深き夜色に




 久しぶりの空を、竜騎士が目覚めたばかりの竜と共に喜び、翔る。
 灰色の雲が広がりだした薄暗い空。
 泣き出しそうな眼差しで、独り、その光景を見つめていた。
 風に混じる、微かな水の匂い。




 ――きっともうじき、雨が降る。




「あ……」
 低い雲と夕方である時刻が相まっていつもよりだいぶ暗い空を、片側だけ開いた窓から、ぼんやりと眺めていたシフォンが不意に声を漏らした。
「――なに?」
 さも面倒くさそうに、部屋の中からルックの声がかかる。向かいの列にある彼の部屋の外が、何やら騒がしいのでこちらに逃げてきていたのだ。しかしシフォンはそれに応えず、視線を一点にそそいだままである。これは待つだけ無駄とルックは窓によると、閉じた側の窓ガラスに手をつき横を見やった。
「ああ、あの竜の」
 皆の竜の眠りを覚ますための黒竜蘭を取りに、帝都の空中庭園に騎竜と共に飛び出し――ウィンディによって、竜騎士にとってかけがえのないその愛竜を喪った少年。発見されたときすでに竜は息絶えていたが、彼自身は意識は失っていたもののたいした傷もなく、その手にはしっかりと黒竜蘭が握られていた。そして、今に至る。
「辛いだろうね……」
 あまり色を見せない声音で、シフォンがつぶやく。
 脳裏に焼き付いている、鮮やかすぎるあの一瞬。消えることは、ありえない。
「構ってやってる暇はないんじゃないの?」
 記憶の泥沼に陥りかけたのは一瞬、呆れたようなルックの声にシフォンは現実に立ち戻った。
「、うん……」
 竜を喪った竜騎士は、この竜洞にはいられない。
 騎士団長であるヨシュアは、その掟に従ってここを出なくてはいけない彼――フッチの後見役を、旧友のハンフリーに頼んでいた。自然、ひとまずこの戦争が終わるまで、フッチは解放軍本拠フェイロンに身を置くことになる。
「これからが大詰めになっていくことだしな」
 北方が、まだ帝国領のままである。そしてそこの解放後には、帝都に向けての道を切り開くことにもなるだろう。
 明日には竜洞騎士団からの援軍の先発と共に、本拠に戻ることになる。同盟という形式である以上、解放軍に属す竜騎士の指揮官となる副団長のミリアが、行程の確認も取ってきた。
「でも――」
「勝手にしたら」
 ガラスについていた手を押し出すようにして窓から身体を離し、ルックは素っ気ない返事を、シフォンの言葉をさえぎって口にする。
 フリックの言うとおり、シフォンはだいぶ安定を取り戻してきたように見えた。
 そう考えて、刹那、そう考えている自分を鼻で笑って。




 小さい頃からずっと一緒で。
 ずっとそのままだと、疑いもしなかった。




 どこまでも暗い空の下。
 膝を抱えて、残酷なまでの静寂に委ねていると、ただただ無茶な自分を悔やむしかなくて。
 晒された腕に当たる風の冷たさも、もう知らない。
 残光も、鈍色の雲に隠れて見えなかった。
「ブラック……」
 真っ暗な後悔と、渦巻く自己嫌悪と。
 奥底にわだかまっている熱っぽい苦しさが、消えない。
 独りで生き残ってしまったことを、どうすることもできない。
 目の前は何も見えない霧の中で。
 凍えるような濃い暗闇に、ただ独り。
 振り返れば、どす黒い死の匂い。
 この手に残ったのは、消えない血の色。
 何も見えない。
 何も聞こえない。
 だから、何も感じない。
 ぽっかり空いたような感覚ってこういうもんなんだなと、馬鹿みたいに冷静な部分は考える。それすらも、現実感を伴わない世界。
 だから、声をかけられていたことにも気づかなかった。
「フッチ……?」
 すぐそばから突然声が聞こえて、聞こえたことを認識して、フッチはびくりと顔を上げる。
「え――あ、シフォンさん……」
 宵闇を背に、シフォンが緩やかに微笑んで、こちらをのぞき込んでいた。
「あの、俺になんか用ですか?」
 その笑顔を向けられているのが居心地悪く、知らず口調が投げやりっぽくなる。
 彼と初めて会ったのは。帝都で。魔術士の島まで送ったとき。
 二度目に会ったときには。そのまるで違う雰囲気にひどく驚いた覚えがある。
「部屋から見えたから。ここじゃ風邪、ひくよ」
 言うなりシフォンはフッチの手首を取ると、その手の冷たさに笑みを少しも動かすことなく無理矢理立ち上がらせて風の当たらない場所まで引っ張っていった。
「ちょ……っ!」
 シフォンが立ち止まったところで乱暴にその手を振り解くが、
「ひとまず大声はやめにしてくれよ? ここじゃあ声が響きすぎるからさ」
「……う」
 先手を打たれて、フッチはむすっと口を閉ざす。
「ひとまず、中に戻らない? ホントに風邪ひくよ」
 あくまでも声音は優しく、だが、ほんの少しだけ、どこか硬い。
「なんなんだよっ。なんで構うんだよ? 放っといてくれよ、もう……っ!」
 肩を強張らせて、ぴんと伸ばした腕の先でフッチは拳を強く握りしめる。憐れみは皆にかけられた。そのたびに、だんだんと黒い靄が広がっていく。だんだん。
 オレンジとダークグレーの混じり合った空に、一つ二つと星が増えていって。
「でも、いつまでもああしてるつもり?」
「――っ」
 灯りがなく暗かったのでフッチは気づいていなかったが、笑みを湛えているシフォンの、目だけは先ほどから少しも笑っていなかった。
 そのきっぱりとした静かさが、突き刺さるように染み込んできて。
「なんだよ、知ったような口聞いてっ!」
 気がついたら、叫んでいた。
 ――竜騎士が、その騎竜を喪うという、その意味。その重さ。
「竜を亡くしたことないくせに、あんたにいったい、何がわかるんだよっ――!!」
 刹那、ぱんっと乾いた音がした。
「っひ」
 遅れてやってきたじんとした痛みに、フッチは頬を張られたことに気づく。茫然と左頬を押さえて顔を戻すと、いつの間にかそこに一人増えていた。フッチを引っぱたいたばかりの右手を、心底不機嫌そうに振っている彼が。
「ルック……っ」
 一瞬目の前で起こったことを認識できていなかったのか、シフォンがそのときになってルックに咎めるような声を上げた。と、ルックは短く鋭く苛立たしげにため息をもらすとフッチに向き直り、ぞっとするような冷たい目をさらに細めると、
「拗ねるのは勝手だけどね、わめくんじゃないよ。苛々してくる」
 風に乱される髪を手で押さえつけながら、吐き捨てた。
「当たり散らす前にもっとよく周りを見てみたら? 誰もわかってくれないって騒ぎ立てる前に、君の方こそどうなのさ。……なにも知らないくせに。ま、八つ当たりで騒いでるだけのガキに言ったところで無駄か」
 いっそう冷えた嘲りの声と視線が、突き放すように。
 多分に湿気を含んだ不快な風。
 押されるままに、その場を駆け出した。




「ルック」
 シフォンが非難がましい声を、自分の手首を掴んでいる彼にかける。
「ルック!」
「……」
 何度目かの声でやっとルックは手を乱暴に離すと、そのままずかずかといっそうシフォンに歩み寄り――その両手で挟むようにして、シフォンの両頬をぺちんと叩いた。
「へ、え……?」
「――目、覚めた?」
 うんざりとした声音で、呆気にとられたシフォンをひたりとルックが見据える。そして、糸の切れた人形のように、シフォンが一気に力が抜けた首をがくりと頷かせるのを見ると、
「ったく」
 今度は長々とため息をついた。頭痛がしてきそうな気分だ。
「少しは頭を冷やしたらどう」
 水でもかけられなかっただけましと思いなよと腹立ち紛れに付け加える。怒りを覚える理由もわからないではない。だが、それとこれとは話は別のはずだろうに。いや、別ではないが、らしくもなく感情的に走って何をやっているのやら。
 それを聞いているのかいないのか、シフォンは一つ深呼吸すると、
「でもさ。僕は、独りでは、立ち直れなかったよ」
 夜よりも濃い黒の目を和ませて、悠然と微笑んだ。
 すぐそばから、あたたかな手を差し伸べてくれた人たちに。
 泣けない心に、泣いてもいい場所を与えてくれた人たちに。
 君は独りじゃないよと、微笑みを贈られた。
「まだ、平気になったわけじゃないけどね……」
 手袋をはめたままの右手の甲をそっと撫でる。
 決して色褪せることない、"無意味"であり"意味"である、鮮烈な記憶。
 自分の背中を押して鉄の扉の向こうに消えたその最期の姿は、優しく微笑んでいた。
 この人にとても愛されていることを痛感する、曇りのない満ち足りた笑みをくれた。
 終わりゆく中で、記憶の大半を占めている姿と同じように、彼は笑ってくれていた。
 ――悔しいから、負けてはやらない。
 手に入れた、譲れない一線。
「そう」
 くるりと踵を返し、ルックはそのまま自分に割り当てられた客間にさっさと戻る。振り向く必要もない。立っている気もなくてベッドに腰掛けて、だがそのまま仰向けに倒れ込んだ。
「……」
 目を閉じれば、窓の向こう側から、微かに水の音が聞こえだしていた。
 気がつけば。
 上辺だけでいたはずだったのが、ただ言い付けだからだったのが。
 いつの間にか当たり前のように近くにいて、周りがからかうように言う"友達"というのさえあながち外れではなくなってきている気がする。
 自分にはまるで関係のなかったことだと思っていたのに。
 そんな年相応のこととはこれからもまったく無縁でいると、そう思っていたのに。
 ――不思議なことに、今の場所に、不快感はなかったけれど。




 昔は、あの唯一つの大切がすべてで。
 それはそのまま、自分の"永遠"だと信じていた。




 降り始めた雨に、空の鈍色も砦の鈍色も、すべて煙る。
 もうなんの感情も感覚もなくて。
 真っ白で。
 真っ暗で。
 ただ立ちつくすだけで。
 何もかもがぼやけて、何もかもが曖昧で、何もかもが空虚に沈んで。
 何もかもが、この雨に流れてしまえば、どれだけいいだろうか。
 水の跳ねる音を残し、ひた走っていれば、何も考えなくてすんだ。
 堕ちた空。もう二度と、夢は叶わない。




 そんな錯覚は、幻の永遠は。
 脆くて、壊れるときはあっさり壊れるのだと、知った。




 夢、というものは、見たことがなかった。
 見たことがあったのかもしれないが、少なくとも覚えてはいない。
 だから、見たことなんてない。
 そう、あの時もあの時もあの時も――何かわからない厭な思いなんて、ない。
 だから、これが初めてなのだ。
 これは別に嫌というわけじゃないけれど。
 夢というものは、どうして記憶の断片だというのだろう?




 「じゃあ、そうだな……あ。これからは僕のこと、シフって呼んでよ」
 「は? どうしてさ」
 「どうだっていいだろ。負けたのはルックなんだからさ」
 笑って、そう言っておきながら、シフォンとそれまで通りに呼んだところで何を言うわけでもなく。
 正直なところ、彼が何を考えているのかなんて、さっぱりわからなかった。
 微睡みの中で妙なことを思い出した自分をまた鼻で笑い、夢と現の狭間を行ったり来たりしていたのを、ゆっくりと目を開けて地に足をつける。
 雨はまだ止んでいない。空の暗さが濃くなっている気がする。もうすっかり夜だろうか。
 ――奇妙な静寂。
 何故だがざわつく神経に、ルックが眉をひそめた瞬間、
「ルック!!」
 思いっきり足音を立てて走ってきて、思いっきり勢いよくばたんと扉を開けて、思いっきり血相を変えて青ずくめが飛び込んできた。
「なんだよ、いったい……」
 不快さも露わに、上体を起こしてルックはその青い人影――フリックを睨みつけるが、
「リーダー何処行ったか知らないか!?」
 続けられたその言葉に、髪をかき上げる手が止まる。
「なん、だって?」
 止まない雨の音が、ひどく耳に障った。




 犠牲になった黒竜の遺体が仮安置されている、弔花にあふれたその空間。
 雨に打たれるままで、冷たい骸に寄り添っていて。
「フッチ」
 呼びかけに、泣き腫らした目で振り向いた。
「さっきはごめん。あんなつもりじゃなかったんだけど、つい」
 そして、ずぶぬれの姿に、風邪ひくよ、と再び口にする。
「そっちだって……」
 それには苦笑に近い笑みだけ返し、はたとその手に目をとめた。
「どんどん喪って、独りになったような気にもなったけど……でも、いつまでも悔やんでばかりいても、何にも出来ないんだ」
 え、と顔を上げたフッチを引き寄せて、なだめるように緩く抱きしめる。
「僕自身、なかなか立ち直れなくて周りに心配かけまくった口だから、そんな偉そうなことは言えないんだけどね、本当に。今だって怪しいところだし。わかると言うのも傲慢なのかもしれない。――なかなかうまくいかないね、頭ではわかってるつもりなのに」




 どうして、あなたは助けてくれたのですか?




「俺、でも――」
「でも、……」
 草の上を擦る音に、重なりかけた音が途切れる。聞こえた方に向けた目を、すっと細めて。
「何かいるみたいだね……」
 シフォンの押さえた声にはっとして、フッチは顔を手の甲で荒っぽく拭うと、横に放り出していた長槍を拾いにいく。と、
「フッチ!」
 雨にぼやけた暗がりがら空気を裂いてきた細い影に、シフォンがすかさず割って入る。見かけによらず重い一撃を繰り出す、他の生物に寄生してその養分を糧にするこのツタのモンスターだが、普段なら当然力負けなどするはずもない。
 けれども、いつもよりまるで腕に力が入らなくて。
 受け流し損ねたツルに、右の二の腕がぱっくりと口を開く。傷はさほど深くはないが広く、見る間に雨に混じった朱が右腕を染めていった。
「シフォンさん!」
 続いてきた二撃目はフッチがなんとか捌くが、
「――あれ?」
 不意に目の前が真っ暗になって、頭と耳の奥にじんとした重みが響く。浮遊感のような無感覚の後、視界と感覚が戻ったとき、シフォンは自分がへたりこんでいるのに気づいた。立ち上がろうと思っても、ひどく重たい身体がいうことを聞かない。
「大丈夫ですかっ?!」
 シフォンの様子がおかしいことに気づいたフッチが、また泣きそうな声を上げる。
「あ」
「え?」
 一本ツルを切られてのそのそと茂みからツタが出てきた途端、その周囲の空気が明らかに変質する。刹那疾った紫の輝きに、それは消し炭と化した。
「大丈夫か!?」
 その向こうから、こんな暗くて視界の悪い場所でもはっきりとわかる、目の覚めるような青の影が大慌てで駆け寄ってくるのが見える。ある程度近づいて、またしても腕を濡らしている血に気づき顔色まで真っ青になったフリックの様がどこかおかしくて、ただでさえ感覚が失せてきて力の入らない左手は、もはや止血の役も負えそうになかった。
「怒ってる?」
 じんじんと頭に訴えてくる傷口をすぐさま改めたフリックに、昔、悪戯をしたときに使ったような、うかがうような声音でそう訊ねてみる。
 だが、傷はさほど深くないと確認したフリックが口を開く前に、
「馬っ鹿じゃないの!? 疲れてるところに失血しておいて、なのにこんな雨に打たれて、またそんな怪我して、貧血だって起こすに決まってるだろうに!」
 続いてやってきた、肩で大きく息をしているルックが、かすれかかった声で一気にそれだけ言い切った。そしてそのままがくりと膝をつくと、息を整えるのに必死になる。
 そうだ。シークの谷で心身共に疲れ果てているところへ、自分で傷をつくって出血し、しかもそこにこんな雨に長く晒されて、そして止めにこの怪我。こうまで重なれば貧血も起こして当然だろう。
 しかし、当のシフォンは、さっきの一件のことでルックの姿に思わず身を強張らせたフッチをなだめるように声をかけている。これにルックはいつも以上にはっきりと眉をひそめ、荒い息でまた何か言おうとしたが、
「おい、文句言う前に」
 呆れて、シフォンの止血をしていたフリックがそれを止める。
「わかってるよ!」
 苛立たしげに呪を口にし、ルックは手に宿っている風の紋章を発動させる。吹いた翠の風に傷はすっかり消え失せるが、失った血が戻るわけでもなければ体力が戻るわけでもない。
「なぁ……せめて、外に出るなら何か言ってからにしてほしかったんだがな……」
 それならばこんな必死に捜しに行くことなく、付き添っていたものを。
「ああ、それは。他のこと見えてなかったから……」
 真っ赤な腕を拭いながら、至って気楽にシフォンはフリックに言葉を返す。
「……そんな簡単に言われると、怒る気も失せるな……」
 自分の青いマントをシフォンの頭から引っかけながら、フリックはうんざりとため息をつくが、
「ごめん、フリック、それにルックも」
 薄い笑みではあったけれども、ここ最近で一番素顔に近いそれに、小さく笑う。
「これっきりにしてくれよ。今回は大事にならなかったからよかったものの。で。フッチだっけか? おまえもさ、自己嫌悪ってのも……わからなくはないんだが、そういう生き方は――ひとまず、やめとけ。ブラックのためにもな」
 どこか寂しげで遠い眼差しに、すんなりと理解できた。
 この人も、同じなんだな。と。
 確かに、何も見えてなかったのかもしれない。
「……はい……」
「じゃ、とりあえず砦の方まで戻るぞ。騒ぎが大きくなる前にな」
 フッチが頷いたのを見て取って、後押しのようにフリックも頷き返し、歩けないシフォンを負ぶおうとする。が、ちょっと待ってとシフォンは止めると、
「ルック。……ストレスたまってる?」
 呼吸も落ち着いてきたがまだ座ったままの、苛立ち最高潮の彼に笑いかけた。
「誰のせいだよ、誰の!」
 術師で体力のない彼には、この雨の中ここまで来るのはかなり辛かっただろう。頬に張り付いた髪を鬱陶しそうに忙しなく後ろにやりながら、神経質な声で即座に言い返す。と。
 ぺち。
 濡れているから、今度は乾いた音は立たなかったけれど。
 にやりと意地の悪い笑みを口の端に浮かべて、シフォンは続ける。
「らしくないね、余裕ないなんて」
 ルックはしばらく茫然としていたが、不意にそっぽを向くと揶揄するような声音で、
「……君にだけは言われたかないんだけどね。ねえ、シフ?」
 いつの間にか、雨も止んでいた。




 雨上がりの夜空は何処までも高く澄み切って。
 すっかり流れ去った雲の後には、いつもより冴えた星空があった。




「――はい、フリックの番」
 鍛えているわりにはすらりとした指で、シフォンはぱっぱと駒を進めた。そして、頭に引っかけたままのタオルで、湿った髪の水気をまた拭き取っていく。と、盤を興味ありそうにのぞき込んでいる、すぐ隣に座っているフッチの手がおざなりになっているのに気づいて、促すようにタオルごと掻き回して。
「ぅううむ……」
 ほとんど考える時間も持たずにやる黒側と、板を睨み唸りやっていく白側と。馬鹿にしきった眼差しで、ルックは少し離れた壁際からそれをつまらなさそうに眺めている。
(完全に遊ばれてるね……)
 風呂上がり、気がついたらチェスが始まっていた。完全に黒――シフォンのペースであることは火を見るより明らかである。なにせ、ルックですら今まで勝ったことはない。
 だが、ルックはついと目を背けようとしたそのときに、ふと気づく。
「…………」
 ひょい。
 横から割り込んだほっそりとした指が、白の駒を進める。
「あ、おい」
 いきなりのことに顔を上げたフリックの声はまったく無視し、ルックは意地悪く口の端を持ち上げ、苦い顔に変わったシフォンを見下ろす。ルックは立っていて、シフォンが座っているから出来ることだが。
 が、シフォンはぱっと含みのある笑みに切り替わると、
「甘いね」
 また、すっと黒を動かした。結局、どう来られても罠にはめる自信はあったらしい。戦局は黒の圧倒的優勢に舞い戻る。
「………………」
 さすがに憮然とした色を浮かべるルックに、
「僕だってさんざん、テッドにこっぴどくやりこめられてきたんだから、そう簡単には負けられないよ」
 少し切なそうに、懐かしさに細めた目を微笑ませて、シフォンがつぶやいた。
 頭でわかっていても、そんな簡単に、心は落ち着いてくれない。
 こんな、出口のない悲しみは。
 こんな、氷のような哀しみは。
「なぁ、シフォン――」
 何か言いかけたフリックをやんわりと目で制止して、
「フッチ、僕のこと、何処まで聞いた?」
 意外なほど、あっさりとした声音で訊ねる。問われた方は、うかがうようにフリックの方を見やった。シフォンがクレオとパーンに懇願のような説教で捕まっている間に、これまでのことは話したのだ。ルックが彼をひっぱたいた原因である、あの言葉のために。
「だいたい言った」
「そっか。あ、でも、フッチ。気にしなくていいよ。あのときはさ、僕もどうかしてて。かなり嫌な言い方しちゃったって、わかってるから」
 騎士の駒を手のひらで遊びながら、苦笑を浮かべる。かえって話をややこしくしてしまったのは自分だ。知らずに言った言葉にまで苛まれているフッチの肩を抱いて、なだめるようにぽんぽんと叩くと、シフォンは言い損ねていた――言いたかった言葉を綴る。
「ずっと立ち止まってたら駄目なんだよ」
 涙と一緒に、息の詰まる熱は流れて。
 凝った苦しさは、雪代に溶けていくから。
「でも、それは忘れることとは違うから。――いつまでも、忘れないで。ずっと」
 あなたの優しさも。
 今のこの哀しみも。
「ずっと忘れないでいよう。でも、だからこそ。自分を大切にして。助けてもらったその命を、大切に生きて」
 自分を大切にして。
「きっとそれを望んでるから。きっと――絶対、望んでないから。あんな風に自分を責めるのは。命を懸けて守ってくれたのは、きっと、愛してくれていたからだから」




 夜空のような漆黒の瞳に優しい笑みを湛えて。
 綺麗な黒の欠片を握る小さな手を、そっと包み込んだ。




 "当たり前"が永遠であるという甘い夢は、いとも簡単に壊されて。
 見えていたはずの道は、たやすく深淵に崩れ落ちる。
 生きる意味すら、見失って。
 けれど。
 閉ざさないで。少しだけでいいから、開けていて。
 微笑みかけてくれる人に、気づけるように。
 微笑み返せるように。
 差し出されたその手を、とれるように……






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 ここからこのサイトの組み合わせが本格的に始まりました。シフォンとルックとフッチ。
 嫌なことがあって思いっきり泣いた後、妙にハイテンションになりませんか。