大きな姿見。
小さな手鏡。
それらは今を錯覚させて。
時が流れていることを、まざまざと見せつける。
水に映る鏡
上で一つピン留めされた紙束の字面を撫でていた視線を、ルックはふと上げた。
たいした理由ではない、階段を書類に目を通しながら降りる気はなかった、それだけである。ホールの中二階から下に降りていけば、そこに108の星を刻む約束の石版がある。所用がなければいつもそこにたたずむ、余人を寄せ付けたがらない人物――すなわち彼自身のせいでか、この石版にはこのリーヤンの主の他は滅多に近づかないものだった。
しかし、その場所に、
「あ〜、やっぱ、俺の名前も入ってんのな」
見覚えはあるが、見慣れない人影を見つけた。いや、正確にはしばらく見ることのなかった、というべきか。三年分が積み重なっているのだから、いろいろと違うが。
「……何してんのさ」
訝ったルックの声に、石版をぼんやり仰いでいたシーナが、ぱっと振り向く。独り言のように聞こえた先ほどの言葉も、ルックの存在に気づいていたからあえて声にしたものだろう。
「俺がいたらダメなのかよ?」
トラン共和国との同盟を、性格そのままの軽々しさで持ちかけた――しかし立場的にはあまり軽くない、現トラン共和国大統領の一人息子。先ほどまで行われていた軍議も、同盟がなった報告と、近づくルカ・ブライトとの決戦に対してを兼ねたものだった。
「別に」
本心からそう言って、横手のピラスターに身を預けたルックが手元の書類に目を通しだしたのに、シーナはつまらなそうに苦笑した。
「おまえって、あいっかわらず愛想ないな」
「君に愛想を振りまいてあげる理由なんてあったっけ?」
字を目線で撫でていくまま、さらりと切り返す。と、
「お、やっぱ、あれば振りまくんだ」
したり顔、というのが一番近いだろうか、にやりと笑って言ったシーナを、
「……そんなことを言った覚えはないけど」
不機嫌になったのも隠すことなく、じろりと顔を上げて睨め付けた。
「そうか? 俺だって、止めるのは無理でもせめてオワカレぐらいは言いたかったんだぜ。気がつきゃ、もう姿なかったんだもんなあ」
石版の上方を遠く見上げて、シーナがつぶやく。
「……何処からそう考えるのさ。別に――」
「お友達だったから、ってのは? 少なくとも、周りはたいていそう思ってたんだぜ、知らないこともないだろ?」
「何を?」
「何をって……うん?」
思わずそのまま答えそうになったのを何とか飲み込んで、上から降ってきた問いかけの主をシーナは探した。
「、セファ――じゃなかった、リーダーじゃんか」
「いいよ、セファルで」
中二階の手すりから身を乗り出しこちらを見下ろしているセファルが、笑って返す。
同盟締結のためトランに向かう道中はまだシーナはティンランに属しておらず、よって名前で呼んでいた。だからすぐに切り替えが出来ていなかったのだ。もとより、リーダーという単語は。
「じゃ、そうさせてもらうわ」
へらっと笑い返すと、シーナはくるりと体の向きを入れ替え、ルックとは、約束の石版を挟んで反対側のピラスターにもたれかかる。
「ねえ、ルックとシーナって友達なの?」
ごくあっさりと。なんの深みも重みもない声音でセファルが問いを投げかけた。
「違うんだろうなあ、俺じゃやっぱ、その一歩手前が関の山かな」
思わず書類を落としかけたルックを笑いながら、シーナが訂正を入れてやる。
「でもさっき……」
「あれは別の話。な?」
同意を求めるシーナに、ルックは、それにはちらりと目だけ動かして応える。
「でも、前から知り合いではあったんだよね?」
シーナは以前リーヤンに現れたときは、すぐにトランに出発することになった。もちろんそれにルックは同行していない。
「まあ、そうなるなあ」
「知ってるだけ、だけどね」
一瞬だけ詰まったシーナに続けて、ルックも煩わしげに答え、一枚書類をめくった。その音はやけに大きくホールに響く。
そこへ、
「なんでぇ、ここにいたのかよ」
ホールに降りてきたビクトールが、フリックと二人、セファルと並んで中二階から顔を出した。シーナもピラスターから身体を離し、階上を仰ぐ。
「よぉ、シーナ。いけんだろ? 思わぬ再会を祝して軽くやらねえか?」
ビクトールはにやりと笑って、何かを飲むような仕草をしてみせる。
「ああ、そこはちゃ〜んと親父に似たぜ」
了解の合図をして、シーナも笑みを返す。ようは酒のことだ。
「思わぬ再会?」
聞き逃さず、セファルは手すりに両手で頬杖をついたまま、隣のフリックをいささか強引に見上げる。
「そういえば、シーナってアップルとも前からの知り合いだったよね。で、ビクトールさんもフリックさんも、アップルのことは知ってたみたいだし……」
シーナがトラン共和国との同盟を持ちかけたときの会話を思い出し、そして、焼け落ちたトトの村から傭兵対の砦の戻ったときのことも。
「……ルックと二人も、そうじゃなかったっけ?」
セファルがティンランのリーダーとなることを決めたとき、レックナートと共に現れたルックは、その場にいたフリックとビクトールになんと言っていた?
「まあ、な」
どこか困ったように微笑んで、フリックが曖昧に肯定だけを返す。と、
「他にも、大勢いるよ。知りたい?」
嘲笑に近いものさえ浮かべながら、興味はないといったような口調でルックが言った。相も変わらず目は書類の上だが、それをめくる手は格段に遅くなっている。
「まだ他にもいるのかよ?」
まだティンランにいる主立った者すべてと顔を合わせていないシーナの方が憮然とした声を上げる。セファルは成り行きを見るだけだ。
「……」
ルックは顎をしゃくって、約束の石版を示す。指し示されるままに石の面に目を彷徨わせたシーナは、しばらくして眉をひそめた。
「お星様ってのは、なに考えてんだろうねぇ……」
見慣れた石版。自分の名前の場所は、一見でわかったので、いや、知っていたので、気づかなかった。周りに並ぶ名前の中に、自分の見知っているものはどれほどあるのか。
「どういうこと?」
「いーや」
訊ねてきたセファルに、シーナは軽く首を振って答えにならない答えを返す。
「石版に名前があってっていうの、前にもあったんだ?」
確かめるようにセファルが重ねて訊ねると、最も露骨な反応を見せたのは、案の定。
「やっぱり……三年前、なんだ……」
解放軍のこと、そのリーダーに関わる話。例えば酒の入った席で、それもかなり酒浸った辺りで誰かが言い出す、セファルはそのリーダーと似ているというような話だ。そういった話題が出れば、そしてそのことを詳しく聞こうとすれば、真っ先にその場を離れるフリックが苦しげに眉をひそめ、目をそらしていた。
「……ああ、そうだ。三年前、解放軍には108星が集った。天魁星は、解放軍のリーダーだった」
複雑な面持ちで、ビクトールが今まで黙り続けていたことをセファルに話す。と。
「罪悪感でも感じてるの? セファルに? それとも……あいつにかな。二回とも引きずり込む原因になっちゃったんだものね。偶然とはいえ、趨勢を握る人間が死ぬ直前に引き合わしてさ」
ルックが冷め切った声でつぶやく。戦支度で珍しくホールに人がいないために、それはとてもよく響いた。
「……ルック」
苦み走った声で、ビクトールが制止を入れる。が、
「負い目だって感じるよね、当然。なにせ両方とも、まだ子供っていえる歳なんだし」
「――え?」
セファルがはっと頬杖を解いて、ルックを見やる。
「ルック。そのくらいでやめとけよ。な」
と同時に、フリックがたしなめるようにやんわりと声をかけた。
「待って、僕と、同じぐらいだったんですか……?」
それだけはどうしても聞きたいとばかりに、セファルが緊張した面持ちで話を引き留める。
「今の君より一つ下だったよ、あの頃。……満足した?」
ルックは冷笑の入り交じった、でも何処か傷ついたように揺らぐ瞳を斜めに、セファルを見上げた。その様に戸惑いがちにセファルが再び口を開こうとしたところへ、さえぎるように青い影が動く。
「言ってるおまえが、一番堪えてるだろうが」
ひどく悲しげに微笑をつくって、先ほど濁した言葉を、今度こそフリックは声に出した。
「……言ってれば」
馬鹿馬鹿しいとばかりにつっと顔を背けて、早足で中二階に上がるとルックはそのまま兵舎に向かう。自室に戻るつもりなのだろう。
「僕より一つ下って、十五だったんですか?」
それを見送ってから、おずおずと重ねて問いかけるセファルに、
「まあな。んでさ〜、あいつ、帝国倒したその日の夜に、ふらっと姿消しちまったんだよ」
いろいろあったんだ。
シーナが苦笑し、後の二人も簡単な相づちだけを打った。
そのどこか淋しげで哀しげな空気に、そのときはそれ以上、問いかけることは出来なかった。
以降、セファルは折を見ては当時のことを訊ねるようになる。
そのたびに、困ったような苦い笑みか、隠しきれない痛みを抱いた笑みが、曖昧な返事と共に返された。
それが終わるのは、ひどく意外な出来事によってだった。
夏に頑張る予定の、バナー編前置きです。
それにしても相変わらずうちのルックはこんなだし、フリックはこんなだし。なんでしょう、私が坊っちゃん至上主義故に(笑)
珍しくシーナがいるのは、キャラ表見てて何かないかな〜と考えていて、シーナの項で思いついた話だからです。