――朝。
 熱くない白い光に、頭が一つの認識を下す。

 ――夢。
 するりとこぼれ落ちたぬくもりに、右手を握りしめた。




Prologue




 始まりは、ミューズにおける和議が決裂し、急ぎリーヤンに戻ってきた翌日のこと。
「それは……まあ、向こうもまだ、そうそう大きく動けやしないだろうからな……」
 有事の際以外はがらんとしている、大広間。
「今を逃せば、次いつ膠着状態になるか、わかったもんじゃねぇしな。この機を逃さず、ってぇのに反対する気はねぇよ。俺は」
 フリックは左手に右腕をつき、ビクトールは視線を天井に彷徨わせながら言葉を返した。思わせぶりにその表情は何事かを含んでいる。
「……なんだ。何か言いたそうだな?」
 シュウにぎろりと睨まれると、二人は揃って、慌ててぱたぱたと手を振ると、
「いや、単に……少し意外に思っただけだって」
「そうそう。あの鬼軍師様にしちゃ、お優しいことだな〜って……」
 しっかりと余計な後を続けたビクトールから、フリックが思わずびくりと身を離した。言った当人も、口を滑らせたことに気づいて笑顔がさっと引きつる。
「ほほぅ……」
 ぱっと見にはいつもと変わらぬシュウの不遜な笑みだが、絶対にわざとであろう、怒りがありありと浮かんでいる。
 この瞬間、二人は留守番が決定したのだった。




 終われると、思った。
 だけど、笑ってくれなかった。
 前みたいに。
 昔みたいに。
 頷いてしまえば、よかったのかな。
 そう…出来れば、楽だったのかな。
 そう出来ないから、こんなにも苦しいのかな。
 でも。




「バナーの方に……?」
 ぼんやりと屋上で風に吹かれていたセファルが、クラウスの言葉にきょとんと彼を見返してきた。
「ええ。期限付きですが。シュウ軍師のお許しももう出ていますよ」
 いつも人当たり良さそうなやわらかな笑みでもって素を隠す副軍師を、セファルはしばらく無言のままで眺めた。
「……セファル殿?」
 その意図を読めず、少々居心地悪そうにクラウスが返事を促すと、
「僕、シュウさんをこないだのことで別に怒ってないし、もちろん恨んでなんかないよ」
「――はい?」
「だって、それ。言い出したの、シュウさんでしょ? ……違った?」
 セファルがさらりと言い当てたことに、クラウスは内心舌を巻く。自分に落ち度があったようには思えなかったのだが、どうして見抜かれたのだろうか。
「よくおわかりになられましたね……」
「ん……なんとなく」
 わざと怒らせて、敵意を向けさせて、逸らさせようとしたことに、あのとき気づいたからかもしれない。あのとき気づけたのは、ナナミが先に激昂して突っかかって、かえって冷静に見れたからなのかもしれない。
「でもどうして隠したりするのかな?」
「さぁ、私には計りかねますが。案外、普段の振る舞いがああですから、照れてらっしゃるのかもしれませんね」
 そうかもしれないねと忍び笑いをもらしたセファルに、クラウスもつられて笑みを強める。
「先ほどのお言葉、御本人に直接お伝えになってはどうです。あの方のことですから顔には出さないでしょうが、きっと喜ばれますよ。と、あの、お返事の方は?」
「ん……。ねえ、誰が一緒?」
 返された質問にクラウスは少し淋しさを覚えるが、面に出すことはしない。
「ええ、付近に王国軍はいなくなったとはいえ、さすがに護衛なしでは送り出せないとかおっしゃってましたからね。ですが、よく同行している人が一緒の方がいいでしょう?」
「そりゃあ、そうだけど……」
 言われて、誰だろうとセファルは考える。これもあててみろと言わんばかりだったからだ。
「フリックさんやビクトールさん?」
 真っ先に浮かんだのは、なんだかんだとつきあいが一番長いからだ。
「いいえ。あのお二人は、シュウ軍師を怒らせて留守番です」
 ついでだからと、ここに来る途中すれ違い様に捕まって聞かされた愚痴の中身も、クラウスはセファルに話した。演習の指揮を任され、しばらく暇はなくなったそうだ。
「はは、フリックさんも災難だね。……あれ、じゃあ誰だろ?」
 セファルが子供じみた仕草で眉間にしわを寄せるが。
「降参しますか?」
「ヒント!」
「保護者役はお二人です。あと……ナナミさんとお話し中に、同行を申し出た人もいますが」
 またしてもクラウスは名前を伏せる。セファルは少しむくれたような顔をするが、不意に、
「あ、マイクロトフさんとカミューさん?」
 ぽんと手を叩いて、クラウスが頷いたのをみるなり破顔した。その二人とは、仲間になってから日が浅い方のわりには、息抜きなどにもよくつきあってくれていたので、疎遠ではなかった。
 客観的な見方をするなら、元騎士団は、まとまった人数のわりにその確かな序列から、ティンランの中でも随一の統制がとれた一団となっている。多少元団長二人が城を空けても安心できるということもあった。
「あ、じゃあ、他に一緒に来るってのは?」
「多分、騒がしいことになりますよ」
 一転して苦笑を浮かべたクラウスに、セファルは不思議そうに首を傾げた。
「なにせ、よく喧嘩しているようですからね」
「え?」
「喧嘩するほど仲がいいとも言いますが」
 そこまで言われて、はたと思い当たる。
「……それって……三人とも?」
「はい。揃ってますよ」
 乾いた笑いはどちらが先か。




 でも。
 頷けばいい。
 そう、あのとき一瞬でも思ってしまった自分が悔しい。
 そうだ、悔しい。もう、昔とは違う――




「聡いな……」
 一行を見送ってすぐ、クラウスから話を聞かされたシュウは少し苦い声で呻く。
「ええ、驚きました。素振りを見せた覚えはないんですけれどね」
 クラウスのいつもの笑みが、薄く苦笑を帯びる。セファルに見抜かれたことは、さすがに少しショックらしい。
「セファル殿は、別にお怒りにも、もちろん恨んでなどもいらっしゃらないそうですよ」
「御膳立ても見抜かれたなら、それも当然か」
 踵を返し、シュウは部屋の方へ戻る。クラウスも数歩後からそれに従った。
「どこまで理解しているのか、さすがに俺にもわからんな」
 もともとのものなのか、この特異な環境がそうさせたのか。
「休息をお与えになった理由、とかですか?」
 クラウスの言葉に、しかしシュウは、
「さしたる気休めにもならないだろう、セファル殿にすれば」
 廊下の窓から遠く見える、兵士たちの演習風景を顎でしゃくる。まだまだ寄せ集めの感も抜けきらず、トランからの義勇軍まで混じったあのような部隊を、慣れたものなのか、ビクトールとフリックは上手く捌いているようだった。
「しかしな。こんな城にいては、いい加減息も詰まるだろう」
 ルカ・ブライトを討った興奮冷めやらぬ中での、和議を装ったあの一件だ。いやがおうにも怒りに煽られ兵士の士気が高まる。とはいえ、今はまだこちらから打って出ることは無理だ。燻り続ける中で、期待は過熱しやすい。過度の期待は、重荷になりかねない。
「そうですね……」
 不要な負担による疲労は、この際出来るだけ軽減しておきたい。
「これからは"侵略者を迎え撃つ"などという、そんな簡単なものではなくなるな」
 ティンラン新同盟軍とハイランド王国軍。
 その二つの勢力の、まさしく戦争となるのは目に見えている。
 今までの長い小競り合いを遥かに越えて。
「ついに本格的な戦争を迎える、となると」
 ハイランド王国――捨てた祖国。
 ハイランドの地――今でも変わらぬ故郷。
 わき起こった奇妙な感慨は、風が抜けるような。
 その器に未練はないが、その礎に微かな郷愁をクラウスは覚える。
「これは大きな戦乱になりますね」
 間違いなく。歴史に残るような。
「どうやら向こうも、それを望んでいるらしいしな」
 シュウの、奥歯に掛かる力がわずかに増す。敵の――レオン=シルバーバーグの手に乗っているとわかっていながら、いつもよりもずっと形振り構わぬ作戦でもって、半ば一方的に"殺した"ような形でルカ・ブライトを討った、先の一戦。次に控える者がなにを望んでいるのか、そのときには確かなことは言えなかった。だが。
 これで終わることはないと。
 あのとき、すでに確信を抱いていた。
 どちらかが滅ぶまで、終わりを見ないことになるだろうと。
「これからが本番だ」




 ――どうして?

 誰も答えてくれない、その一つの言葉。
 出口のない、もやもや。
 重くて、重くて、立ち上がれなくて。
 誰かの手を求めたくて――




 ある意味、火種を抱えた大所帯。それさえナナミにかかれば、にぎやかでいいじゃない、などで片づくのだが。
「だいたい、なんだって……」
 船の縁に頬杖を深くついたルックが、川面を滑る風にうんざりとしたため息を乗せる。
 ラダトまではテレポートを頼んで、そこからはちょっとした船旅。バナーまでなら一気に飛ぶこともできるのだが、ナナミが一言でそれを蹴った。曰く"そんなのつまんない"と。それで、半日程度船の上ということとなったのだ。ルックからすれば、その程度なら構わないのだが――
「外に出れるチャンスなんて滅多にないもんな〜」
 同じ縁にこっちは腰掛けて、サスケが伸びをしながら言った。
「そうなの?」
 壁に寄せてある木箱にちょこんと座ったセファルが、隣のナナミと顔を見合わせてからきょとんと聞き返す。
「私もてっきり……」
「外には――確かに、よく出てることが多いんですけど」
 ルックとサスケに挟まれた立ち位置で、縁に背を預けていたフッチが言いながら少し上にある友人の顔を見る。
「諜報などですか」
 セファルの、ナナミとは逆の隣に長身を折っているカミューが言葉を継いだ。もちろん、カミューのさらに隣にいるマイクロトフと同じく、普段の騎士の装いではなく平服である。それでも二人揃って元がいいのだから、やはり"普通"とは一線を画した雰囲気が見て取れる。
「任務中に寄り道なんて、以ての外だからな」
 サスケはよく裏の手回しを同郷のモンドと一緒に負うことが多かった。技量を認められているとも言えるのでそれはそれで嬉しいのだが、遊びたい気持ちだってこの年なのだから当然ある。しかし、カミューの言葉を肯定するようなつぶやきには、それでも文句を言ったようでは全くなかった。まだ少年とはいえ、その辺りのけじめは大人顔負けにつけている。
「おおっぴらに遊びで城の外に出れるんだから、それを逃すなんて、んなもったいないことしないんだよ」
「……子供だね」
「ぁんだと!?」
 ぽつりともらされたルックのつぶやきに、きっと振り向いたサスケが睨み返す。
「ねえ、フッチ」
 それを出来るだけ見ないように、セファルがその狭間に立たされているフッチに声をかけた。
「はい?」
 自分の両脇で幕を切って落とされた睨み合いに、しかし慣れたものなのかフッチは少しも動じた様子はないことに、セファルは感心を覚えるが。
「ブライト、どうしたの?」
 フッチの後をついて回る白い小さな子竜は、船の上には見当たらない。
「あ、ブライトは」
 フッチが言いかけた瞬間、
「あ〜、あの無口なおっさんが」
「ハンフリー」
 割って入っておきながら詰まるサスケに、ぼそりとルックが呆れた声で口を挟む。
「ああ、そう、ハンフリーって人が、預かってくれるんだって。な」
「サスケって、まだハンフリーさんの名前覚えてなかったんだ?」
 頷くよりも先に、フッチはそのことを突っ込む。続いてルックが、
「物覚え悪いんじゃない。それでよく忍びがつとまるもんだね」
「いちいちうっさいな、単にど忘れしただけだろ!」
 あまり幅のない縁の上で器用にバランスを取りながら、サスケは茶々を入れた二人の方に上体を傾けて言い返す。
「なら、そういうことにしておいてあげるよ」
「だ〜っ! なんっかむかつくんだよ、その言い方!」
「いつものことじゃないか」
 当事者にならない限りは熱くならないフッチが、呆れた苦笑を浮かべた。生真面目なところもあるのだからルックのようなある意味面倒くさがりとは対立しそうなものだが、意外と緩衝役になることも実はよくあるのだから、セファルやナナミからすれば結構不思議なものだった。とはいえ、絶妙にぎりぎりのラインで踏みとどまっているとも思える三人の空気は、これはこれで一つの"形"なのかもしれない。ぼんやりとそんなことを感じながら、ほんの少し含みのある苦笑をセファルが浮かべたとき。
「セファル!」
 唐突にナナミに呼ばれて、ぼんやりを中断し振り返ると、
「せっかくなんだから、楽しもうね!」
 灰色の曇り空も吹き飛ばすような、晴れやかなめいっぱいの笑顔を送られた。




 前にこの村を訪れたのは、トラン共和国へ同盟を結びにいくとき。
 そう、三年前の、門の紋章戦争と呼ばれた戦争の舞台。
 今のデュナンといくつかの点で似ていると言われている、あの戦争の――




「ん〜! やっぱ、こういうトコって落ち着くよね」
 桟橋を跳ねるように駆けて、ナナミがうんと伸びをする。
「ほら、セファル早く〜!」
「え、ちょ、ナナミっ」
 舞い戻った義姉に勢いよくセファルも引きずり出され、
「え、ちょ、お二人とも――!?」
 それを慌ててマイクロトフが追いかけていった。
「ああ、あの様子だとそのまま遊びに行ってしまいそうですね」
 遠くに釣り竿を借り受ける交渉を宿屋の看板娘と取り付けているナナミを見つけ、カミューが穏やかに、言外で促す。
「わかってるって。さっさと荷物運んで俺たちも出ようぜ」
 肩に荷物を引っかけて、ルックなどは盛大なため息もお供に引き連れて、その宿屋に向かう。
「――ホント? やったぁ♪」
 どうやら話はうまく進んでいるらしく弾んだ声を上げるナナミの後ろで、一方マイクロトフはどうもそのノリに気圧されているらしい。
「……」
「なんだ、もっとしっかりしないと振り回されっぱなしになるぞ」
 親友の肩をぽんと叩き――それは、この二人を直接見ているのは任せたという意味も含んでいるが――カミューはおかしそうに言ってやる。困惑にも似た表情の彼が何か言う前にカミューは宿の主人の所へさっさと行ってしまって、マイクロトフの方は空振りに終わってしまうのだが。と。
「あれ、お兄ちゃんたちお客さん?」
 下の方からかけられた声に、マイクロトフだけでなくセファルやナナミも振り向く。その視線の先で、十歳になったかどうかの男の子が笑っていた。三人とも、その子には見覚えがある。
「まあ、コウ!」
 宿屋の少女が言った名前が、その声の主である子供の名前なのだろう。
「……あれ。そういえば、前ここに来たときにも会ったよね?」
 セファルがコウに視線を合わすように少しかがんで、微笑みかけた。その二人の服装はよく似ていた。それで、ナナミもマイクロトフもしっかり思い出す。
「ああ、セファル殿の……」
 セファルに憧れて母親によく似た服を繕ってもらったのだと、トラン行きの最中で会ったときに言っていた。セファルのことも自分と同じようなものと思っているらしいが、わざわざ誤解を解きもしなかったので、今でも、まさかその当人が今目の前で自分に微笑みかけている彼だとは露ほどにも思っていないだろう。
「うん! あ、そうだ。お兄ちゃんたちにいいこと教えてあげよっか?」
 と、コウが瞳を輝かせて、そんなことを言いだした。
「ん、なぁに?」
 ナナミもセファルにならって、腰をかがめる。
「え〜とね……じゃ、お兄ちゃんたちが部屋に荷物置いてから、あっちで。いい?」
「あ……」
 荷物のことをすっかり忘れていたとナナミが声を漏らすと、
「荷物はもう運び込んでおきましたので、ご自由にしてくださって結構ですよ」
 ちょうどそのタイミングでカミューが中から声を投げる。
「え、……あ、ありがとう」
「お気になさらずに」
 人好きのする笑みでカミューが返した言葉と共に、
「じゃ、ちょっとこっちこっち!」
 コウに引っ張られてセファルとナナミが宿屋の前を離れていく。マイクロトフは、中のカミューをちらりと見やって動く気がないことを見て取ると、二人を追いかけていった。




 トラン共和国へ同盟を結びに行ったとき。
 その首都に滞在したのは短い間で。
 だから、あのことを聞けたのもほんの少しだけで。
 それでも――




「で、コウ君、いい事って?」
 干物をかけた板の陰まで来て、コウが振り返った。
「あのね、うちの宿屋に少し前からずっと泊まってるお客さんがいるんだ。なんか、裏で釣りをしているだけなんだけど……僕、思うんだけど、あの人がセファル将軍なんじゃないかなぁ♪」
「え」
 思わず、セファル、ナナミ、マイクロトフの三人は顔を見合わす。誰を勘違いしているのかわからないが、それは明らかに別人である。紛れもなく本人がここにいるのだから。
「でもね、その人と一緒の人が、その人に会わせてくれないんだよ」
 少し離れたところから何度も見かけることは出来ても、話しかけれるほど近づくことは、コウは今のところ出来ていないらしい。その、いつも一緒にいるという頬に傷のある男がさりげなく阻んでくると言うのだ。
「へえ……」
「あ、その人って今、釣り、してるんだよね?」
 ナナミがなにを思いついたのか、ぱっと笑みを浮かべる。
「うん。あの人が居るトコ、よく釣れるんだ。僕が……直接じゃないけど、教えてあげたんだから」
 胸を張ってコウが答える。
「うちの宿屋のね、裏手なんだ。穴場なんだよ」
 そこまで来て、ああとセファルもナナミの意図を納得する。そして、ナナミと話し始めたコウには聞こえないように声を潜めて、
「どんな人だろ、僕に似てるのかな?」
「セファル殿?」
 セファルがそちらに興味を持ったことに、マイクロトフは少し意外そうにする。
「だって、ちょっと気になるじゃない。どうせ時間もあるし……同じ宿屋に泊まってる人なら、仲良くなったっていいでしょ? コウ君だって、その人と一度話してみたいから僕たちに話を持ちかけたんだろうし」
 そうなったら誤解もとけるよ。セファルは笑った。
「……お歳も、セファル殿に近そうですしね」
 セファルの年齢は彼の名前と共に広まっている。紋章と、ゲンカク老師の名と、十六という年齢とが、ティンランの噂が浸透する際に一種、民衆に奇跡を思わせるような味付けをしているのだ。服装のことまで伝わっているようなここで、年齢を知らないというのも考えにくいことである。
「へへ、ばれてた? ありがと」
 けれど、不思議な感覚だった。自分はそういうことを気にしない方だと思っていたけれど。まるで、見えない手に手招きされているようで、確かめたい。
「それで決まり!」
 突然、コウとナナミが手のひらをパンと打ち合わせた。
「? なにを話してたんだよ、ナナミ?」
「ん〜? 裏手で釣りをしてる"セファル将軍"に会うために、ちょっと、ね♪」
 ね〜と声を揃えて、二人がにこにことしている。
「じゃ、早速作戦開始〜♪」
 何か妙なこと企んでいるんじゃないだろうかと少しの不安も覚えたが、コウは村の奥へ走っていってしまった。
「ナナミ?」
「だって、どんな人か気になるじゃん。セファルに似てるんでしょ?」
 噂の宿屋の裏手に歩き始めたナナミが、そう言って笑う。何かしでかさないかという一抹の不安と怪訝な念を抱きながら、裏手に回り込むため宿屋前辺りに戻ると、
「あれ、魚釣りに行かれるんじゃなかったんですか?」
 ちょうど外がよく見える席にいたフッチから声がかかった。
「あのね、それがさ〜」
 ナナミはさも楽しげに、コウから聞いた話をフッチとサスケ、奥のルックやカミューにも聞こえるように教えた。
「セファルさんに似てる……」
「頬に傷、ね……」
 その話を聞いたフッチとルックが、なにやらそれぞれ考え込むように眉を寄せた。




 僕はトランから戻って、前以上に、いろいろな人にそのことを尋ねていた。
 一つの軍を率いて、一つの戦争を終わらせて、そしてその姿を消してしまった人。
 どんな人なのか、本当に全然知らないから。
 やっと教えてくれたのは、今の僕とほとんど変わりない頃だったという、そのことぐらい。
 でも、それだけでも、大きな意味はあったみたいだけれど。




「あの〜、私たち、この先の釣り場に行きたいんですけど♪」
 左手でセファルの手を引き、もう片手で竿を軽く持ち上げたナナミが、崖に面した細道に一人立つ人影に声をかけた。すると、
「あ、えぇと、その、お待ちください。ちょっと、ここから先に行くのはご勘弁願えませんか……」
 長い金髪を後ろで緩やかに束ねたその男性は、奥を気にしつつ、人好きのする優しい顔立ちに困ったような笑みを浮かべた。左頬にくっきりと残された大きな傷跡はあるものの、纏っている雰囲気は至って穏やかそのものである。
「え〜、どうしてよ〜……」
 前もって聞いていたものの、面と向かって言われるとやはりつまらない。男性の向こう側をのぞき込むように身体を伸ばすが、角の向こうの釣り場はここからでは見えなかった。
「あのですね……」
 ほとほと困ったように金髪の男性が何か言いかけたとき。
「助けて〜っっ!!!!!! 誰か〜〜っっ!!!! 特にそこのお兄ちゃん!! 助けてぇ〜っっ!!!!」
 ちょうどいいタイミングといってもいいのだろうか、コウのかなり緊迫感に欠ける、いっそ楽しげにすら聞こえる叫び声が峠の方からこっちに響いてきた。さすがに怪訝さもはらみつつさっと空気の色が変わりかけたところへ、後ろに向けてこっそりとナナミが背中にピースサインをつくる。つまり――お芝居だと。セファルは呆れた苦笑をこっそりもらし、マイクロトフもこれには頭を抱えたくなるが、
「な、なんでしょう? 確か今のは宿屋のお子さんの――」
 きょときょとと声の聞こえた背後を見やってから、様子を見に男性が駆け出す。と。
「ああっ、どうかそこから先には行かないでくださいよっ!」
 言い残して、細道の向こうに消えていった。それを見送って、
「これで大丈夫♪」
 にっこりと笑んでナナミが言った。
「……ああいう悪戯はよくないと思いますが」
「固いこと言いっこなし! だって、会ってみたいんだもん。ね、セファル」
「え……あ、うん」
 後で謝るよとセファルが言うと、マイクロトフも仕方ないなと口を閉ざす。やっぱり今の自分は落ち込んでるのかなと、ふと気づくけれど。
 そこから少し奥へ進めば、川の畔に板場があるのが見えた。
(あそこかな……)
 ナナミが不思議そうに呼んできたのにも気づかず数歩だけ小走りに急ぐと、視線の先に、板場に腰掛け、川の淵に釣り糸を垂らす少年の後ろ姿がはっきりと見えた。
「あの……」
 躊躇いがちに掠れた声をかける。最後に立ち止まった足が草を割って、川面から吹きつけた風と重なって思いの外大きく音を立てた。
「ん……?」
 その少年はひどくゆっくりと振り返った。その髪も瞳も、本当にどこまでも深い色をしているのが印象的に映る。そしてなにより。
 せせらぎの音。
 初夏の風の音。
 我を忘れたかのように視線だけはぴたりと重ねたまま、時が止まる。と、
「セファル! なに、ぼーっとしてるのよ!」
 不意に背中にやってきた後ろからのナナミの一撃にたまらず数歩蹈鞴を踏んで、なんとか転けずに堪えたセファルは元気な義姉を振り仰いだ。
「な、ナナミ」
 マイクロトフになだめられたナナミも、ナナミをなだめたマイクロトフも、そのときには振り返ったままこちらを静かに見つめている少年に気づいていた。なにを考えているのか、その面からも瞳からもうかがい知れない。
「えっと、この人?」
「む……?」
 マイクロトフは何か気づいたのだろうか。眉間を微かに寄せているのは。
「君たちは?」
 そのときになってやっと、三人がはっきりと聞き取れるぎりぎりの声量で、少年が聞き返した。
「あ、あの――」
 コウとの約束もある。だが、セファルは続ける言葉を上手くつかみとれないでいた。存在感は稀薄にも感じるのに、明らかに圧倒されている。
「実は……」
「久しぶり。……変わりはないようだね」
 なんとか二の句を続けようとしたセファルをさえぎったのは――誰かが"一番よく知ってる"と言った人と、同じ声。続けて、もう一人。
「お久しぶりです。シフォンさん。こんなところでまたお会いできるなんて、思ってもみませんでした……」
 言葉の中で、驚愕と一緒に奇妙な納得を見つけた。
 ルックとフッチが黒髪の少年に、――シフォンに、そう声をかけていた。




「気になるの? ……さあね。どうだったかな……」
 答えとは裏腹に、彼は虚空を見つめてその目を細めた。

 僕はトランから戻って、前以上に、いろいろな人にそのことを尋ねた。

「え、――のこと……?」
 振り返った彼女は、遠い目で少し哀しく笑った。
「そうね……私はそばにいたわけではないから。でも、あなたと」

 その人は、僕と――

「少し似てんのかもしれねぇな……確かに……。おまえと同じで、最初は別に――」
 とても遠くを見る目で、彼は複雑な笑みを形作っていた。

 とても、気になっていた。ついこの前、年まで近かったと聞いてさらに。

「悪い。いろいろ思い出しちまうから、さ……」
 明らかな痛みを抱いた笑みすら歪んで、それ以上彼は言葉を続けられなかった。

 一つの軍を率いて――

「いいことばっかってわけじゃ、なかったよな」
 ひどく言いにくそうにして浮かべた、彼のひっそりとした笑みはそのときに初めて見た。
「ま、おまえもさ、あんま変に気負わずに……がんばれよ」

 一つの戦いを終わらせ――

「今頃……どちらでどうしていらっしゃるんでしょうね……」
 立ち去った理由を問いかけて返された、彼女の寂しい微笑み。

 そして、その姿を消した一人の英雄――

 そう。僕はこの人に会ってみたかった。
 今の僕とよく似た道を進んで、戦ったというこの人に。

 こんなことではいけないと思いながら。
 今の自分を支える勇気が欲しかった。
 ともすれば、あのとき頷いてしまいそうになった僕の弱さ。
 僕のことを思ってくれるみんなの期待に応えるためにも。
 そしてなにより大切な想いのために。

 すっと自分に移された視線を感じ、セファルは思い切って、震えそうな声を発した。
「僕は……」




 ――あなたのように、強く歩いていけますか?






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 バナー編その後、坊っちゃん同盟本拠地に来訪。とりあえず驚く人たちと最後が書きたかっただけです。あと、バナー編プロローグにおけるシュウさんのフォロー。
 この続き[道、重なりて]は対話短編集にしてみようと思い立ち、さらには一周年企画にしてしまったのでした。