人を見る目はあるつもりだった。
 自信があった。
 勘だの直感だのという類には自信があったのだ。
 そうでなければ、きっと、生き残れはしなかった。



 死にたくなかった。誰一人、死なせたくもなかった。










− 合縁奇縁 −
[ 後編 ]








 ただでさえ白かった彼の顔は血の気が完全に失せて、青ざめていた。
「――カイちゃん?」
 呼びかけた声は、きっと届いていない。
 大きく見開いた目でただ一点を見つめたまま、立ちつくして。
 ただ、ギア、と。
 カイの震えた唇からこぼれたのは、それだけだった。



 彼にとって、終わりとは何なのだろうか。
 終わりという言葉を聞いた瞬間、唐突にそう思ったのは何故だろうか。



 向かう先はジャスティスが封じられているはずの、次元牢が存在する大会本部棟の中心だった。
 今更ながら民間人を巻き込むわけにはいかないと言い出すカイを、それなら縛りつけてでも行かせないとアクセルが押し切って、勇んで外に飛び出したものの。
「カイ様……!」
 良くも悪くも目立つ彼は、あっという間に呼び止められていた。対する国際警察機構の制服たる青いマントも目立つ。その者達が部下ならば、カイもおそらくあのマントを制服としているのだろう、公務の時は。
 アクセルの知るカイという人物は、今アクセルの目の前にいる、純白の聖騎士団服を纏っている彼だ。今の警察官としての制服ではなく、昔の聖騎士としての制服を着る彼が、何を思ってそうすることを選んだのかまでは知る由もないが。
「落ち着きなさい。我々が浮き足立ってどうしますか。本部棟には私が向かいますから、皆は避難誘導と――念のため、最悪の事態も想定しギアに対する警戒を」
 先ほどまでの彼とはまるで別人のように、異常事態に冷水を浴びせかける声で部下に次々と指示を与えている。
「すっごい人とお友達になっちゃった気分?」
 さすが聖戦の英雄と言ったところなのだろうか、そういうことをカイ本人が聞くと嫌がりそうな気がしたので、声は潜めておくが。一歩引いたところからそのような情景を眺めながら、アクセルは自分の育ったスラム街を思い出し、またそこに生きている人々を思い出し、彼の生きてきた世界がまったく異質な物であると改めて思う。
「くッだらねぇ。寄り道ばかりでうざッてぇだけだろ」
「アンタ、冗談でも大統領なりたいってんなら、人の上に立つってこと勉強しといた方がいいんでない?」
 思わずアクセルは肩をすくめる。生憎カイとの対戦しか目にする機会はなかったが、チップも弱くはない。それ故に引き込んだのだったが、もしかして失敗だったろうか。今更だが。
「Shut up! ここでやッてもいいんだぜ、俺は!」
「俺様、生憎と無駄なことはしない主義なの」
 だって、ほら。
「三十分ほど前にも本部棟の方で騒ぎが――って、何をやっているんですか、貴方達は」
 先ほどのアクセルよりもくっきりと呆れを露わに、カイが小さく息を吐く。
「ほら、カイちゃんに呆れられちゃったじゃないの」
「テメェがちんたらしてッからだろ!」
「仕方がないでしょう。……誰だって信じたくないのです、再び聖戦に逆戻りするかもしれないなどということは」
 病室でジャスティスの名を簡単に口にした、カイが普通ではないのだろう。
 それでも元聖騎士達は、頭ではこの現実を他の誰よりも理解してしまっているから、認めたくない感情を引きずったままでも、カイ=キスクという英雄の下に集おうとするのか。
「カイちゃんは?」
「終わりますよ。――今度こそ」
 静かで、奇妙な確信を帯びた断言だった。



「先客がいるみたいね」
 すっかり人気のなくなった本部棟。固く閉ざされていたはずの、今はぽっかり口を開けている門を見上げて、アクセルは軽く肩をすくめる。門の内側には無惨にひしゃげた鉄の扉が転がっていた。
「最初の騒ぎッつーのはこれか?」
「そうですね」
 分厚いその扉を検分し始めていたカイが素っ気ない肯定を返しつつ、次いで思案げに目を細める。
「外側から破られています。しかも、どうやら一撃で」
「それ人間業?」
「何人か、出来そうな人を知っていますよ」
 さらりとカイは答えを返し、中のホールをぐるりと一瞥するが早いか、抜き身の封雷剣を順手に持ち替えて踏み込んだ。たんっという音が広く高い天井に反響する。
「たとえば?」
 灯りが乏しく視認にも限度はあるが、ホール中あちらこちらの床石が砕かれて破片が飛び散っていた。入り口から奥の大階段にかけて敷かれていたらしい絨毯など、見る影もない。
 そして、大階段の脇に突き立っていたのは血まみれの、巨大な剣と鎌。
「クリフ様……!?」
 それが暗示する意味に真っ先にカイが気づき、駆け寄った。
 が、すぐに戸惑うように足を止める。階段の影に隠れた壁にもたれかかる老人の傍ら、オレンジの色彩も鮮やかな少女が、これもまた巨大な錨を肩に担いでいたのだ。と。
「ああ! あんた、あの時の軽い男!!」
 まっすぐアクセルを指さし、少女の甲高い声が非難がましく響き渡った。
「お知り合いですか?」
 彼も戸惑っているようだが、さすがにそれは指差されたアクセルも同じだった。
「ああ、うん、俺の試合相手だった子だけど……何でお嬢ちゃんがここにいるわけ?」
 名前は確かメイだったか。さすがに錨を振り回されたのは初めてだったので、しかもこんな自分より一回り年下の少女にだったので、記憶にも残っていた。
「あんたのせいで優勝できなかったから、ボクが自分でジョニーを迎えに来たんだよ!!」
「んでも俺様もその後でカイちゃんに負けちゃったし、そのカイちゃんも準優勝だったんだから、俺のせいじゃないっしょ」
 言い返したものの、子供じみた自分本位の無茶苦茶な理論を展開されては、この程度の反論、何の役にも立たないだろう。
 そもそも。おそらくはそんな場合ではないと思うのだが。
「そんなことより! 何があったのか、説明していただけませんか」
 案の定見かねたカイが割って入ったので、メイはさらに何か言いたそうに口を尖らせたものの、渋々話し始めた。
「ボクがここに来たのはちょっと前で、このお爺ちゃんがあっちの――真っ黒な人を倒したところだったよ」
 目線だけで示された先には、最後は壁に叩きつけられたのか、黒い長髪の男が俯せに倒れ伏している。肌の色は蝋人形のようだった。
「そしたらお爺ちゃんも動かなくなって見に来たら大怪我してるし、ときどき奥から変な化け物が出てくるから放ってもおけないし、おかげでジョニーは探しに行けないし、もう最悪だよ!!」
 話しているうちに怒りが強まったようで、メイが終いには地団駄を踏む。その背後に黒光りしている錨にも、少し離れた壁にも、自然ならざる生物の残骸が付着していた。
「ギア、か」
「そこの男もな」
 残骸を睨みつける彼の呟きに、不意に顔を上げたクリフが言葉を返した。
「今回の黒幕だそうじゃ。国連に潜り込んでジャスティス復活を企んどったギア、じゃったよ」
 思っていた以上にしっかりした話しぶりに、アクセルも胸を撫で下ろす。カイを自分に任せて、その当人はこんなところで死闘を繰り広げていたのだ。このまま死なれては寝覚めが悪い。
「何故このような御無理を……!」
 クリフの傍らにかがみ込んだカイが、剣を左手に持ち替えてかざそうとした右手は、しかし途中で手首を掴まれ阻まれた。
「儂なりのけじめじゃ。御主がここに来たようにの」
 カイが絶句する。
 まるで、すべて見透かしているような口振りに。
「何、つまり爺さんってばカイちゃん来るのも予測済み?」
 あんなことを頼んでおきながら。
「おお、んなもん伊達に何年も見とらんぞい。御主なら信用してもよさそうだったからのう」
 そう言ってカイの手首を解放しつつ、にやりと笑ってみせる。
 この爺さんはかなり食えない。年の功は偉大だと、アクセルは思わず天井を仰いだ。
「ほれ。呆けとらんで御主らはさっさと行かんか。ソルはとうに行っとるぞ」
 その言葉に、ゆっくり立ち上がったカイは、メイとチップに目を向け、そして最後にアクセルと目を合わせると、すっと視線を外すように落とす。
「ここを……クリフ様を、お願いできますか」
「そうだねー、カイちゃんは急いだ方がいいな。んじゃま、そういうことで、後はチップとお嬢ちゃんに任せて」
「アクセルさん」
 何も激しているわけではない。ただ静かに、低い低い声で、さえぎった。
 その声が、ひどく重い。そして、ひどくざわついた。少なくともアクセルにとっては。
 カイの意図はアクセルとて理解している。それ故に先手を打とうとしたのだが、面と向かって言うしかないようだった。
「そうやって俺まで置いてくってのは、ナシにしようぜ?」
 こんな風に茶化した色を取り払った声の響きを、良いと言ってくれたのも彼女だった。
「この爺さんに、俺が頼まれたんだ。あんたを頼むってな?」
 つまらない意地なのだろうか。
 それでも、カイを見逃してはならないという確信がアクセルにはあった。
 だって。
「何故そこまで……」
 決して譲ろうとしないアクセルに困惑げな表情を浮かべたカイを、力任せに引き寄せて。
「あんた、――って思ってるだろ」
 その耳元に、鋭くささやいた。



 勘だの直感だのという類には自信があったのだ。
 たとえば人を見る目とかも、その内で。
 それは、この境遇では重宝しているとは思う。



 自分の勘を疑ったことはなかった。外したこともなかった。
 まっすぐ奥へと続く長い廊下の果て、二つ目のホールに飛び出した、その刹那に。
「アクセルさん!」
 彼の警告が聞こえるが早いか、アクセルは咄嗟に横へ飛んでいた。ぞくりと背筋を走った、唐突な悪寒に従って。
 何事かと振り向くと、一瞬前まで自分がいた空間を木の幹のような太い腕が引き裂いていた。飛び散った床の破片がぱらぱらと足に当たる。
「ひぇえ……」
 一筋伝う冷や汗を生々しく感じる。そのギアに、似ている動物を挙げるとすればゴリラだろうか。それにしては大きすぎるが。だって、向こう側にいるはずのカイの姿がよく見えない。
「アクセルさん!?」
「ああ、生きてるよ!」
 これがギア。確かに化け物以外の何物でもない。この時代の数年前までは、こんな化け物が軍隊を成していたのか。百年もの間、世界中を席巻していたのか。
 ふと鉄の臭いに気づいて、灯りが乏しいホールの隅を一瞥する。
 黒い水たまりと、大会中よく見かけた制服と、ばらまかれた何か。
「――何、あれ」
 それが人間の臓物であると、理解した時には視界が白に染まっていて。
「見たところ、三人とも大会の運営委員ですね。このギアの仕業なのでしょう」
 駆け寄ったカイが、遮るように間に立っていたことに気づいた。
 遅れて胃の奥からこみ上げてきた吐き気に、思わず口元を手で押さえる。今まで惨殺死体をまったく見たことがないわけではない。だが、ああも引き裂かれた肉塊を、ぶちまけられた内臓などは見たことがなかった。
 今だって年嵩とは言えない彼は、数年前まで、こんな化け物と戦い続けていたのか。
「下級のようですが……これ以上の犠牲が出る前に、ここで仕留めますか」
 そう、あっさりと冷ややかに言い放って。
 床を強く蹴る音がした時には、もう。
「カイちゃん!?」
 あまりに自然に、無造作とも見えるほど簡単に、カイはギアの懐に飛び込んでいた。その勢いのまま白い切っ先が吸い込まれるように異形の腹を貫き、その瞬間、薄暗いホールに青白い雷光が閃き踊る。
 やがて蛋白質の焦げた臭いがアクセルのもとにまで流れてきた頃、ギアの巨体がぐらりと傾いで倒れ伏した。
 その傍らには、涼やかに立つ彼の姿。
「一撃……?」
 感じたのは、おそらく畏怖だ。
 思わず口とついた呟きを聞きつけたか、カイはアクセルを振り返ると、少し苦笑じみた微笑を端麗な顔に滲ませた。
「複雑な制御をこなす余裕もないので……少々法力を使いすぎる、原始的な手段なんですが」
 この類の生物はすべて、体内で水分が循環している。そこに落雷ほどの高圧電流を流せば、一瞬にしてその管を焼き切ることが出来る、要はそういうことなのだろう。
 だが、これは。
「――カイちゃん、めちゃくちゃ強いんじゃん」
 これが、聖戦の英雄。
 本当の意味で垣間見た気がした。
 しかしカイの微笑はわずかに苦みを増す。
「私は、ギアの殺し方しか知りませんよ」
 ひゅっと体液を振り払って風を切る音がした。手慣れている。
「あ……」
 戦闘能力と一口に言っても、質が違うのだ。たとえばアクセルならば、人を無力化する手段に長けているだろう。そのための力だ。だが、戦場で育ったというカイはどうだろうか。化け物のような強靱な生物を殺す、そのための力。それだけを、戦争の間ずっと磨き続けていたということは。
「まさか人間相手に、こんな戦い方は出来ませんしね」
 小さく笑いながら言うと、彼は奥の階段を促す。先を急ごうと。
「ああ、そうだね……」
 聖戦が終わって、確か五年だったか。
 たった五年。
 自分は聖戦の時代を知らない。戦争も知らない。
 戦場なんて、知らない。



 勘だの直感だのという類には自信があったのだ。
 たとえば人を見る目とかも、その内で。
 それは、この境遇では重宝しているとは思うが。



 正直なところ、痛いことだって、ある。



「ねぇ、カイちゃんって何処の人?」
 それは彼と"お知り合い"になって三日目だった。
「アクセルさん、それ、いい加減にやめてくれませんか……?」
 そう言うカイのため息には多分に諦めが混じっている。
「名前からしてドイツかイギリス? 南って雰囲気ないし」
 それと知って、アクセルも笑って無視しているのだが。
「……フランスです」
 もはや言うだけ無駄だと彼が諦めるのは、いつ頃になるだろう。
「へぇ? 珍しいじゃん、そっちのお国で"c"じゃなくて"k"なんてさ」
 ティーポットから湯気と共に漏れ出る茶葉の香りは上品で、なかなか良い物のようだ。おそらくはアールグレイだろうが、彼の好みだろうか。
「よく言われます。クロスを見て驚かれるんですよ、カトリックだったのかと」
 襟元から覗く鎖にカイが指を掛けて引っ張ると、しゃらりと銀のクロスがこぼれ出てきた。その中央には確かに、磔にされたキリストの姿がある。
「クリスチャン?」
 単なるアクセサリーとしてクロスを好む者もいるが、そういった場合は概ね十字架の形をしているだけの代物だ。だから、本来は改めて問うまでもないようなことだったが。
「ええ――そう、です」
 果たして、少し困ったような歯切れの悪さでカイは肯いた。
「でも本式じゃないよね、これって」
 ぴっと右手の指を――親指側から三本の指をぴったりつけて立て、そのままアクセルはカイの目の前で小さく十字を切って見せた。左から右に、上から下に。
 それは、彼が試合でステージに上がる前に切っていた、十字。
「ああ……気づかれましたか」
 カイの浮かべていた苦笑の、色合いがそれまでと一変する。
 ひどく、遠く。
「仰る通り、本式ではありません」
 咄嗟に何故と出掛かった声を、アクセルは渾身の力でもって飲み込むことに成功した。
「――ふぅん、そのクロスの方は? 年代物っぽいけど」
「もちろん祝福してもらっていますよ。何度も血で汚してしまいましたがね」
 右手でクロスをすくい上げながら笑った、彼をひどく痛ましく感じた。
「戦場でも、ずっと着けていたので」
 今でこそ古い銀の、落ち着いた輝きを放っていても。
 それこそ戦場に在っても血の臭いなど纏わないような、そんなイメージが第一印象だったのだ。カイが聖騎士団最後の団長であったことは、最初に声をかけた日に注目を集めている理由を訊ねたことで知らされていたが、それでも。
 昨日アクセルと試合で相対した時も、その確実で無駄の削ぎ落とされた剣技は撹乱など一切意に介さず、鮮やかに勝ちをさらっていったから。彼は綺麗に戦っている、そんなことはありえないはずなのに、そんなイメージが消えていなかったことに、否応なく気づかされる。
「ところで、そう言うアクセルさんはイギリス御出身ですか?」
 頃合い良しと見て、予め温めてあったカップに紅茶が注がれる。その音に、アクセルは我に返った。
「御明察、俺様は二十世紀のイギリス育ちだぜ」
「は?」
 湯気を上げるティーカップを滑らせるように差し出していた彼の手が、止まる。
「だから。俺って実は二十世紀の人間なの」
 さらさらと自分のカップに砂糖を注ぎながら、そんなカイの姿をちらりとだけ見やると、アクセルは殊更さも他愛ないことのような声音で繰り返す。
「…………どういうことですか?」
 結局、眉根を寄せ数秒ほど悩んでからカイは首を傾げた。こんな馬鹿げた話が一笑に付されないのは、彼の生真面目な気質のおかげだろう。
「どうもこうも。俺って二十世紀のロンドンにいたのよ? それが気がついたら……何世紀だっけ、こっち」
「二十二世紀」
「そう! 捨てられてた新聞拾って、日付見た時の俺の気持ちわかる!?」
 一口だけ啜って、アクセルはお茶請けのクッキーに手を伸ばす。ほのかに甘い味が、真っ当な食事をこの時代に放り出されてからほとんど口にしていないことを思い出させた。ましてや紅茶や菓子など言わずもがなである。
「いえ……」
「んでよ、何とか戻る方法はないもんかって調べたくても、見知らぬ場所に放り出されたんじゃ、なかなか難しいしね」
「ああ、それで私に接触を」
 立て板に水とばかりにアクセルが飄々と言葉を続けていると、カイが至極あっけらかんとそんな相づちを打った。
「――あら? 俺様バレバレ?」
「終結してから五年経ったとはいえ、聖戦は百年続いていました。ギアが全滅したわけではありませんし、あの頃の記憶が風化するには五年ではとても足りず、私など未だに団長と呼ばれてしまうことが多いのですよ」
 何でもないことのように、彼は軽く微笑んで言ってのける。
「それでなくとも……この騎士団の制服は目立ちますし」
 アクセルの何かが、何処か異質めいているのを嗅ぎ取っていたのだ。
「それに、どうせ嘘をつくならもっと信憑性のありそうな嘘をつくでしょう。貴方なら」
 身も蓋もないその付け加えに、思わず両手を合わせて懇願する。
「……あのさ、俺が二十世紀の生まれってのも、下心有りでカイちゃんに近づいたのも本当のことだけどさ、この時代にお友達が欲しかったって純粋な気持ちも信じてくんない?」
「何も責めようというわけではありませんよ」
 私で宜しければ喜んで、と。
 そう言った時の彼の笑い方が、
「よかったー、ここでカイちゃんに見捨てられたら俺また独りになっちまうところだった」
 少しだけ子供っぽく見えた。
 それも、ほんの一瞬だけのことだったが。
 ふいっと視線をカップに落として。
「アクセルさんは……こんな未来を見てしまって、さぞショックだったでしょう」
 笑みを消してわずかに目を細めると、ぽつりとカイが呟くように言った。
「まぁ、驚きはしたけど」
 荒廃しきって一時は滅びかけた文明。ようやく復興に踏み出したばかりで地域格差も激しい、ひどく歪な世界。
「早く帰れるといいですね、貴方の時代に」
 この時の微笑みも、アクセルにはひどく遠かった。
「……うん、会いたい人も、いるしね」
 無性に仲間に、彼女に、会いたくなった。
 自分は聖戦の時代を知らない。戦争も知らない。
 戦場なんて、知らない。自分が知っているのはスラムの世界だ。
 だが、彼は生まれた時から戦争のただ中で生きて、今初めて戦争のない時代を生きている。
 生まれた時からずっと戦場で、何を見ながら生きてきたのだろうか。
 その穏やかな笑顔に、そんなことを思ったのだ。



 ――そして、ほら、今もまた。



 可哀想な人。
 そう言ってくれた彼女の、声の響き方だって今もはっきり覚えている。
 だけど、この人はきっと自分より、もっと、そう。



 そう、あの時。
「あんた、死んでもいいって思ってるだろ」
 アクセルのこの言葉は思いも寄らなかったのか、カイは心底驚いたようだったが、
「――そう、見えますか?」
 すぐに笑ったのだ。ひどく綺麗に。



「実際。そこんところ、どうだったわけ?」
 医務室の中は、居心地が悪くなりそうなほど静かだった。
 だから。
「俺様の勘って当たるのよ」
 前後逆の椅子を跨ぐように座り、背もたれの上で重ねた腕に顎を埋めたまま、そう声に出して言ってみた。この室内には他に誰もいないから、いるのは眠っている一人だけだから、もちろん誰からも返事はないのだが。
 ついと視線を逸らした先には、滑らかな白を基調にした不思議な剣が立てかけられている。まるで特別にあつらえたかのようにその剣は現在の持ち主にぴったりだと思えた。かなり長く細身の直刃も、一見では刃に見えない刀身も、血で曇らない純白も。
 そこまで考えて、うっすらと苦笑いが滲んだ。
 試合で当たった時すでに気づいていた。たとえ剣を振るう時でもその立ち居振る舞いが粗野に映らないこの青年の、奥底に骨の髄まで染みついているのは、ただ純粋に対象を殺すための呼吸であり技術だ。ヒトという種を凌駕している、ギアを殺すための技術。
 ヒトと相対する時の彼が己に課しているものを、手加減と言ってしまうのは簡単だろう。しかし、殺すことに加減も何もない。すべてを少しずつずらして、歪めているのだ。
 ギアの殺し方を忘れるわけにはいかない。
 だが、ヒトを殺してはいけないのだ。
「大変だよねぇ、そんな生き方」
 再び、アクセルは目覚めない彼に視線を戻す。
 少し長い彼の前髪が、いくつもの薄い影を落としていた。その枕元にクロスが置かれている。すべてが終わった後に疲労で意識を手放したカイがそれでも握り締めていた、彼のクロスだ。
 赤黒い血は、鎖にまでこびりついたまま乾いている。申し訳程度に拭き取られているので、周りに付着する分は落ちているだろうが。
 きっと、聖戦の時代にはこんなことが、何度もあったのだろう。
 何とはなしに手を伸ばしてすくい上げるた時に、ついとカイが目を開けた。
「あ、起きた?」
 投げかけた声に惹かれて視線が向いたのが、はっきりとわかる。意識は明瞭なようだ。
「あれから……」
 数時間程度では充分に疲れが抜けていないのだろう、ひどく怠そうに上体を起こす。
「まだ日は変わってないぜ。周りにも、何にも言ってないからさ」
 倒れたカイを背負って無事だった辺りにまで戻ると質問攻めには晒されたが、不用意なことを言うことで、カイが望む結末を妨げることになるのは避けたかった。
 だから、すべてに沈黙を守った。
 ――アクセルは。あの場でカイが交わした言葉を、ほとんど聞き取れなかった。
 あまりに濃密な血臭に吐き気を催し、風上に離れていたから。
 風が強く吹き始めたから。
 立ち入ってはいけない、そんな気がしたから。
「そう、ですか。ありがとうございます」
 覇気のない声だった。何かが欠け落ちてしまっているかのように。
「あの」
 サイドボードに目を向けてから、カイは少しだけ右手を持ち上げて、手のひらで指し示すような仕草を見せる――アクセルの手元を。
「ん? あ、ああ」
 言わんとすることを察して、差し出された手のひらの上にクロスを乗せた。
「血で汚れちまったな」
 彼の血ではない。だが、どちらの血かもわからない。
 ただ。
「――終わった、んですよね」
 ひどく緩慢な動作でクロスを首に掛けながらカイが、薄暗く笑った。
 咄嗟に何かを言いかけて、しかしアクセルは口を噤んだ。
 あの時、確かに。
 ほとんど声になっていなかったが、それでも確かに、カイは言ったのだ。
 ソルに向けて。
 ギア、と。
 そんな真実が、彼が切望していた終わりの、現実だった。
 生まれた時からずっと戦場で、彼は何を見ながら生きてきたのだろうか。
 眉をひそめることもなくギアの命を刈り取れるほど、たくさんのギアを殺して。
 ぶちまけられた血や臓物にも取り乱さないほど、たくさんのヒトを失って。
 そんな狂った世界で、剣を振るい続けて、必死に生き続けた、彼は。



 決して出会うはずのなかった人だ。



 もぬけの空の病室を見た時、柄にもなく焦ったのも、きっとそのせいだ。
「カイちゃん、何抜け出してんの」
 数刻前まで次元牢のあった場所は、今や本部棟西側の残骸がすり鉢状になった底でしかなかった。カイの姿をそんなまばらに転がる瓦礫の中に見つけて、アクセルは非難がましく口を尖らせる。
「少し風に当たりたくなりまして」
「……遠すぎだろ」
 このはぐらかすような答えには、さすがに気が抜けたが。
「ですね」
 カイが声を殺し、肩を震わせながら笑う。聖騎士団のコートは腕を通さず羽織っているだけのようで、左手で押さえていた。
 そして、右手には。
「――怪我人は大人しくするもんよ?」
 アクセルは大仰にため息をついてみせる。
 今すぐ連れ戻す気は失せた。
 これも一つの、終わりなのかもしれない。
「どうしても来ておきたかったんです。今日が終わらないうちに」
 カイは多少おぼつかない足取りで瓦礫をすり抜けて、その場所にたどり着く。
「明日になってしまったら、私は――戻らなければならないから」
 そこは、今はもう黒く煤けた地面があるだけだったが。
「今日しか、ないんです。きっと」
 右腕に抱えていた、花束をそこに置いた。
 夕焼け色が紺碧に溶けゆく、不思議な色の、空の下で。
「ねぇ、カイちゃん?」
 その後ろ姿が、ひどく心細く見えた。
「何ですか?」
 そういえば。いつの間にか、この呼び方に何も言わなくなっていた。
「……あんま無理、すんじゃないぜ?」
 異人でしかない自分が彼に言えることは、あまりにも少なすぎるけれど。
「俺、カイちゃんのこと心配してっから」
 知るはずのなかった時代の、出会うはずのなかった人達。
 それでも、こうして出会ってしまって、知り合ってしまったから。
「アクセルさん……?」
 一瞬の浮遊感と、次いで押し寄せてくる、途方もない落下感。
 愛しい彼女のもとへ帰れますように。
「俺がいたってこと、ちょこっとだけでいいからさ、覚えててちょうだいよ」
 それが許されぬならば――せめて。
 出会ってしまった人達と、また会えますように。
「約束」
 笑って、手を振った。







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