何故戦うの?
何を望むの?
何を求むの?
何を願うの?
歩む道のイミは――?
夜明けの月
- Dawn -
東雲の皓い光が空気を満たして、うっすらと色を帯びる。
ちゃんとカーテンを閉めていなかったので、東を向いている窓の方からその光が射し込んで、いつもより早く目が覚めた。
グレッグミンスターの者は誰もが口を揃えて言う。
この平和は英雄シフォン様のおかげと。
この安寧はレパンド大統領のおかげと。
トラン共和国に住まう者は誰も、笑顔でそう言う。
多くの人に、多くのものをもたらした。
だけど、シフォン様自身は何を得たのだろうかと――
昇った陽は薄雲の向こうに。
開け放たれたままのガラス戸からそよぐ、涼風。
声は思いの外、はっきりと響いた。
「シフォンさん!」
艶やかな黒髪が肩を過ぎている。一瞬誰かと思ったが、纏う雰囲気でそれと察した。後ろで一つまとめただけの姿は、その眼差しと共に遠い誰かを思い起こさせて。正面に広がる花壇は、ペチュニアが純白に染め上げている。
二階露台の手すりを軽く乗り越えると、一階の窓のひさしを経てセファルが庭まで降りてきた。庭に降りる平たく低い石段に浅く腰掛け、立てた片膝に腕を引っかけていたシフォンはそれに口元をなごませ、
「早いね」
ほとんど表情を動かさず、抑えられているのに自然に聞き取れる声が届く。
「シフォンさんこそ」
一回大きく息をついて、セファルは笑顔を返した。
「家は、久しぶりだからかな」
シフォンの視線は再び、朝を迎えたばかりの空へと帰っていった。セファルはその横顔をしばらく何とはなしに見ていたが、ふと、意を決したように口を開く。
「あの、シフォンさんって……三年前、帝国を倒したそのときからずっと旅をしてたんですよね」
「そうだよ」
その後に重ねられそうな問いかけに何か重苦しさを感じ、
「グレミオさんと二人で」
「そうだよ」
まだ冷たい風に一度だけ身を震わせ、
「あの……これからも、なんですか?」
「――そう、だろうね」
シフォンが微かに苦笑を浮かべる。そのまましばらく言葉が途絶えたが、
「セファル。悪いかなとは思ったけど、君のこと、少し聞いたんだ。ジョウイっていうんだよね、君の親友。ハイランドの皇王に即位したって」
他愛ない世間話のように穏やかに話すシフォンに対し、セファルに出来たことは、頷くだけだった。シフォンが言葉を発してくれて、正直安堵している自分もいる。
「離別して――君はティンランのリーダーに。つまり対立する立場になってしまったんだってね」
首肯するセファルを目だけ向けて見やると、
「僕は、違うよ」
「……え?」
唐突に吐かれた言葉に、セファルは呆気にとられる。シフォンは再び、視線を空に残る白い月に戻して、言葉を綴る。
「似てるのかもしれないけれど――同じじゃないよ。真の紋章を持って、十五とか十六で一軍を率いて、108宿の主星にもなって、そういうところは確かに重なるけれど、でもね、それでも、僕に短絡したら駄目だ」
どきりと、した気がした。自覚はなかったとしても、そうだったのかもしれない。図星を指されたような気がする。
「セファル。君は、今」
――何を望む?
「他には何も要らない。ただ……ナナミとジョウイと。三人で一緒にいたい……」
平凡で、平和な、三人一緒の日々を望む。
「でも、きっと……今のままじゃダメなんです。ジョウイは、たぶん、他の何かを見てるから」
他の望みを抱いているから。
「ナナミは、どんなに遠くにいても、心は一緒だっていってくれたけどけど」
ジョウイの望みをわからない、そして知らされもしない自分がひどく情けない。
「これが真の紋章の運命なんですか? 神話みたいに、"剣"と"盾"は、争わなくちゃならないんですか……?」
抱いた両膝に顎を埋めると、頬に右手の甲が触れた。手袋をはめていないその甲に、分かたれた半片でありながら相対する紋章が刻み込まれている。
これを受け継いだときから、すでに定められていたことだとでもいうの?
「セファル。僕じゃ、君が本当に欲しい答えは言えない。けれど、それには答えられると思う。――簡単だよ、運命なんて、振り返ったときにしかわからないんだから」
何にも染まらぬ朝の色の中で、やわらかくシフォンは微笑んだ。
「それって……?」
セファルが隣を見上げると、シフォンの目は月から降りて、月と同じ色で咲き誇るペチュニアの花々を見つめていた。
「なにもかも、"運命に流されてるんだ"って、諦めたらダメだってこと、かな」
セファルに気づかれないように、そっと、シフォンは右手の甲を手袋の上から包み込む。
「意味を求めるのなら……」
「え?」
なんでもないよとシフォンは微笑みを浮かべて、
「だから、迷って自分を見失わないで。どんなに歩む道を違えたとしても、遠くに離れてしまったとしても、その気持ちを忘れないで」
朝焼けが溶けていく。
「セファル。君は親友を、"自分"を、信じられる?」
「やっぱり。いたね」
階下に下りてきたルックは、厨房にいたグレミオに冷めた声を投げかけた。
「おや、ルック君じゃないですか。お早いですね?」
振り返り、グレミオはいつものようにやわらかく微笑む。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
ずかずかとルックは遠慮なく歩み寄って、置かれている小振りのテーブルに軽く身を預けた。そして、問いかける。
「どうする気?」
「――こうもはっきり訊かれると、答えにくいものですね」
肩越しに振り返ったグレミオが苦笑をにじませそうつぶやいたのは、少し間を空けてからだった。
「そのときは、お任せしてもいいですか?」
「……なんだって?」
グレミオのその言葉に、ルックが思いっきり眉をひそめた。朝食の支度に向き直った彼は、それを気にせず言葉を続ける。
「私も、分はわきまえたつもりですよ。同じ失敗を繰り返すつもりもありません。ですから、そう決められたなら、そのときには、私は"ここ"で待つことを選びます。とはいえ……まだ、落ち着いてはいなかったでしょう?」
見通されている。ルックは鼻で笑うようにごく微かにため息をついた。
「さすがだね」
「当然です。それが、私の役目ですから」
惑いもなく言い切った。
「あの頃は、そばにあれば……たとえ逆に守られてしまうようなことになっていても、もしもの時にこの身で守ることが出来ると、それが役目だと……事実、私は一度それを実行もしましたし。ですが、今となっては私には、もう出来ません。ですから、お願いします。還る場所があれば、生きる意味が出来ますでしょう。意味があれば、還ってきてくださると信じています」
そして、少し欲張りになってしまいましたかねと、ふっと表情を和らげてつけ足した。
「それぐらい、いいんじゃないの」
小さく言い捨てて、ルックは踵を返す。
「まだ返事をいただいていないのですけれど?」
「あのねえ。今更――、なんだよ」
彼は振り返ることなく、面倒くさそうにひらひらと手を振って廊下に出ていった。
「寂しくなんてないといったら、嘘なんですけれどね」
自嘲にも近い、笑み。
けれども。
護るべきは、生の理由。
護るべきは、還る場所。
それが、唯一の――
「――なんてね。朝からする会話じゃないよね。辛気くさい」
くすりと笑って自分で発した言葉を振り払う。
「シフォン、さん……?」
「問うまでもないこと。当然のことばかり。ただ、気づかせるには、問うのが一番いい。言葉にして声に出すのが一番いい。多少……きつい手段使うような人もいるけれどね」
とうとうとシフォンが声に乗せた言葉を理解できず、小さな子供のように顔をしかめるセファルに、シフォンは少しだけ声を立てて笑った。
「たぶん、ルックのこと。かな」
冗談めかして。けれども。本気めかして。
「え……?」
「やっぱりそっちでも、ルックってあの調子なのかな?」
どう答えたらよいものかと、しばしセファルは思案するが、
「え〜と…それって、言うことなんでもかんでも情け容赦なかったり、皮肉たっぷりだったりってことですか?」
「……相変わらず毒舌なんだ」
シフォンは少し苦笑まじりに頷いてつぶやく。
「誰かいる? 緩衝できるようなの」
「たぶん――最初の頃はフリックさんとかひどい目に遭ってたみたいで大変だったけど、今はフッチがなんだか収めてくれることが多い気がする」
少し顔を上げて、思い出しながらぽつぽつ答えるセファルの後頭部が不意にはたかれる。
「って、あ、ルック」
いくらか引きつった笑顔になるセファルを、いつの間にか後ろに立っていたルックが睨め下ろす。
「シフォンも……なに訊いてるのさ」
そして隣のシフォンへ。こちらは余裕の体で、逆ににやりと笑みを湛えてさえいる。
「いーや、僕のいないトコで親友はどんなだったのかなって思ってね」
実に愉しそうにシフォンが言いやる。と、
「誰が親友だよ、誰が」
「僕ら。みんな認めてるじゃない。なにを今更」
とても迷惑そうに眉をひそめ突っ込んだルックに、いともあっさりと言い返す。そして、
「そうかー、フッチにねえ。僕らの可愛い弟だものね、やっぱり強く出れないよね」
「君だけだろ、君だけ。ったく」
続けざまににやにやとシフォンが言った言葉を聞くと、ルックは額に手を当て、うんざりとした声で吐き捨てる。
昨晩まではあんなに大人しかったのに、一晩で持ち直しすぎにも思える。しばらく放っておいた方がよかったのだろうか。半ば本気でそんな思いが脳裏をよぎる。
「あの、シフォンさんはこれからどうするんですか?」
じゃれあいのようなやりとりを笑って眺めていたセファルが、ふとシフォンに声をかける。
「どうしてそんなことを訊く?」
問われてシフォンはルックとの睨み合いを打ち切ると、少し曖昧な笑みで聞き返した。
「あの、えっと、もしよかったら、シフォンさんに一緒に来てもらえたらなって……って、迷惑ですよね、ごめんなさいっ」
しかし、言っているうちに、最後にはセファルは頭を下げて謝ってしまう始末だ。
「謝らなくてもいいよ。特に何も考えてなかったし、すぐに旅に戻る気もなかったし」
その姿に苦笑をにじませて、成り行きを傍観する気らしいルックを一瞥してから、少し考えるように間を空けると再び言葉を綴る。
「でも。それは、ティンランの仲間になれってこと?」
戦力として。
「え、あの、ええと、それも少しは思ったですけど……シフォンさんってとても強くて、僕も見習わなきゃなってホント思ったし……あ、でも、なんだか、さっきもですけど、シフォンさんとだと安心できて、いろんなこと聞いてもらえたらなって言うかなんというか……」
改めて考えるまでもなく、個人的な感情なのだと。
いまいち自分でも掴み切れてはいないのだろう、可哀想なぐらいしどろもどろになるセファルに、シフォンは小さく笑った。
「ずっとは、無理だよ」
そして。それだけ答えた。
「来るの? 騒ぎになるね……」
ルックがはた迷惑そうに口を挟む。
「ティンランのリーダー直々のお招きだよ。といっても、セファル個人の友人として行くからいいんじゃないかな。その方が面倒は少なくなりそうだし」
「友人、って」
考えてもいなかったその単語にまともに詰まるセファルに、
「あれ〜? セファル〜!」
上から姉のお呼びがかかる。セファルが目覚めたときは早すぎてナナミはまだ眠っていた。起きたらもぬけの殻になっている弟のベッドに驚いて探しているのだろう。
「ナナミ、朝からそんな大声出すなよ!」
手すりに上体を乗せて見下ろしているナナミに向かって、照れたようにセファルが言い返す。
「もう、とにかく一回お姉ちゃんトコに来なさい! あ、シフォンさんもルックも一緒〜? グレミオさんが探してたよ。もうじき朝御飯だって!」
呼ばれて、渋々中に入っていくセファルを確かめてから、ナナミも引っ込んだ。
真っ白な花が伝える、優しい言葉。
あなたが告げる、涯てに目を覚ました想い。
澄んだ空気に、朝の月色をした花。
呼び起こして微笑む。
自然な心を、和らぐ心を。
「甘くなった?」
その背中を見送って、シフォンがぽつりと口にした。
「……勝手にすれば」
「ルックが来る前から、セファルと少し話をしてたんだけど」
「で?」
白い花弁に視線を留めたままのシフォンを、ルックは見下ろす。
「なんだか……変な感じだ」
同じなのに、全然違う。
「羨ましいんだ?」
少し揶揄を含んだルックの声音に、
「ひがみに聞こえそうだから、言わない」
立ち上がりながらシフォンが返した答えは、肯定にも聞こえる。
「比べるようなことじゃないだろ。不幸自慢なんて――してどうするんだよ」
「確かにね」
肩をすくめたルックに、シフォンは苦笑ではないものを浮かべ、言葉を続ける。
「……偉そうなこと人に言っておいて、自分だってしっかりしないとならないかなって」
なんと訊けばいいのだろう。
一瞬躊躇って選び取った言葉は、すぐに声に乗せた。
「それで――いいの?」
果たして、一切の動きを止める。――止まる。
「うん……放っておきたくない。何もしないで見てるだけだったら、きっと、もっと後悔するから」
悲しげな微かな笑みを、ふっと強めた。
「まあ、いいけどね」
何を指してルックはそう言ったのか。
シフォンが振り返ったときにはもう、ルックの姿はなかったけれども。
すっと右の手袋を外す。
光に晒される、死神の鎌を思わせる紋章の貌(かたち)。
空に溶ける、淡く白い月。
もう一度、もう一度――
「ソウルイーター。戦地に行こう、おまえの望むとおりに。魂を喰らえばいい。けどね」
確かな重みを持って。
確かな思いを持って。
「セファルの大切な人たちの魂を奪うことは、絶対に、許さないよ」
静かに、強く、ささやきかけた。
彼のために。
そして、自分のために。
II主(セファ)=流され癖のイメージ。
しかし今作は、セファルを諭すようでいながら、シフの方に重きです。