起きてしまったことは、もう、どうしようもない。
過ぎてしまったことは、もう、どうしようもない。
逝ってしまった誰かは、もう、還ってこない。
――思わず、探してしまった。
そして、そんな自分を嫌悪した。
弔花
クロムで皆が集まっている村長の屋敷に入って、ビクトールの出迎えを受けたときに。思わず、その向こうに並ぶ見知った顔の中に、死んだと教えられた存在を。セファルは、探していた。本当に、リドリーが死んだのだと、認識できたのはこの瞬間だったのかもしれない。
優先順位。傲慢なようでいて、だが当然の、それは個人の中で有しているモノ。その中に当てはめるのなら、セファルにとって、ナナミへは自分の命とほぼ等しいほどの価値を抱いている。今は遠いジョウイにもそう言えるだろう。
だから、ナナミを、その願いを、優先した。選んだ。
それがひどい裏切り行為であるのだと、理解しながら。
けれども、実際はあと一歩の線上で、ティンランの皆に対して心から信頼しきることに恐怖、していた。
背を向けて、ナナミの側にいたから気づかれているのかは知らない。だが、シフォンがシュウに対して語ったことは、セファルはすべて聞いていた。
自分の甘えと、無責任さを、思い知った。
クロムに入ってからは落ち込む暇もないほど次から次へとめまぐるしくビクトールには振り回されて、しかし夜を迎えても、すんなりと眠れなかった。
眠れない。今目の前に横たわるこの事実に、セファルはとりあえず、与えられた部屋を出た。ナナミはもう寝ただろう、彷徨うように階段に近づくと、細長くゆらゆらと影を引く、オレンジの灯りが目に留まった。
「ほんっと容赦ねぇヤツ……」
中身は半分よりも下に残るだけのグラスを手にぶら下げ、憮然とビクトールはつぶやいた。かつてはリーダーと付き従ったことのある、今は悠々と酒をたしなむ少年へ。
「そんな人を鬼みたいに言わないでもらえるかな」
いささか不満げにシフォンは言い返すが、
「"鬼"軍師にあれだけ説教しといて、何を今更」
すかさず投げかけられたルックからの一言には、返す言葉を失った。
「あ〜……もう、フリックが余計なこと言うからだ」
そして険悪な視線の矛先は、最初に口を滑らせた者に移る。
「ぅ、俺に来るな……」
気まずげに目をそらすと、今はバンダナ以外、その目印とも言わんばかりの青を身につけていないフリックは誤魔化すようにグラスを口に付ける。が、
「覚悟だけはしといてよ」
さらりと付け加えられたシフォンのつぶやきに、危うく吹きそうになった。
「――っ、ちょっと待て?!」
「待たない」
しかしとりつく島もない。
「鬼以外の何者でもないね」
「うるさい」
むすっと機嫌を損ねたままに、シフォンはグラスの残りを一気にあおった。
「シフォンさん……八つ当たりしてどうするんですか……」
湯気の立つマグカップを両手の平で包んで厨房から出てきたフッチが、苦笑しながら助け船を出した。ルックはこういう場合、先ほどのように周りには我関せずだ。機嫌の悪くなったときには、グレミオがいない以上、頼れるのは彼ぐらいか。果たして、シフォンは子供じみた仏頂面で、新たに注いだグラスの中身に専念する。
「あ、酒……」
フッチの隣にいたサスケが、シフォンとルックの手元にある物を見て声を漏らす。先ほど通り抜けたときは気づかなかったのだが。
「オコサマはダメ」
しれっとルックは言い放つと、空になったグラスに七分ほどまで酒をそそぐ。
「うっせ。なんだよ、四つ上なだけだろ」
「負け犬の遠吠え」
その四つは追いつくこともないのだと。
永遠に埋まることもありえないのだと。
「だ〜ったく!」
体よくからかわれているサスケに周囲は失笑をこぼすが、
「サスケ君、上ではもう眠ってらっしゃいますから、もう少し控えめに」
この場にいる皆と同様に寝付けなかった二人の少年のために、厨房に火を入れてもらえるよう頼んでくれたクラウスがやんわりと注意を促した。これにはサスケもぐっと声を喉に詰まらせる。と。
「寝てくれりゃいいんだがなぁ……」
天井を目だけで見上げて、ぽつりともれたビクトールのつぶやきは、重なった沈黙の中でことのほか耳についた。
事実、この夜が明ければ、坑道を抜けて占拠されたティント市へ潜入し、ネクロードとの決着をつけるのだ。普通に考えれば早く眠りにつくべきなのだろうが、戦いの前に起こる独特の感情と共に、誤魔化しきれない陰が澱となっているのも、確かだった。
そして。ぎしっと板の軋む音に皆が振り向いた先には。
「……あの、ごめん。眠れなくて……」
タイミングがタイミングなだけに、気まずげに乾いた笑いをもらしてセファルは階段を降りてきた。
「セファル殿……。ミルクでも温めてもらいましょうか?」
腰を浮かせたクラウスが、問いかける。こちらのわがままにつきあってくれたこの屋敷の使用人は、まだ厨房にいてくれていた。
「え、っと……うん、お願い」
誰か起きているのかとのぞいてみれば、よりによって揃い踏みなのだからセファルの方も驚いている。皆同じく眠れないのかと、ちらりと視線を巡らした。
「寝付けないんだ?」
訊いてきたシフォンと、その隣のルックの前にある酒を見つけてセファルは一瞬目を見張るが、すぐに曖昧な微苦笑に戻ると、
「なんだか……落ち着かなくて」
「リドリーのことは、気にしすぎるなよ」
ビクトールの言葉に、繕われた笑みがすっと引っ込む。
「おまえが出てったことは、ここにいるヤツらと、後はシュウ、アップルもか、その辺りしか知っちゃいない。ナナミの書き置きも、見つけたのは俺。ま、シュウを引きずり出したのは、俺の連絡ってよりも、フッチやサスケも巻き込んでやらかされたこいつの根回しだがな」
言ってにやりと視線をシフォンに送った。当の仕掛け人は、素知らぬ風でグラスを傾けているが。
「だから。おまえも、何も言うな。おまえはティンランのリーダーなんだからな。わかるな?」
凍りついた表情で、糸を引かれた人形のように頷く。
頭では理解できたのだろうが、心が追いついていないらしい。と、
「だいたいね、頭で考えようってのが馬鹿なんだよ……ったく」
うんざりとしたように、ルックが冷めたつぶやきを吐いた。
「それは――」
声音の冷淡さに眉をひそめたクラウスが何か言いかけるが、それよりも早く、
「それ、当てつけ?」
シフォンが目をすがめて問いかける。むくれた仕草が普段の雰囲気とは違い、妙に年相応の印象を伴っていた。
「おまえと反対なのに結局同じことで悩んでンのな」
複雑なものを内包した笑いを添えて、フリックが言う。
「反対、ね……まぁ、そうかな」
セファルは、護ろうとして。その結果、喪った。
しかし、シフォンは――
「あンときは大変だったよなぁ……」
「はいはい。その節はどーもお手数かけました!」
下手につつくとやぶ蛇になるためか、なげやりにシフォンが言い捨てる。
「僕もね」
「ルックまで言うか」
このやりとりには、ビクトールは目を瞬いた。
「おまえは抜けてたな。竜騎士団領に行ったときだから」
好きこのんで思い出したい部類のことではなかったのだけれど。正軍師であるマッシュにはシフォンも一緒に当然すべてを話したが、
「いろいろと面倒あったがとりあえず持ち直したってことぐらいしか聞いてねぇな」
そう、ビクトールには簡単な話しかしなかった。
「僕もいませんね、それだと」
「君が起こした騒ぎの、直前だよ」
やれやれと言わんばかりにルックがため息をついた。さんざん振り回されたあの出来事を思い出したのだろう。フリックも苦笑を浮かべて、
「こいつ泣かすのにかなり苦労させられたっけなぁ……」
「なんだ、やっぱり泣かしたのかよ」
そのことはほとんど教えられていないビクトールが、意地の悪そうな笑みを浮かべてシフォンを見やる。
「うるさい」
呻くように一蹴するが、しかし照れは隠し切れていない。決まりは悪いが、あの時に差し出してくれた手がなければ、本当に自分がどうなっていたかなどということは、考えたくもなかった。
「え、泣かせたって……?」
話に置いていかれてしまい、小さな子供のようにセファルは首を傾げる。セファルの今まで見てきたシフォンという人物と、泣くという行為が、いまいち結びつかない。自然上目遣いになるが、目線を彼らに固定したままカップのミルクを口にした。
「自分を手酷く追い詰めて、潰れかけてたんだよ」
なぜか、は言わない。ここで言うことではないから。
今は。何を伝えよう?
「確かに責任はとらなきゃいけないけれどね。でも、何もかも、全部自分独りで背負い込む必要は、ないんだよ」
伏しがちの目で、セファルの方を向いてゆっくりとシフォンは言葉を綴る。
「戦争、なんだから、人が死ぬのは避けられない。真の紋章があったって、思い通りには出来ない、何もかも護れるワケじゃない。だからといって諦めろってことじゃないけれどさ」
言葉を探してか、一瞬途切れてシフォンの視線が逡巡する。不意にフリックと目があって、お互いに笑みをこぼした。
「同じことを繰り返さないで。出来る限りのことをやっていこう。嫌な後悔はしないように」
後悔に、囚われないように。
「もう……こんな後悔はしないように……?」
「慕われてるのは虚像なんかじゃないよ。みんな、君自身のことを必要としてるし、信じてるんだから」
そうでなくて、どうしてリドリーが命を賭してまで探す?
裏切ってしまったことすら、微笑んで許される?
考えるまでもなく、答えは最初から在った。
ただ、不器用で、伝わらなくて、ばらばらで。
簡単なのに、気づけなかった、ただそれだけ。
シフォンが話すのを終えてグラスに手を伸ばしたところで、セファルが頭を沈ませながら細く長く息を吐いた。そして、飲み込むように反動をつけて顔を上げる。
自分を苛むことは、容易いことだと。
自分を許すことは、難しいことだと。
「もう……大丈夫だな?」
ずっと黙っていたビクトールが、確認するように静かに声をかけた。
「はい。ありがとうございます。……僕、もう寝ますね」
空になったカップを残し、ぺこりと小さく一礼してからセファルは階上へ消えた。残していった笑みからは、硬さも消えていて。
「ほら、おまえらもそろそろ寝ちまえよ」
フッチとサスケもさすがにあくびをもらし、見つけたフリックに促されるまま場を抜けていく。
そして、すっかり彼らの足音も遠ざかってから。
「……どんな気分?」
「照れくさいもんだな……」
不意にシフォンがフリックに問いかけ、フリックは苦笑いを浮かべて答えた。
「どうかしましたか?」
話の筋が見えず、不思議そうに訊ねてきたクラウスに、
「昔の話、かな」
「ああ、そういうことね」
ルックが軽く笑うと、シフォンはにこやかにそういうこと、と返した。
――おまえは決して、人の死を望んではいない。
――それはちゃんとみんなが知ってる。
言葉とは、本当に魔法だと思った。あの時。
手袋をはめた右手に目を落とし、緩く握りしめる。
「さっきのは、ほとんど受け売りってことだよ」
怪訝な色を浮かべるビクトールとクラウスに、シフォンは鮮やかに微笑んでみせた。
なんとも説教くさいお話その2。前作[岐路]の続きです。弔花といっても花なんて何処にもございませんが。
そしてちょっと困ったことに[永久の星影]の改稿版[夜明けの星]では会話の流れとフリックの台詞がちょっと変わっています(笑)