静かな夢だった。
時が止まっているかのように、音のない夢だった。
光射す、薄闇の聖堂の奥に、あの人はいた。
背の高い人だった。
黒っぽい髪をしていた。
赤に縁取られた聖騎士団の服を着ていた。
あの人は、ずっと振り返らずに、十字架を見つめていた。
− 赤い目眩 −
聖堂の中は、たとえば空気の揺れる音さえ聞こえそうなほど、静かだった。
まるで、夢の中のような静謐。
不意にそんな思考が脳裏をよぎってカイは、ずっと閉ざしていた目を開いた。そしてそのまま、前方の内陣に掲げられた十字架を仰ぐ。
そう、夢だ。
夢の中で、あの人はずっと、十字架を見つめていた。
ずっと、今のカイのように跪くでもなく祈りを捧げるでもなく、ただ、見つめていた。
カイは十字架から視線を外すと、わずかに目を伏せる。
しばらく前から、同じ夢を繰り返し見ていた。
夢の中は、カイもよく知っている、この聖堂だった。
その夢に何か意味を求めたところで、おそらく答えなど出ないだろうが。
詮無い思索を振り払うように、カイは傍らの神器たる長剣を手に立ち上がった。サーコートの、漆黒に縁取られた長い裾が床を撫でるように滑る。厚いブーツの足音を響かせ踵を返せば、肩のケープがサーコートと共に風をはらんでふわりと広がった。
数年ぶりにまとった旧聖騎士団の白い制服は、懐かしさよりも当然のように馴染んだ感覚が先にあった。多くの聖騎士たちと生きた時間を、戦場の突き刺さるように冷えた空気を、思い起こさせる。
この制服には聖騎士を守るための特殊な技術がふんだんに用いられているが、カイが再びこの制服に身を包むことを選んだ理由はなによりも、自身が立てた誓い故にだった。
バックルに刻みつけた"HOPE"は、己との、また己が死なせた数多の命との、峻厳たる誓約。
百年に及ぶ聖戦が終わって、五年の年月が流れた。ただ殺戮を繰り返す無数のギアの、唯一の頭脳。唯一の司令塔たるギア、ジャスティス。そのギアを、次元牢と呼ばれる隔絶された空間に封じ込めることに成功してから五年。ジャスティスを欠いたことで統制をなくしたギアたちは、単純な殺傷力においては未だ脅威であったが、組織的な掃討を受けて急速に数を減じている。
多くの犠牲を払いながらようやく掴んだ、平穏だった。
だったと、いうのに。今やはっきりと感じとれる復活の兆しに、憤りとやるせなさは尽きることがない。
だが、自分が優先すべきことは、ただ一つだった。
行かなければ。不穏渦巻く、第二次聖騎士団選考会が行われる地へ。
守らなければ。守るべきものを。
そのためならば、何をも惜しまない。何一つ惜しくはない。
きっと、それだけでは、ないけれど。
聖堂の扉の前でカイは、少しだけ立ち止まって、振り返った。
しばらく前から、兆しを感じた日から、同じ夢を繰り返し見ていた。
夢の中は、元聖騎士団本部にある、この聖堂だった。
夢の中で自分は、この場所に立っていた。
夢の中であの人は、あの場所に立っていた。
あの人は、振り返らなかった。
その夢に何か意味を求めたところで、おそらく答えなど出ないだろうが。
――そして、扉を開いた。
視界を埋め尽くす赤い光が、目を眩ませる。
その燃え立つような夕暮れの色に思い起こされたのは、赤い炎と、赤い血と、赤い目。
我知らず口の端が、薄く笑みの形に歪んだ。
これは予感、それとも期待。
根拠は、何もないけれど。
ジャスティスを封じている次元牢が綻びつつある気配を知って、国際連合はそれこそ蜂の巣でもつついたかのように慌てふためいたと聞く。
無理もないだろう、人為的に無理やり空間の法則をねじ曲げているために、次元牢は強化することもままならない。しかし、破られていくのをただ黙って見ているわけにもいかないのだ。ようやく世界各地で復興が軌道に乗りだしたところであり、百年の聖戦はそれでなくとも人類に色濃い疲弊を残している。
最終的には次元牢が崩壊した直後にジャスティスを討つという案が採択され、それに伴い第二次聖騎士団結団の決定が下された。
その選考基準は純粋に戦闘能力のみに焦点が絞られており、およそ人格を問うものではなかった。試合中の殺傷は罪に問われず、優勝者に与えられる賞品が如何なるものでも望むままという内容が拍車を掛けて、賞金稼ぎと思しき姿もそこかしこに見受けられる。
さらには、すでに聞き及んではいたが、服役中の者にまで声が掛けられたらしいというのも事実のようであった。直接携わっていなくとも、国際警察機構の管理職に就いていれば手配されるような大物は書類上で見ることも多い。そのような経緯で見覚えのある顔を、カイはすでに数人発見していた。
「嘆かわしい……」
思わずため息もつきたくなる。曲がりなりにも国際連合の名の下で開催されているというのに、これではあまりにも形振り構っていないではないか。
「なあに、んなもん牢屋に逆戻りさせてやればよいだけじゃろうが。奴らとて無罪放免となったわけではあるまい」
「クリフ様、そういう問題ではないと思うのですが」
どうでもいいことだとばかりに軽く笑い飛ばす老人に、カイのため息がいっそう深まる。
「焦燥に過ぎるとは、儂も思うがな」
豊かにたくわえられた顎髭を撫でながらクリフは不意に笑いを引っ込めると、色の抜けた眉の下で鋭く目を細めた。それは、聖戦の大半とも呼べる年月を英雄として生きた、戦士の眼光で。
なにより次元牢の封印の衰えが、予測されていたものより明らかに早すぎる。加えてこの選考会自体にも疑惑はつきまとっていた。
「ええ。私もそれが気掛かりで。……まさかここでクリフ様にお会いするとは、思ってもいませんでしたが」
カイが視線をクリフからクリフの持つ斬竜刀へと移した。クリフはもちろんカイの身長をも上回って全長二メートルはある、まるで巨大な包丁のような直刃の刀だ。斬り裂くよりもむしろ叩き潰すための並外れた重量を持つ刀を、しかしクリフは平然と片腕で支えていた。その筋力からしても、九十まであと数年という高齢だとはにわかに信じがたいだろう。
「まだまだ若い者には負けてられんわい」
クリフはまた呵々と笑う。カイがつられて笑みこぼすと、
「ところでカイよ、ソルにはもう会えたか?」
いかにも愉しげにといった様子で、そう言葉を続けられた。
あの人の名前を呼んで、呼び止めて。そして。
言わなければならないことが、たくさんあった気がする。
言いたいことも、たくさんあった気がする。
この手に残ったのは後悔と、それに諦念。
だって、何一つとして、言えなかったから。
優勝するしかないか。
選考会予選通過登録の手続きと引き替えに渡された大会要項の、ページをめくる指を止めるとカイは小さく息をついた。
と同時に、いつの間にか室内が薄暗くなっていたことにも、ようやく気づく。明かりを付けに行くのは少し億劫にも感じられ、冊子から離した片手の一振りでもって自分の傍らに光球を生み出した。カイの法力で作り出された皓い輝きは揺らがず、その空間に漂う。その灯火の下で改めて、そのページに目を落とした。
本選が行われる会場の案内図。黒い線ばかりで構成されている中で、一際大きく空白を抱え込んでいるのが本部棟だ。運営委員以外は一切の立ち入りを禁ずる旨が目立つ赤のインクで添えられている。もともとがジャスティスを捕らえた次元牢の監視施設であり、厳重に封鎖された次元牢へと至る路の、唯一の門もそこに存在している。立入禁止は当然の処置だろう。
だが、ジャスティス封印に直接――それこそ周囲が立て役者と言うのも過言でないほどに――関わったカイですら、とりつく島もなく門前払いされてしまったのだ。次元牢の綻びは何か外的要因にあるのではないかという疑念も、カイの勘とそう大差なく、明確な根拠があるわけでもない。ここで強行してしまうと国連と揉めることにもなりかねないだろう。甚だもどかしいが、現状では手の出しようがなかった。
かつて聖騎士団は、ギア殲滅という旗印の下、そのための活動であれば何者にも妨げられない超法規的組織の側面を持っていた。しかし国際警察機構はそのような強権を有しているわけではない。国際的な組織ではあっても結局は警察でしかなく、国連決議による是認を得られないまま最重要施設を強制捜査することは出来ない。
そこまでは仕方のないことだ。腑に落ちなかったのは、その是認がいっこうに出ないことである。不審に思って選考会に関わっている国連上層部の要人を調べさせると、最たる中心人物が国連外部の人間であることまでは判明したが、そこで行き詰まってしまった。隠されているのだ、意図的に。これで運営委員会に対して疑惑が深まらないはずがない。
カイはもう一度、その文字を目で辿った。
――なお、報奨内容の交渉は決勝終了後に選考会運営委員会会長と直接行っていただくことになります。
会えるのだ。優勝さえすれば。
「優勝、するしかないな」
わずかな笑みがにじむ。
これは苦笑、それとも自嘲。
もう自分の意志がそれだけではない自覚くらい、あった。
彼と会ったのは、何年ぶりになるのだったか。
出場しているとは聞かされてていたが、後で探し出そうと決意していたが、まさか。
「――ソル?」
まさか、それよりも先に、偶然に出くわすなんて、思ってもいなかった。
微かにこぼれた声を聞きつけたか首から上だけで振り返り、カイの姿を認めたソルは怠そうに目を眇めた。
変わっていない。何もかも。
昔は何かしら声を荒げてばかりいた。
今の自分はきっと間の抜けた顔をしている、そんな気がする。
どうして言葉が続かない。
彼の名前を呼んで、呼び止めて。そして。
言わなければならないことが、たくさんあった気がする。
言いたいことも、たくさんあった気がする。
もう何一つ、思い出せないけれど。
不自然に続く沈黙に、待ち飽きたかソルが紫煙を深々と吐いた。もともと彼の表情の変化は大きくないが、読みとれないほどに無表情なのではない。単に愛想がないだけだ。今も、辟易としているのがはっきりわかる。
「人を呼び止めておいて、だんまりか。坊や?」
昔のままの呼び方をされた、その瞬間、何かがカイの中で切り替わる。
ずっと眠っていた感情に、火がつくのをはっきりと自覚した。
「……ソル、どこのブロックに割り振られている?」
カイにしては低くわずかな愉悦まじりに響いた声に問われて、ひどく面倒そうにソルは一つの記号を告げた。
なぜだか無性におかしかった。
「そうか、決勝まで当たらないんだな」
声を立てて笑い出してしまいそうになったのは辛うじて押しとどめて、ソルの瑪瑙の色にも似た赤茶の瞳を、まっすぐ見据えた。
「なら決勝で会おう。――決着をつけたいんだ」
いっそ不遜なほどに、微笑んでみせた。
優勝する上で最大の難関となるに違いないと、理解していたけれど。
はやる感情を消すことは出来ない。
いや、それどころか。
手段でしかなかった優勝が、目的の一つに変わった瞬間。
つけたかったのだ。決着を。
八年も前から。
ずっと。
あの人の名前を呼んで、呼び止めて。そして。
言わなければならないことが、たくさんあった気がする。
言いたいことも、たくさんあった気がする。
もう何一つ、思い出せないけれど。
あの人は、振り返らなかったから。
視界を埋め尽くす赤い光が、目を眩ませる。
赤い赤い炎に思い起こされたのは、おびただしい赤い血と、細められた赤い目。
身に染みついた本能が咄嗟に法力の守りを形成していたために、火の海に焼き尽くされ沈むことにはならなかった。けれども。
「坊やは寝てろ」
正確に鳩尾を打ち据えた、彼の拳を認識したときにはもう遅くて。
虚しく薄れゆくばかりの意識に、耳元から低い声が響く。
倒れたままでも何故か見ていられた赤い目が、ふいと消える。
喉が灼けつくように乾ききっていて、声は出なかった。
これで終わり、なのか。
遠ざかっていくだけのソルの背を見つめて。
意識を失う寸前、カイは封雷剣の柄を、きつくきつく握りしめた。
あの人の名前を呼んで、呼び止めて。そして。
言わなければならないことが、たくさんあった気がする。
言いたいことも、たくさんあった気がする。
もう何一つ、思い出せないけれど。
あの人は、振り返らなかったから。
――振り返らずに、いってしまったから。
広がる空は、いつかのように、ただひたすら真っ青だった。