ひ  と  ひ  ら  の  い  ろ














 ひとつ。ひとつ。
 ひとよにひとつ。
 
 そんなことを始めたのは、いつだったろう。
 そのときの自分を、もう覚えていないけれど。
 
 今も覚えているのは、この色だけ、だけれど。














 それはまるで、魔法のようだった。
 息をひたりと潜めたまま、固唾を飲んでじっと手元を見つめる子供たちの姿に、カスミは口の端に小さく笑みをにじませると。手にしたそれをすっと夕風の上にすべらせる。
「わあっ」
 子供たちの視線は、頭上を過ぎる白い影につられるまま、ぐるうりと一巡りして。そして、一転して皆は歓声を上げながら追いかけ走りだした。
「――紙の羽」
 ゆらりと重さを感じさせない仕草で、カスミが振り返る。
 微かにこぼされたつぶやきの、主へと。
「懐かしいね」
 すうっと子供たちの輪の中に落ちてゆく白い翼を、シフォンはうっすらと目を細めて見つめていた。
「泣いていたんです。どこにもいなくなってしまった、と」
 しっとり細くささやかれた声が、夕焼けに散った。
 はらはらと。














 その日も、空は見事な茜色に燃えていた。
 同じ色に染まる城の、テラスの縁から、そっと。
 そっと、手から湖を駆ける風へと、白い翼をゆだねた。
 小さな羽を追って仰いだ空の下、最上階の窓に若き主の姿を認め――目が、あった。
 彼の人はわずかにその目を細めたかと思うと、ふいと部屋の中へ姿を消す。
 己の所業に呆れられたかと思っていたが、意外なことに。
「今のは?」
 シフォンは、カスミのところにまで降りてきた。
 
 
 ――はらりと真白〈ましろ〉が水面〈みなも〉に消える。
 
 
 それは、常勝将軍テオ・マクドールとの戦に解放軍が勝利し、幾日を過ぎた頃であったろうか。
 突然のことに立ちつくすカスミの隣に、いっそ無造作にシフォンは並ぶと、もう見当たらない白い羽を探すように湖面を見下ろした。
「……カスミ?」
「あの、あれは、紙でつくった鳥、です」
 呆けたひとときを恥じながら、足下に石で留め置いていた紙片を目で指し示し、カスミが口を開く。
「ロッカクの里の、子供の遊び、なんです」
「その紙が、空を飛ぶのか?」
 ひどく不思議そうに、シフォンが目を瞬いた。
 それがとても年相応の仕草に見えて、自分と大差ない年頃の少年に見えて、カスミの強張りが知らず知らずながらすっとほどかれる。
「はい。飛びますよ」
 微笑んで、紙片を一枚取り上げると。地面についた膝の上で、カスミは手際よく白い紙を幾度も折っていく。
 初めて見る者にはそれは、さながら魔法のようで。
「どうぞ」
 出来上がって渡されたその翼を、シフォンは感嘆の眼差しで様々な角度から眺め回した。
「へぇ。本当に、一枚の紙なんだ」
 しばし翼と湖とを交互に見やってから、先ほどのカスミを真似て、シフォンがそれを空に投げる。
 
 
 ――白い翼は、音もなく風にさらわれて、夕焼けに消えた。
 
 
「それも?」
 飛ぶとは思えないけれど。鳥の形をしているように、思った。
「折り鶴です。これは飛びませんが、願い事を一つ込めて、千羽、折るんです」
「願い事を……」
 光を受けてわずかな緋を帯びる黒が、揺れる。
「教えて、もらえる?」
 微笑み頷こうとして、ようやくカスミは気づく。
 シフォンの両手にきっちりはめられた、真新しい革手袋。
 長い袖からのぞく手首に巻かれた、真新しい包帯。
 綺麗すぎることが、かえって際立たせてしまうことも、あるのだろう。
「気づかれたかな」
 そのつぶやきを空虚、もしくはいっそ自嘲じみた声音だと、思ったのだ。
「……いいえ、いいえ」
 すぐさま首を振った。折しも風が吹いた。ずいぶんと伸びてきた黒髪がめちゃくちゃに舞って、湖面にも波が立つ。
「いいんだ。カスミの故郷を焼き払ったのは僕の父で、僕は――父を殺した」
「そんな……!」
 咄嗟に上がった、上擦った声に少し驚いたように、シフォンが振り向いた。その視線にカスミも我に返ってしまうが、それでも必死に言葉を続ける。
「あの、そんな仰り方は、どうかおやめください。そんなことは、理由にはならないと思います。そんなことを、理由になんてなさらなくていいと、私は思います」
 そうして、気づいた。
「君は憎くはないのか? 君の里は」
「確かに悲しみは今もあります。けれど私が、里が焼かれたことを、両親の死を悲しむのなら」
 そっと息をつく。気づいた。
 気づけた。
「それと同じように、シフォン様がお父上の死を悲しまれることもまた当然だと、思います」
「悲しむ? ――自分の手で、殺しておきながら?」
 議場で、静かにすべてを決し、人々を一つにまとめる声を聞いた。
 戦場で、この若さで革命軍を率いるだけの器たる、力強く響く声を聞いた。
 けれど、このひび割れた声は。
「そうです。家族を亡くして、大切な人を亡くして、悲しくないわけ、ないじゃないですか」
 ああ、泣けたらいいのに。
 もう涙が出ない。忌まわしい炎を背に走った、あの日にすべて流れ尽くしてしまったのだろうか。
 泣けたら、もしかしたら。
「ったく、ずるいな。本当に」
 いつの間にか陽はすっかり沈んでいて。
「……そう、ですね。私もそう思います」
 頭上に広がる空の色は、薄い薄い紺碧になっていた。
「ねぇ。僕に、何が出来る? 僕は、何を願える?」
 まっすぐ空を仰げば、風が少し、目にしみた。














 はらはらと。
 落ちる白い羽を見つめながら。子供たちを見つめながら。
 吹く風に、ひやりとした。
 それはおそらく、冬だからというだけではなくて。
「僕も思い上がってた、んだろうな」
 どこか苦しげに眉根を寄せ、シフォンがつぶやく。
「莫迦だったかもしれない」
 そうだ、莫迦げている。まさか忘れていたのだろうか。ティント市が陥落したあの時、市民からもティンランからも、死者は多数出た。リドリー将軍だけではない。シフォンのみならずセファルさえ、名前も顔も、知らないような人々が。
 たとえ、神ならぬ人の身で出来ることなど、小さくても。
「忘れないことなら、出来ます」
 きっと。ささめくように、けれど清かに、カスミが声を響かせた。
「すべてを覚え続けることは、苦痛じゃないのか」
 すべてを背負う生き方を、選ぼうと思ったことが、ないわけではない。
「それでも人は忘れます」
 忘れない想いだけを、覚えているだけで。
「きっと人とは、そうやって悲しみと生きていくのでしょう」
 真っ黒なカスミの瞳が、少し赤みのあるシフォンの黒を、まっすぐ見据える。
「……そうだね、そうだった」
 うっすらと微笑んでみる。
 いつかのように。あの日のように。
 やはり、涙は流れない。














 空を舞う、自由な、孤独な、一対の翼ではなくて。
 数多の願いを託され、結ばれた、千羽の鶴となろう。
 
 
 それは、竜洞騎士団との同盟を成し、幾日を過ぎた頃であったろうか。
 白紙で折った翼を、部屋の窓からそっと、空の青へと送った。
 白羽はゆうるりと、深く静かに揺らめく、湖の青に溶けゆく。
 眩しい陽の光に目を細め、緩やかにうっすらとだけ、微笑ってみた。
「……まだ、笑える」
 笑えた。涙はもう、流れないけれど。
「オデッサさん、グレミオ、父上、……テッド」
 青い空と湖が綺麗だと、ひどく久しぶりに、思った。
 
 
 ――僕は生きてるよ。生きるよ。
 
 
「糸と針、お持ちしました」
「ああ、ありがとう」
 窓の外から振り返って、部屋の入り口に立つカスミと笑み交わす。
 釘ほどの小さな木片を留め具にして、縫い針より一回り太く長い針で。
「何やってんの」
 ルックが床にばらまかれた小鶴を見て、呆れたように目を細めた。
「ロッカクの里の、願掛けです」
「こんなたくさん……しかもまだ増やしてるのかい?」
「俺も折ったぜ」
 小降りの籠いっぱいの小鶴を持った、フッチが部屋に戻ってくる。
「何それ」
「じゃあルックもやろう」
「な、ちょっと待ちなよ、じゃあって」
「待たない。人並みの器用さがあれば出来るって。みんなも出来た」
「あと二百かな」
「はぁ!?」
 そうは言っても、一つ、一つ。
 一つ一つ、百を数えるまで、白い折り鶴を一つなぎにして。
 それが、十、揃ったら、上に余らせた糸を結びあわせて。
「絶対ここだ! あの使ってない燭台がちょうどいい!」
 有無を言わせぬ勢いで言い切って、ホールの一角をシフォンはびしっと指で指し示した。
「へいへい」
 周囲を通りがかる者たちの、何をするのだろうという好奇に染まった視線が少々うるさいが。苦笑いを浮かべつつ、フリックは指示に従う。
「何を願ったんだ?」
「ん? ああ……」
 ふとシフォンとカスミの視線が絡んだ。
「やっぱり秘密にしとく」
 忘れられないままでも、笑える。
 悲しみが消えなくても、笑える。
 だから。














 みんな、幸せに。














+ b a c k +












 言葉が全然足りてないなぁと涙しながら思いつつ、お久しぶりです幻水小説。シフとカスミを主軸に(出来ればこれでもシフ×カスミなんだと私以外にもわかっていただけるように<それは無理)、いつもの面々もちらほら顔出させてみたり。
 ずっと思いついてながら書けなくて頭の中を行ったり来たりのテーマだったんですが。やっぱりまだまだ消化不良ですね、私程度の人間では。精進せねば。