ドアが開いて、真っ先に目に留まったのは、真っ青な花が挿さった、真っ白な花瓶。
「おかえりなさい、ゼロ」
それを抱えて振り返る、長い髪の少女型レプリロイド。
君を飾る花を咲かそう
「また花を替えたのか」
もう見慣れた光景だった。それでいて、奇妙な。
「花は、嫌い?」
繊細な硝子の花瓶と可憐な花を、飾り気のないブリーフィングルームの無機質なデスクの上に置く、彼女の姿はひどく異質に見えた。少なくとも、イレギュラー判定を受けたレプリフォースを追っている、今のハンターベースの中では。
「……別に」
それは彼女が実戦とは無縁の、可憐な外見をした少女型だからだろうか。それとも彼女がレプリフォース陸軍士官である、カーネルの妹だからだろうか。
「それって、好きでも嫌いでもない、どうでもいいということかしら」
少し呆れたように苦笑を滲ませる彼女の、その言葉は外れていないと思ったから、ゼロはただ沈黙を返す。
「そうね、ゼロは強いもの」
青い花びらに触れないように指でなぞりながら、そっとアイリスは呟いた。
「強いから、気休めなんて必要としないのよ」
「気休め?」
「そうよ、気休め。慰めでもいいわ。花を飾るという行為に、生産性なんて何もないでしょう? それに今は咲いている花も、数日後には萎れて、枯れてしまう」
花を見つめるアイリスの横顔を、ゼロはじっと見つめる。
「それでも、花を飾るの。花を見ると、ほんの少しだけ安らぐから」
そんな言葉を紡ぐ彼女の眼差しは憂いげで、しかし鬼気迫る真剣さすら帯びているように、何故か見えた。
振り払うように首を軽く振ると、ゼロは吐息のように苦笑をこぼす。
「まるでエックスみたいなことを言う」
「そうなの?」
「さあな。あいつが花なんか飾っているのを俺は見たことがない。ただ何となく、そういう一見して無駄に思えそうなことをするのは、あいつの十八番だからな」
半ば独白のように言いながらゼロは、青い花に目を細めた。
深く冴えた青い色は、彼を想起させる。
第0特殊部隊と第17精鋭部隊はミッションがすれ違ってばかりで、ここしばらくゼロはエックスと顔を合わせていなかった。今も彼はハンターベース内にはいないはずだ。しかし、思い詰めたような、まるで自分が痛いような顔をしながら戦場に立ち、各地を占拠したレプリフォースの処分を遂行しているだろうことは想像に難くない。今までも、そうだったように。
そもそもレプリフォースがイレギュラー認定された過程は、誤解と不信だらけだった。人間とレプリフォースがお互い少しずつでも譲歩していれば、こんな事態にはならなかっただろう。だが、こうして人間に対するクーデターを起こしてしまえば、不幸な過程はうち捨てられ、残酷な結果だけが残ってしまう。
「……ゼロも、こんなことは無駄だと思う?」
少し低められた彼女の声に、ゼロは現実に引き戻された。
たわいない会話のように言いながら、ゼロの答えを待つアイリスの表情が強張っている。そんな期待の仕方が、まだ先輩後輩の関係だった頃の親友を彷彿とさせた。まだ自らの青臭い理想に押し潰されそうになっていた頃の、無力だった頃の、エックスを。
「無駄が必要なことだってある。少なくとも、無価値ではないと思うな」
否定され拒絶されなかったことに、ほっと緩ませる、そんなところも。
「しょせん機械に過ぎないレプリロイドがココロを持っている。仲間を処分するのが仕事のハンターまでもがだ。それより無駄なことなんか、なかなかないだろう」
人間を模した、造り物のココロ。
「ゼロは、私達の心を無駄だと思うのね」
少し沈んだアイリスの声音に、ゼロは小さく笑った。
「無駄だらけの甘ちゃんが身近にいるからな」
シグマの叛乱を経て今でこそ減ったが、ハンターの中には処分にかこつけた殺戮を楽しんでいる者も少なからずいた。それもココロの産物だ。処分を進んで引き受ける、それは製造目的にも適っている、その意味において無駄ではないだろう。
だが。
「彼がいたから?」
処分対象を哀れと思うココロは。哀れんで止めを刺すことを躊躇う、ココロは。
「そうだな。だが、だからこそ、あいつらしいよ」
無駄だらけの甘さ、綺麗事だらけの理想。
理解できないと感じることも、時にはあるけれど。
「あいつやおまえの、そういうところは嫌いじゃない」
何かを愛おしむ気持ち。優しさ。その先にある、弱さと強さ。
確かに価値があると、信じている。
だから、きっと。
「ねえ、ゼロ、花には花言葉があるのよ」
彼女は言ったのだ。
「この花の花言葉は、"信じる者の幸福"っていうの」
微笑んで、言ったのだ。
願うように、祈るように。
その翌日、ゼロはカーネルを斃した。
アイリスは萎れかけた花だけを残して、姿を消した。
そして。ゼロは、アイリスを斃した。
自分は破壊のために、エックスを斃すために造られたことを知った。
数日ぶりに歩く廊下を、ひどく静かだと、何故かゼロは思った。
レプリフォース全滅という形でクーデターが終息して、既に四日が経過している。宇宙コロニーから帰還してすぐにエックスと揃って集中メンテナンス行きになったために、まだ皆が残党狩りに追われていたという四日間は抜け落ちていた。ようやく解放された今日は、もうすべてが終わった後だった。
気がつけば、もうすべてが終わった後になっていた。
四日前までベースに満ちていた、緊迫感はもう消え失せていた。歴史あるレプリフォースがイレギュラー認定されたことからの漠然とした足元の不安感も、表面上は。日に数回イレギュラー発生の報が飛び込んで、状況に応じたハンターが出撃する、元通りの日常が戻っていた。
元通りの、当たり前の光景だった。それでいて何故か、奇妙な。
ゼロも元通り修理され、もう何のダメージも残っていない。
もう何も、残っていない。
久しぶりに感じられるブリーフィングルームの、自動ドアのセンサー範囲に踏み込む、一歩前でゼロは動きを止めた。急制動に、金属の関節が微かに擦れる音を挙げる。だが、それも鋭敏なレプリロイドの聴覚だからこそ拾えるほどの音だ。
元通り。彼女に吹き飛ばされたときに歪んだ、膝も。
このドアが開くと、音に気づいた彼女が振り返って、おかえりなさいと言う。そんな日々だったのは、ほんのわずかな時間でしかない。レプリフォースがイレギュラー認定されてからの、ほんの一月ほどの。
彼女を預かる以前に、元に、戻っただけ。
ゼロは目を閉じて、一歩を進める。センサーが感知する。空気の抜ける音を立ててドアが開く。
「おかえり、ゼロ」
予想に反して、部屋の中から声が掛かった。しかも、この声の主は部下ではなく。
「……何で、おまえ」
思わず唖然としたゼロは、呆けた声を上げた。
「俺より君の方がダメージが深かったから、かな」
「違う」
エックスがいる。彼女がいた、無機質な部屋の中で異彩を放っていた、青い花の前に。
萎れていない、まだ咲いてもいない花の前に。
「ゼロ。そんなところに立っていたら、ドアが閉まらないよ」
苦笑まじりに促されて、ゼロはエックスがいるデスクの傍まで歩み寄る。それを見たエックスは一つ頷くと、わずかに目を細めてゼロから花に目を戻した。
「届いたんだ。今朝。でも君がまだ帰っていなくて、君の部下も出払っていたから、ちょうど戻ったばかりだった俺に連絡が来たんだ。それで、俺のところで預かってた」
真っ白な花瓶に、ほころびかけた真っ青な花のつぼみが、挿してある。
青い、花が。
「アイリスからだよ」
ひどく不思議な微笑み方をして、エックスが静かに言った。
「この花の名前、知ってる?」
ひどく痛そうな悲しそうな、優しそうな、そんな笑い方をして。
「……いや」
ゼロはゆっくりと首を横に振る。
聞いたこともなかった。気にしたこともなかった。この花のことなんて。
ただ、彼女が微笑んでいた。
「アイリスって、いうんだって」
思わず息を飲む。
青い、花。
彼女が微笑んで、祈っていた、願っていた、信じていた。
彼女と同じ名前の、彼女が飾っていた、彼女が遺した、彼女の花。
「そう、だったのか」
この青い花は、彼女の慰めだったのだろうか。それとも。
「だったら、――ちゃんと、咲かしてやらないとな」
「そうだね」
慰められている、ような気がした。
きっと自分に、そんな資格はないけど。
しばらくして、彼女が遺した青い花は、咲いて、萎れて、花びらを散らした。
ゼロはその花びらを拾い集めて、茎も葉も一緒に、土に埋めた。
その頃にはゼロも、彼女がいなくなった部屋に慣れた。
お題no.29「おかえり」。かえる人。おくる人。帰りなさい。
告別。別れの儀式。帰る先は、始まる前、終わった後、日常。花は土に還る、彼女は死に還る。
タイトルはGARNET CROWの「君を飾る花を咲かそう」より。
別れを前にした歌のようで、それでいて何故か、死別した後の歌のような気もするのです。どちらにしろ、告別のイメージに彩られた、静かで穏やかだけど、後からジワジワ来る歌です。
花はシベリアンアイリス。一般的にアイリスとだけいうとジャーマンアイリスで、シベリアンアイリスの方は菖蒲になるのですが、花言葉が違うので。
幻水でも少し前に「花」を扱ったばかりですが、あちらは紅い花、こちらは青い花。
花の命の、鮮烈な生々しさに圧倒される人と、憧憬を抱きながら手が届かないことを受け入れるヒト。
硬派で漢臭い「ロックマンX」の世界で、ひたすら湿っぽい物しか書けない私が書く暴挙(笑) でも「X4」は感傷が似合いそうな面もあり。それもひとえにアイリスの存在があればこそ。
私的なイメージですが、アイリスはエックスと内面的にそっくりさん。もともとカーネルとアイリスは、最強の戦闘力と慈愛の精神を併せ持ったレプリロイド開発に失敗し、その二つの要素を分割して持たされた元は一つの兄妹。もし完成していたら、それは(シグマの叛乱後の)エックスのようなレプリロイドだったはず。アイリスは道を踏み外し、死んだカーネルのチップを取り込んで暴走してゼロと戦うけれど、それすらもエックスとゼロの今後を暗示しているようで。
「X4」が出た頃、本当に期待していました。ライトナンバーとワイリーナンバーそれぞれの最終かつ最高傑作が、製作者の手から直接は離れた遠い時代で出会って、自分のも相手のも製作者のことなど何も知らずに親友になって、それでも自分の製作者という根元的な宿命を知ったとき、自分が造り出された目的を選ぶのか、それとも今まで自分の意志で育んできた友情を選ぶのか。
……数年の沈黙を経てついに発売された「X5」では主要スタッフが入れ替わったそうです。何かもう、いろいろな意味で悲惨な出来でした。シナリオも。