子供たちの戦場

子供と大人の狭間で血塗れた大地に何を思う














 肉を斬れば、刃は血と脂にまみれた。
 積み重なる死臭に、魂なんて見えなかった。
 
 転がる骸の表情はいつも苦悶に歪んでいた。
 もう何も映さない濁った目が、恨んでるようで。
 
 
 ――少し、ぞっとした。
「よく飽きないもんだね毎日毎日」
 特に前触れもなく頭上から降ってきた声に含まれるのは呆れとも諦めともつかないが、よくよく聞き知っているもので、しかしフッチは見上げたりしないまま背後の石版にもたれかかった。服の布越しにも、石のひやりとした感触が伝わってくる。
「そっちこそ。前からですけどよく飽きないですね毎日毎日」
 ホールの往来が何かと慌ただしいのは、あのルカ率いる白狼軍との決戦が間近なためだろうか。けれど、同じホールの中なのにそんな喧噪からは切り離されたように時間の流れ方がずれている、ここは。
 不意にフッチがこぼした吐息は、ただの呼吸には過ぎても、ため息には及ばない。ホールの床に座り込んで、片方だけ立てた左膝に左肘を引っかけて、そこを支点にした左腕をぶらぶらさせて。そんなほとんど意識に上らない腕の動きにも、猫じゃらしにじゃれつく猫よろしく白いちびが、これまた飽きもせずじゃれついてくる。
 それはほとんど飽きもせず繰り返されてきた日常だったが。
「ルックは忙しくないんですか?」
 魔法兵の将のくせに。
 そんなことをフッチが思い出したのは、ホールと一続きになっている倉庫との境界線辺りがにわかに騒がしく、人が増えだしたのに気づいたからだ。
「さぁね」
 そちらに注意が行ってしまってフッチの手が動かなくなった代わりに、遊んでくれとでも言いたいのか足元にまとわりついてきたブライトを、爪先で小突くようにあしらっていたルックは気のない返事をするが。
「リーダーの御帰還か」
 人込みの向こうに、紛れようのない気配を感じたから。
 にべもなく言ったついでに嘆息も添えた。トラン共和国との同盟を締結してリーヤンに戻ってきたということは、また同行していたうるさいヤツも戻ってきたということだ。
 昔わずかばかり見知っただけで馴れ馴れしくされても迷惑だ。
 それはルックにとっては心からの思いだが、それですべて片づくわけもなく、譲歩を余儀なくされているのもわずかばかりいる。とはいえ、譲歩さえしてやる気のない相手に譲歩を要求されても、鬱陶しいだけだ。
 しかし、石版の前にいた二人に真っ先に投げかけられた声も、その主も、ルックの予想の中にはなかった。
「お久しぶりです」
 緩やかに微笑んだその人は、カスミだった。
 
 
 トランからの援軍は、同盟の証。
 それを任された将が解放戦争に関わった人間というのも、ティンラン側に同種の人間は少なくないことを見越してなのだろうか。
「どうでしょうね、フリックさんが多少はお話なさったようですが」
 いわば旧知が半ばを占める、会議室へ向かう上層の一団の中で、カスミが笑みを含む。
 トランとの同盟締結による援軍、迫る決戦。リーダーの帰還はそのまま軍議召集の合図であることはセファルの出立前に聞かされていたものだから、渋々ルックも交ざっていた。
「ああ、だが、こっちにいることを連絡できてなかったことについて絞られてたのがほとんどだったぜ」
 今回のトラン行きにフリックは同行しビクトールは居残った。結果、無事であることを喜んでくれると共に浴びせられた文句は、すべてフリックが受けることになったのだ。もとより覚悟の上だったらしいが。
「アレンやグレンシールには奢らさせられたし、ああそう、あいつの師匠にも皮肉られたな、ったく」
「そりゃご苦労さ…」
「もとはといえば貴様のせいだろーが」
 へらへらと笑うビクトールにはすかさず拳が飛ぶ。
「噂ならトランにまで聞こえてましたけれど。やっぱり、会って皆さん実感できたんですよ」
 もう一度笑って、カスミがちらりとルックを振り返った。
 蚊帳の外を決め込んで一団より少し遅れて歩いていたルックは、そのまま歩みを調整して隣に並んだカスミに目を向ける。
「あの一緒だったのは弟か何か?」
 ホールに置き去りにしてきた、子供。
「サスケですか、そうですね、"同じ"…みたいなもの、です。フッチくんと同じ頃ですから、仲良くしてくれるとありがたいんですけどね」
 会議室に着くまで、あとわずか。
「本人に言いなよ、そんなこと」
「それはまた別です。……あとで少しお時間いただけますか?」
 返答を考えるに要した時間は、一瞬。
「最近いつも夕食につきあわされてるからね、間に合えば、君も来れば?」
 それを意外と呼ぶのだろうか。
 
 
 どんなに周りがうるさくても、痛い静寂というものはあるのだ。
「……」
 カスミに挨拶するために立ち上がって、ルックも一緒に会議にここを離れて、それからまたフッチがここに座ってしまうには、タイミングを逃して久しい。ブライトはころころと転がって、石版の裏側に入り込んで遊んでいる。
 だからといって、会話のきっかけも見つけられず。
 何とはなしに盗み見るように観察すれば、年はフッチと同じだろうが背は少しフッチの方が高い、カスミと一緒にいたし服装から考えてもほぼ間違いなくロッカクの人間だろう。つまりは忍びだ。確かカスミはサスケと呼んでいた。
 それにしても、とフッチは思う。
 どうしてそんなに、ふくれっ面をしているのだろうか。
「おい」
 声にもむくれているのがありありとにじみ出ている。
 呼びかけへの応えを口にする代わりに伏せ気味だった顔を上げ、先を促すようにサスケと視線を合わせた。
「カスミさんと知り合いなのか?」
「解放戦争のときにね」
「あんときにぃ?」
 眇められた目がうろんな色に染まる。
「おまえ、俺とそんな変わりないだろ?」
 年齢を言うなら今も同じかもしれないし、そうでなくなったかもしれない。
「前線に出なかっただけ」
 それは今も変わらない。
 かつては本陣にいた。それはあの人のそばかもしれないし、あの人が戻ってくる所かもしれない。そんな場所だった。自分の後見人になってくれた人は、戦場では今も昔もいつも激戦に身を置いて剣を振るっているような人だったこともあったから。
 今も前線に立っているわけではない。後方支援や戦場周辺の村落への救護活動、いわゆる少年兵の扱いだ。解放軍とティンラン軍とでは組織の性格から違うことも多い。
「宿星、とかいうヤツ?」
 ほんの少しだけフッチは眉をひそめて。
「一応は」
 思ったままに言ってしまうのは簡単だったが、やめた。
 あの人は星の魁だった。
 道もわからぬほど昏い闇の中、見上げた先に在る星だった。
 それでも自分は、触れた手のぬくもりに自分は安堵したのだ。
 冷たく遠い星などではなく、あの人は、あたたかな人だったから。
 ブライドをぎゅっと抱きしめて、吐息にしかならない薄さでささやく。
 ――そんなもの、後からついてきた。
 
 
 ただ待ち続けることが嫌いなのは、子供だからだろうか。
 視界を通り過ぎるだけの見知らぬざわめきは本当の意味で意識に触れることはなかった。情報は蓄積されていく。それでも、ごく一握りをのぞけば色づいてはいないモノクロームでしかなかった。
 ああ、暇だな。
 サスケはふいと視線を傍らに落とす。とりあえず自分がちゃんと知っておきたいと思えるのは、この城にいる中では昔のカスミを知る人たちぐらいだろうか。その定義でいえば、サスケと同様に会議の終了を待っているこの隣の少年も含まれるのだろう。さっき話しかけてみたときにそれは確かめたのだし。その一方で、名前をそういえばお互い名乗ってなかったなと、今になってサスケは思い出したが。
「えーと、フッチ…だっけ?」
 カスミと一緒に会議に行ってしまった、きつい目をした綺麗な顔の魔法使いが、フッチと一回だけそう呼んでいたのを聞いていたから、そう呼んでみた。
「何?」
 サスケはロッカクの里の人間以外と接するのはこれが初めてだ。外から里に、長を訪ねる人を見かけたりしたことはあっても、子供だから、見ただけ。だから人付き合いも里の中でしか経験したことはない。
 だからこれは、直感でしかなかったけれど。
 ――こいつ、やりにくいかも。
「ん。会議ってさ、どれぐらいかかるもんなんだ?」
 サスケの直感でしかなかったけれど。開けっぴろげだったり馬鹿騒ぎしたり、そういう性格ではないなと思ったのだ。
「どう、だろ」
 太めの眉の根をきゅっと寄せて、腕の中の白い生き物をあやしながら、フッチは独り言のように続ける。
「ハイランドの本隊がミューズを出たって言ってたし、布陣のことで長引くかもしれないし。……どっちにしろこれからしばらく忙しくなっちゃうんだろうなぁ」
 決戦は近い。リーヤンに至るまでの道中でそのことは幾度となく耳にしていたが。そうだ、戦争は軍の衝突そのものだけではなく、その前々から忙しい。それにロッカクの人間は諜報に秀でているのだから、おそらく大人たちのほとんどが慌ただしく出払ってしまうだろう。
 その時、自分にどれほどの役目が命ぜられているだろうか。
 見ているだけは嫌だと思うのは、子供だからだろうか。
 故郷に火が放たれたあの日、自分は何を思っていただろうか。
 炎に撒かれる故郷に、死に逝く見知った人に。
 今よりもずっと幼かった自分は、何を思っていただろうか。
 狭い世界を覆っていた、幼く優しい幻想が剥ぎ取られたら。
 あまりに広い世界の中で、あまりに小さすぎる自分は途方に暮れた。
 空はよく晴れていて、物干し竿には洗濯物が揺れていて、城の庭では子供たちが遊び回っていた。だが数日前と比べれば、リーヤンのどこからも、圧倒的に大人の数が減っていた。わずかな兵を残し、大半がサウスウィンドウ郊外の陣に発ったためだ。面倒くさがりのルックも、ここへ来たばかりのカスミも、今朝から城を空けている。
「決戦だもんなぁ……」
 微かに草の匂いをはらんだ、熱っぽい空気が南から吹きつけて。近い雨はないみたいだなと、テラスに立つフッチは昔の癖か風を読む。
「やっぱり暑いなぁ……」
 広大な湖に接したリーヤンは夏ともなると湿度がかなり高くなる。本格的な夏を迎える前にハイランドが決着しようとするのも、かの国の夏は都市同盟ほど暑くないからともささやかれている。確かにそうだ、不慣れな人間には辛いだろう。士気にも関わるだろう。
 フッチの故郷である竜洞騎士団領は山岳地帯にあり、空気もさほど湿っておらず涼しい夏だったが、解放軍に身を寄せて初めての夏は、ここリーヤンにも似たフェイロンの酷暑にほとほと参ったものだった。
 寒さにもあまり強いわけではないが暑さにはめっぽう弱かった二人と、一緒にぐったりばてていたあの頃が懐かしい。今も従軍しているその一人の性格からしても、真夏に動かされるよりは早めにけりをつけたいのが本音に違いない。
「そこ、涼しい?」
 先ほどまでの独り言よりも明らかに、普通に話す程度にまでは声を張り上げて、フッチは眼下で繁る木に言葉を投げた。
「……さぁな」
 風が吹くたびにさらさらと葉が音を立てるその中から、間を置いて返ってきた返事は素っ気ない。もしかして。
「いつから気づいてた?」
「僕がここに来る前からいたみたいだったね」
 フッチが言うと、がさっと葉が割れて、サスケが顔を出した。不満そうに。
「なんでンなに聡いんだよ……?」
「これでも元竜騎士なんだけど。三年ぐらいずっと旅してたし…」
 自分の額にはめられた翼のサークレットを指差し、フッチは小さく笑う。ブラックが死んだ時にこれを捨てなかった、もうその時から本当はブライトと歩む道を選んでいたのかもしれないと思ったのはいつだったか。竜騎士の証たるサークレットを手放さない、今は竜騎士でない自分は。
 しかし。ロッカクの人間ならこんな言い方でも通じるだろうと思っていたが、サスケの眉根にみるみるしわが出来ていくのを見て、カスミを始め解放戦争時に見た忍者とどっちが普通なのかと疑問がよぎった。どうでもいいかと、すぐに捨て置いたけれど。
「なんて言うかな。竜騎士はさ、空を飛んでることが多いから、……取り巻くすべての風を覚<さと>れって、訓練するんだ」
 竜騎士は騎竜の上で、人には広大すぎる空間を掌握する。戦場ではシンボルに近い長槍を振るうよりも、上空から矢を降らすことが多い。刃を突きつけられることよりも、矢を射掛けられることが多い。
 だからこそ、空間認知力が必要になる。風を読む力も、気配を読む力も。己に迫るすべてを覚り、迅速に対処をせねばならない。人と共に生きているとはいえ、ずっと獣性の強い竜と共感するためにも。それは竜と心を通わして後、何をおいても得なくてはならない感覚だった。
 幼くして竜と――ブラックと出会い、喪ったフッチは、騎乗での戦闘訓練はほとんど受けずじまいだったが、幼いが故にその感覚の鋭さは若年騎士の中では飛び抜けていた。竜を喪ってからも、旅の中で役立ち鈍ることもなく。
「忍者も似たものじゃない?」
 思い出されるのは、かつて戦場での忍びを目の当たりにしたときのこと。こと人の気配に関しては、人数や距離まで正確に察知せよと言わんばかりではなかったろうか。
「おまえも結構やれんだな」
 人のことは言えないが、よっぽど考え込んでいなければ、よっぽど相手が数段上の技量でなければ、近づく人に気づかないことはないなんて、ここ数日のごく浅いつきあいだけでも気づいていた。
「それなりには、ね」
 そして、顔を見合わせ。
 二人で笑ったのは、これが最初だった。
 
 
「くそ暑い」
 無形のものを厭うことほど空回りはないだろう。だが、せずにいられないほど暑いのもまた確かだろう。デュナン湖から流れ込む湿気のために、熱が絡みつくように重い。まだ都市同盟出身者なら慣れもあるだろうが、よその人間からすれば御免こうむる気候である。
 空気の循環が滞る天幕になど数秒足りといられず、ルックは日除けのためだけに張られた簡易な幕の下で、青い空を睨みつけた。腰掛けた椅子も肘をついた机も、物資の木箱を詰んで布を掛けただけの即席である。
「そんなに刺々しいと、他の方が怖がりますよ」
「文句ならハイランドに言ってくれないかな」
 八つ当たりじみてもいる刺々しさをふんだんに注ぎ込まれた険悪な半眼さえ、やわらかに緩やかな笑みで受け流し隣に座るカスミもまた慣れか。
「周りに人がいないので今はありがたいです。一昨日は結局遅くなってしまったので」
「だろうね。君の弟は居心地悪そうだったよ」
 一昨日の会議が手短に済まされたのは、ティンランのリーダーが、グレッグミンスターからリーヤンへの旅を終えたその日だからだ。そうでなくては会議の出席者たるルックが子供たちの夕食時間に間に合うはずがない。あの軍師は目立たぬところでセファルに対して甘い。しかし、トランからの援軍もロッカクの助力者のどちらも将はカスミである。必要不可欠とはいえ軍師との情報交換は思いの外、長引いた。結果としてカスミは夕食の席には間に合わず。そして翌日は里の者を率いて城を出ていて。
「そうですか…」
 気にかかるのだろう。見知らぬ土地で里の者と離れるのは初めてらしいから。
「気にしても仕方ないとは思うけどね。で? あのバカのよしみで、聞くぐらいならしてあげてもいいけど」
 ルックのこの言い様にカスミは苦笑する。あの頃も似たようなもので、それでも仲がいいとしか見えない二人だった。
「ええ。ルックさんがいらっしゃると聞いて、話したいことがあったはずなんですけれど」
 もう、忘れてしまいました。
「またかい」
 ルックはうんざりと息をつく。
「フッチも同じようなことを言ったよ。結局、下らない話にさんざんつきあってあげただけになって――」
「なんだか、昔に、あの頃に戻ったような気になります。私もフッチくんも同じままじゃないですけど、……あの方は、いませんけれど」
 発せられたカスミの言葉は、ルックのそれをさえぎれるほどに強い口調でも何でもなかったけれど。
「あいつも、変わってないだろうね」
 彼が秘やかに去って、三年、――そろそろ四年になるんだったろうか。
 一緒にあった時間は、長いような短いような。言えるのは、離れ離れになってから再び出会うまでの時間の方が、一緒だった時間よりも長いことぐらいだろう。
「あの時に不老のことは教えてもらってましたけど、いざこうして目の当たりにすると、不思議な感じです」
「不気味かい。"子供"のまま変わってなくて」
 どこか揶揄したような口振りに、
「変わって、ないのでしょうか。本当に」
 静かに言ったカスミの顔も目も、まっすぐ遠く空に向けられていて、ルックからは横顔しか見れなかったが。
 問いかけにしては希薄で、答えなど求めてはいないのだろう。
「あの方も今もどこかで、あの頃のお姿のまま、旅をされているのでしょう、けれど」
 もしも会えたら、わかるだろうか。
「"不老"と"不変"は、別物のような気がしました」
 何が変わって。
 何が変わらないのか。
 戦場を生きて、駆け足で子供時代を終えたように見えても。
 本当は、大人びただけの子供でしかないのかもしれなかった。
 
 
 今更そんなことを思う。
 けれど、今だから思うのかもしれない。
 風に乗って微かに聞こえてきた、それが声であると認識できたのは奇跡にも近いかもしれない。
 声だ。子供の声。それも、泣いている。
 いったいどこからだろうかと、声に辿るように誘われるようにフッチはホールを通り抜けた。物資運搬口から陽の下に出て、少し遠ざかってしまったような気がして。怪訝に思いながらも、図書館の方へ足を向ける。そうしたら、図書館の裏からだと気がついた。
 木々の合間にのぞく、小さな池の畔で。
 こちらに背を向けた、小さな子供が泣いていた。
 年の頃ならフッチの半分ほどだろうか。小さな子供に目線を合わせるためにフッチは地面に座ってしまいそうなほど屈むと、顔を下からのぞき込んで、そして微笑みかけた。
「どう、したんだい?」
 子供をなるべく刺激しないように、そっとささやきかけるように。
 その子供はびくりと肩を振るわせてから、涙でべたべたになった手を顔から離した。忙しなく何度もしゃくり上げながらも、口を開く。
「ぁ…にい…くっ、…ぅも……が……」
「え?」
 はっきりとは聞き取れなくて、フッチは怪訝に眉をひそめた。
「……っ」
 それから子供が草むらをただまっすぐ指差したのにつられて視線を向けて、草色の中に目立つ黄色を見つける。ティンランの一般兵がその目印として身につけるスカーフの色だ。
「倒れて…?」
 どうして今まで気づかなかったのか。やけに細い、しかし異常なほど小刻みに繰り返される呼吸が、そこから感じられた。
 思わず手を伸ばす、その刹那。
「動くなっ!」
 大人ほど低音ではない、鋭い一声。次いで、フッチのすぐそばを何かがかすめて、たんっと乾いた音が響いた。
「サスケ」
 音のした方を見れば、木の幹に手のひらほどの蜘蛛が苦無で縫い止められていて。振り返れば、枝の上に彼がいた。
「毒だ」
 すっと音もなくサスケは飛び降りて、蜘蛛の方を顎でしゃくる。
 ということは。
「この人が、蜘蛛にやられたんだね?」
 フッチの問いに泣いている子供が肯くが早いか、サスケは城の裏口に飛び込んでいた。医務室はすぐそば、ホウアンは確か従軍していて不在だが、それでも誰か残っているはずだ。
 果たして、すぐにサスケが半ば引きずるようにして一人の男を連れてくる。それから手早く毒にやられた男と蜘蛛の死骸を調べて、わかったのは。
「薬が、ない…?」
 解毒薬の調合に必要な薬草が一つ、不足していることだった。
 わりと使われるので滅多に切らさない物だったが、ハイランド軍との前線がラダトからサウスウィンドウに移りつつあることで、物資の流通が滞り始めていたのだ。
「……それ、採りに行けますか?」
 唇を薄く噛んで思案は一瞬。言い出したフッチに、サスケは驚いたように目を見張ったけれど。
 
 
 クスクスとサウスウィンドウを直線で結んだほぼ中間辺りに、小さな濃い森がある。湧き水が巡っており、湿気を好む薬草の群生地としてこの地域ではよく知られた森だ。
 リーヤンからは人の足で――転移の呪を扱えるほどの術者は皆、従軍している――およそ一日足らず。手間取っても三日で往復できるだろうと二人は踏んでいた。何事もなければ。
 実際に往路ではさしたる出来事もなく、順調だった。
 近づきつつある大きな一戦に不安を抱く村落を通り抜けただけだった。時折出くわすモンスターも、二人だけでも軽くあしらえる程度だった。場つなぎの会話さえ、たわいなく片づいていた。
 しかし。ティンランとハイランドの両軍が最初に真っ向から衝突したサウスウィンドウ郊外から、目的地の森は北西に離れている。だが、もしもその前線が、ハイランドにとって前進、ティンランにとって後退してしまったら。
「伏兵の警戒ぐらい、するわな…」
 無事にお目当ての薬草も見つけだし、ほぼ予定どおりに昼前にはこの森を出て帰路についているはずだったのに。うっそうと繁る木の葉の隙間から見える、暮れゆく茜の空にサスケは吐き捨てた。
「見逃してはくれないよなぁ」
 今潜んでいる茂みの周囲には人間の気配はないけれど。今いる場所は森の中心辺り、外に出るまで絶対に見つからない自信はなく、森を出たその後も楽にいきそうにない。
「どーすんだよ」
「悪かったよ」
 意味がないどころかもし網をくぐられていたら逆に危機を呼び込みそうなものだが、葉擦れに紛れそうなほど潜められた会話は止めなかった。
「でも。そっちこそ誤魔化しようなくしたくせに」
「う、……悪ぅございました」
 詰まるところ。フッチは他者の気配を覚ることには敏感でも、自分の気配を隠すことにまで並以上には器用でなかった。相手がハイランドの兵士だと一目瞭然だったので、見つかって焦ったサスケが苦無を放ち、しかし相手が苔に足を滑らせたために外れた。結果、まだ子供と言える年齢を利用して近くの村落の者と偽れるわけもなく、人が呼ばれて追い回される羽目に陥ったのだ。
「負けちまったのかな」
 少し離れた地面に虫の死骸が転がっていた。その虫の死骸に別の小さな虫がたかっていた。死骸をぶつりぶつりと千切って、巣に運ぶのだろうか。巣に運んで、糧として喰らうのだろうか。
「まだだと思う」
「なんで」
 サスケが問い返しながら目を向けると、フッチはこじんまりとした手荷物から何かを取り出していた。
「早すぎるんだよ。いくらあの白狼軍だって、昼間から走りながらはさすがに戦えないだろ?」
 そもそも行軍なんて足が遅い。それにこの季節。
「そりゃそうだ、化け物はあの皇王だけでいいや」
 笑うでもなくサスケは鼻を鳴らした。そして一拍の間を置いて。
「化け物じゃないんだから……俺らでも、なんとか出来っかな?」
「せっかくだからって、入るだけ採ってきといてよかったよ」
 どこか意地の悪い笑みを、悪戯を思いついた子供のような笑みを、二人が交わす。その手にあるのは薬草の束だった。
 
 
 実地経験に乏しいとはいえ、その技能を認められていなければ、ティンランへの助力者として選ばれることはない。そして技能に含まれるのは、純然たる戦闘技術だけにとどまらないのが忍び。
「一本、二本、三本、四本……全部で六本、か」
 夜目を凝らして数えた、見ただけではなんら普通の苦無と変わりないその七本を束ねると、サスケは背後のフッチを振り返った。
「そっちは?」
「どれだけ出てるか、ぶっつけ本番だよなぁ、これって」
 小刀でなるべく細かく切り刻んだ薬草数本分の根を、水の残り少ない革袋に入れて握りしだきながら。もう片手で自分の膝に頬杖ついて、他人事のように返事をする。
「ま、死んだりはしねぇだろうな」
「せめて中毒ぐらい起こしてもらわないと。灯りもなしに苦労して僕が刻んだんだからさ……」
 簡単なことだった。薬草は翻せば毒草に他ならず、例の薬草も減毒処理をしないままでは、量によっては数分で死に到るほどの毒性を有している。それの特に毒が強い根の部分を刻み、なんとか水に溶かし出して即席の毒薬をつくろうというのだ。
「ブライト、大人しくしてるかな……ハンフリーさん無事かな……」
 すっかり藍色に染まった空を見上げ、革袋を八つ当たりじみた勢いで振り回しフッチは独り言ちた。
「誰それ」
「ブライトはたぶん竜の赤ん坊。ハンフリーさんは……竜騎士資格を剥奪された僕を預かってくれてる人だよ」
 そのおざなりな答えを聞いて何故か目を瞬くサスケに、フッチの眉根が怪訝に寄る。
「なんか変なこと言った?」
「いや、そういえばそうだよなぁって、思い出しただけ」
 元竜騎士。少し考えればわかったものを。
「けどさ、リーヤンに竜なんていたか?」
「いつもは僕の部屋で大人しくさせてるけどね。今はレオナさんに預かってもらってる。まだ小型犬ぐらいしかないんだ」
「へぇ……」
 目をまん丸に見開いて聞いているサスケに、フッチが小さく笑った。
「真っ白で可愛いんだ。帰ったら、会わせてあげるよ」
「おう。じゃ、そろそろ行くか」
 脳裏で、幾重にも張り巡らせていた細い糸がぷつんと千切れた不快感。
 一転してひたりと口を閉ざすと、サスケは受け取った毒液を苦無に仕込み、フッチは地面に横たえた愛用の槍を握る。彼の槍の穂は部屋に置くときなどに使う厚手の覆いを掛けていた。
 近づきつつある相手は四人。この森で確認したハイランド兵のちょうど半分だ。他は辺りにはいないので二交代制で回っているのだろうと見当をつけ、行動開始の合図のごとく、二人は目線を絡めて頷く。
 夏のむっとした匂いに満たされた草むらの切れ目をぬって、サスケがまず手近な大木の影にとりついた。前もって調べていた、この作戦に手頃な枝振りの木である。
 その根元でサスケは腰にはいていた直刃の短刀を鞘ごと抜くと、その切っ先の側を下に向けて幹に立てかける。そして長い下げ緒をほどいて左手に絡めると同時に、刀の鍔を踏み台にして狙った枝の上に軽々と音もなく跳び乗った。これだけのことが流れるように淀みなく、瞬く間に行われる。
 そのまま葉の茂った枝に身を隠すと、右手に苦無二本を忍ばせながら左手の緒を勢いよく引き上げた。わざと荒っぽく引き上げられた短刀は幹に何度もぶつかり、かたかたと鈍い音を何度も森に響かせる。周囲を警戒していたハイランド兵がこれに気づかないわけもなく、草を割る音も盛大に駆け寄ってきた。
 呼吸すら細く潜めて、タイミングを見逃さないよう目を凝らして。サスケが登った木のそばに集まったハイランド兵たちを見据える。
 ――確実に。
 森を覆う闇も手伝って視認などとても不可能な一撃が、灯りを掲げる二人の肩口に深々と突き刺さった。
 それに驚く悲鳴を耳にして、フッチはゆっくりと息を吐く。研ぎ澄まされる意識が周囲を捉える、自分を中心に鋭敏な膜を広げるようだと、言ったのは兄のようにも思っているあの人。
 まず狙うのは灯り。こちらの目が光に慣らされてしまうよりも前に、消す。
 ――確実に。
 固く握りなおした手もとから、革手袋と槍の柄が擦れる音が聞こえた気がした。
 
 
「……は?」
 城の自室でルックが目を覚ました頃にはすっかり日も暮れていて、廊下には等間隔に篝火が焚かれていて。夕食時を過ぎたばかりとはいえ出陣中のために人影もまばらな階下に降りてきたルックは、およそ見覚えのない男に呼び止められていた。
「何で僕があの二人を迎えに」
「それが、フッチくんとサスケくんの行っている森が――」
 予定では帰ってくるのは明日の午前で、その意味ではまだ帰っていなくても当然だった。しかし、ルックがハルモニア軍を追い払って一時は好転したかに見えた戦況も、突出したルカ率いる精鋭に力ずくで流れを取り戻されてしまった結果、前線がこの城に近づきつつあるという。
「つまり、その森が前線にかすってるって、言いたいんだ」
 確かに勝敗の行方すら定まらぬうちにハルモニア軍を――ササライを追い払って即とんぼ返りし、そのまま寝入ってしまって一日か。他人にそんな素振りなどおくびにも見せないが、帰るためのテレポートであの時は精一杯なほどに疲労していた。だからさっさと一人で帰ってきたのだが。
「…………ったく。わかった、行くよ」
 主だった者は彼らの保護者含め全員が城を空けてしまっているし、何よりテレポートを使える術者は今は自分だけ。それに往復のテレポートと多少の戦闘なら問題なくこなせる程度には回復している。これを仕方ないだろうと思えるぐらいには、面倒なことに譲歩しているのだ。誰かのせいで。
 問題なのが、小さいとはいえ見通しの利かない森で子供二人を見つけだす手段だが。
 人気の薄い階段を悠々と歩いているさなか、窓から入った風に流されて、はらりと顔にかかる己の髪が鬱陶しい。
 今までに二度、それを口にしてしまったことがある。
 一度目のとき聞き逃さなかった彼は笑って、だったら切ればいいのにと言った。その笑い方がどこか揶揄めいていて、切らないことを見透かした上で言ったような気がしたのは、ルックの考えすぎだろうか。
 二度目を耳にしたあの少年もやはり笑って、中途半端だからじゃないですかと言った。だがその後に、でも伸ばしても切ってもたぶんルックらしくない気がしますと続けて、また笑った。
「やっぱりここにいたか、ちび助」
 まっすぐ下りてきた酒場の、床を我が物顔でぺたぺたと走り回るブライトを見やり、ルックの口からうっすらとため息一つ。
 ――それでも、あれから髪は、半端なまま少し伸びた。
「今から行くのかい?」
 くつくつと何事かおかしそうに笑う女主人には細めた一瞥くれて。
「どうやら本陣が森よりこっち側に押されたようなんでね」
 見上げるなり突進してきた白いちびを巧みにかわし爪先で転かしながら、ルックは億劫に、ブライトの首根っこを無造作に掴んで捕まえた。
「おまえの飼い主迎えに行くんだから」
 けれど、その前に。
 さきほど通りがかりに探ってきた、ホールの姿見と魔力的に共鳴している、瞬きの手鏡の現在位置を脳裏に思い描く。そこからそう遠くない場所にいるはずだ、将なのだから。
「人捜しなんて、ガラじゃないんだよね…」
 そして、ブライトを連れてルックは空間を飛んだ。
 小さな小さな手。短い短い腕。
 それで抱きしめ守れるものなんて、いくつあるのだろう。
 相手がひどく動揺してるうちにフッチは一気に距離を詰めた。駆け込みざま横に払った槍の穂が、毒を受けた男の掲げた灯りをまず一つ。ぐっと押し迫ってきた夜陰の中に跳びずさったフッチと入れ違いに、枝から飛び降りたサスケが鞘に収めたままの短刀でもう一つも叩き壊す。
 灯りが失われて、いっそう暗闇が濃さを増した。その瞬間に毒を受けていない残り二人も、苦無に血管を突き破られる。
「ガキがっ!」
 ハイランド兵から怒声と罵声がいくつも上がり、次いで耳障りな金属の擦れ合う音を立てながら剣が抜き放たれた。
 微かな星灯りに、それは冷たく閃く。
「っ、そこか…!?」
 一人がざんっと草を割る音に目がけて、しかし当てずっぽうに剣を振り下ろした。しかし切っ先は虚しく土を抉り、はっと顔を上げた、その男の側頭部を硬い棒が打ち据える。
 長槍の柄とはいえ馬鹿にするものではない。かつて槍の長さに手こずっていたフッチは、物は試しとばかりにシフォンから、そして彼の師カイから、棒術の基礎を学んでみたこともあるのだ。穂先のある槍と棍とでは両端のバランスに違いはあるものの、身の丈ほどの長物を捌く点では同じである。
 まず一人。頭蓋に加えられた強い衝撃にそのまま昏倒した男の胸に、一瞬にも満たない躊躇を挟んで、護身用の短剣を突き立てる。心臓は外れた。それでも短剣を捻れば――空気を入れれば確実に殺せるが、そのまま手を離す。
 剥き出しの腕を濡らした生ぬるい感触に嫌悪感を自覚する暇もなく、フッチはすぐさま周囲を探った。
 今この森に光を降らすのは、ほとんどが木々にさえぎられた、月と星のみ。とても満足いくだけの輝きは得られなくて、夜目に慣れても視界は半ば闇に埋没している。自分の有す感覚と、抜かれた相手の刃だけが頼りで。
「サスケ!」
 名を呼んだことに意味はない。咄嗟で、行動そのものを示す単語が口をつかなかっただけだ。それでも相手は的確に意味を汲んでくれた。
 二人揃って、踵を返して走り出す。
 鬱蒼とした森を夜中に駆け回っていても、方角も脳内で構築された地図上での現在位置も狂うことがないのは、幼い頃から二人が受けてきた訓練の賜物だろう。信頼できるその感覚が教えてくれるのは、この先は川が流れていて、森が開けている場所に出るということ。
 やはり致死量には足らなかったかもしれないけれど。あえて撒こうとはしていないためにハイランド兵三人は見失うことなく追いすがってくる。走れば毒血は体内を活発に巡って冒していくのだ。
 そろそろだと、走るのを緩めた二人は振り返ったのはいつ頃だったか。
 ――水の流れる音が、聞こえた。
 まず最初は恐怖のまじったうめき声。
 脱力感に走り続けられなくなってよろめき膝をつく者、寒気にがたがたと身を震わす者、苦しげに心臓の辺りを押さえる者。
「死ぬかな?」
 ひどく遠い物を見ているような薄い眼差しで、見下ろして。
 無音のままするりと、サスケが刀を抜いた。
「もう、動けないだろうけどさ」
 微かな衣擦れの音を立てて、フッチも槍の穂先を露わにする。
 解毒処置も、もう間に合わないだろう。毒は致死量に達していたらしい。このまま中毒症状が進んで、身体がどんどん冷たくなって呼吸が出来なくなって、死ぬだけ。男たちの息は荒く、薄明かりの中でも苦悶に歪んでいる表情を見て取れた。
 毒をそそぎ込んだ傷からはまだ血が流れている。
 ――水の流れる、音が。
 うるさい。
 足で仰向けに転がして、心臓を一突き。びくりと四肢が跳ねて、どくどくと血があふれて、ひくひくと痙攣して、やがて、ぱったりと止まる。
 ヒトは、どこを貫けば一瞬で死ねるのだろう。
 子供の膂力では、とても首は斬り落とせないだろう。大罪人の死刑に使われる斬首台でも、一度で断ち切れないらしい。頸動脈を掻き切ったら、噴き出す血は熱いから、ひどく寒いに違いない。眼窩から一撃で脳を撃ち抜くと、気づかないまま死ねるらしいとある人が言ったけれど、それで死んだことはないから眉唾だとも続けていた。
 あの人は、そんなことはきっと死神にしか出来ないんじゃないかなと言った。
 ぬらぬらと黒い水が地面に染み込んでいく。
 血腥い空気が、吹きつけた風に一瞬、振り払われた。
 月にかかっていた雲が、追いやられた。
 黒々とした水が、流れていた。
 濁った目が、恨めしげに夜空を仰いでいるのが、見えた。
 少しだけ湿った、ひやりとした夜風が、気持ちいいなと思った。
 どうしてか、ふと川を振り向いたら。
 ゆらゆらと翠玉のような色で灯る、いくつもの光が、綺麗だなと思った。
 
 
 たくさんの螢の光がまるで、御霊のようだった。
 どうしてか、ふと――泣きたくなった。
 
 
 ぷつりぷつり。
 幾重にも張り巡らされた糸が千切られる。
 血のにおいがまた一つ、濃くなった。
「……サスケ……?」
 ふわりふわり。
 螢が踊り狂って、目がちかちかした。
 草の上にとさりと倒れるように膝を落とした音はひどく軽かった。
 濡れた咳をしてごほりと口から血を吐いた、その濃厚なにおいに気が遠くなるような眩暈を感じた。
 螢の光が目に痛かった。
 震えていた。
 眩暈がした。
 叫びたかった。
 どうしてと叫びたかった。
 螢が踊り狂っていた。
 刃が煌めいていた。
 世界が瞬いていた。
 黒い黒い、あれはとても黒い。
 引き裂いたのは、閃光だった。
 ――ひどく、ぞっとした。
 だのに。
「死んでないんだけど」
 自分の腕の中は白い。
 自分に振り下ろされる刃は途中でさえぎられた。
 後ろ頭を少し痛いくらいの強さで小突かれて、目が覚めた。
「……ルック?」
 小突いた彼は隣。腕の中にはブライト。目の前にはカスミ。その脇に座り込んでいるのはサスケ。腹を押さえているけど血をあふれさせているけど生きている意識もある。
 そのさらに向こうに、四つの影。
 ああそうかと、灼けた思考でようやくフッチは理解した。残滓のような重たい吐き気がする。返り血を浴びて赤黒く染まった自分の腕に、いつの間にか枝が抉っていた傷があった。
「ったく。何やってるんだか…」
 ずんと重さすら感じるルックの魔力に、ごうと風が轟き渦を巻く。
 鋭い空気の刃が踊り狂って。
 赤黒い水飛沫が舞って。
 螢も千々に散った。
 子供、子供と、大人たちは言うけれど。
 何を指してその境界線は引かれるのでしょうか。
 顔はどこか人形めいたほどに整っていたけれど、始終苛ついていて不機嫌で目つきが悪くて、おまけに毒舌家なことはすぐにサスケも理解した。
 そのままショック死でもするような致命傷を負ったのでなければ、なにがなんでも意地でも意識を保てと口を酸っぱくして言われたことがこんなに大変とは思わなかった。ああ自分って結構我慢強いかもと褒めてあげてもいいかもしれない。だって、この傷はいつもの痛いなんてものじゃない。脳に突き抜けるほどの痺れ、灼熱感、すべてひっくるめてたぶん痛みなのだ。
 そんな詮無いことで思考を遠く逃がしていないと、心臓の鼓動にあわせて疼く傷に嫌でも集中してしまう。今更になって意識を手放すのも、カスミがいる前ではみっともないと踏ん張るのはまだ幼い意地か。しかしそのおかげで、内臓にまで到った深い傷をふさいでもらう間、絶え間なく口ずさまれるルックの愚痴を嫌でも耳に入れる羽目になってしまったのだけれど。
 見慣れない天井を見上げ、次いでサスケは隣の寝台に目を向ける。なんと運の悪いことだろう、毒血で冒されるとは。直に毒に触れたわけではないので致死量には遠く及ばなかったことが不幸中の幸いだったが、それでもフッチに飛びついた白い生き物の案内がなければ、カスミとルックが間に合わなければ、あのまま殺されていたかもしれないのだ。大量に出血をしていたサスケはもちろん、フッチもひどい忘我に陥っていたから。
 その原因は聞くとはなしに聞いた話、軽い中毒症状を起こしたところに無数の螢の光で、眩惑されてしまったためらしい。そういえばフッチが最初に止めを刺した男は苦無が心臓側の肩に刺さっていたけれど。
 いやそれよりも、今更ながら思うが毒草を刻むに使ったナイフで止めを刺してしまったのが問題あったのではないだろうか。
「……ぅわ、俺も冷静じゃねーの」
 思わず苦い苦い、乾いた笑いがこぼれる。途端に、風の力でふさいでもらった傷口が引きつるような違和感を訴えた。急速に再生された組織がいまいち馴染めてないらしい。それでも一夜明けた今に残っているのは盛大な貧血だけなので、ルックは文句を言いながらも完璧に治癒を施してくれたことになる。その折りにカスミがルックに向けた、意味深な色を含んだ笑みが少し気になったりもしたが。
 のろのろと身体を起こし、脇に置かれた薬包と水差しを引き寄せる。寝る前にも一度飲んだ、この増血剤はたいそう最悪な味をしていたが、薬に美味い不味いは言うだけ無駄だ。目が覚めたら飲んでおくようにと寝入る前に言い含めていったのはカスミ。今頃は戦場に戻っているだろうか。
「ぅげ、マズ」
 舌の上にわずかに残る、薬独特の苦みにサスケは眉をひそめる。と。
「あんな大怪我、するからだ」
 少し掠れがちの声が隣から掛けられた。
「起きたのか」
「二度目だけど。……何から言えばいいのか、わかんないよ」
 寝台に投げ出していた腕の右だけをゆらりと持ち上げ目の前にかざして、ささめくようにフッチが言う。
「おう、礼ならありがたく受け取りマス」
 後味を洗い流すように残りの水をなめていたサスケが軽口で返すが。
「ありがとうって言うより馬鹿野郎って言いたい」
「……そぉデスカ」
 まだどこか夢心地のような声のくせに、やけにきっぱりはっきりそんなこと言われては、自分はいったいなんと言い返せばいいのでしょうか。
「そうだよ、俺なんか庇ってどうするんだよ」
「ん、いやあれは迎え撃とうとして、しくじっただけ」
「んなの知るか」
 ふとサスケも気づく。
 淡々と静かにしゃべっているけれど、こいつもしかしてめちゃくちゃ怒ってるんだろうか、と。
 言葉遣いもなんか感じ違うし。
「傷は?」
 しかも、振っておきながら唐突に話題を飛ばすし。
「あのルックってヤツにキレイサッパリ治してもらった」
「ルックが? ……俺、寝る」
 ぱたんとフッチの腕が落ちるのとその言葉はほとんど同時だった。
「えー、俺、暇なのに」
「知るか。馬鹿野郎」
 さすがに繰り返されてはサスケもむっとくる。
「何だってんだよ、さっきから馬鹿馬鹿言いやがって……!」
 立ち上がろうと床に足を着けば、貧血でくらりと傾ぎそうになったけれどそこはぐっと力を入れて踏みとどまった。そのまま隣の寝台に両腕突っ張って片膝乗り上げて、妙に不機嫌なフッチを半ば睨むように見据える。
「俺が勝手にヘマやって怪我して、なんでおまえがンなに怒るんだよ」
 なんでそんなに怒るの。
「うるっさいな、ほっとけよ」
 なんでそんなに辛そうなの。
「何だよ気になるだろ、一人で勝手に尖りやがって」
 がばっとシーツを頭から被って潜ってしまったフッチに言い募ったら。
「…………また」
 しばらくして、くぐもった返事が聞こえてきた。
「"また"?」
「また、死んじゃうのかと思って、……怖かったんだよ」
 床の上に、螢の死骸が一つ転がっていた。
 ああ、きっとこれは昨夜見た、迷い螢。
「怖かった――?」
 一粒も泣きはしなかったのだ。
 
 
 
 森の螢に見た幻は、見たことのない死だった。
 
 ブラックを喪って間もない頃、見たことのないその死を、見た者から聞き出した話と、過去に見たことのある他の死と、つぎはぎだらけのイメージで、幾度となく夢に見ていた。
 うわごとでイカナイデと泣きながら、夢に見ていた。
 
 真夜中に病室で目が覚めて。
 たった一匹の迷い蛍に、見たばかりの夢を思い起こした。
 
 ブライトと出会って間もない頃、ひどく懐かしいブラックとの出会いを、幼い記憶の中から、新しい記憶の中から、つぎはぎだらけのイメージで、たった一度だけ夢に見た。
 初めて飛んだ風の色に泣きたくなって、目が覚めた。
 
 螢の幻灯に映し出されたのは、旧い夢。
 無邪気に蟻を踏みにじった日々は過ぎ去って。
 死を厭う面持ちを張りつかせながら人を殺す。
 
 
 諦めることを覚えたら、大人になれるのでしょうか。
「なぁなぁ、カスミさん」
 周りをこそこそうかがいながらひょっこり顔を出したサスケに、カスミが微笑んで肯く。今はいいよという、どこか懐かしい合図。
 理由もわからないけど、誰かに言いたかった。
 そう思ったら、この人にしか、言いたくなかった。
 一番最初に見つかったとき、自分が敵を殺せなかったことも。
 昏倒させた敵の心臓をフッチが外したとき、刺さったトゲのようにちくりと嫌な感じがしたことも。
 毒にあえぐ敵が一撃であっさりと絶命してくれたとき、なぜだかどうしようもなく、ほっとしてしまったことも。
 初めてあんな大怪我をして、もしかしたら死ぬかもしれなかったのに、それがたまらなく怖くなったのは、怪我もすっかり治った後、フッチと話したときだったことも。
 とりとめもなく、声に熱もなく、見たもの聞いたもの感じたものを、思い出せる限り話したら。
「忘れないで」
 そう言ったカスミの微笑み方が、サスケにはひどく不思議に見えた。
「いつか、わかるときが来るから」
 
 
「こら飼い主」
 憮然とした声音に振り返ると、尖塔の屋上に上がってきた、ルックの後ろを親鳥についていく雛鳥のように歩いていた白い子竜がまっしぐらに飛びついてきた。それを屈んで抱きとめて撫でてやりながら、ふとフッチは顔を上げる。
「ルック」
 いろんなことを、あの頃は訊いて回った覚えがあった。
「何さ」
「ブラックはあの時、一瞬で死んだのかな」
 けれど、これは訊かなかった。
 自分は何も見ていなかった。だから知らなかったのに。気がついたときには寝台の上だった。気がついたときには、もう。
 だから、訊かなければ知らないことなのに。
「――そんなこと、あるわけないだろう」
 そう答えたルックの声は、フッチには不思議と穏やかに聞こえた。
「ですよね、やっぱり」
 だったら自分は生きてない。
 そんなこと、もうずっとずっとわかっていた。
「会いたいな」
 目に痛いほど青い空に、真夏の風が吹く。
 無邪気にすべてを望めなくなったのは、いつからだったろう。
 甘い幻想を諦められるようになったのは、いつからだったろう。
 見知らぬ人を殺すことにも諦めたのは、いったいいつだったろう。
 
 
 
 
 たくさんの命を奪って。
 たくさんの命を喪って。
 たくさんの死を知って。
 ただの子供のままではいられなかった、それでも。
 やわらかに笑う、そんなあの人が、大好きです。
 
 
 
 
 
 
 こんな褪せない信も、幼く甘やかなのかもしれないけれど。
「ブライト」
 呼びかけると嬉しそうに青の目を細める、この幼子が愛おしい。
 白い白い、小さな竜。
「そいつが?」
 森の中でも見たのをサスケは思い出す。確かルックが飼い主を見つけだすために連れてきたとかなんとか。竜と竜騎士。なるほどと納得。
「そ」
 膝の上を見下ろしたサスケに、笑ってフッチが肯く。ぐっと背を反らせてブライトは見慣れないサスケの顔を、大きな目でじっと見つめていた。
「可愛いだろ?」
 言いながら相好を崩すフッチにつられて、少しこわごわと、ブライトの頭にサスケの手が伸びる。と。
 かぷり。
 本当にそんな音がしたかどうかは定かでないけれど。
「あ」
 フッチはどうしようもなく無表情で眺め、目を瞬かせて。
 サスケは呆然と、まだ牙の生え揃ってないブライトの口に半ばまで噛みつかれた自分の、あわれな手を見下ろしていた。
「…………こ、の」
 その右手が震えるのは、痛みからではない。
「――やろぉっ!!」
 怒鳴りながら左手でブライトの口をこじ開け右手を救出して、さてどう仕返ししてくれようと睨みつけたら。
「ったくもう、何やってるんだよ……!」
 弾かれたように、思いっきり笑われた。
 ああ、笑われているのはいったいどちらだろう?
「おまえのそれに言え!」
「平気平気、そっぽ向かれるよりいいって!」
「噛みつかれて何がいいんだ!?」
「きっと親愛表現! うん、そうだろ!」
 そんな涙にじませてまで笑わないでください。
「くぃ?」
 首をきょとりと傾げてブライトは、主人とその隣を交互に見やり。
「……くぁ」
 のほほんと大口開けて、大あくびした。
 きっと怒る気が失せたのは、揃ってこれだから。
 サスケはがっくり肩を落として、それからちょっとだけ笑った。
 フッチは深呼吸して落ち着いてから、涙を手で拭った。
「これからもヨロシク」
 そう言ったのは、どちらからだったっけ?












* b a c k *




 この長い重い話を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 幻水でじっくり重い話を書くのは久しぶりでしたが、書き始めに考えていた物よりも、出来上がりは遥かに重くなりました。タイトルが[子供たちの戦場]に決まった頃からでしょうか、もともと思っていた、フッチとサスケが友達関係築くまでの話というだけでなくなったのは。

 それで、いつもはテーマをわりと水面近くに出して物語っているつもりですが、今回はたぶんずっと深いところに沈んでると思います。明言らしい明言は避けました。
 願わくば、万華鏡のように読み込んでいただけると物書き冥利に尽きます。でもってその想いを、一言でも構いませんので私にもお教えくださると感激です。