これが、終わり。



 笑えばいいのか、怒ればいいのか。
 それとも、泣けばいいのか。
 こんな、終わり。



 祈るように仰いだ空は、ただひたすら真っ青だった。










− 紅い十字架と白い花びら −








 夢を見た。
 昔の自分の、夢を。
 今の半分くらいの年齢だった自分の、夢を。
 ほんの少しだけの、夢を。
 眩い逆光の中で、肩越しに少しだけ振り返った、射し込む光を弾いて瑪瑙のように赤い、その目を見て、何かを言いかけて、何かがおかしかったことを、思い出した。
 もう、あの人の顔も声も、名前すらも覚えていないことを、思い出した。
 それでも、何か、忘れられないものがあったような気がした。
 だったら、これは。



「ソル……?」



 ――自分の声で、目が覚めたような気がした。
 まるで白昼夢のような、刹那の夢から。
 鈍い傷みが背中に残っている。しばらく意識を失っていたらしい。大きな瓦礫の影に自分は倒れていて、ソルとジャスティスが最後に起こした大爆発に吹き飛ばされたのかと、働き始めた脳がぼんやりと思い至った刹那、カイは弾かれたように上体を起こした。
 本部棟の最深部にいたはずが何故か、空の下にいた。
 真っ白い光が膨れ上がり爆発した後の記憶はない。
 どうなった?
 立ち上がってその答えを探し求めるまでもなく、何もかも吹き飛んで、何もなくなった赤い海の中心に、彼がいた。
 ジャスティスを斃した、ソルが。
 何を言っているのかはわからない、何かを話している、彼の声だけが聞こえた。
 ――たった一歩、踏み出すだけで足が激しい痛みを訴えてくる。
 血まみれの白い亡骸の傍らに佇んでいた彼が、座り込んだのが見えた。
 カイの記憶にある限り片時も外されたことのなかったヘッドギアは、今は彼の額になかった。
 ――力が入らなくて、足取りはふらりふらりと危うくなる。
 辛うじて視認できる距離だった。額に刻まれた、その印すら。
 つと、座り込んでいたソルが、その場に仰向けに倒れた。
 ――あまりにもどかしくて、不自由な左足を半ば引きずることも辞さず、走り出す。
 知っていた。
 その刻印が何なのか、自分は知っていた。



 何かが、ほんの少しでも違っていれば、きっと、何もかもが違っていただろう。



 そう、たとえば自分はこんなところで、彼の傍らで立ちつくしている暇もなく、斬りかかっていたかもしれない。今の彼なら、頭に剣を突き立てるなり首を刎ね飛ばすなりして、そのまま殺せたかもしれない。
 だが現実は、自分は何も言えず何も出来ず、ただ立ちつくしているだけだ。
 右手に握り締めた封雷剣の切っ先は、多量の血を吸った地面を掠めるように、下を向いたままで。
 おかしかった。
 ただ立ちつくして、こんなにも震えている、自分が。
 吹きつける風が強くなったが、血臭も何も晴れなかった。
 いったい、何を言えばいい。
 何をすればいい。こんな。
 こんな――終わり方。
 不意に、とてつもない脱力感に襲われて思わず両膝をついた。地面にまで落ちた手には、おびただしい鮮血がぬるりと絡みつく。
 血だ。生温く、赤い血だ。
 その忌まわしい感触に、頭の片隅が少しだけ晴れた。
 まるで命を余さず搾り取ったかのようにおびただしい血の海は、ソルとジャスティスの血だ。
 慌ててソルの全身を改めると、左脇腹を深く抉った傷が未だ鮮血を流していた。他にも無数に傷を負っているのだ、出血量はかなりのものになっている。これ以上の失血は危険だろう。
 たとえ、ソルが何であろうと。
「ソル?」
 呼びかけに応えは何もない。だが、呼吸はある。
 カイはほんの一瞬躊躇ってから、封雷剣の切っ先を地面に引っかけて柄を自分の肩に抱き込むように凭せかけると、自らの両手で脇腹の傷口を押さえつける。そのまま残り少ない法力を捻り出すと、組み上げた術の構成は正しく発動し、重ねた手のひらの向こうで透き通った淡い光が生み出された。
 この光という形で現出した細胞の再生を促進させる力を、カイは腹部に絞って働かせる。腹部は手足と違って止血点が有効ではないから止血が難しい。僅かとはいえ肉芽が盛り上がり始めているほどのソルの治癒力に手助けなど必要ないのかもしれないが、腹部の血管だけでも早く癒合させてしまわねばなるまい。
 封雷剣によって増幅された法力を支配し、術を安定させる。今のカイではたったそれだけのことにも意識が遠くなりそうだったが、唇を噛みしめ、意地で踏みとどまった。直に触れた皮膚は、あんな戦いの直後でありながら既にあまり熱を持っておらず、ソルの体温が低下しつつあることを伝えていた。
 このまま死ぬことは許さない。絶対に。
 いつも唐突に、何もかもが置き去りのまま、途切れるのだ。
 あの時、次元牢へ至る扉をくぐって。
 強引に破られたせいで大きく歪んでいた、次元牢の中であった異様な空間の中で、ソルとジャスティスが戦っているのを、カイは見た。
 ソルの金の眼を、額に刻まれた紅い紋章を。
 ヒトにあらざる力の、衝突を。
 その意味を理解してしまった瞬間から、きっと、正気ではない。
 じんと頭の奥が痛むように、思考が麻痺している。
 今この目が何を見ているのかも、正確に認識してはいない。
 何をすべきなのかも、もう、わからない。
 今の自分は、何をやっているのか。
 白濁した頭の中で、何処か遠くで、警鐘が鳴り響いているような気がする。
 それがあまりに耳障りで、きつく目を閉じた、その時。
「ほう、聖騎士、か……」
 異質な声に振り向くと、ジャスティスが蛇のように細い瞳孔の目で、こちらを見ていた。
「――まだ、息があったのか」
 すぐさまソルへの施術を中断し、自身に立て掛けていた封雷剣の柄を掴む。と、そんなカイを見たまま、ギアの王はくつくつと喉を鳴らして、嘲笑うように笑い出した。
「甚だ因果な身よ……たとえ死を免れ得ずとも、無駄に生き長らえる。もはや腕を持ち上げることすら叶わぬというのに……」
 発せられた声は人にあらざる響きを持ちながら、しかし何故か、何処か理知的にも思えた。
「何を」
「私は死ぬ……またしても、私は敗れたのだ……」
 それがひどく悲しげに聞こえて、振り払うようにカイは声を張り上げる。
「悪しきが滅ぶは世の常……!」
 飲まれるなと、そう胸中で繰り返しながら。
「悪しき、と――貴様は私を、悪しきと呼ぶか……悪しき故に、ギアは滅すると?」
「そうだ……!!」
 あまりにも当たり前だったことを、なぞるように言葉を声にする、そう、そうやって物心ついた時から、大切だった人が無惨に引き裂かれ殺される様を見た時から、剣を握った時から、聖騎士として戦場に立った時から、多くの人の命を奪われ続けた時から、そうやって。
 そうやって、ずっとギアを憎んできた。
「ならば、貴様は何故、……ソルを救わんとする?」
 突如、声が明らかに感情を帯びる。
 さも笑っているかのように。
「まさか見えていないはずがなかろう、その額にある紋章が……」
 何故、などと。
 言われるまでもなく。その刻印が何なのか、自分は知っている。
 白濁した頭の中で、何処か遠くで、警鐘が鳴り響いているような気がした。
「――それ、は」
 いつまでも鳴り止まない、音が。声が。
 思わず、その黄色い瞳孔から逃れるように目を伏せた。
「それは……」
 もう、何一つとしてわからない。
 頭が奥から灼きついてしまったように、痺れていて。
 返せる言葉など何処にもなくて。
 押し黙ったカイに、しかしジャスティスは同じ問いを重ねることはしなかった。
「私に善悪など、何の意味も成さぬ……私は……人を殺すことのみを目的に、人によって産み出された――兵器。人間にとっては、私の意思、私の心など、問題ではない……私を利用するか、処分するか、そのどちらかしか考えていない……」
 語る声はひどく静かだった。
 あまりに静かで、静かすぎて。
「現に……こうして、私はあいつの企みによって復活し……死を迎えるのだ」
 つとジャスティスの声が、明らかに苦痛に歪み始める。ずっと絶え間なく溢れ続けていた血は、ついに枯れ果てようとしているかに見えた。
 死が、近づいている。
「人間は、私を否定する……しかし、私は生まれた。生まれたからには生きねばならぬ……自己否定は自らの死に等しい。では私は、何がために生きればよい……?」
 いっそ、耳を塞いでしまいたかった。
「私の存在意義は、人を……殺すこと……それは、私に――ギアに定められた、正しい道義――正義、だった……」
 だが、出来なかった。だって。
「そんなものは詭弁だろう……!」
 咄嗟に否定したが、声は情けないほど上擦って、まるで虚しいだけの悲鳴のようだった。
 だって、これは。
「詭弁であろうと……これが我らに刻まれた本能よ……我らの創造主によって……」
 これは、きっと。
 存在しないはずだった、答えだ。
「――ジャスティス」
 この、途方もない深淵は。
 それこそ気の遠くなりそうな感覚を噛みしめた時に浮かんだのは、もしかしたら憐憫だったのかもしれない。いつの間にか手放していた封雷剣を、握りなおす。が。
「貴様の剣は不要だ……救いなど、望まぬ……私がこの世に……生まれたことすら、罪であるのならば……」
 感情の読み取れない黄色の瞳が、ひたと見据えてきていた。そこに潜む静かな圧迫感に、明確な拒絶の意志に、慈悲の刃を振り上げることは出来なかった。
「人間は……私の、存在を……否定、する……」
 目の前に突きつけられた、この、あまりに途方もない深淵は。
 聖戦が終わったあの日、意味を無くしてしまった問いの、存在しないはずだった、答えだ。
 思わず、空を仰いだ。
 いったい、何を言えばいい。
 何をすればいい。こんな。
 こんな――こんな空は。
 空はまるで、あの日のようだった。
 まるで聖戦が終わった、あの日のようだった。
「……平和の実現こそが神の希いであり、正義であると、私は信じている」
 あの日も、血生臭すぎて嗅覚も麻痺してしまうような場所だった。
「だから、平和を望んでやまぬ人々の、ささやかな幸せすら奪う者があれば」
 今も空は、雲もすべて吹き飛ばされて澄み渡っていた。
「私は、命を懸けて彼らを守る」
 何処までも何処までも、ひたすら真っ青だった。
「……そうか……貴様のような、人間は……私を産み出した男に……会ってみるがいい……」
 息が詰まるほどに。苦しいほどに。
「何、だと――?」
 泣きたくなるほどに。
「覚えておけ……この世から、ギアは消えぬ……あの男がいる……限り……な……」
 ただひたすら、真っ青だった。



 絶望的なまでに、空は真っ青だった。



 そうやって。いつも。
 いつも唐突に、すべて、いろいろな気持ちも何もかも置き去りのまま、途切れるのだ。
 真っ青な空がひどく息苦しい、あまりに途方もなくて。
「……神よ」
 深く項垂れて、血に塗れた地面に両手をつく。
 いっそ泣ければ、少しは楽なのかもしれなかった。
 涙など一筋も流れないが。
「私は、正しいことをしていたのでは、ないのですか……!?」
 爪が土を抉るほど、指に力がこもる。
 知っている。どんなに祈ったとしても、この耳で神の言葉を聞くことなど出来ないことを。
 つと、封雷剣が、辛うじて支えになっていたカイが動いたことで地面に倒れた拍子に、ソルの手が掛かったまま投げ出されていた封炎剣の刃を掠めて、ごくごくわずかな音を鳴らした。
 そして、銀の光が視界の中で閃いた。
 赤黒く濡れた土に半ば埋もれるような、それを拾い上げて。思わず胸元を確かめると、果たして慣れ親しんだ硬い感触はない。
 間違いない。それはクロスだった。カイの。
 銀のクロスも鎖も、べっとりと赤い血に塗れていた。
 きっと、この血は落ちないだろう。そう思ったら。
「私は……今まで、何をしていたんだ……?」
 おかしかった。
 クロスを握り締め、こんなにも震えている、自分が。
 何を言えばいいのかも、わからない。
 何をすべきなのかも、もう、わからない。
 ただ。
「In the name of the Father, the Son,」
 もう一度ジャスティスの躯を見据え、そっと呟くように唱えながら、ゆっくりと右手で十字を切る。額から胸に、左肩から右肩に。思えば久しくしていなかった、正規の手順だった。
 もう何一つとしてわからなかった。
 ただ。
「and the Holy Spirit, Amen――」
 ジャスティスの遺した言葉が、忘れられなかった。
「……坊や?」
 乾いて掠れた、訝るような声がかけられたが、今は振り返りたくなかった。
 白い亡骸を見つめて考えたのは、紡ぐ言葉だった。
 いくつか思いつく。だが、安らかに眠れと言うのも違う気がした。
 むせかえるような血臭で澱みきった戦場で、人とギアのすべての死に向けて秘やかにささやいていた、もう顔も名前も覚えていない彼の声を思い出そうとしたが、やはり無理だった。
 だから、ただ。
「――Go to glory」
 目を閉じて、クロスを握り締めたまま両手を重ねて、そう祈った。
 聖戦が終わった時と同じ言葉を、しかし、あの時と同じようにはもう、祈れなかった。
「何のつもりだ?」
 しばらくして発せられたその問いに、うっすらとだが確かに滲み出ている困惑の色を見つけて、カイは少し笑う。
 笑えた自分に、驚いた。
 灼き切れたままの思考が、自棄になったようなものなのだろうが。
「死者への……祈り、になるのかな」
 振り返った先にいるソルは、上体だけを起こしていて、まだ額を晒したままだった。
 カイの返事に、金色ではなくなった赤茶の目を憮然と眇める。どうやら彼が望んだ答えではなかったらしい。
「おまえの止血をしたことなら……あのまま放っておいたら、死んでしまうかもしれないと、思ったからだ」
 それ以上のことは、言いようがなかった。
 だって、自分ですら、わからない。
 もはや彼の傷口は血を流していなかった。脇腹の傷も、未だ生々しいがすっかり肉芽が盛り上がっている。本当に驚異的な治癒力だと、感心したのも自棄なのかもしれない。
 だから、ふとそんなことに思い至ったのも、それを口にしたのも、自棄なのかもしれない。
「私を殺すか?」
 口封じに。
 そんなことを平然と口走れる、自分がおかしかった。
「……しち面倒臭ぇ」
 返されたのは、深い嘆息。
 心底呆れているようだった。何に対してかは判断つかなかったが。その目がちらりと、少し離れた風上を一瞥する。そういえばと、ここには一人で来たわけではなかったことをカイも思い出す。
 ソルは突き立てた封炎剣を支えにしながら立ち上がると、弾き飛ばされ転がっていたヘッドギアを拾いに行った。さすがに貧血気味なのか顔色は悪いが、足取りはふらついていない。
 カイはその場に座り込んだまま、それをずっと目で追いかけていたが。
「どうするんだ」
「あぁ?」
 そのままカイなど存在していないかのようにヘッドギアを試すがめつして改めていた背に問いを投げかけると、億劫そうながら振り向いた。
「これから」
 何かを考えて言ったわけではなかった。
 何かを考えられるほど、今は正気ではない。
「おまえは、どうするんだ」
 それでも何とか言葉を足して、カイが問いを重ねる。すると、ソルは皮肉げに口の端を持ち上げて笑った。
「何も変わりゃしねぇよ」
 そして破損しているせいで不安定そうながらもヘッドギアを額に固定してしまうと、地面に預けていたままだった封炎剣を取り戻す。
 彼はしばし白い亡骸を見つめていたが、不意にその背をなぞるように剣を払った。刹那、亡骸を飲み込んで、真っ赤な炎が空まで吹き上がる。
「まだ終わってねぇしな……」
 灰も残さずに焼き尽くすだろう。この炎の勢いならば。
 すぐ傍のカイに押し寄せる熱も生半可ではなく、乾きに眼球が痛んだが、目を閉じていようという気にはなれなかった。
「行くのか?」
 だからそのまま、すぐ傍らに立っているソルを見上げると。
「後のことは、てめぇの好きにしろよ」
 ほんの少しだけ苦笑したような、瑪瑙のような赤と目があって。
「泣くんじゃねぇぞ、坊や」
 座ったままのカイの頭を、ソルはいつかのように、ぽんっと一度だけ撫でるように叩いた。
「――っ、子供扱いはやめろ!」
 その手を振り払うように立ち上がって、カイはソルを軽く睨みつける。
 彼の名前を呼んで、呼び止めて。そして。
 言わなければならないことが、たくさんある気がする。
 言いたいことも、たくさんある気がする。
 わからないことは、あまりにも多すぎるけれど。
 ただ、今は。
「次に会った時は、本気で戦ってくれ、ソル……!!」
 そんなことを叫んでいた。
 炎の中で、黒い影が跡形もなく崩れていく。
「ちったぁ言うようになったじゃねぇか」
 夕焼けのような赤い照り返しの中で、振り返ったソルがにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「ま、頑張んな」
 不思議と、混乱しきっていた頭が冴えてきた、気がした。
 陽炎のように揺らめく瓦礫の向こうに、遠く消えていくソルの背を見送ってから、カイは再び頭上の空を仰ぐ。
「……言われるまでもない」
 血まみれの右手で、手のひらに食い込みそうなほど、きつくきつくクロスを握り締めた。
 空は、ただひたすら真っ青だった。



 青すぎる空は、あの日のようだった。
 血生臭すぎて嗅覚も麻痺してしまうような場所だった。
 あの時、多くの命が喪われた。
 あの時、死んでもおかしくなかった。
 死にたかったわけではなかった。
 ただ、死んでも構わないとは思っていた。



 死ぬなら、あの時しかないと思っていた。



 あの頃、聖戦に殉じることは、生きることと紙一重だった。
 きっと自分も、多くの人と同じく、いつかそうして死ぬのだと思っていた。
 だが、死ねなかったのだ。
 終わって、倒れて、その後に、目が覚めたのだ。
 ――今のように。
 まず、白く素っ気ない天井が見えた。安物のシーツの感触、身体中をさいなむ傷の痛み。
 おかしなくらい同じことの繰り返しで、さながら覚めない夢のようだった。
「あ、起きた?」
 ひょいと覗き込んできたアクセルは、今回も着いていてくれたらしい。
「あれから……」
 そう、あれから。ソルが去ったのと入れ違うように、アクセルがカイに歩み寄ってきて。
 そこで、意識が途切れたのだ。
「まだ日は変わってないぜ。周りにも、何にも言ってないからさ」
 身体は鉛のように重く、少しも思い通りにならなかったが、何とか上体を起こす。
「そう、ですか。ありがとうございます」
 その気遣いは本当にありがたかった。今は時間が欲しかった、少しでも平静を取り戻して、何を言うべきか、何をすべきか、考えられるだけの時間が。
 と、首にあるはずの物がないことに気づき、それが何故かアクセルの手に掛かっているのを見つけた。
「あの」
「ん? あ、ああ」
 咄嗟に伸ばしかけた手で、言わんとすることを察したか、アクセルが手のひらの上にクロスを乗せた。
「血で汚れちまったな」
 銀の手入れは専用の道具を用いる。周りの物を汚さない程度に拭き取られただけで、血まみれなのは相変わらずだった。
「――終わった、んですよね」
 首に掛けて落ち着く、馴染みきった鎖の感触にクロスの重さに、そんな言葉が思わず口をついて出た。
 そう言った自分の声が自分の耳に届いて、少しだけ嘲笑った。
 こんな、悲しみにも似た、けれど違う、ひどくわけがわからない感情は。
 こんな、何かもわからない何かを失ってしまったような。
 聖戦が終わった日と同じだった。
 だから、泣きたいとは、思わなかった。



 ただ、これが絶望なのだと、絶望と呼ぶような感情なのだと、ようやく気づいた。



 視界を埋め尽くす膨大な赤い光が、目を眩ませる。
 その燃え立つような夕暮れの色に思い起こされたのは、赤い炎と、赤い血と、赤い目。
 我知らず口の端が、薄く笑みの形に歪んだ。
 自嘲に。
「カイちゃん、何、抜け出してんの」
 次元牢のあった場所を中心とすれば、その周辺は何も残さず消し飛んだ。少し離れると、瓦礫の山がすり鉢状に残っていた。その瓦礫を器用に乗り越えて、アクセルはカイの立っている場所まで飛び込むように降り立つと非難がましく口を尖らせる。彼が空けていた隙に病室を抜け出したことを怒っているのだろう。
「少し風に当たりたくなりまして」
「……遠すぎだろ」
 はぐらかす答えに、げんなりとアクセルがうめいた。
「ですね」
 カイは声を殺して笑う。隣に並んだアクセルは驚いたのか目を見張ったが、すぐさま呆れたようにため息をついた。
「怪我人は大人しくするもんよ?」
 それでも引きずり戻さない彼の気遣いが、本当に嬉しかった。
「どうしても来ておきたかったんです」
 肩に羽織っただけのコートを、ずり落ちないように左手で押さえながら。
「今日が終わらないうちに」
 今日しかないと思った。
 多少おぼつかない足取りで瓦礫をすり抜けて、その場所にたどり着く。
「明日になってしまったら、私は――戻らなければならないから」
 明日から自分は、振る舞わねばならない。元聖騎士団団長として。
 そこは、今はもう黒く煤けた地面があるだけだったが。
「今日しか、ないんです。きっと」
 今日だけでも、祈りたかったから。
 右腕に抱えていた、真っ白な花束を捧げた。



 ここは、かつて、たくさんの命が終わり。
 そして今日、一つの命が終わった場所だ。



 聖戦が終わったあの日、あの時、死んでもおかしくなかった。
 事実、自分以外の誰一人として生き残りはしなかった。
 何一つとして、動くものはなかった。
 だが、何一つ動くものがなかったから、死ねなかった。
 死にたかったわけではなかった。
 ただ、死んでも構わないとは思っていた。
 死ぬなら、あの時しかないと、そう思っていた。



 それでも、生き残った。



 ずらりと一面に並んだ大きな窓から、色硝子の嵌め込まれた窓から、色鮮やかな陽の光が幾筋も幾筋も射し込んでいるというのに。
 なのに石造りのこの聖堂は、いつも薄闇に満たされていた。
 そして、いつも静寂に沈んでいた。
 その奥には、救世主を磔にした十字架。
 また、この場所に帰ってきた。
 また生き残って、また帰ってきたのだ。
「何処かで、死んでもいいと……思っていたのかも、しれないな」
 アクセルが言ったことも、今なら少しだけ、わかる。
 あの日あの時、あのまま死ねたなら、聖戦の終わりと共に死ねたら、きっと思い通りの死だっただろう。人間にギアに世界に、何の疑いも抱くことなく死ねただろう。
 あの頃、聖戦に殉じることは、生きることと紙一重だった。
 きっと自分も、多くの人と同じく、いつかそうして死ぬのだと思っていた。聖戦が終わった後のことなど、考えたこともなかった。自分が生まれた時から聖戦だった。
 だが、死ねなかったのだ。聖戦が終わって、倒れて、その後に、目が覚めたのだ。
 生き残ったのだ。
 もう、ずっとわからなかったことだった。
 生き残る、その意味は。



 聖堂の扉の前でカイは、少しだけ立ち止まって、振り返った。
 光射す聖堂の奥に、十字架の前に、いつだったか彼は立っていた。
 彼は、どうしようもなく、追いつけない人だった。
 ずっと追いつけなくて、ずっと背中を見続けていた人だった。
 扉を開け放つと、視界を埋め尽くす真っ白な光が、目を眩ませる。
 その透かしたような朝焼けの色に思い起こされたのは、青ざめた空と、紅く染まった花。
 眩しさに目を細めながら、それでも昇りくる白い陽を見つめた。
 生きている。
 自分も、そして、彼も。
 今も生きているのだ。
 生き残るとは、そういうことだった。



 ――そんなことに、ようやく、気づいたのだ。



 今も、わからないことだらけで。
 わからないことが、あまりにも多すぎて。
 わかっていることなんて、本当に少しだけしかなくて。
 そうして、わからないことだらけのままで。
 生き続けるのだろう。
 これからも。
 手が届かない、答えを追いかけながら。



 広がる空は、ただひたすら真っ白だった。







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