道、交わりて




 書類仕事が一区切りついて、ふと時計を見上げると昼下がりだった。
 自分の時間と世界の時間の見事なズレは、妹弟子らにでも見つかればまた不摂生だと口を酸っぱくして言われてしまいそうだ。ここ最近も確かに多忙だったが、見つかりやすい食事ぐらいはここまで時間を外していなかった。普段は騒がしいその足音でもって時間を知らせる存在が今は城を空けているせいだろうか。
 そこまで思って、ふと、送り出した側である彼は、予定ではセファルらがそろそろ戻ってくるはずだと思い出した。
 期限は今日の、陽が沈むまで。
 シュウが目を向けた空で、太陽は中天から半ばほど下っている。終わりに差し掛かっているとはいえ夏であるためか、まだ日没には時間がある。定時連絡によると妙な騒ぎに巻き込まれ、どういう経緯かグレッグミンスターにまで出かけてしまっているらしいが、瞬きの手鏡もあるのだから約束の時間までには戻ってくるだろう。
 ついでに、軍事演習の総轄を押しつけた元傭兵の二人も、そろそろ引き上げてきているはずだ。ティントを除く都市同盟各市国の軍、元ハイランドの軍、そしてトランからの義勇軍。まとめる側からすれば素晴らしく頭痛の種となるほどの混成具合、さらに軍それぞれの癖もある。ルカを打った先の一戦で、心理的な結束は旧敵同士とはいえどこでもほぼ問題はなくなっただろう。それぞれの特長を見極めた上での、混成を強みにした戦術向けの補強に進む。副軍師二人にも仕事の合間を縫って見に行かせているが、偏った視点を持たない、だが様々な形に場慣れしている二人の目からのも十分有用と思える。解放戦争時にも主要な位置を占めていた、すなわち師マッシュの戦術によって動く戦闘にも接していたこともある。
 そう、そして多くはなかろうがレオン・シルバーバーグのそれもだ。これから正軍師であるシュウが相対するのは、彼の頭脳になる。何をしても不足ではないかと、思わないと言えば嘘になろう。
 と。軽く控えめなノックの音がする。
「あ、やっぱり。今までこもってましたね?」
 応えると、扉を開けた案の定アップルが眉をひそめた。彼女は今日は演習の方へ出かけていたから、やはり戻ってきているのだろう。
「誰も知らせてくれんからな。それより、そっちはどうだった」
「ええ……だいぶ、熱も冷めて落ち着いたようでしたよ」
 しばし逡巡すると、アップルは微笑んでそんなことを言う。
「つい先ほどバナーの方から、もうすぐ戻ると。なのでそろそろじゃないですか? あ、あとこれ今日の報告書です。二人のも、ついでにと頼まれたんで」
 腕に抱いていた書類三人分を提出する。この分では二人は酒場へ直行なのだろう。
「あら?」
 不意にアップルが、窓の外、つまりテラスでの、いつもと違うざわめきに振り向く。アップルが窓辺に近づいて見下ろし――動きを止めた。
「どうした?」
 怪訝に思ったシュウも同じく歩み寄り、外をのぞく。
「……セファル殿が帰られたのか。にしては、いささか様子が変だな」
 大半の者に、おそらくセファルがそこを通り抜けたのだろうとわかる、出迎えの名残が見て取れた。だが極一部の者が、どうも落ち着きない。
「まさか――っ」
 アップルは己のつぶやきに我に返ったのか、弾かれたように部屋を飛び出した。すっかり状況に置いてけぼりを食らったシュウは、かなり混乱していたらしい妹の背を見送ってから、一度だけ目線を窓の外に向ける。テラスから城内に大急ぎで駆け込む、シーナの目立つ姿が視界の端をかすめた。




「きっとみんな驚きますよ!」
 喧噪満たされた酒場に、耳慣れた声が飛び込んできた。声の出所はおそらく、酒場に隣接している物資運搬用路だろう。
 正軍師の思惑などつゆ知らず、何かしらこき使われる身をどうしようもなく悟ったような諦念でもって受け入れて、とりあえずは仕事を終えて軽く酒を引っかけていた、周囲の呼ぶところなら名"腐れ縁"の二人が、何も難しいことはなく、聞こえた声からセファルの帰還を察する。
 しかし、妙などよめきをひきつれているようだ。誰か一行の中に新顔がいるのだろう。しかし、それにしては動揺が交じっている――解放軍で一緒だった誰かがまた飛び込んできたか、とさすがに慣れたこととしてビクトールはジョッキを小さく傾ける。またなんで生存報告を寄越さなかったんだとか、言われるだろうなとも、脳裏をよぎった。
「先にこっち来てください、きっとこの時間だったらいると思いますから」
 今度はおそらくも何も扉の前だ。おそらく予想通りを迎えるために、フリックとビクトールは揃って視線を扉の方へ向けた。
「ビクトールさん、フリックさん、ただいま〜!」
 セファルとナナミが綺麗に重なった、明るい声を酒場に響かせた。二人は扉を開け放った途端、目的の方向を定めている。さすがに何かあるとき以外は定位置の彼らが相手だからだ。わざわざ運搬路側の入り口を使うのも、たどり着くまでの人込みを避けるためである。
 種類のにおいの染みついた場にはいささか似つかわしくないその姉弟の空気は、対象以外の者たちにも微笑ましいものとして和みを誘っている。
「なんだ、今帰ってきたのか?」
 ぐでぇっと椅子にもたれかかったままビクトールがひらひらと手を振った。フリックもおかえりと笑いかける。
「うん、ただいま。今帰ったトコだよ。それで、ね」
 ナナミが意味ありげに、セファルに目配せする。
「なんだ? そういえばさっきから表が騒がしいみたいだが……」
 問われると、待ってましたとばかりに芝居がかった仕草で、にこにこと満面に笑みを浮かべつつセファルとナナミがさっと道を開けた。と。
「ああ、ホントだ。ちゃんと二人とも生きてる」
 さらりとそんなことをつぶやきながら、酒場に足を踏み入れやわらかく微笑んだ少年に――二人はそのままぴしりと凍りついた。酒を口にしているときであったら吹いただろうことは間違いない。
 その隣で一緒に酒場の中へ入ってきたルックは呆れたように鼻で笑い、そのさらに後ろからのぞいているフッチとサスケがくつくつと今にも吹き出しそうな笑いを忍ばせる。
 しかし子供たちの予想を裏切って、氷を打ち砕いたのは不意打ちだった。
「おまえ、やっぱり、シフォンじゃんか!!」
 開いたままの扉から、テラスで偶然にも帰還を見かけたシーナが飛び込んできたのだ。そしてその叫びが、凍りついた二人にも現実を認識させる。
「シーナ。久しぶり」
「久し、ぶりってなぁ……」
 肩でぜいぜいと大きく息をしながら、そのあまりにも普通の態度にがくりとシーナは上体を折る。大慌てで走ってきた自分が道化なのだろうか。
「シフォン!? ほんっとうにシフォンなのかぁ!!?」
 だんっとテーブルに両腕をつき、派手にフリックが立ち上がる。ビクトールも硬直から立ち直りはしたが、目は見開いたままだ。
「よ。よぉ……久しぶりだな……」
「本当に僕。本物。久しぶりだね、どっちも元気そうでなにより」
 驚愕で真っ白にでもなったか、額に手を当て、いったん考え込むように止まってから、ぎこちない動きでフリックは髪をかき上げる。狼狽えがありありとわかる挙動だ。それからやっと、口を開いた。
「……なんでまた、一緒なんだ?」
「会ったから、だよ」
 なんとも間の抜けた質問に、ルックから返されたのは実に端的な答えだった。
「バナーで会ったんです。それでちょっといろいろあって、一緒に来てもらったんです」
 フォローしたかったのか、その後に言葉は増えたが内容としてはほぼ変化のないセファルのセリフが続く。意味がない。と、
「セファル……シュウんトコ行っとかねぇと、あとでどやされるぞ」
 どっさりと疲労が乗ったような声音で、ビクトールがささやいた。
「あ、やばい」
「さっさとすませちゃいなよ、お説教で時間潰れたらもったいないじゃない」
 ナナミと素早くささやきかわすと、ちょっとすみませんと残してセファルが踵を返し、開きっぱなしの扉から出ようとする。が、
「きゃっ、――て、セファルさん」
 現れた人影と危うく正面衝突しかかり、よろめいた相手の腕を咄嗟にセファルがとった。
「あ、ごめん」
「おやまぁ、アップルちゃんてばそんな慌ててどーしたのさ?」
 へらりと下から笑いかけるシーナに、アップルがひどく怪訝な顔をする。
「あなたこそ、そんなトコになんで座り込んでるのよ?」
 おそらく飛び込んできた理由も、そして今はいきなりでそのことを忘れているなとシーナは察すると、何も言わず、ただその長い指で一点を指差す。
「シーナぁ、人は指差すもんじゃないよ」
「――っ!!」
 すかさず飛んできたのんきな一言に、シーナはどうしようもなく苦笑に似たものを浮かべるが、指された先を見て、そして声を聞いて、アップルは完全に硬直した。わかってて飛び込んできたんだろうにと、シーナがその様に苦笑するほどに。
 周囲ではしきりに、状況の見えぬ者は茫としているシフォンの素性を知っている者から聞きだそうとしている。たとえ解放軍主その名を知っていても、すぐに目前の人物と結びつけれることはないだろうから、当然だ。
 なにはともあれ騒動の中心人物はうっすらと微笑み、大人しく輪の中にいた。それは同時に、輪の外から己の姿が捉えられにくいことを示しているが。
 と。
「とりあえず、そこに集まられては通行の邪魔になると思いますが」
 背後から投げられた声に、扉前の子供らがアップルを残してざっと横にずれる。同時にセファルがびくりと肩をふるわしてゆっくりと振り返り、
「、驚かさないでよシュウさん…。あ、ただいま」
「おかえりなさいませ。いっこうに戻って来られないので何事かと思って見に来ましたが…」
 そこで言葉を切ると、ぽんとシュウはアップルの肩を叩く。
「って、あぁっシュウ兄さんっ!?」
「いちいち叫ばなくてもいい……」
 しっかりと動揺を引きずっているアップルの姿に、周りに笑いがこぼれる。
「これはいったいどういうことですか? それに」
 実際のところ、わざわざ出向いてきた理由は部屋でのアップルの慌てぶりと、その直後に、口で言っても信じられないだろうからとにかく行ってみればわかるとしか答えてくれなかった、帰還報告に来たマイクロトフとカミュー二人のせいだった。
 しかし、いざ来てみればこの騒ぎだ。
 見慣れない少年が輪の中心であるとはすぐに知れる。周りの面子と様子からして、三年前の解放軍絡みの縁故であるとも容易に想像ついた。
「シフォン・マクドールです。あなたがティンランの正軍師ですか?」
 先に口火を切ったのはシフォンの方だった。一見穏やかそうながらもどこか底知れぬ微笑みに、ぎょっとフリックとビクトールが反射的に身を引く。
「っ、解放軍の――。お初にお目にかかります。仰られるとおり、私がこの軍で正軍師の役を務めております、シュウともうします」
 シュウがまともに目を見張るところなど滅多に見られないとばかりに、セファルやナナミがこっそりとのぞき込むように目だけでその顔をうかがっていたが、深く一礼して――おそらく彼に付き従ったシュウの師マッシュに対してのも含まれるのだろうこの言葉に、
「あ、シュウさん。シフォンさんは別に軍に属してくれるとかそういうんじゃないよ。僕の御客様なんだから」
 誤解のないようにとセファルが釘を差す。
 友人として。いざ現実と差し向かって、そういった線引きは現状ではあまり意味をなさないような、それでも大切なことだったから。
「そうだ。シフォンさん、上に行きましょう。食堂があるんです、そこなら広いですから♪」
 ふと、周囲の視線ががらりと変わったことを敏感に察し、しかし顔には欠片も浮かべずにセファルがあっけらかんと言い放った。
「そうだな」
 ここではいささか狭い上に、話しづらい。騒ぎもこちらのせいで静まってはいるが、それはそれで居心地よいとは言えなかった。
「ちょうど夕食時も近いし、他のみんなも来るかもしれないし」
 相づちを打ってきたビクトールに、セファルが重ねる。
「他のみんな、か……」
 シフォンの何気ないそのつぶやき。
 それを耳ざとく聞きつけていたシーナが後ろに引っ込んでいたフッチとサスケを捕まえて、何事か小声でささやきかわす。
「……セファル殿、あまり羽目を外されないように」
 一方で、言外に今日は大目に見る、つまり限度を超えない程度に自由にしていいとシュウにため息まじりに言われて、セファルはぱっと顔を輝かせた。
「わかってるよ。埋め合わせはちゃんと頑張るから」
 言葉だけならちぐはぐにしか聞こえないそんなやりとりに、ナナミだけが小首を傾げた。




「石版じゃないか。懐かしいな」
 御機嫌のセファルに引きずられるままホールを抜けようとしたシフォンが、中二階へ上がる階段に挟まれた空間に鎮座する石版へ、手を伸ばした。
「ルックはいつもここにいるんだよね」
 セファルの言葉に、くすりとシフォンが笑みをこぼす。
「なに、また突っ立ってるの?」
「今回の定位置だな」
「……うるさい」
 軽く言い合って、不意に気づく。
「ん? フッチとサスケと、あとシーナか。どこ行ったんだ?」
 確かめるようにフリックがこの御一行に視線を巡らすと、やはり一緒になって軽口を叩く面子が、いつのまにやら欠けている。
 シュウは仕事に戻り、アップルもまだいろいろと整理し切れていないのだろう、謝りながら同席は辞退していった。なのでこれから増える分はどうなるか知れないが、三年前でもシフォンと親しかった枠に含まれている二人が消える理由は思いつかない。
「なんか企んでるね……」
「シーナが一緒だからな……」
 シフォンとルックの間でぽつぽつと交わされる言葉に、フリックとビクトールが苦い笑みを浮かべる。
「……あ、ホントにシフォンさんだ」
 と、ひょっこりホールに顔をのぞかせたテンプルトンが声を響かせた。
「や、久しぶり。ところで、誰に聞いたの?」
「お久しぶりです。シーナさんと……あとフッチとサスケからですけど」
 図書館から出てきたところで聞かされ、そっちで驚くだけ驚いてきた。
 しかし、なんでそんなことを訊くんだろうと首を傾げるテンプルトンに、シフォンは重ねて、
「三人、どこ行った?」
「なんか道場の方に行ってましたけど」
 本拠内のことは知らないシフォンが、答えを求めて後ろを振り返る。
「……ああ」
「なるほどな」
「あいつら……」
 ルックとビクトール、一瞬遅れてフリックが、合点のいったようにつぶやきをこぼした。
「……なんなんです、いったい?」
 たまらずセファルが問いかけを口にする。どうにも知らないことが多すぎるから、思いっきり置いてけぼりな気分だ。ナナミも同じだろう。
「たぶん――」
「シフォンさぁん! お久しぶり〜!!」
 兵舎と本館ホールをつなぐ廊下の向こうで、テンガアールがぶんぶん盛大に腕を振りながら思いっきり声を投げてきた。隣でヒックスが苦笑を滲ませている。あの関係は変わってないのだろうと、シフォンが一目見てわかる光景だ。
 それには呆れ笑いに近い苦笑をシフォンが浮かべようとするが、テンガアールが振ってこないもう片手で誰かを引っ張り連れてきているのを認めて、正確にはそれが誰かを認めて、小さく目を見張った。
「ちょ、っちょっと…?!」
 端から見ればあわれなほどに彼女は狼狽えているらしかった。フッチにテンガアールに捕まっているのとは逆の手を引かれ、シーナに押され、サスケは呆然とついてきているが。
「カスミ。久しぶりだね」
 どんっと押し出され解放された先は、シフォンのすぐ前。
「え。し、――シフォン様っ!!? お久しぶり、ですっ!!」
 感情の動きを周囲に悟られないであるべき忍びだが、今のカスミにそうは言ってられない。息をのみ口元を両手で押さえたまま、彼女はそのまま動きを忘れる。セファルやナナミ、そしてサスケなどは、この状態に驚きを隠せないでいるが、その一方で、淡い好意の存在を知る昔馴染みはほとんどでばがめにも等しいだろう。
 と、何かに気づいて、シフォンが一歩カスミに近づく。そして、
「あぁ。同じぐらいになったんだね、背」
 そう言って、ふわりと笑った。
 三年前は、少しだけ見上げて見下ろして、いたけれど。
「……はい」
 カスミは、うっすらと頬を赤らめながらも、綺麗に微笑んだ。
 今は、まっすぐ向いた先に、その深い黒が存在している。




 出会うこと。
 再会すること。
 昔とのつながり。
 そこに過去を見る。
 そこに現在を知る。
 そこに未来を祈る。






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 バナー編その後、坊っちゃん同盟本拠地に来訪。とりあえず驚く人たちと最後が書きたかっただけです。あと、バナー編プロローグにおけるシュウさんのフォロー。
 この続き[道、重なりて]は対話短編集にしてみようと思い立ち、さらには一周年企画にしてしまったのでした。