炎に包まれゆく砦から、外へ飛び出した刹那。
 すぐそばから放たれる熱に煽られ揺れ惑う視界の中に、シフォンはそれを見た。
 黒い岩を流れ、濡らしていく、鮮血の赤と。
 ――その中心に倒れ伏しているのは紛れもなくマッシュで。
 赤い雫がすべり、したたっていく、一振りの懐剣と。
 ――それを手にし立っているのは紛れもなくサンチェスで。
 すぐには、理解できなかった。
 目前の光景を、信じられなかった。
 怒りと悲しみに端麗な顔を歪めたフリックの叫びが聞こえる。
 気が遠くなるような、眩暈がした。




君立つ世界




 階下の喧噪などまるで遠い世界かのように、静かだった。
 シャサラザード砦を落としたことと、ついに訪れる帝都決戦を前に、軍内は興奮状態にある。宴もおそらく夜半まで続くだろう。
 それでも、ここは、フェイロンの最上階は、静かだった。
 ただ本当に静かなだけなのか、ただ音を近くする余裕もないだけのか、誰もいなくてただ独りで。
 シフォンが座り込んでいる位置からは正面より少し右にそれた辺りに、ぴったりと閉ざされた扉がある。
「なんだ。やっぱり、まだいる」
 騒がしいのは嫌いだと常日頃から言っている少年が、呆れたように見下ろした。大方、ルックの定位置である、約束の石版を安置している部屋の辺りも巻き込まれかけたので逃げてきたのだろう。
「何も、出来ない、からね」
 大規模な一戦の事後処理や下の面倒を見るために入れ替わり立ち替わりしている幹部たちとは違い、彼はずっと待ち続けていた。
 刺されたマッシュの治療がこの部屋で始まってから、ずっと。
「眠そうだけど」
 脈絡なく吐かれた一言に、鬱陶しそうにルックが整った顔を歪める。
「うるさいな」
「機嫌悪すぎ」
 揃え抱えた膝に顎を埋め、視線も表情も固定したまま、ただ唇だけを微かに震えさせて、シフォンはつぶやいた。
「当たり前だよ」
 同じく座り込んだルックが右手甲を一瞥して、壁に身体を預ける。息をつけば、気怠さがなおのこと重い。
 あの場のすぐ近くにいて、治癒が使えて、最も大きな魔力を持っていたから。それでも、かなり深い傷だったのか、太い血管を傷つけたのか、内臓に達したのか。みるみる溢れてくる血を、少しでもとどめることで限度だった。気に入らないと言えば、外れてはいないだろう。
 ――取り留めのない思考さえ、疲労感を覚える。
 そのまま、彼もその場に居座った。今この水上砦の中で、一番静かで、最も誰かに邪魔される可能性が低いのは、シフォンの近くだから。
 ときどき、気のせいだとも思うほどのごく微かな物音が、分厚い扉越しに聞こえる気がした。
 室内にいるのはリュウカンと、マッシュの教え子だったアップルという――いつもいつも嫌悪にも似たきつい眼差しをシフォンへ向ける少女。
 あなたを認めないや、あなたが先生を巻き込まなければと、いつもいつも繰り返していた彼女は、今にも泣き出しそうな顔で、もちろん今回も言い捨てた。
 そして、いつもいつも周りが苦い顔をする。当事者であるシフォンとマッシュは、曖昧に苦笑するだけで何も言い返しはしない。
「何故、おまえは何も言い返さない?」
 長い間誰も訊ねなかったそれをついに口にしたのは、ビクトールだった。
 この廊下に目をやるなり、意外だがある意味納得のいく先客の姿に驚いた彼は、ここまでは喧噪はほとんど届いていないことを確かめに来たようだった。
「前から、気になっちゃいたんだが」
 そろそろ戻ると口にした後の、去り際に訊ねるのが、気まずいことにでもなったら逃げられるようにだろうか。
「あちらさんだってそうだ。おまえが一方的に巻き込んだんじゃなくて、おまえにリーダーになれと言ったのは他ならぬあの軍師殿だぜ?」
 だから、解せない。納得いかない。あんな、彼女の暴言を半ば認めてでもいるような真似を続けることが。
「そうだね。僕らは――共犯者、かな」
 少し目を細め、出来損ないの微笑と共に、シフォンが細い声で呟いた。
「何のだ」
 的を得ないその返事に、問いかけた側が眉をひそめる。
「お互い様だし。引っぱり出したのも」
 明確な答えは語られないまま、夜を迎え、張り詰めた静寂は破られないままにその日を終えた。




 目を閉じても、色は失われないし。
 耳を塞いでも、音は消えやしない。




 三日目の、それは、朝。
 落ち着かない様子で、向けてくるいっそう刺々しい視線は相変わらずの少女に、こっそりとシフォンは苦笑しながら、マッシュが横たわる寝台の、脇に置かれた椅子に腰を下ろした。
「話なんかしても、大丈夫なの」
「……はい……、多少、血が足りないようで、いい気分ではありませんが」
 いつも以上にうっすらとしか開かれていない彼の目を見て、シフォンは目を眇めた。
「それで」
「あいつはマッシュの言ったように今まで通りにさせてるよ、スパイは処分したって発表だけはしたけど。軍の再編成もレパントや――そうそう、特にレオンをこき使ってるから順調。士気の方も、さすがに動揺は出たけど決戦直前だし、帝国は卑劣だとか大仰にさ、なんか尾ひれも付いてってるらしいけど、みんなに触れ回って怒りの方に扇動してる奴がいるらしいから、細々と心配する必要はないよ」
 指を一本一本折りながら、ゆっくりとした口調でシフォンは問われそうなことを先読みして近況を述べていく。
「さすがですね」
「まぁ、このぐらいはね」
 淡く笑みに似たものを浮かべたシフォンは、しかし、
「それでは、私もあまりのんびりとはしていられませんね」
 続けて言ったマッシュの言葉に、少し、年相応に子供じみた仕草で眉を細め苦い顔をした。
「莫迦、言うな」
 部屋を満たす薬品のにおいに紛れている、けれど微かに鼻につく、血臭が。
「そんなことを言えるほど、浅くないだろう」
 断言して、シフォンは側にいるリュウカンを振り返る。案の定、渋い表情がたくわえられた白いひげの奥からうかがえた。
「ええ……さすがに浅くはありませんが、そんなに深刻な顔をなさるほどではありません」
 アップルが膝の上で重ねていた手を固く固く握り、身を強張らせたまま顔を背ける。露骨さは、正直さの裏返しだ。
 だから、シフォンは目を細めて、言った。
「嘘つき」
 うつむいて、表情の隠れたまま、呟くように、だがはっきりとした声で、
「あの傷はかなり酷いだろう。僕を騙そうとしたって駄目だからな。それぐらい――わかる」
 戦場に立って、多くの死を与えて、多くの死を見て、いるから。
「全部、言え。僕にまで隠すな。……そうでないと、許さないから」
 シフォンはきっぱりと言い切った。
 部屋の隅で完全に無関係を決め込んでいる、軍屈指の紋章使いにマッシュはちらりと目を向けて、苦笑をにじませた。
 欺くべき味方は、仕える主ではなく。
「……わかりました。あなたまで、欺こうとしてしまったこと、お詫びします」
 そして、リュウカンの方を見やり、小さく頷いてみせる。
「私からお話しいたしましょう……」
 前に進み出た神医に頷いて、
「僕の部屋で聞くよ。ここに長居するわけにもいかないしね。……マッシュ、とにかく無理することは、絶対に許さないから」
 立ち上がるとそう続けて、若き軍主は緩やかに微笑んだ。
「マッシュは、僕の軍師なんだからさ」
 そっと扉が閉じられる音。
 気配が三つ去って。
「不満、ですか、アップル?」
 そっと、押し黙ったままの教え子に問いかけた。
「……はい。どうして、そこまでするんですか。なんで……っ」
 先生はいつも、あんなにも、戦争を、軍師として采配をふるうことを、嫌っていたではありませんか。
「あの人が……先生を巻き込まなければ……!」
 こんなことにはならなかったのに。
「……そうですか……」
 また、マッシュは淋しげに苦笑するだけだった。




 鮮血と肉塊、生理的に不快な様は、目を覆わんばかりの広まりで。
 怒号と剣戟、耳障りな不快な音は、耳を覆わんばかりの大きさで。




 帝都城外での勝敗は決した。
 本陣に残って、マッシュの分までそれこそ数えきれないほどの命令を、そのよく通る声でシフォンはずっとこなしていたが、
「僕も出る」
 門が破られ街を囲む城壁の中に戦場は移っていっている。じきに城の門も破られるだろうが、その奥でシフォンにはまだ役目があった。出陣前に共に行くことを申し出た、今は最前線に立つ二人とも、城門の側で折を見て合流する手はずになっている。
「お気をつけて。――シフォン、オデッサの目指したものを……頼みます」
「――ああ」
 ひっそりとささやきかわす、脳裏によぎる。
 最初に、あの思いを打ち明けたのは、いつだったか。
 その頃と違って、今はもはや遠くはない。少し先の未来のこと。
 青い空の端がうっすらと朱を帯びて。
 日が沈む、もうすぐ日が沈む。命を引き連れて。
 最初に、あの思いを考えついたのは、いつだったか。
 けれど、けれども――
 馬首を帝都へ巡らせかけて不意に、シフォンがマッシュを振り返った。
「どうなさいました?」
「約束しろよ」
 懇願にも似た、言い方で。
「無理はしないって。自分を大切にするって。僕は死なない。帝国を落として、帰ってくる。だからマッシュも、死ぬなんて絶対に許さない。命令」
 放たれる、いっそ晴れやかにも聞こえる明瞭な響きは、
「僕は、我が侭だから」
 しかし――痛ましい笑顔を添えてだった。
「ここ、頼むよ」
「ぼっちゃん、お気をつけて」
 戦場に似つかわしくない優しい笑顔に、頷いて。
「俺たちがしっかり見てるからさ」
「よろしくね」
 前線には出れない幼さながらも頼もしい言葉に、頷いて。
「んじゃ」
「さっさと終わらせたいね。ったく」
 相も変わらずの冷めた口調でルックは言いつつ、手に生んだ風色の光を何重にも白布で覆い隠された傷口へかざし、
「気休め程度だからないのと同じだよ」
 舞い散る光を一瞥すると踵<きびす>を返し、風を纏ったかのような身軽さで馬の背に飛び乗った。
「……行ってくる」
 いななき一つ残し、少年二人を乗せた馬は駆けだし――




 この地に在る時間は、もはや、さして長くないだろう。
 この地を去ることは、とうに決めていたことだった。
 残す者にすべてを押しつける形になるとわかった上で。
 現実は、多少、思惑よりそれてきてしまったけれど。
 それでも生きろと言うのは。
 それでも言われて頷くのは。




 ――そして。程なく、もはや誤魔化しの薬の効果も切れて、耐えきれなくなった激痛のために馬上にうずくまった軍師を、慌てて天幕へ運び込む者たちの姿が見られた――




 終わりの後に、見たいものがあったからだ。




「あの人が、先生を、巻き込みさえ、しなければ――っ」
 気を緩めれば声を上げて泣き出しそうだと、何度も何度も繰り返す。
 アップルが、解放軍に来てからも飽くほど口にした言葉。
 一度たりとも言い返されたことはなくて――
「アップル……」
 戦の喧噪はとても遠くて。他に残っていた者は外に出ていて。
「――、はいっ」
 ひどく弱々しい呼び声に、アップルは膝をついて師の枕元に近づいた。
「先、生……?」
 言葉を紡ぐべく、マッシュが息を吸い。
「いきなさい……そんなところにいてはいけない。その足で歩き、その目で見て、その耳で聞いて、……世界を、知りなさい」
 アップルが眼鏡の奥で目を瞬かせる。意味が、わからない――
「目を、閉じても……、耳を、塞いでも……、戦いは、消えないのです……」
 そして、もう一度、言った。
 外へ行きなさい、と。
 戸惑いながらも師に頷き。天幕をくぐり外へ出るとき、ふと振り返ったアップルは、思った。
 これは、初めての反論だったのだろうか、と。




 喜びが溢れる。
 少し前まで戦場だった平原で、アップルはそれを見た。
 歓声が上がる。
 城門前に立ち、高らかに、少年が宣言する。
 赤月帝国の終焉を、解放軍の勝利を。
 戦争が、終わった。




 光が見える。音が聞こえる。
 この目に、この耳に、この世界は満ちる。




 帝都での宣言からそのまま走ってきたのだろう勢いで天幕に飛び込んだシフォンは、しかしその刹那にがくりとくずおれた。
「……そん、な」
 愕然と呟いたのは、彼と共に息せき切って駆け込んできたアップルだったか、シフォンだったか。
 続いて飛び込んできた人影は、増えているが、足りなかった。
「……逝って、しまったんだ……」
 先ほど皆の前で勝利を告げたそれと、あまりに違う、そのひっそりとした声音に、リュウカンはそっと首肯した。
「最初の歓声が聞こえてきた、すぐ後にな……」
「――そんな!」
 途端、上擦った悲鳴をアップルが上げる。心を占めたのは後悔だ、外へ行きなさいという師の言葉に従った、己への。
 離れるべきでなかった。最も敬愛する師の死に目に、あえなかったなんて。
 そして、思う。
 何故、師がその命を終えなければならなかったのかを。
「……あなたのせいよ……」
 天幕の中にいた者たちがはっと目を見張る。
 けれど。
「あなたの、せいで、先生は――!!」
 アップルは目の前にいる少年に憎悪の眼差しを向けた。師を刺した間者は知らない。今ものうのうと生きていることしか知らない。止まらない言葉の矛先は、"彼"しか知らない。
 溢れて止まらない涙の向こうで見た彼は、泣いているように悲痛に顔を歪めていたが、涙は流れていなかった。
 だから、許せなかったのかもしれない。
 だから、止まれなかったのかもしれない。
 だから、少女は絶叫した。
「あなたが先生を殺したようなものよっ!!」

 ソウルイーターの呪いは、ごく近しい者にだけ伝えられていた。
 その言葉の重みを、アップルが、この時は、知る由もなかった。

「そう、かも……しれないね……」
 ほとんど吐息に溶けたつぶやきを残して、ふらりとした足取りで、シフォンは天幕を出ていった。
「坊っちゃん……!」
 すぐさまグレミオが追いかけていった、後には。
 天幕の端に置かれた長椅子で傍観していたルックは、変わらず冷たい表情で沈黙していたが。呆けたようにうなだれ地面にくずおれたアップルを一瞥したフッチが、どこか傷ついた面持ちでここを離れると、吹き込んだ風に乱された髪を手で無造作に押さえながら、
「馬鹿馬鹿しい……」
 小さく言い捨てて、ルックも外に出る。
 がらんとした天幕の中は、アップルの嗚咽だけが聞こえるだけで。
「……なんか、さ……」
 ゆっくり言葉を選びながら、両親に代わって来ていたシーナがアップルの前に片膝を落とし、小さく声をかけた。
「何、よ……っ」
「取り乱すのも仕方ないだろうけど……さすがに、今のはひどいンじゃないかと、思うぜ」
 困ったようにそう口にした彼を、アップルはきっと睨みつける。
「どうして、だって、だって先生は――っ」
「だって、わかんねぇもん。他人<ひと>のコトなんてさ」
 対して、なだめるかのようにシーナは邪気なく微笑みかけた。
「とりあえず、あんたが思いっきり泣いてやれよ。それからでいいじゃん、いろいろと考えンのは。シフォンとあの軍師さんが何思ってたのかってさ、そう簡単にはわかんねぇと思うけどな」
「そんな……の……」
 言われて、思い出す。
 今となっては遺言となった、師の言葉。
 そんなところにいてはいけない。
 その足で歩き。その目で見て。その耳で聞いて。
 世界を知りなさい。
 目を閉じても、耳を塞いでも、現実は消えない。
 なら、どうすれば、いいの?
「……私、は……」
 こんなところにいては、いけない。
「何も……わからないの……」
 求める答えは、あまりに難しくて。




 吹きつける風に、草が波打つ。
「僕は、まだわからないんだ……」
 目に映る、耳に届く、世界はあまりに広くて。
「いつか、見つけてくる、けれど――」
 沈む陽が連れゆく御霊に、ささやいた。




 その夜。彼はこの地を秘やかに去った。
 その足で歩いて。その目で見て。その耳で聞いて。
 この世界を、知るために。




 数日後。少女は師の足跡を辿り始める。






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 ……いつものアップルの台詞を確かめてない。

 『道』の前振りです。アップルの言ってしまった言葉をルックだけでなくフッチも聞いていることも、後々。三年とか十五年くらい後に。
 そしてシフとルックは、この手が勝手に組まして書くのです。自動的です。