の宿営地となっていた町に自分は収容されたのかということにも。
 血臭が渦巻く次元牢の前で寝ていた傷だらけの自分に、探しに来た者は肝を冷やしただろうか。それでなくても周りには何もなくて、そのさらに周りには死体しかなかった。息があったのは自分だけだった。
 無性に、薄っぺらな笑いがこみあげてきた。
 地面とは違って体重をやわらかに受け止めるベッドのクッション。むき出しの腕に触れてくる清潔でさらさらしたシーツ。開けっ放しの窓からレースのカーテンを揺らしながら入り込んで頬をくすぐってくる風。
 それは、あまりにも穏やかな空間だった。今までカイが生きてきた時間の大半を過ごした、戦場とはあまりにも別世界の。包帯だらけの自分の姿だけが、滑稽なまでに場違いにさえ感じる。
 顔を左に向けると、立て掛けられた真っ白の封雷剣と、小さなテーブルの上に載った銀のクロスが見えた。カイは左手を伸ばして、そのクロスを引き寄せる。そのまま顔の上で、ゆらゆらと揺らした行動に意味はない。ただ。
「血の痕、なくなってしまったな」
 少し古びた銀製のクロスには、真新しい鎖がつけられていた。
 のろのろと上体を起こしてそれを首に掛けると、少しだけ違和感があった。
「――終わった、んだ。何もかも」
 そう言った自分の声が自分の耳に届いて、また、少しだけ嘲笑った。
 こんな変な気持ちは今だけ、だから。
 こんな、悲しみにも似た、けれど違う、ひどくわけがわからない感情は。
 こんな、何かもわからない何かを失ってしまったような。
 目覚める直前に閃いた、刹那の夢が瞼に焼きついていた。
 涙は一筋もこぼれなかった。
 にじむことすらなかった。
 ただ、どうしてか無性に、あの聖堂に行きたかった。
 帰りたかった。



 この町に生きて帰還した聖騎士の数は、出陣前のそれからおよそ半減していた。
 丸一日眠り続けたカイの代わりに撤収準備の指揮を執っていた、先代の聖騎士団長であり彼の師でもあるクリフは、カイと会うと最初にこう言った。
 よく生きて帰ってきてくれた、と。



 その町の中心に建つその聖堂は、カイにとって馴染み深いカトリック式ではなかった。中は明るくて、それほど広くもなくて、入り口からでも奥まではっきりと見通せて、十字架に救世主の姿がないのをすぐ見て取れた。
 カイはそれ以上、足を踏み入れなかった。



 たくさんの人が、死んで。
 帰ってきた。
 一度はもう帰れないかもしれないと思った、聖騎士団本部の聖堂に。
 ひっそりとした、薄暗いこの聖堂に。
 カイの手が両開きの扉を開くと、ぎぃと軋む聞き慣れた音がした。
 ずらりと一面に並んだ大きな窓から、色硝子の嵌め込まれた窓から、色鮮やかな陽の光が幾筋も幾筋も射し込んでいるというのに。
 なのに石造りのこの聖堂は、いつも薄闇に満たされていた。
 そして、いつも静寂に沈んでいた。
 その奥には、救世主を磔にした十字架。
 自分は生き残ったのか。
 そんなことを思って。
 不思議と、少しだけ落ち着いた気がした。



 時は二一七五年。
 こうして、人類の聖戦は終わった。







back