Hana no En










 心から、誰かを愛してはいけないよ。










 時は離れてゆくばかりなのだから。


 同じ時を生きてはゆけないのだから。










 ――だから。










 それは、必ずひとかけら残る、醒めた自分がささやく。



 なんとも滑稽な、故意の恋。

 ただ、顔立ちが好ましかった、とか。

 ただ、仕草が可愛らしかった、とか。

 ただ、そんなささいなお気に入り。

 ただ。それだけ、の。




 それは、心から愛してはいない、泡沫の恋。


 永い時の中で幾度となく繰り返した、戯れの恋。
「クラウスさん、どちらへ?」
 この永遠の白き女は、老獪とすら評されることもある本性を綺麗に包み隠し、たおやかな少女の笑みを浮かべた。
「茶葉を切らしてしまったので」
 呼び止められ振り向いた線の細い青年は、その育ちの良さをうかがわせる、おっとりとした微笑を返した。
「わざわざ御自分で新しい物をいただきに行かれなくとも、誰か側の者に頼めばよいのではないのですか?」
「部屋にこもりきりでは何ですので、散歩も兼ねてと思いましてね」
 青年は副軍師という立場上、自室にもしくは正軍師の部屋に大量に寄せられる実務の処理に追われることは避け得ない。かといって一日中椅子に座り続けていては身体も固くなってしまう。
 そうでなくとも。こんな穏やかな陽射しの日は、こんなやわらかな風の吹く日は、少しぐらい、部屋を抜け出したい気持ちになるものだ。
 こんなうららかな日和にはどこかそぐわぬ、どこか病的なものをも思わすほどに抜けるような白い肌と、落ち着いた蒼と白を基調とした衣をまとう女は 真紅の瞳を細めると。ふわりと重みを感じさせない足取りで蒼の衣に風をはらませながら、青年の傍らに歩み寄った。そして訊ねる。
「御一緒しても、お邪魔になりませんでしょうか?」
「ええ、構いませんよ」
 そうして。ゆったりとした歩調で青い芝生に刻まれた道を、二人並んで歩く。言葉は連れなくとも、居心地の悪さを伴っているわけではない。
 月光を抱く髪は長めに流されているがために描かれる、ゆらりゆらりと光る銀波の向こうに、女は青年を見上げた。道を外れたそこここで、遊ぶ幼い子供たちの姿に目を向けると、青年はそこに笑顔を添える。
 豊饒の地のそれにも似た深い褐色の髪をそよぐ風に散らせ、熟れた山葡萄色に染められた短衣を上にはおった彼は、その人好きのする面差しも相まって、優しげであたたかな空気に抱かれているように女には感じられていた。初めてまみえたときに気に入ったのも、おそらくはそんな理由からであろうと自己分析するも、もはや容易いことだ。
 しかし、それだけの甘やかな男ではないことも今では知っている。かつてはこの地からすれば敵国の将であり、この地に下った今も故郷を本当の意味では捨てていないだろう彼は、それでも、故郷と相対する戦場にその頭脳でもって立ち続けている。そしてこの地を守ることに力を尽くしている。
 永すぎた旅の目的もようやく果たした女が、ともすれば持てあます悠久の中、幾度となく気紛れからそうしたように、一時の戯れに、なんら直接の関わりを持たぬこの地に居残ったのは。
 ただ、この男とそうそうに別れてしまうのを、惜しんだ。


 ただ、顔立ちが好ましかった、とか。

 ただ、仕草が可愛らしかった、とか。

 ただ、そんなささいなお気に入り。

 ただ。それだけ、の。




 それだけの、戯れに過ぎぬ、これは泡沫の恋。


 興を覚え、故意に恋を抱く、それは泡沫の恋。






 それだけ、なのだ。






「ここでは、もう咲くのですね」
 不意に紡がれた、耳に心地よい青年の声に、女はその視線をたどった。
「まあ。本当ですね」
 当たり障りのない相づちを返しながら、五分ほど花開いた桜を共に見上げる。先の声に潜んだ、寂寞(せきばく)には触れぬように。
 けれど。
「ハイランドは今はまだつぼみの頃でしょう」
 今年もあの城で、そのうちに桜は咲くのでしょう、と。
 今年はあの桜が咲く様を見ることはないでしょう、と。
「ここのような薄紅よりも、白が多かったように記憶しています」
 遠い故郷を懐かしむようにささやく、彼にたまらず。
「後悔、なさっているのですか。この地にいることを」
 故郷を離れたことを。
 故郷を裏切ったことを。
「……さぁ、どうでしょうね」
 婉曲を伴わぬ女の問いかけに、まだ二十年を生きた程度の青年が、ひどく透き通りながらも底知れぬ、不可思議な微笑をたたえて曖昧な言葉を返した。
「悔やむことも、もしかしたらあるのかもしれません。けれど、ならば何を悔やむのか、正直、私にはわからないので」
「そう、なのですか」
 駆け抜けた風は、少しだけ、強くて。
「どうしてか割り切れぬ想いはきっと、私などよりシエラさんこそ御存知でしょう?」
 散らされた花弁が、はらはらと舞った。










 儚いだけの、ひとときのみの、これは泡沫の恋。



 ――それだけ、だったのだ。










 なんと儚くも美しい、幻のようなひとときか。










 弦月の蒼白い灯りのもとで朧に輝く薄紅を見下ろし、シエラは薄ら笑う。その身にまとう色のように冷たく、真紅を細め愉快そうに唇の端をつり上げて。
 眼下の薄紅が群れる隙間に、騒ぐ人の姿が多数見受けられた。そういえば、最近は少なくなったハイランドとの小競り合いで勝ちを収めたと誰かが言っていたか。
「戯れも過ぎたか」
 宵闇をこそ我が物とする吸血鬼の祖たる彼女が、人に日の巡りを沿わせて幾数月が流れていた。この地の戦乱はもう、そんなに長引きはしないだろう。
 戦は終わる。どちらかの滅びをもって。
「なかなか、しばらくは忘れられぬものになるかのぅ……」
 吐息にまじるのは、諦念と寂然。
「何がですか?」
 不意にやわらかな声音が背に投げかけられ、シエラがゆるりと振り返った。
「――まあ、クラウスさん。お仕事ではなかったのですか?」
 こんなところに好んで来るのは熊ぐらいだと――その彼も下の騒ぎにまじっているに違いなく――たかをくくり、我知らず独り言ちてしまっていたのは失態だった。けれども、そんな動揺は少しも表には見せず。
「だったんですけれどね」
 敷き詰められた石の床を滑るように、クラウスはシエラの方に歩み寄りながら苦笑をにじませた。
「ほら、この下でもやっているでしょう、花見。セファル殿にシュウ軍師を連れて行かれましてね、しかも部屋に鍵まで掛けられて、すっかり追い出されてしまったんですよ」
「それはなかなか、強引なやり方ですこと」
 くすりとシエラが笑みこぼれる。
「私も巻き込まれてたんですけどね、少し酔い冷ましに逃げてきました」
「あら、お酒はあまりお得意ではない方で?」
 はらはらと長い衣を夜風に遊ばせて、囲いの上でシエラはクラウスをのぞき込むように身をかがめた。
「そんなことは、ありませんよ?」
 悪戯を仕掛ける子供のような笑みを小さく添えて答えるクラウスの、父親が酒を好むことは時折手に入れたと言ってはシエラのもとへ銘酒を持ち込むビクトールから聞いた覚えがある。そこから考えれば彼が酒類に強くてもなんら不思議はないだろう。
「それではどうして」
「ただ。あなたがここにいるのが見えたので」
 さらりと言い放つ彼が、シエラには愛おしくもあり淋しくも映った。思っていたよりも想いを残しそうだと改めて認識したばかり、だから。
「あの庭からここに来るまでに、私がどこかへ立ち去るとはお考えにならなかったのですか?」
「不思議と、まったく思いつきもしませんでした。……やはり、酔っているのかもしれません。今夜の記憶が明日になって飛んでいなければよいのですが」
 問いかけるシエラの腰掛ける隣に、クラウスは肘を預けて苦笑した。そんな失態を犯せば軍師にあるまじきと絞られてしまうと冗談めかしながら。
 その言葉に、ふと先ほどのつぶやきを聞かれた可能性があることをシエラは思い出す。一瞬の逡巡を浮かべるが。
「私がこの地に来たのは、春でした」
 シエラが何かを言うより早くに再び口を開くと、すっと喧噪から外れた、片隅の闇を指差す。
「リーヤンにも白を咲かす桜があります。紅や薄紅よりも開花が遅いので、今はまだつぼみですが、もうじき咲くことでしょう」
「故郷と、同じ色なのですね」
「去年はルカ様のことが差し迫っており、ここはこんなに明るくなかった。なれなかった。……私も、忘れられないことが辛かった」
 けれど。
「今は。忘れないことが、幸せです」
 折しも吹きつけた風にさらわれてしまいそうなほど、それは微かなささやき。






 心から、誰かを愛してはいけないよ。




 時は離れてゆくばかりなのだから。


 同じ時を生きてはゆけないのだから。






 ――けれど。






 クラウスはにこりと微笑むと、夜会でのエスコートさながらに傍らに立つと右の手をシエラへ差し上げる。
「では、参りましょうか」
 シエラが虚をつかれたように目を見張った。
「……どちらへ?」
 戸惑った問いに、クラウスはシエラの背後を目で指し示し。
「時には――こんな日も、よろしいでしょう?」
 そっと拾い上げられた手は、ただ添えられただけ、重ねられただけでしかなかったが、誘われるままにシエラはふわりと囲いから降り立った。
 いつも彼の前で装う淑(しと)やかさよりも、どこかずっと、艶(あで)やかな微笑を形作ると。
「白の桜が咲いたら、また、お誘いいただけますか?」
「ええ、喜んで」










 儚くとも美しく、花は咲き誇る。


















* b a c k *




 近所の白い桜は、とうに花開き始めました。間に合わなかったです敗北です。
 閑話休題それはさておき。
 桜物で坊とテッドを書くつもりだったのがまるで構想まとまらず、そんなときにふと「心から、誰かを愛してはいけないよ。」という言葉が浮かんで、そこから一気に話がまとまっちゃってシエクラです。ナッシエに心惹かれてもおりますが、ここはシエクラ。
 シエラが真の紋章持ちなのは副軍師なら知ってて当然で今更ですが、本性についてはどう扱うべきかというのは人それぞれですが、うちはこんな感じらしいです。
 昔に書いた星祭り物はこれの後に来るですね。で続く先はロックアック直後(ぇ