奇跡。
 そう、これは奇跡と呼ぶに値する、出来事。
 死んだはずの人。
 生きている、人。
 夢のような現実。
 在る其は、奇跡。
 そう、潰えた命が、再び微笑む、これは。




 ――最初で、最後の。




奇蹟の行方




「ぼっちゃぁぁん………」
 緩やかな風の中に、呼び声が聞こえた。
 不意に姿の見えなくなった自分を探してるんだろうと、楽に想像がつく。
 ただ。ここが見つけられることはないだろうな、と。
 ぼんやりと、それだけが脳裏に浮かんだ。
 シフォンはその場に寝ころぶと、遠く空を仰ぐ。




 不意に翳った陽射しに、シフォンは目線だけを頭上に向けた。
 見上げた影が、空よりも湖よりも青い。
「……あぁ…フリックかぁ…」
「珍しいな。リーダー」
 素っ気なくそれだけを言うと、フリックはシフォンの隣までやってきて、腰を下ろした。
「何が?」
「手袋」
 ついっと顎で示された右手の甲には、黒くソウルイーターの姿が刻まれている。いつもは外さない手袋の下に隠れている、それ。
「……ちょっと、ね」
 少しの沈黙を前置きしてから、曖昧な返事をシフォンは返した。
「探してたぞ、あいつ。大騒ぎしながら」
「さっき聞こえた。――あれ、僕、フリックにここ教えた覚えないんだけど」
 反動を軽くつけ一気に上体を起こすと、怪訝に眉をひそめながらうかがうようにフリックの顔をのぞき込む。案の定、視線をシフォンの漆黒から逃げて彷徨わせると、誤魔化しているつもりなのだろうがしっかりと口の端を引きつらせながら彼は答えた。
「聞いたから」
「そ。わかった、あとで問い詰める」
「待てぉい!?」
 さらりと返されたとんでもない答えに、がばっとフリックは振り向くと、
「想像ついてるから。ビクトールか……君の同郷の二人か。他は絶対に口を滑らさないと思うしさ」
 にこやかに微笑むシフォンに冷や汗が伝うのを感じた。がしかし。
「さらに言えば、ただの冗談だから」
 この言い草には一瞬後、脱力しきったようにがくりとうなだれる。
「おまえなぁ……さっさと戻ってやれよ、必死で探してるってのに」
 欠け落ちてしまった、取り返せない時間。
 昨夜は一晩中、その間にあったことをグレミオには問いただされた。クレオやパーンが主だったが、途中から補足要員とばかりに有無を言わせずフリックもビクトールも駆り出され、しかしルックにはさっさと逃げられ。
「……ん――」
 今一つ煮え切らない生返事を返され、フリックが目を眇<すが>める。少しばかり思案するように、青いバンダナからこぼれた前髪をかき上げ――ゆっくりと口を開いた。
「俺はあいつらと違っておまえを溺愛してねぇし。他の奴らと違って崇拝もしてないしな」
 不意の言葉にシフォンはきょとりと目を瞬かせるが、
「崇拝ってなんだよ、崇拝って……」
 小さく吹き出した。
「実際いるだろ、それじみたヤツも」
 特に中期以降に加わった者の中には、年若き指導者に対してまさしく崇拝を抱いているように見えるのもいる。確かに、人々にそうして夢を見させるだけの器はあるだろう。
「う〜ん……完璧に否定しきれるだけの材料がないからなぁ……まぁそれはともかく。じゃ、フリックは何なんだよ?」
 少し意地悪く笑みを浮かべ、シフォンが問い返す。と、
「言ったろ。溺愛もしてなきゃ崇拝もしてないって」
 笑いながら繰り返された言葉に、シフォンは考え込むように視線を落とし、すぐに苦笑をにじませた。
「そうだね……そういう約束だった」
 この場所は、ひっそりと隠れた"逃げ場"で。
「言えないことなんだろ。あいつらには」
 家族だから。
 家族だから、言えない。
「まぁね。……あ、やっぱフリックにも言いにくい」
「なんだよ、それは」
 呆れて肩をこかすフリックから目を外し、シフォンは遠く湖面を見やった。
「言葉そのままの意味だよ」
 ソウルイーターの姿を自分に向けて。
 右腕をまっすぐと、湖の青へと伸ばして。
「不公平かもしれない、って。思ったんだ」
 魂喰い。
 その二つ名のままに、人の死を招く呪われた紋章と云われる――
「それ、持ったことか?」
「まさか……僕はただ……グレミオが――」
 力を失った右腕が、とさりと膝の上に落ちた。
 言葉になりきらない唇の動きに、しかしシフォンは首を振って。
「この戦争で、大勢の人が死んでる」
 死んだ人は、生き返るはずがない。
 それが本来の、理。
 けれども。
「誰だって、喪えば願うだろう」
 誰であっても、祈るだろう。
 戻ってきて。と。
 還ってきて。と。
 大切な人であればあるほどに。
 たとえ――
 それは無理だと。
 そんなことはありえないと。
 そう、わかっていても。
「けれど、奇跡は、一度だけなんだ」
 一度きり。
 たった一度の、奇跡、なのだ。
「……そうだな。おまえからしても、亡くしたのはあいつだけじゃないな。あのテッドってヤツも。親父さんも。……それに」
「オデッサさん」
 どうしてかフリックがためらった刹那、シフォンが言葉を継いだ。
「ああ……オデッサだ。俺からすれば、自分自身と同じぐらいに大切な存在だ」
 奇跡を享受する彼らに、羨望を覚えなかったわけがない。
 同じくソウルイーターに喰らわれただろう彼女は、星のもとに在るかというだけの差で、今もないままで。
「勝手だろ。欲張り、なんだよな」
 不公平だと、思ってしまう。
 自分が。グレミオが。
 還ってきてと願うのは。己だけではなくて。
 還ってきてと願うのは。彼だけでもなくて。
 叶うことのない多くの願いが、とても切なかった。
「――ンなこと言いやがって。本気で欲張りだぞ……」
 呆れ返った半眼で見下ろされ、シフォンはむすっとふくれる。欲張りに本気も嘘もあるのか。
「なんだよ、それ」
 眉をひそめたその目前に、フリックはぴっと指を突きつけ、
「欲張りだろーが。"だったら奇跡なんかなかったらよかった"って、言えるワケじゃあるまいし……」
 とそこで、言葉を探すようにフリックの指先が彼の目線と共に空を彷徨う。
「あ〜、いや。なんかずれたな。他がどうとかよりも、嬉しいことは嬉しいでいいだろ。こんなトコで愚痴ってる場合かよ」
 すっと空き地の上を横切る渡り廊下へ目を向けて。
「なんだかんだ言ったところで、もう起きちまったことだ。それを無下にするんだったら、それこそ許さねぇぞ」
 だから。
 今、在るべき場所は、ここじゃない。
「さっさと――行っちまえ」
 フリックは追い払うように手を振った。
「……そっか。とりあえず、難しいことはやめにするよ」
 だから。
 ――ありがとう。




 何を思う? たった一つの奇跡に。
 奇跡、というものは不公平なものだ。
 不公平故に、奇跡なのだから。
 ならば――




「上出来じゃねぇか、あれっだけ当たり散らしてたヤツと同一人物とは思えねぇな」
 にやにやと含んだ笑いを交えた声を投げられ、フリックはその場に座ったまま露骨に眉根を寄せた。
「うるさいな」
 ぎっと振り返った先は、この空き地への道からも、そしてここからも死角になる壁の、すぐそばだった。正確には、その影からのぞいていた人物へ。
「そっちからけしかけといて……」
 すべての動きが見えていたら、彼らが先回りしたと言えば妥当だろうか。
「だいたい。あれはもう前のことだ」
 会えると思った先で突然聞かされた、オデッサの死。
 そのまま、彼女から遺志を託されたシフォンに八つ当たりして。
 そういえばシフォンをリーダーと初めて呼んだのは、ミルイヒを――グレミオの仇を、彼が討たないと言い渡したときだったか。
「羨ましくない、わけがない。けど、そんなことしたって、オデッサは帰ってこない。だから、あいつにうだうだ悩まれると正直――鬱陶しいんだ」
 贅沢な――あれは悩みではなく、ただの戸惑いだ。
「おーおー、言うねぇ」
 茶化すように言ってきたビクトールを、フリックは半眼で睨んだ。
「ぁんだよ……」
「いーや。おまえは素でそうだからなぁ、と思っただけだって」
 ワケがわからずに眉を怪訝にひそめ、はぁ?と聞き返すフリックに、ビクトールは軽く笑う。
 戦争の――しかも優位に立った側の、熱に浮かされたような歓喜――それはまるで狂気のごとく。軍を統べる者に求められる、それは揺るぎない輝き。故にともすれば忘れられてしまう、この解放軍を率いる者が人間である現実を。
「しっかし、俺がいない間に劇的な変化があったような気がすんだがなぁ?」
 誰もが曖昧に笑み、わかりきった軍としての事実しか口にしない、ビクトールにとっては空白の時間。その中で、様々なことが一つの転機を迎えたことだけは、疑いようもなかった。
「あいつも、おまえに愚痴ってたしよ……」
 終着でない逃げ場は回り道であり、通るべき道で。
「何言ってんだ」
 ひどく呆れたように、フリックは鼻で笑って返した。当然のことだと、言わんばかりに。
「子供はな、ちょっとぐらいワガママ言っても許されんだよ」
 一瞬唖然としたビクトールは、すぐに弾かれたように笑い出した。
 壊れそうなありのままも、自然に受けとめられる。
 それは、"優しさ"だろう?




 なくしたのが、ひとつだけじゃないから。
 叶わなかったいくつもの夢の、残滓を思うと。
 たったひとつの奇蹟に、心が痛くて軋<きし>んでしまう。
 けれど。
 唯一の奇蹟によって、輝きを取り戻した夢のかけら。
 現在<いま>を照らして、未来<あす>を見せてくれるでしょうか――?






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 あの「奇跡」をどう捉えるか。甘っちょろい私には、ここまでです。
 なんとなく消化不良&言葉足らず気味ですが、書き出したきっかけは「結局、私/シフォンにとってのフリックって何?」と、[道、交わりて]執筆時に思ったことでした。で、こんなの出来ました。「近すぎず、けど遠すぎず」。そんな感じでしょうか? 近所に住んでる年離れた兄ちゃんみたいなのかな?
 「溺愛も崇拝もしてない」は私的ヒットです、チャットでぽろっと……その節はお世話になりました。