拒絶は、二度目。
波に揺られて遠ざかる、小さな小さな舟を見ているしかなかった。
ただ、見ているだけしか。
Life is Like a Boat
ほんとうのわたし
遠ざかっていく、小舟が波間に消えてゆく。
「あっさり引き下がるんだな、案外」
船縁に肘をついて海を、小舟を見つめていたキリオの隣に、テッドがわざと足音を立てて並ぶ。
こんなところでテッドの方から声を掛けてくるのは珍しいと思ったが、海戦の時の彼はいつも他人との関わりを避けながらも、キリオからは付かず離れずの位置を取っている。だから先ほどの騒ぎも何処かで見ていたのだろう。
キリオは小舟から目を離し、小さく笑ってみせた。
「二度目、だから」
断られたのは。
「へえ」
向けられたテッドの目が眇めるように細められて。
だから、笑い損ねたと思った。
「あれ、おまえの友達なんだろ」
「……友達、か」
こぼれたのは自嘲だ。
「そんなの誰から聞いて
――
ああまあ、誰でもいいけど」
「さっき誰かがそう言ってるのが聞こえただけだ」
「そう」
あるかないかの苦笑を滲ませながら海に背を向けて船縁にもたれかかると、自然に視線は空へと向いた。
「仲、悪かったのか」
「ううん、そういうんじゃなかったんだ。いろいろあったせいで、こうなっちゃったけど。でも」
でも、友達ではなかったとは、どうしてか言いたくなかった。
振り返ってみれば、良い友達だったとは決して言えない関係だった。
キリオにとってのスノウ。
そして、スノウにとってのキリオ。
「いつの間にか、間違ってた」
いつからだろう、領主の一人息子で甘やかされて育ったスノウと、しょせん孤児で住み込みの使用人でしかなかった自分とでは、絶対に越えられない壁があると思うようになっていた。
スノウの自慢話に薄く笑顔を張りつかせながら、厭きるようになっていた。フィンガーフート家から独り立ちできるよう掛け合ってみるとグレン団長に言われて、戸惑いながらも嬉しかった。
あの日スノウが恐怖に駆られて船から一人逃げ出した時も、その後に功を焦って突出してしまった時も、何故そんな愚かな真似をと呆れ果てた。ただ、そう思うだけだった。
「僕がいつも、適当に受け流して済ますだけだったから」
どんな嫌なことも、そのうち通り過ぎてしまうのを待っていればいい。
だから何もしなかった。自分からは、何も。
いつからだろう、そんな風に考えるようになっていたのは。
もっとずっと子供だった頃は、違っていた気がするのに。
「当たり障りないように、適当に笑って誤魔化して」
ひどく愚かだった。そんなことに、今更になって気づいた。
「でもそれは、おまえが身を守るために覚えたやり方なんだろ」
孤児だったから。使用人だったから。
「……どう、かな」
抗えば撲たれる。歯向かえば捨てられる。だから仕方なかった。
そんな慰めは優しすぎる。
「たぶん僕は、スノウが言ってくれる友達ってのに縋っていたかったんだ。僕が拾われたのは物心つく前で、海を漂流してた赤ん坊の僕を最初に見つけたのはスノウで、だからスノウは昔からスノウなりに僕のこと気に掛けてくれてて」
孤児で住み込みの使用人でしかなかったキリオが読み書き計算どころか学術書さえ読み解けるのも、海上騎士団の訓練生となることが出来たのも、スノウが常に自分と一緒であることをキリオに望み、父親にその実現を求めたからだ。そのことで父親にどれだけ苦い顔をされても、スノウは譲らなかった。
「小さい頃からずっと、よくわからないまま友達って言われて、僕は他にどうすればいいのかわからなくて」
ずっと自分は空っぽで。
ずっとスノウに手を引かれるままで。
「本当はどうしたかったのかも、よくわからなくて」
結局この手に残されたのは、こんなにも粉々に砕け散った、無惨な結末だけだった。
「それに……どうしたいのかだって、本当はわからないんだ」
その手をまたスノウに伸ばして、何を掴もうとしているのか。
自分はいったい、彼に何を望んでいるのか。
「言っちまえばいいんじゃないか」
テッドは海に目を向けたまま、そう口早に言葉を続ける。
「あの時、俺に言ったみたいに」
友達になろう、って。
ぽつりと呟くように言ったテッドの横顔に、キリオは大きく目を瞠って振り返る。
「友達」
「何でそんな驚くんだよ」
途端テッドが呆れたように顔をしかめた。
「だって」
「やり直したいから、あんなことやったのかと思ったけどな」
「……やり直せるのかな」
考えたこともなかった。スノウに、友達になろうと言うなんて。
「俺はそういうの、わかんねえけど」
「テッドは、友達になってくれない?」
「なろうって言われて、はいそうですかってなれるもんか? それに俺なんかに構ってて、死んでもしらないからな」
憮然と言い返したテッドがため息を落とす。
「死ぬ、って」
「俺の右手の、こいつに喰われて」
振り向いた鋭い眼差しは深く光をうずめながら、声だけはひどく静かに、ひっそりと紡がれた。
それが、彼の背負う重い影。
だから彼は、孤独を選ぶという。
「僕は……僕の命なんて、罰の紋章のおかげで風前の灯火みたいなものだから。今更、大差ないかもしれないよ」
いつ紋章に喰らい尽くされ、何一つ残さず消えてしまうか知れない。
果たして生き長らえる道が存在するのかも定かでない。
ひどく軽い口調で言いながら、紋章の宿る左手を掲げてキリオが作り笑いを滲ませると、テッドはぷいと顔を背けた。
「尚更ごめんだ」
「長生きしないから?」
と、弾かれたように振り返ったテッドが、ずいと詰め寄ってキリオの胸倉を掴む。
「何でそんな簡単に言っちまうんだよ、おまえはっ」
そうして間近から叩きつけられた声が、少し掠れていた。
自分は、彼のように孤独を選ばなかった。
選べなかった。
「たぶん、怖いから」
ひゅっとテッドが息を飲むような音が聞こえた、気がした。
「怖くて怖くて仕方ないんだから、少しくらい強がらせてよ」
キリオは目を伏せて、笑う。
罰の紋章を宿した時から、その真実を知った時から、孤独はいつでも選ぶべき道として目の前に存在していた。
流刑になっても無実を信じて一緒に来てくれた友達とも、すぐ別れるべきだったのかもしれない。今までの宿主の、大半がそうしていたように。多くの人が集う場所になど、その中心に立つなど、すべきではなかったのかもしれない。託されても、多くの仲間と共に紋章の試練を乗り越えろと言われても。自分の命が喰い尽くされてしまった時のことを、その後のことを考えれば。
だが、そんな道を自分は選ばなかった。
選べなかった。
「そうでもしないと、どうやって立ってたらいいのか、わからなくなりそうなんだ」
死の恐怖を背負いながら、孤独に生きる道はどうしても選べなかった。
すべてを失ったと思って諦めることが出来た、あの一人きりの海の静寂を今はもう、思い出せない。
その後に差し伸べられた手があまりにも優しくて、あたたかくて。
「みんながいるこの場所に、立って、いたいんだ」
ずっと空っぽだった、自分は。
誰かに名前を呼んでもらえたり、笑いかけてもらえたり。
そんなことが、どうしても手放せなかったのだ。
ケネスたちに手を差し伸べられてようやく、気づけたから。
「なあ、キリオ」
俯いたテッドの手から、ささやく声から、するりと力が抜け落ちる。
「何?」
「この戦いが終わって、百五十年したら、俺はもう一度この海に来てやるよ」
「百、五十年……?」
キリオが目を瞬く。
途方もなく長い、およそ一人の人間が数える時間ではないけれど。
「真の紋章の宿主は不老なんだ。今の俺が、だいたいそれくらい生きてる」
「そう、なんだ」
罰の紋章から流れ込んでくる記憶は、一つ一つが本当に短いものでしかなくて、一人一人の命が如何に短かったかしかわからないけれど。
「ああ。だから、おまえが百五十年後まで生きてたら、そしたら」
もしも百五十年後まで、生き続けていたら。
「友達になってやるよ」
そっと呟くように告げたテッドに、思わずキリオはくしゃりと笑った。
何故か、無性に泣きたいような気がして。
「……難しい、ね」
罰の紋章を宿して三年も生きれるはずがないと涙した女がいた。
「百五十年って、とてつもなく長いんだろうな」
泣きたいくらい、とてつもなく。
「ああ、長い」
それでも。
「けど百五十年後も、きっとこの海は綺麗なんだろうな」
死にたくないではなく、生きたいと思った。
あなたを見るたびに 波が心にうちよせて
船を漕ぐ手に力が入る そうすればもうすぐ岸が見える
Rie fu「Life is Like a Boat」より
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150年後、再会を果たすことなくテッドはこの世を去ります。