広い屋根の上に一人寝そべったまま、右の手のひらを太陽にかざす。
 逆光で陰った手の甲に、それでもくっきりと浮かび上がる、燃え盛る炎を象った紋章。
「炎の英雄、か……」
 継承してしばらくは、ただただ必死だった。
 それでは今は、どうだろう。
 ハルモニアの侵攻と、破壊者たちの暗躍と、新たな炎の運び手と。
 この数ヶ月で目まぐるしく変化した、たくさんのこと。
 背中に感じる、カラヤの草葺き屋根とは違って冷たく硬い屋根。
 草よりも水の匂いが混じった風。
 そして、ふとした瞬間に滲み出る、白昼夢のようなイメージの欠片。




 ──少しだけ、右手を重く感じた。









Meridian Child









 それは、記憶そのものではないのかもしれなかった。
 たとえば日中に茫漠としている時、夜中の眠りにある時、まるで囁きかけるように、永い永い物語を少しずつ語るかのように、時にはぼんやりと、時にははっきりとしたイメージが、脳裏で綴られる。自分のものではない感情すら伴うこともあった。
 最初こそ自分の身に何が起きているのか理解できず狼狽えもしたが、この現象が何度も続くうちに、ヒューゴも悟った。
 この白昼夢のようなイメージは、そう遠くない過去であることを。
「何を言いたいんですか?」
 ヒューゴは自分のものではない視界で一面の炎を見つめながら、何度目かの試みか、自分の内側に潜む語り部に問いを投げかけた。
 けれど、いつものように誰かの音なき声が波紋となって、白昼夢は霧散してしまう。
 今の視界を染めるのは、一面の青。
 これは、現実。
 ヒューゴは上体を起こすと、何も掴めない右手をぐっと握り締めた。
「何なんだよ……」
 多くの命を飲み込んでもなお尽きることのない炎の輝きが、今も脳裏に灼きついている。
 紋章を受け継いだばかりの頃に流れ込んできた記憶は、絶え間なき戦乱の歴史を、そして五十年前の草原に穿たれたハルモニアの爪痕を垣間見せた。
 だが、最近のイメージはそれとは少し違う、そんな気がしていた。
 何かを告げようとしている、そんな気がしてならなかった。何の根拠もないが、確信すらあった。だが、さながら目に見えても音が聞こえないかのように、言葉が通じないかのように、それがいったい何なのかが、ヒューゴにはまったく理解できない。
 そのもどかしさに、思わずため息がこぼれた。
「どうした、ため息なんぞついて」
「軍曹」
 つと掛かった声にヒューゴが顔を上げると、屋根裏部屋からひょっこり顔を出したジョー軍曹が軽く手を振った。
「変わらないな、おまえは。何かっちゃ、こういう場所にいる」
 そのまま屋根には上がってこず、軍曹は周りを一瞥すると何処か呆れた口調で笑った。
「うん、フーバーは狩りに出かけてるみたいだったし」
 ヒューゴは曖昧に笑って答えを返した。
 高いところがとても気持ちいいと知ったのは、初めてフーバーと一緒に空高く飛んだ時だった。
 少しだけ大地から離れた場所で空を見上げることが、たまらなく好きになった。
 少しだけ、違う風を感じられる気がして、気持ちが軽くなるような気がして。
 それに今は、他の誰にも見られないことが少しだけ気休めにもなる。
「ところで軍曹、もしかして俺を探しに来た?」
 この数日はハルモニア軍も破壊者たちも動きを見せていないので、今はもっぱら炎の運び手の規模を拡大することと、構成する各集団間の安定した協調体制の確立、そして情報収集に終始している。特にヒューゴでなくてはならない仕事は少ないが、新たな炎の英雄として同席を求められることも皆無ではない。
「招集が掛かるほどのことじゃないようだが、何か妙な話が飛び込んできたらしいぞ。例の、仮面のやっこさんがどうとか言っていたのでな、一応知らせに来た」
 それで執務室でシーザーとゲドが話し込んでいると軍曹が言い終える頃には、多少なりと角度のある屋根の上を、まったく気にすることなく駆け寄ったヒューゴが部屋の中へと押し込もうとしていた。
「だったら急がないとね、ほら、出入り口は狭いんだからさ!」
「こら、押すんじゃない!」
 ヒューゴの頭を、ぽふっと真っ白い羽毛ではたく。
「まったく……英雄の後継になったというのに、まだまだしょうがない奴だな」
 そうして軍曹は、また笑った。




 見上げた空の太陽は、中天に差し掛かろうとしていた。




 半開きにした扉の隙間から、伺うようにヒューゴが執務室の中を覗く。と、ちょうど蝶番が軋む音に気づいて振り返ったゲドの隻眼とまっすぐ目があった。
「あの、仮面の奴のことで何かあったって……」
 その感情の薄い静かな視線に、思わずヒューゴの身が強張る。ひどく静かなのに、威圧されているわけでもないのに何故か、今のように不意に視線が交合すると、奇妙な圧迫感に似たものを感じてしまう。
「ああ。カレリアで、仮面の神官将を探っている男がいるらしい」
 ゲドは端的にそれだけを言うと、執務室の奥でだらしなく机の上に頬杖をついているシーザーに向き直った。つられたようにヒューゴもそちらに目線を逃がし、ついでに部屋の中に足を踏み入れるとシーザーの机の脇に陣取る。
「それで?」
「そうだな、わざわざ炎の英雄にお出ましを願うほどのことじゃないだろうが」
 いつもの眠そうな目を数秒だけ天井に彷徨わせながらシーザーはそう続けると、面倒臭そうにため息をついて説明を始めた。
「その男は二十代半ばの剣士で、グラスランド人ともゼクセン人とも、毛色が違うようだ。もちろんカレリアに属する傭兵でもない。少し前にふらっと現れた、旅の者らしい。正直、別に捨て置いても構わないんだろうが……」
「でも気になるんだろ?」
 ヒューゴがそう言うと、シーザーが軽く肩をすくめた。
「まあな。ハルモニアからでも何処からでもいいが、わざわざ探して追いかけてきてるってんなら、あいつらと何らかの関係、または情報を持っている可能性がある。単なる真の紋章狩りにしては奴ら──確か"破壊者"とかいったか――の動きはとにかく妙だし、アルマ・キナンでの件も引っかかるしな。今は少しでも情報が欲しい」
 だから却下する理由は何もないと言って締めくくるとシーザーは、白い書類にすらすらとペンを走らせた。
 書き付けられたのはゲドの名と今日の日付、目的、そして最後に行き先であるカレリアと。
「ゲドさんが行くんですか?」
 顔を上げ問うたヒューゴに、ゲドは無言で首肯を返す。
「つーか、この話を持ってきたのも、向こうで顔が利くのもゲドだ」
「そうなんだ」
「そう。まあ、行きはテレポートで飛ばしてもらえば一瞬だし、あんた強いし、あとは一応で一人か二人つけるくらいで充分だろ」
「ああ。では、これで承認だな」
「ヒューゴも異論ねえ?」
 話を振られたヒューゴが面食らう。ここで振られるとは思っていなかったのだ。
「え? ええと、うん、──あ」
 慌てて何度も肯きながら、ふと思いついたことは次の瞬間そのまま口に出されていた。
「あの、俺ついていってもいいかな? ……いいですか、ゲドさん?」
 その申し出に、シーザーもゲドもわずかに目を見張った。
「カレリアって行ったことなくて、それに瞬きの手鏡なら帰りもすぐだし……」
「あー、そうだな……よし、日帰りで片づくんならそれに越したことはないさ。今日明日とヒューゴに来てもらう必要な用事もないし。あんたは?」
 ペンを指先で弄びながらシーザーが後押しする言葉を並べる。
「軍師のおまえが言うなら、構わないが」
 答えるゲドはいったんそこで言葉を切るとヒューゴに目を向けた。
「そのままでは差し障るな」
 意味がわからず、きょとんと首を傾げるヒューゴの横で、足下に転がしていた私物の袋をシーザーは拾い上げる。
「つまり、いくら端っこと言ってもハルモニアの領内、敵地になっちまうからな。さすがにその格好だと――目立ちすぎるぞ、っと」
 中から薄手のマントを引っ張り出した。埃や雨を避けるために使われる、ごくありふれた革製の物だ。立ち上がるとマントをばさりと広げてヒューゴに纏わせる。
「んー、俺のだと少し丈が長いか?」
 膝下にとどまらず足首に掛かるほどの裾は二人の身長差を示していてヒューゴはわずかに悔しくもあったが、それを顔に出すとまたからかわれるだけだろうと思うと、顔に出すわけにはいかない。
「少し足にまとわりつきそうな気がするけど、平気だよ」
 それにカラヤの特徴的な民族衣装は完全に隠れているから、役目には充分だ。
「カレリアは乾いた土地だから旅装としても普通だし、傭兵が多いなら訛りも問題ないだろ。後は──そうだな、その右手は隠した方がいいか」
 びろびろと取り出した包帯で真の火の紋章を手早く包み隠してしまうと、これで支度はおしまいとばかりに、シーザーはヒューゴの肩をぽんと叩いた。
「気をつけて行って来いよ、英雄殿」
 英雄。決して声には出さず、その音をなぞる。




 荒涼とした山脈の合間を埋めるカレリアは、乾いた砂と岩の色の街だった。
「うわ……」
 正門をくぐった瞬間、広がった砂色の景色にヒューゴは思わず感嘆の声を上げる。
 ゼクセンで見られる頑強な石造りの街さえ休戦交渉の親書を届ける際に初めて目の当たりにしたが、ここはグラスランドともゼクセンとも明らかに違う。城壁はもちろん、街の中の建物すべてが、木材でも石材でもない物を積み上げて造られていた。
「何で家を造ってるんですか、ここ?」
 ヒューゴが一歩先を歩くゲドに訊ねると、彼はわずかに隻眼を細めた。
「煉瓦だ。石も使うがな」
 正門からまっすぐ伸びる大通りの両側は市場になっていて、所狭しと露天がひしめいていた。秋だからか、そのどれもが人と物で溢れかえっている。色とりどりの織物や装飾品、見たことのない様々な食品が並べられた店先にちらちらと目移りしながらも、ともすれば賑やかな商人の声に掻き消されそうなゲドの声をヒューゴはきちんと聞き取っていて、訝り首を傾げた。
「え? 煉瓦って、ずいぶん感じが違う……」
 ヒューゴの知る煉瓦は赤みを帯びていて見るからに固く滑らかで、こんな風にざらついた砂の色はしていない。
「この辺りはほとんど雨が降らないからな」
 言われて見回すと確かに、色鮮やかに繁った緑が少ない。まったくないわけではないが、街の両脇にそそり立つ岩山にも街の中にも、褪せた草木がまばらにあるだけだった。
「ここの建物はほとんど、粘土と藁を混ぜて作った日干し煉瓦で作られている」
「煉瓦なのに焼かないの!? すごい……」
 改めてヒューゴは大通りの突き当たりにある酒場兼宿屋を見上げた。この大きな建物の大半が、粘土と藁を固めて干しただけの煉瓦で造られているということは、ヒューゴの想像の域を超えている。だが、それも事実なのだ。
「地域によって、本当に全然違うんですね……俺、本当に外のこと何も知らなかったんだ」
 この争乱が始まるまで、故郷であるカラヤの他には、ダックの村とリザードの大空洞しか見たことがなかった。同じシックスクランであるチシャの村にさえ、今回の騒動で訪れたのが初めてだったのだ。それこそ隠れ里であるアルマ・キナンや、山向こうのセフィの宿営地など、名前以外ほとんど聞いたこともなかった。
「何だか、英雄の後継なんていったって、全然だ」
 通りを行き交う大勢の人々を見やりながらヒューゴが呟く。
 炎の運び手に加わっているのは、シックスクランやゼクセンだけではない。なのに自分は、北グラスランドの諸部族やカマロ、無名諸国、それにそう、たとえばリリィの国であるティント共和国のことも、ほとんど知らないのだ。どんな人たちが、どんな場所で、どんな風に生きているのか。
 炎の英雄。その名は、グラスランドの英雄を指し示す名だ。だが、真の火の紋章と共にその名を引き継いだはずの自分は、グラスランドのことをどれだけ知っているというのだろうか。
 自分の小ささを思い知らされた気がして思わずため息をついたヒューゴは、ふと目の前に黒ずくめの背中がなくなっていることに気づいた。
「あれ? ゲドさん?」
 こういう時に、先ほどとは違う意味で自分の小ささが恨めしい。成長途中の同年代と比べて格段に低いというわけではないが、ちょうど平均程度しかないヒューゴの身長では、人混みを見渡すことは不可能だ。逆にゲドは長身の部類に入るので、こうなってしまっては向こうに見つけてもらうしか手はなくなってしまう。
 と、唐突に横手から左腕を掴まれた。
「うわっ──あ」
「あまりよそ見はしない方がいい」
 そのまま引き寄せられながら、ゲドが小さくついた息にヒューゴは視線を落とす。その中に呆れたような色を感じて、それが彼のもので。
「ごめんなさい、自分からついていくって言い出したのに」
 まさか安堵によるものとは、思いも寄らず。
「人混みは不慣れか」
「え、っと、こんな大勢の人を一度になんて祭りか戦争の時くらいしか見たこと」
 それを聞いてゲドはわずかに隻眼を細めたが、すぐに半ば肩を抱くような形でヒューゴに腕を回すと、彼の言葉が中断されることも厭わず、立ち並ぶ露店に挟まれた細い脇道へと引っ張り込んだ。
「ゲドさん?」
 そのまま立ち止まることなく、早足で露天の隙間を縫うようにして大通りを離れていく。
「傭兵だ」
 言われてヒューゴが首を捻ると、大通りの真ん中を、明らかにこの街の人間とは違う装いの六人組が歩いているのが一瞬だけ見えた。大剣を背負った男が先頭に立っているが、彼もゲドのような隊長だろうか。ふんぞり返って歩いているところなど、ゲドとは違いガキ大将がそのまま大きくなったように感じられた。
「奴らに見つかると面倒でな」
 騒がしい露店も少ない一つ隣の通りに出たところで、そんな呟きと共に肩が解放される。その声が辟易としているらしいことが、男から受けた印象故にヒューゴには不思議で、思わずオウム返しに問うた。
「知っている人なんですか?」
「やたらと絡んでくる上に騒がれて、目立つ」
「……え?」
 深いため息を添えられた答えにヒューゴは目を瞬かせたが、
「俺の連れが、奴らに見慣れないおまえ一人だからな。勘ぐられると厄介だ」
 続けられた言葉に、肩を落とす。カレリアという街への好奇心だけで、現在の情勢もろくに理解せずについてきてしまったことで、今こうしてゲドに普段以上に周囲への気を遣わせてしまっている。
「やっぱり俺、足手まとい、ですよね……」
「おまえが気に病むことではない。意外ではあったがな。……おまえには嫌われていると思っていた」
 ヒューゴの沈んだ声音に、通りに沿って並ぶ店舗をざっと眺めていたゲドは振り向くと、ぽつりとそんなことを言った。
「そ、そんなこと、ないですよっ」
 思わず跳ね上がってしまった自分の声に慌てて周囲を見回すと、特に注意を引いたわけではないようで胸中で安堵しながら、そう思われても仕方がない心当たりのあるヒューゴはきっぱりと否定する。と。
「ふむ……ならば、愛想がなく顔が怖いと言われたことがあるが、そっちか」
「え?」
 並んで歩くゲドの口からしみじみと吐かれたその言葉が意外で、ぽかんと彼の横顔を見上げた。確かに、愛想がいい人好きのする表情を持っているとは到底思えないが。
「目が合うと逸らすだろう、いつも」
「い、いえ、その──何て言うか、そういうんじゃ、ないんです」
 その狼狽えを結果的な肯定と受け取り、ゲドは薄く苦笑に目を細めた。
「気にすることはない。……スフィニやワイアットにも昔さんざん言われたことだ、いちいち無駄に子供を怖がらせるなと」
 古い記憶を引っ張り出して、努めて付け足したこの言葉に案の定、
「それって、俺も子供ってことですか?」
 一転して不満そうに眉根をきゅっと寄せる、そういうところが子供らしいとは、ゲドも口にしない。
「そうだな。俺とは百近く違うだろう」
 その代わり、そう切り返して誤魔化した。
「え、ゲドさんってそんなにお爺さんだったんですか!?」
 途端に返された驚愕しきった反応にゲドも少し驚くが、ヒューゴにしてみれば五十年の歳月と外見の年齢という時間以上は予想していなかったのだ。
「おまえも真の紋章を宿した以上、いつかはそうなるのだがな」
 苦笑混じりに言われて、思わず右手の紋章を見つめる。
「だから五十年前にスフィニさんは、この紋章を外したんですよね」
「それを手放して死ぬか、それとも共に生き続けるか。おまえもいずれ決めねばならないことだ」
 ゲドの言葉に、つとヒューゴは立ち止まって黙り込んだ。
「どうした?」
「ときどき見るんです。この紋章の、昔の記憶を、夢みたいに」
 唐突に。
 振り返ったこの隻眼を意識してしまう、理由が少しだけわかった気がした。
「……あれは必要以上に気に病んだところで、どうにもならん」
 だからヒューゴは、紋章が刻まれた右手をマントの下でゆっくりと握り締めて。
「だから、スフィニさんは本当に凄い人だったんだなって、思います」
 上手く言えなくて、やっと言葉に出来たのは、そんな言い方だった。
「そうだな。あいつは、そういう男だった」
 懐かしむように苦笑したゲドに、ヒューゴも曖昧に微笑んだ。
 握り締めた右手は、まだ小さくて。




 この街の建物は見渡す限り、どれも直線的で四角い形をしていたが、その幅も高さも、ばらばらだった。
 それでいて、乾いた砂の色だけは共通している。
 こうして周りより高い建物の上から見下ろしていると、それがよくわかった。
 これが、カレリアの街。カラヤが草の色を、ゼクセが石の色をしているように、この街は砂の色をしているのだ。
 さらさらと吹く風にまでも、わずかに砂の匂いが交じっている。
 階段状に並んだ建物と寄り添うように繋がった塔の上から、ヒューゴが真下に見える建物の、屋上にある果物屋に目を落とした。店先にずらりと並んだ色とりどりの果物を次々に試すがめつしながら、ゲドと店主は随分と話し込んでいるようだ。もしも上で待つように言われていなければ、ここに気づくこともなく、時間を持て余しただろうなと思う。
 ここはカレリアが一望できる。
 街の通りからでは高い城壁に半ば隠されているカレリア砦も、ここからならばよく見えた。レーテ城と比べれば随分と小さいものの、街にあるどの建物よりも横にも縦にも大きく、多くの人間がいるらしいことが伺える。さながら小さな城か何かのような砦だが、それでもカレリアは、ハルモニアの最果てに過ぎない。ルビーク同様、五十年前にハルモニアに組み込まれてしまった地域で、ハルモニアの国境として関所としての機能すら設けられていない、末端でしかないのだ。
 ヒューゴは、砦のさらに向こう側の空へと目を向ける。
 グラスランドに面したハルモニアの関所は、今も五十年前と変わらぬ場所にあるらしい。グラスランドを東西に分断している山脈の向こうにはセフィや、かつてはカラヤも暮らしていた高原地帯が広がっているが、その北方に位置する関所の砦にハルモニア軍の本隊は駐屯しているはずだと、先ほどゲドが説明してくれたのを思い出す。カレリア砦では派遣された全軍を抱えることが出来ないというのだ。つまり、国境の砦はこのカレリア砦以上の規模を有していることになる。
 ハルモニア神聖国は、巨大かつ強大な国だ。想像を絶するほどに。
 右手に巻きつけていた真っ白な包帯を、するりとほどく。
 この手に宿っている紋章の暴走がもたらしたという十日間の大火も、ハルモニアの国境に程近い草原でのことだったという。畢竟、炎の英雄スフィニが"一つの神殿"から真の火の紋章を強奪した時を除いては、グラスランドはついぞハルモニアの本体に牙を立てることさえ出来なかったのである。
 その大国の中心たる首都クリスタルバレーに至っては、品物であろうと知識であろうと技術であろうと、すべてが集いすべてが手に入ると言われているのだ。
 不意に、視界が滲むように溶けていく。
 蜃気楼のように浮かぶ、高い塔の上からでも向こうの果てが見えないほど広大な、都市。ビネ・デル・ゼクセなど比較にもならないほど滑らかで美しい街並みには、いったいどれだけの人間が生活しているのだろうか。
 右手から、熱がじんわりと染み込んでくる。
 目の当たりにした首都の光景に、ハルモニアという力の一種の現れとも言える光景に圧倒されながらも、それでも少なからず、感動が湧き起こっていた。ハルモニアにではなく、もっと漠然とした、おそらくは世界そのものに。
 雲一つない空を見上げて、ゆっくりと目を閉じ、再び開いた視界はカレリアを映していた。あんな光景を、いつか自分自身の目で見てみたいという念も、ヒューゴのものだ。
 それでもまだ胸の奥に、誰の物ともつかない驚愕の残滓が残っている。この奇妙な感覚にはなかなか慣れなかった。
 ──気持ちが悪い。
 思わず胸元を押さえつける。単なる眩暈や不快感とは違う、足下が覚束ない、緩やかに落ちていってしまうような、ひどく冷えた感覚。
 それに気が取られて、ヒューゴは気づけなかった。
「珍しいね、君、グラスランドの人だろう?」
 こうして声を掛けられるまで。
 はっと我に返ったヒューゴが慌てて声のした方に振り向くと、若い男と目があった。
 わずかに階段を上りきっていないのに、目線の高さが揃っている。かなり大きな剣を背負っていて、グラスランドともゼクセンとも、このカレリアとも異なる服装で、見慣れない装飾が施されたサークレットをはめていた。
「驚かせてしまったかな、ごめんね」
 びくりと身を強張らせたヒューゴに、闖入者たる男はやわらかな笑みを浮かべると、場違いなほどにのんびりとした声音で詫びた。その響きの穏やかさにヒューゴは強張った肩の力を抜きながらも、警戒は解かない。この男はグラスランドと、そう言ったのだ。
 マントの下で、そっと腰のルフトの柄に手を伸ばす。
「……俺に、何か用ですか?」
 が、小さく笑って肩をすくめた男は、ひらひらと両手を振ってみせた。
「別に君のことを突き出したりはしないよ。僕はハルモニアの人間じゃない。ここからなら町がよく見えそうだから来てみただけなんだ。だから、刃物は抜かないでもらえるかな。こんな狭いところじゃ危ないし、ね」
 ヒューゴは唇を噛むと、ルフトから手を離す。
 男の接近に気づかなかったことも、声を掛けられた時に露骨に狼狽えてしまったことも、すっかり見抜かれていることも、そして男の動じた気配など微塵もない態度も。
 何もかもが自分を情けなく思わせる。
「お兄さん、旅の人?」
 その時、ふとカレリアに来た目的を思い出した。
 仮面の神官将を追っているらしい男。その特徴に、この男は合致するのではないか。
「ああ。人を捜しているんだ」
 わずかに視線を落とした男は、困ったような苦笑を滲ませる。
「急に飛び出して、行ってしまってね」
 そして再び視線が重なった、ほんの一瞬。彼の双眸にひどく重たい輝きが閃いた。
「君は知らないかな?」
 気がしたが。
──君より少し年下の女の子なんだけど」
 気がついたときには、そんな光は何処にもなかった。
「女の子?」
「そう。僕みたいなサークレットをしていて、金髪の」
「俺は見ませんでしたけど。その子と、はぐれたんですか?」
「まあね。わざと困らせているのかと思いたくなるくらいだよ。ったく……急いでいると何度言ったらわかるんだか」
 独り言ちて落とされたため息には、疲れと苛立ちが交じっている。はぐれたのは今回が初めてではないのだろう。
「その子だって、そんなつもりじゃないと思いますけど」
 思わずそう言い返して、少しだけ唇を噛む。ムキになってしまった声音は、少女と自分を重ねてしまったせいだろうか。
「ああ。わかってはいるんだけどね」
 ゆっくりとヒューゴの隣に並んで街並みを眺めた横顔は、呆れたような苦笑だった。
「え?」
「好奇心。君だって、初めての街は新鮮で面白いだろう?」
「それは」
「何があったかは知らないけど、気にしすぎるのはよくないよ。知りたいと思うのは、少しも悪いことじゃない。一度や二度はぐれても、そういう時に面倒を見るのは大人の仕事だ。反省して次から気をつけてくれれば、それでいい。興味があるのは当然なんだし、何も見るなと言いたいわけじゃないんだ」
 わずかに細められた目が、ひどく優しげで。
「僕だって、君たちくらいの頃は、そうだったんだから」
「昔から、あちこち旅していたんですか?」
「まあ、いろいろと事情があってね。ただなあ、あの子は」
 大仰に肩をすくめると、手すりに背を預けたまま、男は肩越しに空に目を向けた。
「さんざん人に心配かけておきながら、ちっとも悪びれない。自分が迷子になった自覚もない。そのくせ、人に辛気くさい顔するなと文句をつける」
 遠くを見るように細めた目が、青い空を見上げている。
「君も高いところが好きなのかい?」
 唐突な問いかけに戸惑いながらも、その声音がやわらかいことに、そのやわらかさがひどく覚えのある響きと同種であることに気づいたら、返事は自然と口をついていた。
「好きです。お兄さんも?」
 塔の上を囲む、ざらついた厚手の手すりに上体を預けたまま男はヒューゴに振り向くと、静かに笑みを強めた。その視線が手すりに置いていた右手を見ていることに気づいて、ヒューゴは慌ててマントの下に引っ込める。
「好きだよ。でも、僕にとって空は居場所なんだ。見上げるものじゃない」
「見上げる?」
「そう。昔、僕の兄が言ったんだ。高い場所は空と地面の狭間だから、見上げた空からも、見下ろす地面からも、どちらからも遠ざかった場所だってね」
 言いながら向けられた男の視線は、今までと違い、ひどく切実で、
「君も、そうなのかな」
 思わず心臓が跳ねた。
「新しい、炎の英雄さん?」




 ──英雄という言葉は、枷にも呪縛にもなる。
 一人の少年が、かつての炎の英雄の志を継ぐと人々の前で宣言したあの日。
 新たな炎の英雄の出現に、新たな炎の運び手の旗揚げに、そして初勝利の凱旋に、誰もが沸き立ったあの日。
 ヒューゴとシーザーだけを呼び止めたアップルは、ひどく静かに、言ったのだ。
 忘れないで、と。




 思わずぞっとした、戦慄は真っ白くて。
「違う!!」
 反射的に叫んだ否定の声は思いの外、大きく響いた。
「違うんだ、これは、この紋章は──そう、烈火の紋章で」
 右手の甲を左手で包み隠して、上擦って引きつりそうになる声を、なんとか沈めようと努力するが、あまり成功しているとは言い難い。
「君は烈火の紋章を見たことがない? 形が違うよ」
「なっ」
 たまらず絶句してしまったヒューゴに、男はくつくつと笑った。
「それにしても、まさかこんな所で出会えるなんて思ってもいなかったな」
 ふらつきながら後ずさるが、こんな狭い場所では、ヒューゴが階段へと逃げ切るよりも先に男が捕まえることなど容易いだろう。そう考えて、背筋を冷や汗が伝う。今は何をするでもなく腕を組んで立っているだけだが、隙があるわけではなく、そも男の意図は読めない。
「……気づいたか」
 男の呟きを訝る暇もなく、階段を駆け上がってくる一人分の足音が聞こえてきた。それが誰のものなのか振り返って確かめるよりも早く、後ろから強く肩を引き寄せられヒューゴの視界が黒く染まる。
「ヒューゴ!」
 鋭く低い声にささやかれ、ようやく理解した。男との間に割り込む形で、ゲドがヒューゴを背後に庇っているのだ。どっと押し寄せた安堵感に思わず身体中の力が抜けそうになったが、それはすんでの所で踏み止まる。
「最近、仮面の神官将と炎の運び手について嗅ぎ回っているというのは、貴様だな」
 ゲドが発したのは質問ではなく確認で、しかもヒューゴが聞いていた話と、わずかばかりの差違があった。
 あの神官将の件だけではなかったなど、知らない。
 自分たち、炎の運び手のことまでなどと。
 そっと見上げたゲドの横顔は、男を無表情に睨みつけている。
「もう運び手の上層にまで伝わっているとは驚きました。ここは一応ハルモニアの領内なのに、良い情報網をお持ちのようですね」
 張りつめた空気を意に介した風もなく、男は笑った。
「見たところ竜騎士のようだが?」
「よく御存知で」
「昔、縁があったのでな。竜騎士ならば騎竜が一緒か。それとも追放者か?」
 男の表情が初めて、わずかながら歪む。だが、それも一瞬に過ぎなかった。
「今は近くの山に。トランならばまだしも、この辺りの人は竜をまったく御存知ないのが普通でしょう。それに、この街には気性の荒い人が多いと聞きますからね」
 なるべくトラブルは避けたいのでと肩をすくめる男に、ゲドは軽く右手を持ち上げた。乾いた空気に、静電気が神経質な音を立てる。
「その竜騎士が、俺たちに何用だ?」
──あなた達の城に、石版は現れましたか?」
 それまでは誤魔化すこともなく答えを返していた男が、唐突にゲドの尋問を無視して、逆に問い返した。ずっと張りついていた笑みも消え失せて、先ほどヒューゴのことを炎の英雄と呼んだ時のような、息を飲むような切実さが感じられる。
「石版って、もしかして名前が彫ってある、あの……?」
 呟きとも返答ともつかぬヒューゴの小声は、それでも男に届いたようだった。
「そう、一〇八の宿星が刻まれた石版だ!」
「約束の石版のことか」
 ゲドが口にしたのはヒューゴの知らぬ呼称だったが、男は知っているらしく首肯する。
「あの石版に、何かあるんですか?」
 レーテ城の近くに忽然と現れた石版は、いったい何者の手によるのか、ヒューゴたち炎の運び手の者の名が彫り込まれていた。それだけではなく、時折その名前が増えていくのだ。新たに運び手に協力を約束する者が現れた時に。
「僕はそれを訊ねに来たんです」
「どうして?」
 再び微笑んだ、その笑い方は今までとはまるで違っていて。
「人を、捜しているんだ」
 同じ言葉なのに、まったく違って聞こえた。
 そのことに、何故か気づけた。




 ゆっくりと長く尾を引きながら、指笛の澄んだ音が高い空に響き渡る。
 まるで本当に笛を使っているようにしっかり通る音に感嘆しながら、男がまっすぐに見上げる空の一点を、なぞるようにしてヒューゴも見上げた。カレリアからグラスランド方面へと伸びる、曲がりくねった細い山道の片側にそそり立つ崖の向こうから、フーバーのそれよりも力強い羽ばたきの音がしたのだ。
 風を掻き乱しながら舞い降りた真っ白な生き物は、彼のすぐ傍らで控えるように、まるで甘えるかのように擦り寄りながら、その長い首を伏せる。
 その首筋を撫でるようにそっと手を置くと、竜騎士の男はヒューゴたちに向き直った。
「改めて初めまして、ヒューゴ殿、ゲド殿。私は竜洞騎士団第四階位のフッチと申します。先ほどは失礼いたしました」
 フッチと名乗った男が浮かべた微笑は整っていて、並んで空を見上げていた時とは色合いが違うそれに、ヒューゴもこれが外向きだと理解した。
「いえ。これが竜なんですね……」
 真っ白な竜の、大きな空色の双眸は、底知れぬほど深く澄み渡っていた。フーバーもこんな眸をしていたと思い出し、吸い込まれるようにヒューゴは手を伸ばしかけて、寸前で瞼を下ろされたことで我に返る。と。
「名をブライトといいます。どうぞ、撫でてやってください」
「いいんですか?」
 笑顔で促されて、残り僅かな距離を一息に詰めた。
 硬質な鱗に覆われた皮膚は、触れてもフーバーのように生々しく体温を感じることはなかったが、かといって蛇のように冷たくもなく、ひどく滑らかで、さらさらとしていた。ブライトも大人しく、身じろぎ一つせずヒューゴの愛撫を受けている。
「リザードの人たちと少し似てるんですね」
 同じく鱗に覆われた彼らは、普通の蜥蜴などと比べるまでもなく遥かに優れた体温調節機能を持つが、やはり人間よりも熱中症になりやすいために冷暗な場所を好む。火を入れていない城の大浴場で、冷浴をしていることもしばしばだ。
「ええ、竜たちも暑さに強い方ではありませんね。我々の故郷である竜洞も、涼しい高地にありますから」
「やっぱり」
 小さく笑って、ヒューゴは少し目を泳がせてから、今度は苦笑した。
「あの、さっきまでの話し方じゃ、駄目ですか」
「……居心地が悪い?」
「ええと、はい、あんまり。炎の英雄にはなりましたけど、別に俺はとんでもなく偉い人というわけでもないですし、そういうのが必要な時もあるというのはわかるんですけど」
 ちらりとヒューゴの後方を一瞥したフッチが、おかしそうに吹き出す。
「族長の息子といっても、クランの規模からすれば家族みたいな共同体に近いだろうから、君がそう感じるのも仕方がないかもしれないね」
 言われた意味をはっきりとは理解できなかったが、何とはなしに照れくさくなって、慌ててヒューゴは話題を切り替えた。
「と、ところで、はぐれた女の子はいいんですかっ?」
「ああ、それなら」
 そこで言葉を切り、フッチが山道の終着点を見やる。つられて目を向けると、ほとんど同時に、カレリアの門から少女が外に飛び出してきたのが見えた。
 ヒューゴよりも少し年下で、短い金髪にフッチと同じサークレットをはめた少女が。
「もうっ、何でこんなところにいるんだよ!!」
 山道をさながら矢のように一気に駆け上ってきた少女が、その勢いのままフッチに体当たりする。が、彼の方はよろめきもせず何食わぬ顔で受け止めた。
「この子が、さっき探していたシャロン」
 ふわりと笑みが、ヒューゴが初めて会った時のように、やわらかになる。
「たまには見つけてもらうのも悪くないなあ、楽で」
「もう、何言ってるんだよ! 僕の知らないうちにいなくなって、探したんだからね! ブライトを呼ぶ笛が聞こえたから、ここだってわかったけど!」
 そう言って暢気に笑うフッチを、膨れっ面の少女──シャロンが叩こうとするも、そのたびにその手のすべてがフッチの手に受け止められてしまって、ぱしっという小気味いい音ばかりがいくつも上がる。それが勝ち気らしいシャロンのお気に召さないようで、振り回される腕の勢いはじょじょに強まっていた。
「だから、いなくなるのはシャロンの方だろうって、何度言わせるんだい」
「一緒に行っていいって、僕に言ったのはフッチじゃないか!!」
 と、叫ぶなり殴るのはやめて、びしっと人差し指を男に突きつける。
「仕方ないだろう。君がついてこれたなら、追い返すわけにはいかないんだから」
 ほとほと呆れ果てた体で、フッチがシャロンの頭に、真上からぽふっと大きな手を置いた。そのまま軽く頭を押さえ込んだ状態でシャロンをヒューゴの方に向き直らせると、
「この通り騒がしくて本当すまないけど、僕らを君たちの城に招いてもらえないかな。さっきの非礼のお詫びも兼ねて、僕も出来る限りのことはするよ」
「お詫びって何したの」
「シャロンには関係ない」
 ぐいっとフッチの左手に力がこもって、シャロンも揃って頭を下げさせられる。
「レーテ城に、ですか……?」
 ヒューゴが隣を見上げると、ゲドの隻眼と目があった。
 不思議と、その視線も平然と受け止められた。
「フッチさんは仮面の神官将のこと、何か知っているんですか?」
「僕の探している人が失踪したことに関係あるらしくてね、それで調べていたんだ。もとよりトラン共和国の公式な使節としてではなく個人的事情の旅だ。残念だけど、その神官将に関する決定的な情報を持っているわけじゃない」
「そう、ですか……」
「ああでも、多少の情報交換くらいなら出来るかもしれないよ。これでもトランだけじゃなく、デュナンにもパイプを持っているからね」
「じゃあ、とにかく詳しいことは城で、シ──軍師も一緒に聞かせてください。それに、石版が見たいんですよね? なら早く行きましょう!」
「感謝するよ」
 差し出された右手を、ヒューゴも握り返す。
 大きな手だと、思った。




 遠く遠く、遥か彼方から、風が吹く。




 巨大な石碑を見つめる眼差しは、痛いほどに真っ直ぐだった。
 眸を色濃く染めているのは、怒りでもなく嘆きでもなく、あの声のように、ひたすらに切実で、ひどく深く静かな色。
「地微星フッチ……地強星ブライト……地異星シャロン……」
 一〇八の宿星の中から彼は、何故か迷わずに見つけ出した名前を口ずさむ。ヒューゴがフッチを石版の地へと招いた時、その名が既に刻まれていたことに、驚きもせず。
「知っていたんですか?」
 だから、ヒューゴはそう思った。
 フッチは肯きかけたが、小さく横に首を振る。
「こうして地微星として名を刻まれるのは、僕は三度目になる。ブライトの宿星もシャロンの宿星も、もし選ばれているなら、ここだろうと思った。それだけだよ」
「どうして……」
「グラスランドに来て、すぐに君と出会えたから」
 確信に満ちた、低く静まり返った声だった。
「約束とは運命のことだと、僕の兄が教えてくれた。石版とは一〇八星が集う運命を記し、石版の出現は天魁星を中心に宿星が集う兆しだとも。……君は、天魁星じゃないんだね」
 その星の下に刻まれているのは、ヒューゴとは別の名だ。そこには、レーテ城の城主である少年の名が刻まれている。
「時代の英雄と天魁星が一致していないなんて、やっぱり誰かが、『約束』を破ってしまったからなのかな……?」
 石版を一心に見つめたままの呟きは問うような響きで、何処か悲しそうに聞こえた。
「フッチさん?」
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
 目を閉じて首を横に振ると、彼はヒューゴを真っ直ぐに見据える。
「僕は天魁星を二人、知っている」
「さっき、今回が三度目だって言ってましたね」
「そう。一人目はトランの英雄に、二人目はデュナンの英雄になった人だった。その二人ともを、僕はよく知っているつもりだ。カラヤの君には、デュナンの話はあまり気分がいいものではないかもしれないけれど」
 そうして、今は晒されているヒューゴの右手に目を向けた。
「さっき言ったね。どうして高いところから空を見上げるのか」
「フッチさんは竜騎士だから、空が居場所だったんですね」
「ああ。空に還りたくて、空ばかり見上げていた。でも君は、僕とは違うだろう?」
 ヒューゴは肯いた。フーバーと共に飛んでいても、屋根の上に登っていても、そこが自分の居場所とまで思ったことはない。
「空からも地面からも遠いっていう気持ち、何となくだけど、わかるような気がします」
「城の屋上で、それを最初に言ったのはトランの英雄で、今の君とまったく同じことを言ったのがデュナンの英雄だった」
 噛みしめるように言いながらヒューゴを見下ろす彼の瞳は、少し揺れながら、あくまで静かに透き通っていた。
「炎の英雄を受け継いだ君は、この戦争で、何を失い、何を守り、何を得るだろう。君は、どうして受け継いだ?」
 重々しく問われて、ヒューゴはきつく瞼を閉ざす。
「俺は、守りたかったから。グラスランドと、そこに住む人たちを守りたかったから。そのために必要だったんです」
 何度も見たあの紅蓮の白昼夢が、禍々しい炎の輝きが、今も脳裏に灼きついている。
「その紋章の力が、君の大切なものを壊してしまうかもしれないのに?」
 あの、炎のように?
「それでも……諦めたくないんです」
 あの日の故郷は、闇の中、炎に飲まれて燃え落ちた。
「ルルを、親友を亡くした時のような、あんな思いは二度としたくないし、もう誰にもしてほしくないんだ……!!」
 命も、この手から呆気なく抜け落ちたのだ。
「そうか」
 やわらかに笑むと、ゆっくりと一つ、フッチが頷いた。
「竜洞騎士団より三名、今から炎の運び手に助力することを、炎の英雄である君に約束しよう。ハルモニアには僕も思うところがあるしね……それに、こうすることがきっと、僕の旅の目的にも適うことになる」




 夏が終わった後の、風が吹く。




 強い、強い風が。この草原に。
「驚いてくれるかな。嫌そうな顔、されそうだけど。でも」
 さざめく草の波音にかき消されてしまうほどに微かな声でフッチは呟きながら、上方に並ぶ天の宿星の辺りへと手を伸ばして。
「来たよ、グラスランドまで。──君に、会いに」
 誰の名も刻まれていない星を、天間星の空白を、そっと指でなぞった。







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[Meridian Child]はヒューゴ版[子供たちの戦場]であり、またルックとフッチが中心になる『道、別たれて』III篇の序章でもあります。
Meridianは子午線、経線という意味の単語ですが、「子」は北、「午」は南、「経」には縦という意味があるそうな。