その目はいつだって、何もかもに絶望し続けていた。
 そして頑ななまでに、希いだけを見つめ続けていた。










− 絶望の色 −








 何も変わっていない。
 結局は、そうとしか括りようがなかった。
「坊やは寝てろ」
 抵抗はなかった。大きく吹き上がった炎の目眩ましに目を取られたか。正確に鳩尾を打ち据えると、力の抜けたカイの身体はくずおれて、支えるものがないまま石畳に滑り落ちていく。剣を持たぬ方の手が肩に触れてきたが、掴むことももはや出来ないようだった。
 少々食い下がられすぎた感はあるが、許容範囲だ。派手に応酬が繰り広げられていた途中と比べるとひどく呆気ない形の結末には、観客から不満のどよめきが上がっているようだったが――そんなことも関係がない。
 未だ熱の残る空気に、ソルはかすかな吐息をこぼす。さすがに骨を完全に折るとまではいかなかったが、罅くらいは入っただろう。途中から左足を庇っていた。
 これで、まさか終わる前に目覚めたとしても、動くこともままならないだろう。
 見られたくなかった。見られれば、自分がギアであると確実に知れる。どんな結果になろうと、面倒なのはまず間違いない。動きにくくなるのは避けたかった。
 まだ、最後ではないのだから。
 その時、ふと、彼と目があった。
 一瞬だけ。
 すぐに視線を上げて、外す。彼の青の代わりに、空の青が視界を染めた。
 まったく変わっていない。
 甚だ胸糞が悪くなるほどに。



 ――あの時と同じ、目だ。



 かつての短いつきあいでも、刹那だけ垣間見せるその色を、何度か見たことはあった。
 よみがえってきた下らない記憶に思わず舌打ちをする。と同時に、戦勝者ひいては優勝者が宣言された。これでソルは優勝者として、本部棟の奥深くへ堂々と入ることが出来る。この盛大な茶番劇も、もうじき終わりだ。
 ふと思い立ったことがありステージの周囲に目を走らせると、解除されて霧散していく結界ぎりぎりにまで身を乗り出して、ソルの足下に転がる子供を見ている男を見つけた。ソルも一度だけ見かけたことがある。数日前カイに敗退した、クリフ曰く"カイに最近出来た面白い友人"だったか。
 そんな些末なことを覚えていたのは、その日に自分も試合があったせいで運悪くクリフに捕まってしまい、済し崩しで押し切られるまま観戦する羽目になったからだ。
 決定は即座に下した。聖騎士団時代に見知っていた顔もあるにはあったが、封炎剣を持って出奔したことで敵視されているだろうし、ましてこちらの意図を理解するとも思えない。なるべく面倒が回避できる方を選びたかった。こんな手回しをすること自体、実に面倒でしかないのだが。
 このどうしようもない状況に辟易としつつ、ソルはカイの傍らに屈む。
 昔も、何度かそういうことをしたような覚えがあった。
 血みどろの死体だらけの戦場で、生きているのかと覗き込もうとすると、大抵その途端に目を開ける。もっとも、今はそんなことはありえないが。
 意識を失おうと手放さない剣は彼の右手にぶらさがったままだったが、引き剥がすのは容易かった。封炎剣と二本まとめて片手に携えて、仰向けに倒れている子供の左腕を引っ張り上げて上体を起こさせると、極少ない挙動だけで簡単に左肩へ担ぎ上げる。
 気味が悪い。
 肩に掛かった重みに、何故かそう感じた。
「おい。そこの鎌野郎」
 名前は覚えていなかった。鎖鎌を操る英国人という珍しい組み合わせが印象に残っていただけだった。ステージの際まで歩いてから適当に呼びかけると、今ソルの存在に気づいたかの如く、弾かれたように仰いでくる。
「へ?」
「坊やが出歩かねぇように、きっちり見張っとけ」
 高さ一メートルはあるだろうステージの外にいるその間抜け面の上に、支えていた左手で肩の上から引きずり下ろす、その勢いのままカイを投げ落とした。クリフをもって面白いと言わしめた男はそれを慌てて受け止めて、少し戸惑いがちに、――壊れ物のように抱え直す。次いで、
「坊やって、カイちゃん?」
 気負うことなくこちらを見返され、またその物言いに、あの老人が妙に嬉々としていた理由を何となくだが察した。確かに稀有だ。薄く口の端を歪めて、次第に集まってくる人間が何かを言い出さないうちに封雷剣を石畳に軽く突き立てた。易々と切っ先が潜り込むが、抜くのに手間取るほど深くはない。そもそも、そういう剣でもある。
 これで、終わり。
 目を戻したステージ中央には本部棟に――今回の茶番劇を仕組んだ黒幕の下に案内するという人間が待っていた。未だ距離が離れているので詳細までは知れないが、次元牢はもう、中からも外からも大きすぎる圧力が掛かって、がたがただろう。最後の一押しを演じようという腹づもりなのは想像に容易い。
 これで、終わり。
 これでまた、かつてのように長らく会うことはないのだろう。
 そんなことを思いながら背を向けた時、封炎剣の刃が突き立った封雷剣の刃を掠めて、ごくごくわずかな音が鳴った。
 そして、銀の光が視界の中で閃いた。
 ステージを悠々と横切る最中に気が向くまま拾い上げて、その刹那に思い出す。
 そのまま振り返りかけたが、それは寸前でとどまった。
 既にカイは運ばれてしまっている。誰かに預けるか、それとも。
 だが係員の急かす声に、考えるのが億劫になってポケットに突っ込んだ。



 この光には、見覚えがあった。



 それを見つけた時、まるで棺に収められた死体のようだと思った。
 ギアとヒトの屍が転がる真っ直中で、眠っているかのように平然とした顔で、その子供は仰向けに寝そべっている。血を吸った地面に投げ出した右手には、剣を握り締めたままで。
「――おい」
 歩み寄ってソルはそのまま爪先で小突きかけるが、声をかけるが早いか子供はしっかりと目を開けたので、やめた。
「ソル、おまえ一人か?」
 まっすぐこちらを見上げて、この期に及んで掠れもしない、はっきりした声。返事を口にする代わりに浅い首肯で返すと、わずかに眉をひそめて細く嘆息する。しかし嘆息したいのはソルも同じだった。
「で、どっちなんだ?」
「……何が」
「肋骨だ」
 カイの呼吸が不自然に浅い。ショック症状は出ていないようだし、喀血した様子もないので内臓の損傷はないだろうが、法力の回復を待って処置を優先すべきと判断するくらいには無視できない程度か。
「とっとと言わねぇと押して探すぞ」
 即答しない下らない意地が、実に子供じみている。つきあいきれないが、かといって捨て置いて戻るとうるさいのもいるのだから、なおのこと面倒だった。
「……右下だ」
 やれやれと右側に屈むと、むくれた子供は左側を向く。そのせいで、呼吸を楽にするためだろう少し寛げられていたコートの襟元から、不意に硬質な光がこぼれて。
「血か……?」
 硫化とは少し異なる色合いで、作りの込み入った部分が黒ずんでいる。この古めかしい銀を汚しているのは、血だ。だが新しい血ではない。少なくとも、今日流された血ではない。
 呟きが気になったのか振り向いたカイの目の前に、クロスを摘んでぶら下げた。
「意外に悪趣味だな?」
 すぐに手放し再生を促す法力の構成を組み上げながら、そんな揶揄混じりが口をついて出たことに深い意味はなかったが。
「鎖の血は落ちなかったんだ。でも、付け替えてしまうのは嫌だったから」
 やけに冷え切った静かな声で、そう返ってきた。
「てめぇの血か?」
 そう問うてみたのは、ほんの好奇心で。
「違う、これは……」
 カイはわずかに眉をひそめながら何かを言いかけて、そのまま途切れて。
 そのまま、それっきりになった。



 係員に促されるまま本部棟に足を踏み入れる直前、ソルはふと空を見上げた。
 雲がほとんどない、ひどく晴れた日だった。
 そういえば五年前、ジャスティスが封印された日も、こんな空だった。
 あの日の空も、真っ青だった。



 だからこの空の青に息苦しさを感じたのは、数年ぶりに見せられた、あの目のせいに違いない。



「私が今まで何を思い、生きてきたか――貴様にわかるまい!」
 波のように押し寄せた炎と熱気を手にした大鎌で斬り捨てながら感情的に叫ぶ黒衣のギアを、ソルは冷めた目で見据え一気に距離を詰める。
 相手をする気など毛頭なかった。
 高い天井のすぐ下をくり抜いて造られた、いくつもの明かり窓から列を成して射し込んでくる、薄く細い光が無性に気に障る。ホールの中央に届きはしない。それでも鬱陶しいほどに性能が良い視力は、小さく切り取られた空を見つけ出してしまう。
 無数の光がちらつく、感触がひどく不快だった。
 暗い床から不意に頭をもたげ鋭い牙で喰らいつこうとする使い魔の獣は封炎剣で叩き潰し、その反動と身体のバネを利用してテスタメントの頭上を飛び越すと、ソルは奥へと通じるたった一つの扉に降り立つ。
 刹那、振り向き様にソルの胴を狙って薙ぎ払われる大鎌を、逆手に握ったままの封炎剣で受け止めた。
「ジャスティスが寝込んでんのはこの奥か」
 この建物の奥底にあるだろう次元牢から漏れ出ているジャスティスの気配は、今この時にも肥大化を続けている。崩壊はもう間近だろう。そろそろ前座に手間取っている場合ではない。
「復活を止められるとでも思っているのか!」
「いちいち下らねぇことほざきやがって」
 そんなことのために、ここへ来たのではないのだから。
「こっちは、奴を消しに来たんだよ」
「『背徳の炎』が……貴様とて我々と同じ、ギアだろうが!!」
 力任せに金属が擦れ合う耳障りな音に交じって、テスタメントが憎悪を込めた怒号を上げる。
「これが俺の役目だからな」
 手にした封炎剣にさらなる力を込めながらの嘆息はしかし、唐突な轟音にかき消された。ソルは咄嗟に眼球だけの一瞥でホールの入り口を見やると、腕に込める力の向きを変える。と、反発する磁石のようにお互いがお互いを弾き、距離を空けた。
 飄々とした声がホール中に響いたのは、この時だった。
「何じゃいソル、まだこんなところをウロウロしとったのか」
 途端、テスタメントまでが明らかに驚愕して振り返る。
 ソルにしてもこの乱入は意外だった。先ほどカイに付き添う中にその姿を見たはずが、今は斬竜刀を携え、無惨にひしゃげた扉を踏みつけている――クリフ。
「年寄りは引っ込んどけ」
 テスタメントから意識を逸らさないまま、うんざりとソルが吐き捨てた。しかし。
「それは聞けんのう」
 構わず、クリフはホールの中へと歩みを進める。
 その視線は、端からソルには向けられてはいなかった。
「ここは譲ってくれんか」
 ただ、一切の表情を消して押し黙っている、テスタメントに向けられていて。
「まだ、たった一人の息子を見間違えるほど耄碌した覚えもないのでな」
 最前線に身を置いていた現役時代を彷彿とさせる、その低く鋭い声は、それでも色濃く、疲れにも似た何かに染まっていた。
 それも、すぐに引っ込められて。
「それにのう、あんまりもたついとると」
 軽く揶揄めいた笑みを滲ませながらクリフが告げた、この言葉に。
「追いかけて――来てしまうぞ?」
 まさか、と。
 即座に否定が脳裏をよぎったのは、きっと。



 あの日、立ちつくすだけだった子供を、思い出してしまったからに違いない。



 かつての短いつきあいでも、刹那だけ垣間見せるその色を、何度か見たことはあった。
 たとえば、戦場で殉死者の認識票を拾い集めている時、そして十字を切る時。
 当時から既に周囲には希望の具現とも持て囃されていたカイが、ギアに怒り憤りこそすれ、たとえ一瞬でもそんな目をしているように見えたのは、最初は勘違いかと思ったが。
 あまりにも秘やかすぎて、おそらく本人も気づいていないのだろう。タチの悪いことに。
 ソルが知る限り最も明確に見せたのは何故か、ソルが聖騎士団を去る、その時で。
 その時に確信させられた。
 その色が、いったい何の色なのか。
 甚だ胸糞悪い記憶だった。
 ただ、立ちつくして、そして。



 あの時。ふっと俯いていた顔を上げて、ソルをまっすぐに見つめて。
「おまえも、行ってしまうんだな」
 露わになった青の目を、わずかに細めて。
 ひどく穏やかに、ほろ苦く微笑んで、そう言ったのだ。
 子供らしくなく。
 だが、それでも――あまりに、この子供らしく。
 激高のまま喚き立てられ、裏切り者と罵られ、何故と詰られた方が、まだ容易かっただろう。
 その諦めきったかのような声音が、耳障りだった。笑い方が、目障りだった。
「……もう少し欲張っても許されんじゃねぇか」
 だから、思わず口をついていた。
 自分のことになると何一つとして、希うことすらしない、この子供らしく。
 今もまた、諦めるのだ、足掻きもせず嘆きもせず。
 さも当然のように。
 底抜けに絶望しきった笑顔で。
 子供の背伸びを背伸びと口にしたら、何故か目の敵にされた。それもまた、この子供なりの不器用な希い方の萌芽だったのかもしれないが、少なくとも自分はそんな人間ではない。自分に何かを希うのは、お門違いも甚だしい。
 いつか誰か、子供らしく我が侭を言える相手を見つければいい。こんな時代では、あまりに難しいことなのかもしれないが。
 ソルは小さく口の端を持ち上げて。
「生き残れよ、坊や」
 声もなく呆然と立ちつくしているカイの頭を、一度だけ、ぽんっと撫でるように叩いた。
「――ソル!!」
 突然弾かれたように動き出し、悲鳴のように上擦った声で叫ぶ子供に背を向けたまま、追いかけられないように炎の壁を生み出した。酸素だけを燃やす炎だから、下手に触れなければ何ら害はない。すぐに消える。
 そしてそのまま振り返らずに、剣を持たぬ右手を数度振った。
 はなむけの言葉は、ほんの気まぐれだった。
 封雷剣を持つ、この哀れな子供に。



 甚だ胸糞が悪くなるほどに、見たくない代物だった。
 生きることも死ぬことも諦めてしまった老人のような目を、子供がするのは。
 子供は子供らしく、根拠もない信念で、綺麗な理想を謳っていればいい。
 いつものように。
 そして、神だの希望だの正義だの、そんな甘いことを口ずさんで、生きればいい。



 空間が引き裂かれるように歪んでゆく。
 建物の中だというのに、空が見える。
 だが、それは先ほど見上げた空とはまったく異なっていた。
 本来の正常な空間と次元牢の中の空間が癒着し、逆に次元牢が辺り一帯を取り込むように浸食しだして奇妙な空間を形作っている。すべては紛い物、次元牢の内側だ。
 そして、その中心に佇んでいる、白い影は。
「やれやれだぜ」
 いつものように何気なくポケットに引っかけた指先に、硬い物を見つける。
 拾ってしまった、銀のクロス。
 こうして、まともに見るのは今日が二度目だった。
 前に見た時とは違って、鎖は黒ずんでいなかったが。
 ――そうか、付け替えたのか。
 思えば、目線の高さもほとんど変わらなくなっていた。
 昔はもっと見下ろすように彼を見ていた気がした。
 それも当然なのだろう。
 あの頃からもう、八年が経っているのだから。
 子供は、人は、変わらないものもあれば、変わるものもあるのだから。



 ヒトとはあまりに違いすぎる蛇のようなジャスティスの目に、その瞬間だけ途方もない笑みが見えたのは、錯覚なのかもしれなかった。
「……ソル……また……語り合おう……三人で……な……」
「ジャスティス……?」
 ただ、その最後の言葉の意味を、理解したのは一拍置いて後だった。
 理解した途端、笑いがこみ上げてくる。
 その亡骸の傍らに座り込んで。
「……ああ……確かに、まだ絶対に叩いとかなきゃならねぇ野郎がいる。俺達ギアの産みの親――野郎だけはな……」
 浮かんだのは、色濃い自嘲だった。
 罪深い自分達が堕ちる先は地獄しかありえないだろう。
 安らかに眠れと言う資格が、果たして己にはあるだろうか。
 実に馬鹿げているとはわかっていたが。
「ヘヴィだぜ……」
 仰いだ頭上は、やはり雲一つない真っ青な空だった。
 限界まで酷使された身体が、しきりに休息の必要性を訴えてくる。五感も思考も、ひどく摩耗したように鈍っている。
 だが、それでもまだ現状の認識には事足りた。
 破損した赤いヘッドギアは、少し離れたところに転がっていた。
 つまり、今は露わになっているのだ。
 額に刻まれた、罪の証が。
 見られていることに気づきながら、もう隠すことも面倒だった。
 愚行になるのだろう。
 まだ自分には、やらなければならないことがある。
 今はまだ、死ぬわけにはいかない。
 だが、もう身体に力は入らなかった。
 ブーツの足音が近づいてくる。最初はゆっくりと躊躇いがちに、だんだんと小走りに、終いには足を半ば引きずるように走って。
 追いかけてきた、それが誰なのか、わかりきっている。



 ――また、あの日のように、絶望した目をしているのだろうか。あの子供は。



 自分は殺されるのだろう。カイに。
 そんなことを他人事のように思いながら、ソルは意識を手放した。



 最後に見えた空は、何処までも真っ青に透き通っていた。







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