「帰らなきゃ駄目だよ。亮はお兄ちゃんなんだから」
 そう言って笑って自分を送り出した、吹雪の姿を忘れられなかった頃があった。
 もう何年も前のことだったが。
 だから。
「それが貴様のやり口か」
 目の前に立っている悪趣味な紛い物に、亮は口の端を歪めて苦笑をこぼさずにいられなかった。
 なんて滑稽な。






And Then There Were None


失ってはならないもの







 外は静かだった。静かすぎるほどに。
 ベッドに浅く腰を掛けて黙々と携帯に文字を打ち込んでいる亮の側で、同様に腰掛けている翔が落ち着きなく片足だけを揺らしている。わずかに俯いて、きつく唇を結んで、ひどく緊張した面持ちで。
 この異変は、昨日にはもう始まっていたのだろう。夏が近づいて遅くなった日も暮れた後、卒業試験が始まるからあまり来れなくなるかもしれないと言ったその日のうちにふらりと訪れた翔が、森に入った理由を思い出せなくてと首を捻っていた時には、おそらく既に。
 逢う魔が時とはよく言ったものだ。翔は誰かを捜していた、その誰かはもう何処にもいない。
 外は静かだった。静かすぎるほどに。
「ボクの気のせいだったらいいのに」
 不意に翔がぽつりと呟きをこぼす。
 今朝早く、レッド寮に様子を見に行った帰りの足をわざわざ島の反対側まで延ばしてきた翔が、昨日この島を飛び出していったまま帰ってきていない十代に対して心配のような文句のような愚痴を並べ立てながら、唐突に同じように彼の世話を焼いていたはずの誰かに、その欠落に気づいた。
 それはひどく頼りない違和感だったのだろうが。
「だったらおまえは去年、いったい誰と十代を取り合ったんだ?」
 苦笑混じりに亮が言い返すと、振り子のようだった足がぱたりと止まる。
「……何で兄さんが知ってるの?」
 ちらりと一瞥すれば翔は、不思議そうな苦虫を噛み潰したような複雑な顔をしていて。
「吹雪がいただろう」
 亮の答えを聞いた途端、ばつが悪そうに目をそらして押し黙ってしまった。
 プロになって行き詰まって、ヘルカイザーを名乗るようになってから、亮はそれまでの関係から遠ざかることを選んだ。それまでの自分を徹底的に壊したかった。何にも甘えたくなかった。そんな理由で。
 にも関わらずあの親友は、デュエルに負けて亮の選択に納得しないままそれでも引き下がった後ずっと、皆の近況をメールに詰め込んで送り続けることをやめなかった。まったく返事の来ないメールを、一週間と空けることなく律儀に送り続けた。
 そして、送られ続けるメールに何の返事もしないがメールアドレスを変えることもせず、黙って受け取り続けていた自分も確かにいた。
 ――きっとそんなものなのだろうと、今は思う。
「みんなも、気づいてるかな」
「どうだろうな」
 通信が絶たれてしまったのは、いつからだったのか。ささやかに言葉を交わしながら指を止めることのない亮の手の中にあるこの翔の携帯も、電話としての機能は、気づいた時には死んでいた。生徒手帳の通信機能はおろか、この保養所に備え付けられている有線電話も繋がらない。
 この島の中にまだ残っているであろう誰に言葉を伝えることも叶わない。
 そして島の外にいる誰にも。
「……十代のアニキも、気づいてるかな」
「今頃、海の上なんじゃないか」
 十代にも、今は何も伝えられない。
 だから。
 そっと窺うように携帯の画面を覗いた翔が、たわいない言葉でまた口を開く。
「兄さん、打つの遅いよね」
「どうも慣れなくてな」
 携帯に独特の入力方法は、パソコンのキーボードのように滑らかにはいかない。不慣れであれば尚更だ。一文字ずつ、時間が掛かるが仕方がない。
「……ごめんなさい」
「何を謝る」
「だってその時、ボクがアカデミアに電話したから」
 思わず手が止まったのは、一瞬だけだった。
「おまえが謝るな」
「でも」
「俺は後悔していない。だから謝るな」
 そうだ。後悔はしていない。
 亮は最後の一文字を打ち込み終える。
 その瞬間、何かが扉をノックした。
 びくりと身を竦ませて、翔が弾かれたようにベッドから飛び降りる。
 噴水の音が微かに流れているこの外は、共用廊下のテラスが山側に張り出しているだけで、それもすぐに行き止まりになっている。そもそもこの保養所の宿泊施設で生活しているのは、今は亮だけだ。
 再び、何かが扉をノックする。
 そろそろと扉へ近づこうとした翔を軽く手だけで制し、亮はもう片手で折り畳みの携帯を閉じた。
「鍵は掛かっとらん。入りたければ入れ」
 そして馴染みの人間はほとんどがノックから返事も待たずくぐっていた扉に、低く許可の声を投げ与えた。応えるように開かれた扉からは、ブルーの制服を着た男子生徒が一人、悠然とした足取りで室内へ入ってくる。
 とうに卒業している亮には見覚えのない顔で、翔を見やれば彼も小さく首を横に振った。
「知らない、けど見たことある気はする……」
 もしかしたら、今は思い出せない誰かと一緒に。
 しかし。
「ああ、先輩方とお話しするのは、これが初めてになりますね。初めまして、僕はブルー二年の空野といいます。早速ですが、僕とデュエルしましょう」
 のっぺりとした笑顔で左腕のデュエルディスクを軽く掲げてみせたその姿に、まるで油膜を張ったような凪の海にも似た、異様な気配が漂っていた。
 今のこの島と同じ、静かすぎる無風だ。
「そうか、貴様か」
 もしこの海に落ちたとしても、凪いだ水面は飛沫すら立つことなく音すら飲み込むだろう。
 口の端を笑みの形に歪めて亮はゆらりと立ち上がる。
「翔」
 そして振り向きざま、翔に携帯を投げ返した。
「行け」
「兄さん、は……」
 聞き返しながら、きっともう理解はしているのだろう。携帯を両手できつく握りしめた翔に背を向けて、亮はサイドテーブルに置いていた二つのデッキの片方を迷いなく取り上げると、デュエルディスクに差し込んだ。
「行け」
 今度は翔も、何も言い返さない。
 一目で見渡せてしまえるほどに広くもない個室を、気づかれずに抜け出せるわけはない。黙って部屋を飛び出していった後ろ姿に一瞥をくれることもない空野に、亮はより深く酷薄に笑みを刻む。
「フッ。いいだろう、外へ出ろ。俺が相手をしてやる」
 音を立てて二つのデュエルディスクが起動した。



 さらさらと散る、小さな水の音が鳴り続けている。
「ああ、あなたはとても手強そうだ」
 先攻を取った空野が一枚ドローするなり、つと他人事のような声で言った。
「でも普通の人間だ」
 それを一瞬で染めたのは揶揄か、もしくは昏い愉悦の色で。
「今の異変は貴様が引き起こしたものだな」
 アカデミアの生徒の姿をしている。だが人間の形はしていても、そこに生気はない。ひどく虚ろな穴が、ぽっかりと口を開けているだけだ。
「どうでしょう」
「アカデミアの生徒を消して回っているのだろう?」
「そう言えるかもしれませんね。――僕はダーク・アーキタイプを攻撃表示で召喚」
 フィールドに這いつくばるようにして現れたグロテスクな姿に、亮が眉をひそめる。今まで見たこともないモンスター、だがその名前には聞き覚えがあった。それを口にしていたのは、確か。
「……やはりダークネス絡みか」
 亮が皆より十代より遅れて帰ってくる少し前に現れたという、ダークネスの使者についての話の中で十代が言ったのだ。周りの目を盗んで十代を巻き込んで、吹雪が亮の部屋まで押し掛けてきた時に。
「あなたの心の闇は何ですか?」
 にたりと笑って、空野がターンエンドを宣言した。
 否定しなければそれは肯定になる。
「俺のターン。ドロー」
 六枚の手札を見下ろして、亮は細く息を吐く。
 さながら自分の一部のようにこの手に馴染む感覚は、絶対の信頼感に等しい。
「融合発動! 手札から二枚のサイバー・ドラゴンを墓地に送り、サイバー・ツイン・ドラゴンを召喚する!」
 亮のフィールドに、硬質な光を弾きながらメタリック・シルバーの巨躯が現れる。
 サイバー・ツイン・ドラゴンの攻撃力は2800。空野が繰り出したダーク・アーキタイプのちょうど二倍の攻撃力を持ち、さらに一回のバトルフェイズ中で二度の攻撃が可能だ。空野がモンスター効果を発動させたとて、即座に追撃を行うことが出来る。
 機械仕掛けの双頭がゆったりと、醜悪なモンスターに鎌首をもたげる。
「バトルだ! ダーク・アーキタイプを攻撃! ――エヴォリューション・ツイン・バースト!」
 何のカードも伏せていない空野からの妨害はなく、難なく成功した攻撃はダーク・アーキタイプを破壊し、空野のライフを1400奪う。
「この瞬間、ダーク・アーキタイプの効果を発動。戦闘で破壊された時、受けた戦闘ダメージと同じ攻撃力を持つモンスター一体をデッキから選択し、選択したモンスターのレベルと合計が同じになるよう手札のモンスターを墓地に送ることで、選択したモンスターを特殊召喚することが出来る。――僕はレベル3の融合呪印生物−闇を墓地に送り、レベル3かつ攻撃力1400の仮面竜を守備表示で特殊召喚します」
 空野が手札からカードを墓地へ送ると、フィールドに大きなマスクを被ったドラゴンが現れてフィールドに伏す。
「仮面竜……」
 戦闘で破壊された際に、攻撃力1500以下のドラゴン族モンスターをデッキから特殊召喚する効果を持ったモンスターだ。すなわちドラゴン族使いである可能性が高い。
 エースモンスターこそまだわからないが、その重量級の強さはよく知っている。親友は昔から、あの黒竜を始めとしたドラゴン族を愛用していた。
「サイバー・ツイン・ドラゴンで、仮面竜を攻撃する!」
 亮の攻撃宣言を受けたサイバー・ツイン・ドラゴンの、二度目の攻撃が仮面竜を撃ち抜いて大きな爆発を引き起こした。弾けるように噴き上がった煙幕に空野の姿も隠され、すぐさま亮は目と耳を凝らす。空野がデッキから選ぶのは二体目の仮面竜か、それとも別のドラゴン族か。
 だが。
「破壊された仮面竜の効果を発動」
 煙の向こうから響いてきたその声に、亮は思わず息を飲む。
 かき消えるように煙が晴れる。その向こうで、制服の白い裾が翻る。
 真っ白な色が。
 空野の姿はもう何処にもなかった。
 そこには、今は。
「僕はデッキから黒竜の雛を、守備表示で特殊召喚」
 薄笑いを貼りつけて、吹雪が立っていた。
 吹雪の姿をした、虚ろが。
「どうしたの、そんなに怖い顔をして。まだ亮のターンだよ」
 そう言って『吹雪』は、くすくすと笑う。
「ターン、エンドだ。……それはいったい何の真似だ」
 苦虫を噛み潰したような顔でターン終了を告げた亮が、吹雪の姿と化したダークネスの使者を睨め付ける。
「僕のターン、ドロー。何の真似、か」
 困ったように肩をすくめながら笑って『吹雪』は、今しがたドローしたカードに目を落とした。
「たぶん君が考えている通りなんじゃないかな。――僕は黒竜の雛の効果を発動、このカードを墓地に送り、手札から真紅眼の黒竜を特殊召喚するよ!」
 たどたどしい鳴き声を上げた黒い幼竜が炎色の光に包まれ膨れ上がった次の瞬間、殻を破るように黒い火の粉が弾け飛び、漆黒に輝く成竜が咆吼を轟かせた。
 真紅眼の黒竜。吹雪の無二のパートナー。
 ダークネスの使者が本当に彼をなぞらえているのであれば、この次に出てくるのは。
「手札からマジックカード、黒炎弾を発動!」
 予想と違わぬ展開に、亮は小さく舌を打つ。このターンの真紅眼の黒竜の攻撃を封じる代わりに、その攻撃力分の数値である2400のダメージを相手ライフポイントへ直接与えるマジックカードだ。これで亮の側はライフポイントを一気に失うことになる。
 翼で空気を打ち据え舞い上がった真紅眼の黒竜がその顎を大きく開き、灼熱の火球を吐いた。放たれた巨大な火球は着弾と共に炎を撒き散らして、亮を舐める。
 吹きつける爆風に激しく煽られながら、亮は冷然と『吹雪』を見据えた。
 予想通りだった。あまりに慣れた手順だった。
 そう、だからある意味では似ていると言えるのかもしれない。亮の記憶の中にある彼を、まるで鏡に映したかのように。だがそれは、しょせんその程度の意味でしかない。
 だから、これはきっと。
 と、『吹雪』が苦笑いのようなものを滲ませる。そして。
「そう言う亮の方こそ、どうしてこんなところにいるんだい?」
 『吹雪』は困ったように笑って、言った。
「駄目だよ、ちゃんと翔くんの側にいてあげなくちゃ。亮はお兄ちゃんなんだから」
 あの時のように笑って、そう言った。



 すぐに帰ってくる。だから港へ。
 胸中で何度も何度も呪文のように繰り返しながら、翔は海沿いの坂を駆け下りて森へ入った。
 アカデミアの島は広いわけではないが、ここからだと港は、校舎を挟んでちょうど島の反対側に位置している。よしんば翔が辿り着けても、そこに十代がいつ帰ってくるかもわからない。
 けれど、託されたから。
「兄さん……」
 硬い携帯の感触を確かめるように、それを握る手にいっそう力を込める。
 あの四年前のことを兄の口から聞くのは、今日が初めてだった。
 亮は滅多に自分の話をしない。そうでなくても昔から言葉を交わすことはあまりなかった。途方もなく優秀で自他に厳しかった兄は、翔にとって、ずっと畏怖の対象だった。
 それでも、たった一人の兄だったから。
 ――だからボクはあの時、兄さんに。
 それが結果的に引き起こしてしまったことは、傍目には不幸中の幸いと呼ばれるようなことだったのかもしれない。だが決して手放しで喜べるようなことではなくて、事実の受け止め方も一つだけではない、そういうことだった。
 後悔していないと、本人は言い切っていたけれど。
 流れ着いた思考から薄ら寒い感情がそろりと滲み出てくる嫌な感触を、振り切ろうと翔は咄嗟に目を瞑る。その刹那、くっと足を引かれて我に返った時にはもう、勢いよく草の上に突っ伏していた。
「った……」
 躓いて転んだのだと理解するのは簡単だ。森の中を走っていて、足下の注意を怠れば当然のことだ。
 走り続けて上がっていた息は忙しなく酸素を求めていて、吸い込む湿った空気には土と草の匂いが混じっていて鼻につく。
 つんとして、涙が滲みそうになる。
「まだだ」
 大丈夫。まだ走れる。土からはみ出た木の根に足を取られて転んだだけだ。今の季節は下生えの草も多いから、打った痛みも鈍い。足も捻っていない。
 泣いている暇なんてない。勝手にわななこうとする両手を、翔は固く握る。
 と、空っぽの手に気づいた。
「あれ、携帯っ」
 汗の滲んだ手から転んだ拍子にすっぽ抜けてしまったのだろう、慌てて周りを見回したが、茂みの影に潜り込んでしまったのか、携帯のブルーグレーは何処にも見えない。
「どうしよう……」
 あの携帯の中には。あの中に送信されないまま保存してあるメールには。
 翔はたまらず唇を噛んだ。
 いるはずの誰かがいなくなっていて、それが誰かも思い出せなくなっていて、十代は今この島にいなくて、きっとこの異変は十代が島を離れた隙をついていて、そうして誰もいなくなってしまったアカデミアは、帰ってきた十代をまた深く傷つけてしまうだろう。
 だから、せめて。
 慰めが欲しいわけじゃない。そう言ったのは兄だった。
 だから早く携帯を見つけて、港へ向かわなければ。かつて同じように取り残されてしまった兄の言葉を、十代に届けなければ。そのために翔はここまで走ってきたのだ。
 だが四肢に力を込めて起き上がった刹那、背後でかさりかさりと下草を踏む、足音がやけにくっきりと聞こえた。
「こんなところにいたんですね、丸藤先輩」
 きっと振り返れば、果たして立っていたのは空野だった。その奇妙で不気味な笑顔を睨みつけながら立ち上がった翔は、声を張り上げる。
「おまえ、兄さんをどうした!」
 療養生活の傍ら新しいデッキを作り始めていた亮は、その調整に今までのサイバー流デッキを用いていた。調整用とはいっても亮が長年愛用していたデッキだ、その強さは半端な代物ではない。そして先ほど未完成の新デッキではなくその調整用デッキをデュエルディスクにセットしていたのを、この目で見ている。
 あのデッキが、あの兄が、こんな短時間で敗北するはずがない。
 そんなこと、絶対にあるはずがない。
 なのに。
「さあ、どうしたと思います?」
 にたりとした笑い方に思わず、ぞっと背筋が凍る。
 ――まさか。
 自分の心臓が跳ねる、音が聞こえた気がした。
「丸藤先輩。今、何を考えました?」
 胸中に一瞬よぎった影の色を、見透かしたように空野が笑みを強くした。
「っ、おまえには関係ない!」
「不吉な想像はいくつ思いつきましたか? さすがですね」
「うるさいっ!」
「僕とデュエルしてくれたら、正解を教えてさしあげますよ」
 くつくつと笑いながら言って空野は、デュエルディスクを構える。
 逃げられない。
「さあ、始めましょう」
 だったら、勝つしかない。
 深く息を吸い込んで、翔も自分のデッキをデュエルディスクにセットした。



「帰らなきゃ駄目だよ。亮はお兄ちゃんなんだから」
 そう言って笑って自分を送り出した、吹雪の姿を忘れられなかった頃があった。
 もう何年も前のことだったが。
 だから。
「それが貴様のやり口か」
 目の前に立っている悪趣味な紛い物に、亮は口の端を歪めて苦笑をこぼさずにいられなかった。
 なんて滑稽な。
「貴様、さっき俺の心の闇がどうとか言っていたな。これがそうだとでも言うのか」
 あの時の吹雪が。あの時のことが。
「おかしいかい?」
「フン。これが笑わずにいられるか」
 もう何年も前のことでしかない。
 吹雪が姿を消したことも、吹雪が帰ってきたことすらも。
 もう、とっくに終わったことでしかない。
「じゃあ君の真実は、蓋を開けてからのお楽しみってことかな」
 仄暗い影を含むように微笑みながら、『吹雪』が手札からさらに一枚のカードを抜き出す。
「黒炎弾を発動したこのターン、真紅眼の黒竜は攻撃できない。だから僕はこの真紅眼を生贄に、真紅眼の闇竜を特殊召喚!」
 優雅に差し出された『吹雪』の手が指し示す先で、闇色の炎が渦を巻く。それは真紅眼の黒竜を飲み込むと、昏い炎を纏うように真紅眼の闇竜へと変じさせた。
 真紅眼の闇竜の攻撃力は2400だが、墓地にあるドラゴン族モンスター一体につき300上昇する効果を持つ。『吹雪』の墓地に仮面竜、黒竜の雛、真紅眼の黒竜の三体のドラゴン族が存在している今、その攻撃力は。
「攻撃力3300。さあ、これで亮のサイバー・ツインを上回ったよ」
 サイバー・ツイン・ドラゴンの攻撃力は2800、今の真紅眼の闇竜には500及ばない。
 亮が眉根を寄せ、『吹雪』は冷ややかに笑む。
「バトル! 真紅眼の闇竜でサイバー・ツイン・ドラゴンを攻撃! ――ダークネス・ギガ・フレイム!」
 発せられた命に従って、真紅眼の闇竜が灼熱の炎をサイバー・ツイン・ドラゴンに浴びせかける。冷たく輝いていた銀色のボディが赤熱し、双頭の機械龍は間もなく砕け散った。
 再び巻き起こった爆発の中、亮の腕でデュエルディスクのライフカウンターが音を立てて数値を減ずる。
「ターンエンド」
 それを見届けて、『吹雪』は悠然とターンの終了を宣言した。
 三ターンが経過したところで、亮のライフポイントは既に残り1100。対する『吹雪』は未だ2600を残し、フィールドの状況も上級モンスターを失った亮が不利だ。だが『吹雪』の側も先の真紅眼のコンボで手札を消費している。通常召喚をせず終いだったことから、今ある手札に1100以上の攻撃力を持った下級モンスターはいないのだろう。もしあれば、その時点で勝敗は決していた。
 ならば彼が手札を補充し追撃を掛けてくる前に体勢を立て直さねばならない。高い攻撃力を誇り、圧倒的なパワーでもって場の制圧を狙うサイバー流において、今のライフ差を一気にひっくり返すことも決して難しいことではない。だがそのためにも手札の補充が必要なのは同じだ。
「俺のターン。ドロー」
 亮の手札にはサイバー・ヴァリーが一枚ある。攻撃力守備力共に0だが、三種類の効果を持ったモンスターだ。そしてその低い攻撃力故に、有効となる手がある。
「サイバー・ヴァリーを召喚! これに手札からマジックカード機械複製術を発動し、デッキからさらに二体のサイバー・ヴァリーを特殊召喚する!」
 機械複製術は自分のフィールドに存在している攻撃力500以下のモンスターに対して発動することで、デッキから同名カードの特殊召喚を二枚まで可能にする。
 滑らかな金属の光沢を持ったドラゴンは立て続けに三体姿を現すと、フィールドで緩やかにとぐろを巻いて咆吼を上げた。
「へえ……」
 瞬く間に三体ものサイバー・ヴァリーが並んだ亮のフィールドに、『吹雪』が貼りつけていた笑みを歪めた。
「このうち一体のサイバー・ヴァリーの、第二の効果を発動。このカードともう一体の表側表示モンスターをゲームから除外し、デッキからカードを二枚ドローする」
 フィールドから二体のサイバー・ヴァリーが光となって消え、亮は新たに二枚を引く。そうして手札に舞い込んできたカードは。
「俺はカードを二枚セットし、ターンエンド」
 眉一つ動かさない亮の足元に、裏側のカードが二枚出現した。亮のフィールドはこれで攻撃表示のサイバー・ヴァリーが一体と、二枚の伏せカードになる。
「それじゃ僕のターン。ドロー」
 ドローによって三枚に増えた左手のカードを、『吹雪』が冷めた目で見下ろす。そして右手は手札を取り上げることなく、そのままフィールドへと向けられた。
「真紅眼の闇竜でサイバー・ヴァリーを攻撃!」
 だが。
「この瞬間、俺はサイバー・ヴァリーの第一の効果発動! このカードを除外することで、このターンのバトルフェイズを終了、俺はカードを一枚ドローする」
 サイバー・ヴァリーの姿がフィールドから消滅し、真紅眼の闇竜の攻撃は打ち切られ、さらにドローした亮の手札はこれで三枚となる。
「さっすがカイザー亮、あっと言う間に手札増強されちゃったなあ。僕はデコイドラゴンを攻撃表示で召喚して、ターンエンドだよ」
 これで『吹雪』の場にはモンスターが二体並んだ。だがデコイドラゴンは攻撃を受けた時に高レベルのドラゴン族モンスターを特殊召喚する効果を持っているとはいえ、そのものの攻撃力は300しかない。しかも真紅眼の闇竜は召喚に厳しい制限が課せられている。そして『吹雪』の場に、伏せカードはない。
「俺のターン、ドロー!」
 引いたカードは三枚目のサイバー・ドラゴン。亮のフィールドにモンスターはなく『吹雪』の場にある今ならば生贄無しで特殊召喚することは可能だが、デコイドラゴンを攻撃すれば『吹雪』はおそらく真紅眼の黒竜と入れ替えてくるだろう。
「トラップカード、リビングデッドの呼び声を発動! 墓地にあるサイバー・ツイン・ドラゴンを特殊召喚する!」
「それでデコイドラゴンを攻撃でもするのかい?」
 揶揄するように笑った『吹雪』に、亮も冷ややかな笑みを返した。
「いや、まだだ。手札から強化支援メカ・ヘビーウェポンを召喚、サイバー・ツイン・ドラゴンに装備する」
 強化支援メカ・ヘビーウェポンをは、表側表示になっている自分の機械族モンスターに装備させることで、その攻撃力と守備力をそれぞれ500ずつ上昇させることが出来る。
 3300対3300、攻撃力は互角。
「これでサイバー・ツインの攻撃力は3300、僕の闇竜に並んだってわけだ」
「サイバー・ツイン・ドラゴンで真紅眼の闇竜を攻撃! ――エヴォリューション・ツイン・バースト!!」
「相打ち狙いかい! 真紅眼の闇竜、迎え撃て!」
 バトルフェイズに入った亮の攻撃宣言に、『吹雪』が舌を打つ。
 サイバー・ツイン・ドラゴンの放った皓い光と、迎撃した真紅眼の闇竜の昏い炎がフィールドの中央でぶつかり合って、双方を飲み込むほどの大きな爆発を引き起こす。
 渦を巻く黒煙の中で真紅眼の闇竜が砕け散り、そして。
「フッ。誰が相打ち狙いと言った」
 健在のサイバー・ツイン・ドラゴンを従え、亮は口の端を持ち上げて嘲笑を浮かべた。
 対する『吹雪』は肩を竦めて、苦笑いをこぼす。
「そうだったね。僕としたことがうっかり忘れていたよ、さっき装備させていたモンスターの効果を」
 強化支援メカ・ヘビーウェポンは、装備対象のモンスターが破壊される時、このカードを身代わりにすることで破壊を免れることが出来る。
「参ったなあ。やっぱり亮は強いね」
 亮の場には攻撃力2800に戻ったサイバー・ツイン・ドラゴン。さらに二枚のカードが伏せられている。対して『吹雪』はエースを失った。身代わりに出来るモンスターが墓地にある限りデコイドラゴンは破壊されないが、真紅眼の闇竜をデコイドラゴンの効果で特殊召喚することは適わず、現状では真紅眼の黒竜しか選べないので返り討ちに出来るわけでもない。それでも『吹雪』の声に、焦りが滲むことはなかった。
 確かにデコイドラゴンを突破してさらにダメージを与える手立ては、今の亮にはない。
「ターンエンド」
「僕のターン、ドロー」
 引いたばかりのカードを見た、『吹雪』が目を細めて微笑んだ。冷酷なまでに薄く。
「手札からマジック、未来融合を発動」
 フィールドに浮かび上がったそのカードに、思わず亮は目を大きく見開いた。
「ドラゴン族モンスター五体をデッキから墓地に送り、僕が選択する融合モンスターはファイブ・ゴッド・ドラゴン」
 歌うように『吹雪』が述べて、デッキから選択されたドラゴン族のカードが音を立てて墓地へ落ちていく。これによって今から四ターンを数えた後、『吹雪』のフィールドには攻撃力5000を誇るファイブ・ゴッド・ドラゴンが特殊召喚されることになる。
 だが。そんなことよりも。
「……何故、貴様がそのカードを使う」
 そう『吹雪』に問う声が、低く掠れることを抑え切れなかった。
 わかっていたはずだったのに、痛むような揺らぎを押し殺せなかった。
「僕が使ったらおかしいかい?」
「普段は使わん」
「まったく使ったことがないわけじゃないだろう? だから君は今、動揺している」
「何を……」
「だってこの未来融合は、君が貸してくれたカードだったものね」
「っ」
 咄嗟に息を飲んだ、亮は唇を薄く噛みしめる。
 あの時のことを見透かされていると、わかっていたはずだ。この紛い物の『吹雪』が、あの言葉を口にした時から。
「四年前、僕がいなくなる直前に。覚えているだろう?」
 だから今さら、こんなことは驚くようなことではないはずだ。
 ないはずなのに。
 未来融合の後ろで、『吹雪』が冷笑を浮かべている。
「ねえ、亮。君の心の闇は、何?」
 ──ならば今、自分は何を恐れている?



「帰らなきゃ駄目だよ。亮はお兄ちゃんなんだから」
 そう言って笑って自分を送り出した、吹雪の姿を忘れられなかった頃があった。
 それは四年前のあの時から数えて、二年足らずの間のことだったが。



 四年前の、あの頃。
 季節はもう初夏に差し掛かっていて、平時の授業はほとんど終了し、年度末の進級試験を目前に控えて自習が多くを占めるようになっていた頃だった。だから日中は図書館か、校舎内にあるデュエル場に入り浸ることが多かった。
 その頃には既に亮はカイザーの異名を冠せられ、同じく抜きんでた存在だった吹雪とそして藤原とで、一年生の成績上位を独占していた。その三人でよく行動を共にしていたのはそれが楽だったからだろうし、生来の世話焼きである吹雪が人付き合いの苦手らしい藤原を気にかけていたからでもあったのだろう。もっと昔においては亮にそうだったように。
 この日もそうだった。三人で、少々奇をてらったコンボも混ぜ込んだようなデッキを持ち込んで、同じようにデュエル場でたむろしていたオベリスクブルーの生徒とデュエルをしていたのだ。
 そして。
「りょーお!」
 その妙に甘えたような声に、ベンチでデッキを微調整していた亮が顔を上げれば、出来すぎなまでに非の打ち所のない満面の笑顔があった。
 吹雪だ。しかも。
「……何だ?」
 十中八九、何かを企んでいる。
 亮は確信を抱いてそっと身構えた。伊達に付き合いは長くない。
 しかし警戒されようと意に介した様子もなく、吹雪は笑顔を揺らすことなく問うてきた。
「未来融合、サイドに差してない? っていうか何でもいいから余ってない? 足りなくて困ってるんだ」
「おまえが使うのか?」
 ドラゴン族を扱っているのでまったくの無縁というわけでもないが、融合ギミックなど普段のデッキには入れていないだろうに。
「そう。実はさっき藤原にムカつくコンボ決められたから、ちょっとファイブ・ゴッド・ドラゴンでリベンジしてみようかなーって思いついたんだけど」
 そんな剣呑なことをさらりと言い放ちながら、彼の笑顔は一分の隙もない、まったくの鉄壁だった。
 ちらりと吹雪の背後に視線を送れば、アリーナの隅から落ち着かない様子でこちらを窺っている藤原が見えた。
「未来融合以外はあるのか?」
「うん、ファイブ・ゴッド・ドラゴンは融合デッキに差しっぱなしだったから、後は手持ちと適当に入れ替えて何とか。龍の鏡もあるしね」
 そのラインナップを聞く限り、今は愛用の真紅眼の黒竜のみならず、ドラゴン族系のデッキを手広く扱っているところだったようだ。
 嘆息一つ落として、亮はデッキから引き抜いた未来融合を吹雪に手渡した。
「……好きにしろ」
「ありがとー!」
「ひぇっ」
 その瞬間、はらはらと見守っていた藤原から随分と情けない悲鳴が上がった。
「まーるーふーじぃー!!」
 ちらりと目を向ければ縋るような責めるような、泣きそうな声で名前を呼ばれて、亮は思わず吹き出す。
「ひどいよ、他人事だと思ってぇ……!」
「他人事だからな。潔くオーバーキルでも何でも決められてこい」
 嘆こうが喚こうが、吹雪はやる気だ。
 と、楽しげな鼻歌まじりにデッキを入れ替えていた吹雪が、見事に作り上げられた輝かしい笑顔を藤原に向けた。
「さーて藤原、何か言い遺すことはあるかい?」



 そうして吹雪のリベンジ戦が始まった直後だった。
 実家から電話だと呼び出しを受けて、母親の入院を知った。



「おばさまが!?」
 デュエルを終えてわざわざ追いかけてきた、吹雪がさっと顔色を変えた。
「大事はないらしいんだがな……」
 亮は言葉を濁す。
 電話口で泣き出してしまった翔の話だけでは要領を得られず、しかし家には今、翔だけが残っているらしい。
「そっか……」
 考え込むように目を伏せた吹雪は、すぐに顔を上げた。
「それじゃ、おばさまと翔くんにヨロシク」
「……何が」
「何って、今からなら午後の定期船にぎりぎり間に合うよ。急ぎなって」
 間怠っこいなとばかりに亮の腕を引いて吹雪が校舎の出入り口へ向かう。
「だが、その……まだ、授業も……」
 明日も明後日も一コマずつ、残っているから。
「こんな時に何言ってんの」
 下手な言い訳に、吹雪の声が微かに怒気を帯びた。
 亮は僅かに目を伏せる。
「だから……俺が帰っても、翔は」
 弟に、あまり好かれているとは思えない。ただ意識されているのはわかる。いつも少し離れたところから、何処か怯えたような眼差しで見上げられていたから。
 慰めることすら、上手くしてやれるかどうか。
 すると吹雪は呆れたように、あからさまに深々とため息をついてみせた。
「あのね亮。翔くんは君に電話してきたんだ。それをわかってる? ……不安なんだよ、きっと」
 だから。
「帰らなきゃ駄目だよ。亮はお兄ちゃんなんだから」
 本当に他に何も出来なくても、一緒にいてあげることくらい出来るだろう?



 いつになく真剣な声でそう言った、微笑んだ、その時の吹雪を、それから一年半、忘れられなくなった。
 ――何故なら。



 そうして、せっつかれながら特待生寮に戻って最低限の荷物をまとめて、ぎりぎり間に合った定期船に慌ただしく乗り込んだ亮を、埠頭で満足げに見送った吹雪が不意に、はっと表情を変えた。
「そうだ」
 ホルダーから出したデッキを素早く手繰って、中から一枚を抜き出す。
「亮! カード、これ借りたままだった!」
 叫びながら頭上に掲げられたカードは、先ほどの未来融合だ。
 だがもう出港時間を過ぎていて、受け取ろうにも船のタラップは片付けられてしまっている。
「いい! 戻ってから返してくれ!」
 亮も声を張り上げて答えを返す。
「わかった! それじゃ僕が預かっておくからね!」
「失くすなよ!」
「ひどっ」
 亮の軽口に、吹雪が大仰に身を引いてショックを受けた素振りを見せる。
「そういえば成功したのか!」
「何!」
「だからさっきの、リベンジとやらは!」
 すると、何だそんなことかと吹雪は笑った。
「もっちろん! 当たり前だろ!」
 まるで小さな子供のように得意げに、晴れやかに笑ったのだ。



 そんな風に、ささやかな別れの言葉を交わして。
 吹雪ともう一度会えるまで、一年と半年も掛かってしまったからだ。



 泣きべその弟の手を引いて病院へ行って、大事ないのに帰ってくるなんて大袈裟なことと笑う母はそれでも嬉しそうで、背中を押してくれた吹雪に礼を言わねばと思いながらアカデミアに戻ってきた週明けの五日後、船を降りた亮の前に吹雪は現れなかった。
 アカデミアの、何処にもいなくなっていた。
 たった五日の間に、吹雪のみならず、特待生寮の生徒全員が忽然と姿を消していた。ただ一人、アカデミアを離れていた亮を除いて、全員が。
 寮長である大徳寺も、亮にとってはアカデミア以前からの恩師になる校長の鮫島もその行方を知らず、ただ当人たちが何処にもいないという一点を除いて完璧に整えられた、全員分の留学手続きだけが残されていた。
 一人を残して誰もいなくなった特待生寮は間もなく閉鎖され、許可なく近づくことすら禁じられ、亮は一人きり、通常のブルー寮に移ることを余儀なくされた。
 それから一年半、ずっと行方を捜し続けるしかなかった。
「僕たちがいなくなって、どう思った?」
 デュエルディスクの上にある未来融合を指先でなぞり、『吹雪』が薄暗い愉悦に嗤う。
「後悔、した?」
「……ああ、そうだ。何度も思ったさ、どうして俺がいない時だったのかと。吹雪たちを見舞った不幸は、俺がいたところで何も変わらなかったかもしれん。単に失踪者が一人増えただけに終わったかもしれん」
 深く項垂れて、亮は自嘲気味に口の端を歪めた。
「それでも俺がアカデミアに戻ってきて、もぬけの殻になっていた特待生寮を目の当たりにして感じたあの後悔を、絶望を、感じなくて済んだかもしれない。何度もそう思ったさ」
 言いながら『吹雪』のフィールドに開かれている未来融合を見やり、次いで自分のフィールドにセットしていたカードへ目を落とす。
「だが、それがどうした」
 己の告白を鼻で笑った亮に、『吹雪』が無言で目を瞠る。
 顔を上げた亮の表情はいっそ鮮やかなまでに不敵な笑みに彩られていて、その指はまっすぐに伏せカードの一枚を指し示す。
「リバースカードオープン、サイクロン発動! 破壊するカードは貴様の未来融合だ!!」
 旋風が突き刺さり、呆気なく砕け散った未来融合の向こうで、『吹雪』の切れ長の目がすいと細められた。
「へえ」
 小さく感嘆のため息がこぼれる。
「僕は手札からマジックカード、早すぎた埋葬を発動。ライフを800支払って、墓地から真紅眼の黒竜を蘇生するよ。……それがどうした、か」
 三たびフィールドへ現れた真紅眼の黒竜に、亮が無言で眉根を寄せる。
「本当に手強いね、亮は」
 たった一枚だけになった手札を、口元に寄せながら『吹雪』は冷たく微笑んだ。
「どうやら僕の読みも少し甘かったみたいだ」
 そう言って『吹雪』は、身体を一歩横にずらす。
 いつの間にか、そこには小さな人影が増えていて。
「翔……!?」
 先に行かせたはずの、しかしブルーの制服ではなく、中学の頃の黒い学ランを着た翔が立っていて。
「ごめんなさい……」
 肩を落とした俯き加減で、亮のことを怖れるように見上げてくる震えた眼差しも、弱々しい声も、もう何年も前からずっと。
「何、を」
「ごめんなさい……お母さんが入院したってボクが知らせたりしなければ、お兄さんは帰らなくてもよかったのに」
「俺は、帰らなければよかったなどと思ったことはない……!!」
 咄嗟に否定を叫んだ、亮の声が上擦って歪む。
「でもボクがいなかったら、お兄さんはお母さんの入院も知らないままでいれたのに。そしたら吹雪さんたちと一緒に、消えてしまえれたのに」
「そんな、ことは」
「一度も思ったことはないと、本当に言い切れる?」
 『吹雪』の声が、亮の言葉を掠め取る。
「だからボクが消えたら、きっとお兄さんは楽になれるよ。もうボクのせいで帰ったことを後悔しないなんて、思わなくてもいいんだ」
「消える、だと……!?」
 ようやく気づく。
 昏い笑みを浮かべているこの『吹雪』のように、この『翔』も本物であるはずがない。
 紛い物がここに二人いる。
 だが、ならば敵は。
「――貴様!! 翔をどうした!?」
 ならば、敵は一人ではなかったとしたら、港へ向かったはずの本物の翔は、今。
「そんなに怒鳴らなくても聞こえるよ。それに亮だって本当はもう、とっくにわかっているんだろう?」
 『吹雪』が最後の一枚を、裏返して亮に見せた。
 そのカードは、真紅眼の闇竜。
「翔くんも、消えてしまうんだよ」
 蘇生されたばかりの真紅眼の黒竜を生贄にして再び、真紅眼の闇竜が特殊召喚される。黒曜石のように煌めく闇色の翼で空気を打ち据え、舞い降りたその攻撃力は5100に達した。
「また、君の知らないところで消えてしまうんだよ」



 あの時、自分の姿を見つけて、驚きながら、ほっとしたような顔で涙の滲んだ目で見上げてきた。
 だから帰ったことは間違いではなかったのだと、そう思えた。
 気づいた時には誰もいなくなってしまっていたことにも、耐えられた。
 いなくなった兄を捜す明日香を助けて、兄代わりを務めることも出来た。
 いつか吹雪が帰ってくると信じて、待ち続けることが出来たのだ。
 ――なのに。
 跡形もなく消えていく。
 手を伸ばしても、届かずに、消えていく。



「さあ、幕を下ろそう。今、楽にしてあげるから」
 言葉もなく項垂れた亮を前に、陶然とした声が歌うように終焉を口ずさむ。
「真紅眼の闇竜でサイバー・ツイン・ドラゴンに攻撃!」
 闇色に輝く炎が舞い上がる。
 この炎に焼き尽くされてしまえば、そこで終わるだろう。すべてが終われるだろう。消えてしまうことも何もかも。
 だが。
「……トラップ発動、攻撃の無力化」
 伏せていたもう一枚のカードが、真紅眼の闇竜の攻撃を無効にする。
「やれやれ。まだ抗うのかい……大人しく受け入れてしまえば、楽になれるのに」
 一転して憮然としたため息を『吹雪』が落とした。
「ターンエンドだよ」
「俺のターン」
 掠れた声で告げながら、亮は痛みを噛み締めるように目を伏せた。
 たとえ手を伸ばして、何にも届かなくても。
「俺は。……俺は、楽になりたかったわけじゃない。慰めが欲しかったわけでもない。悔しかったんだ、気づいた時にはもう全部終わっていたことが。だが、だからこそ今の俺にも、わかることがある」
 たとえ本当に、翔が消えてしまったとしても。
 つと開いた目で、亮は自分のデッキを見据える。
 その一番上のカードは。
「俺はずっと、捜しながら待ち続けた。諦めずに待っていられたのは、悔しかったからだ」
 引いたカードを一瞥して、微かに笑んだ。
 まだだ。まだ終わっていない。
 信じている。
 フィールドにはサイバー・ツイン・ドラゴン、手札には融合解除とサイバー・ドラゴン。
「手札から速効魔法、融合解除を発動。サイバー・ツイン・ドラゴンの融合を解除する」
 これでフィールドと手札、合わせて三体が揃った。
「まさか」
 『吹雪』が驚愕に目を見開く。
「そのまさかだ」
 このターンでドローしたカードを、亮はディスクに差し込んだ。
「パワー・ボンド発動!! フィールドと手札から三体のサイバー・ドラゴンを融合し、俺が召喚するのは、サイバー・エンド・ドラゴンだ!!」
 皓い閃光が落雷の如くフィールドを震わせ、轟音と膨大な光で埋め尽くす。
「俺の知らないところで勝手に始まって、勝手に終わられてたまるか。だから」
 サイバー・エンド・ドラゴンが、美しく輝くメタリック・シルバーの巨体が、光の中から降臨する。
 その攻撃力は8000。
「まだ何も終わっていない。俺はそれを……忘れない」
 だから終わらない。
 もし自分がここで斃れたとしても、決して終わらない。
 信じている。
「まだ、十代がいる」



 ダークネスの使者が、その作り物の表情から、ごっそりと色を削ぎ落とした。
 その刹那。



「けど、僕のことは忘れていたじゃないか。丸藤も天上院も」
 背後から唐突に響いた男の声に、亮は凍りつく。
 愕然と目を瞠ったまま、ただ後ろを振り返ることが出来なかった。
 だって。
「だから楽だっただろう? 終わっていられただろう? それと同じことなんだよ、君の弟が消えて、君が弟を忘れることだって」
 ずっと忘れていた。
 彼がいなくなったことも。
 彼がいたことを忘れていたことすら、ずっと忘れていた。
 吹雪が思い出すまで、ずっと。
 けれど。
「ほら、消えていくのがわかるだろう? 君の弟も終わりを望んだんだよ、僕のように」
 それでも。
「俺、は……」
 忘れたくない。
 忘れたくなどなかった、翔のことも彼のことも。
 なのに、どうして声が出ない。
 背後にいる彼を、振り返ってそして。
「君ももう忘れちゃうんだよ。だからさぁ……もう終わりなんだよ、丸藤」



 ――ばさり。
 真っ黒に染まった、無数のカードが散って。



 ひときわ強い、風が海から吹きつけた。
 嫌な風だ。そう思って、はたと吹雪は顔を上げた。
「ああ……そうか。そういうことだったのか」
 そのひどく強張った険しい表情に、万丈目が戸惑い眉をひそめた。
「師匠?」
「万丈目くん。十代くんは昨日から何処かに行ったっきり、まだ帰ってきてないんだよね」
「え、ええ、そのはずですが」
 灯台に来る前、そのことで愚痴をこぼしていた翔に出くわしている。
 万丈目がそう答えを返せば、ぎりっと音がしそうなほどに強く、吹雪は奥歯を噛んだ。
「やられた」
 今朝から感じていた、生温い違和感の正体。
 とっくに足首を掴まれていたのだ。
「何がです?」
「ダークネスがもう、動いてるんだ」












 そして、誰もいなくなって。



 海は静かだった。静かすぎるほどに。
 ようやく辿り着いたアカデミアの港にも、誰の姿も見えなかった。
 ボートを岸壁に着けるなり、固定するのももどかしく十代は埠頭に駆け上がる。
「おい、十代!」
 そのまま走り出そうとした十代の腕を、すんでのところでヨハンが捕まえて。
「気持ちはわかるが、少し落ち着けって」
 振り返った十代の鋭すぎる眼差しにも怯まず、諭すように言い放った。
「――っ、……ああ」
 咄嗟に叫びかけた言葉を飲み込んで、十代は唇を噛む。
 何をヨハンにぶつけても、八つ当たりでしかない。
「今だと授業の時間だっけ?」
「……いや、卒業試験の期間に入ったから」
「じゃあ自由行動なのか」
 十代はゆっくりと深呼吸する。
 そう、落ち着かなければならない。
 ここはもう、危険になってしまっているのだ。
「ヨハン。レッド寮から順番に回ろう」



 島は静まり返っていた。静かすぎるほどに。
 誰もいなくなってしまった、童実野町と同じように。
「くそっ!」
 昨日のようにレッド寮に列を成す後輩たちの姿はない。イエロー寮にもブルー寮にも女子寮にも、何処にも誰の姿もない。
 もうすべて、終わってしまっていた。
「俺が、一人で島を離れちまったから……!!」
 異変の兆しに気づいた時点で、一人で童実野町に向かう前に、もっと何かをしていたら。皆に、起こりつつある異変を知らせていたら。
 結局、事の核心からそして危険から遠ざけようとした十代の行為が、皆を渦中に取り残すという最悪の結果に繋がってしまったのだ。
「まだ校舎が残ってる。十代」
「……ああ」
 肩に手を置いて慰めるように言ったヨハンへ頷き返しながら、思わずにはいられなかった。
 結局、同じ過ちを繰り返してしまったのではないか。異世界に取り残されたヨハンを捜して一人で暴走して、そのせいで皆を失ってしまった、あの時のように。
 結局、自分は今も愚かなまま変わっていなくて。
 何も守れなくて。
「誰か! 誰かいないのか!」
 深く息を吸い込んで、十代は何度目かの声を響かせた。
 しかし誰の声も返ってくることはない。
「……くそっ」
「クリっ?」
 苛立ちを噛み締めながら十代が校舎の正門へと続く坂を駆け上がろうとした時、不意に姿を現したクリボーが、奥の森を振り返った。
「ハネクリボー、どうした?」
「クリクリー!」
 問いかけると、ハネクリボーはあっちあっちと騒いだかと思えば、止める間もなく森に向かって飛んでいく。
「お、おい? ……もしかして、誰かいるのか!?」
「行ってみよう、十代!」
「ああ!」
 森の中には舗装されていないものの、長年踏み固められた道が幾筋も伸びている。温泉もある保養所や発電施設、数ヶ月前に崩壊してしまった特待生寮、火山などの方へ続いている道だ。
 木漏れ日の中を全速力で飛んでいくハネクリボーの、小さな後ろ姿を追いかけながら十代は、ふと一つの可能性に思い当たる。
 この先の保養所には、亮がいる。
 不整脈を起こしていた心臓は復調したものの、すっかり落ちてしまった体力が回復するまでは休養すると、翔が強引に約束を取り付けた。だったらと亮は今しばらくアカデミアに滞在することを選んで、足繁く通う翔の相手をするようになっていたのだ。
 だから今のアカデミアで、この道を通ることが最も多いのは。
「クリーっ!!」
 ぴたりと止まったハネクリボーが、ひときわ甲高い声で十代を呼ぶ。
「あれは……サイバー・ダーク? ――翔っ、いるのか翔!?」
 茂みの向こうにうっすらと見えたモンスターの姿に、十代は呼び声を張り上げた。
 今あのカードを持っているのは翔だ。ならば、そこに。
「翔っ!!」
 半ば茂みに突っ込むように駆け寄って、だが抜けた先には何もなくて。
 誰もいなくて。
「……翔は、どうしたんだ……?」
 茂みに覆い被さるように佇んでいたサイバー・ダーク・ドラゴンを十代は振り返った。すると錆色の黒竜は、足下の茂みを指し示すように頭をのそりと垂れる。
「十代! ――こいつは?」
 この森に不慣れでようやく追いついてきたヨハンが、その様に気づいて怪訝そうに目を眇める。と、その襟元にするりと姿を現したルビー・カーバンクルが、軽やかに地面へ飛び降りると茂みの中に頭を突っ込んだ。
「ルビー?」
 実体を伴わなければ茂みが揺れることもない。それでも茂みの影で微かに光を弾く小さな何かが、目に留まった。十代が手を伸ばすと指先に硬いものが触れた。引き寄せて拾い上げてみれば、それは何の飾り気もないブルーグレーの携帯電話だった。
 携帯が十代に拾われたことを見届けて、サイバー・ダーク・ドラゴンはするりとその姿を消す。
「これって」
「ああ。……翔の携帯だ」
 前に見たことがある。借りたこともある。
 十代を見たヨハンが気遣わしげに表情を曇らせた。サイバー・ダーク・ドラゴンはこれを守っていたのだろう。十代に届けるために。そうなることを、きっと翔が望んでいたから。
 息を詰めて十代は翔の携帯を開く。繋がらない電話。開かれていたのはメールの一時保存画面だった。送信されていないメールが一つあり、その宛先は十代になっていた。
 開いたその文面には、ずらりと文字が記されていて。
「……これ、カイザーからだ」
 それだけは少し、意外だったが。
 十代へ。そんな言葉から始まっていたメールは、彼からの手紙だった。



 アカデミアに戻ってきたおまえは、島を離れていた間に起こった事態を知って、きっと自分を責めるのだろう。
 自分の知らないところで何かが始まって、終わっていた。気がついた時には友を失っていた。
 その悔しさを、俺もよく知っている。
 俺にとっては吹雪が消えた四年前がそうだった。

 吹雪が消えてから帰ってくるまでの一年半は、生き地獄のようだった。
 手がかりを見つけるどころか、おかしなことは何も起きなかった。
 諦めてしまおうかと、何度も思った。
 このまま吹雪は帰ってこないんじゃないかと思ったこともある。
 それでも諦められなかったのは、悔しかったからだ。
 それを俺は忘れられなかった。

 十代、おまえは今、どう思っている?

 たとえどんな特別な力を持っていても、おまえは俺たちと同じ人間で、思い通りにいかないことはいくつもあるだろう。
 それでもおまえがいる限り、どんなに絶望的な状況になってしまったとしても、終わりじゃない。
 だから忘れるな。まだ何も終わっていない。
 終わりは、おまえ自身で決めろ。



「……俺さ」
 両手で翔の携帯を持ったまま、画面を見つめたまま、十代がぽつりと声をこぼした。
「うん?」
「異世界でみんなのこと守れなくて……本当は生きてたけど、本当に死んでたっておかしくなかった。だから今度は、ちゃんと、みんなを守らなきゃって思ったんだ」
 一度は間違った自分を、皆は笑顔でおかえりと迎えてくれた。
 その世界を、今度こそ守りたかった。
 そのためだったら、ひとりの夜も平気だった。
「今度こそ守りたかったのに、でもまたみんなダークネスに消されて、また俺、間違ったんだって、……なのに」
「十代……」
「なのに、違うんだ、そんなんじゃなくて」
 何と言えばいいのだろう。
 上手く言葉を見つけられなくて、十代はきつく目を閉じる。
 もらったのは、慰めの言葉じゃない。
「カイザーも、翔も……みんな……」
 十代を狙ったダークネスの襲撃に巻き込んでしまったあの夜も、戦うときは一緒だと、笑顔でそう言ってくれた。
 泣きそうになるくらい嬉しかった、あの声は今も十代の中で生きている。
 鮮やかに生き続けている。
 だから。
 十代はゆっくり顔を上げた。
「俺、みんなに守られてる」
 そう思う。
 ぱちんと音を立てて折り畳んだ翔の携帯を、十代はポケットに突っ込んだ。
 翔が届けてくれた、亮の言葉。
 込められていた想いは、十代の中で生きている。
 だから大丈夫。
「行こう。みんなは俺が絶対に助ける。それでハッピーエンドだ」
 エンディングは、自分で決める。















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失ってはならないもの。

想い出とか友情とか信頼とか絆とか信念とか、記憶が生かしてくれる、大切なもの、ありとあらゆるもの。
だから、どんなに離れていても繋がっている。

年長組で捏造設定。吹雪さんたちの失踪は四期終盤の回想で二年次だった可能性?が出てきましたが、作中では一年次の末、夏休み直前としています。また亮もかつては特待生寮住まいだったことに。

亮が選んだ「終わり」は、明言しないことにしました。
ダークネスの象徴でもある真紅眼の闇竜を撃ったかもしれませんし、デコイを狙って吹雪さんの愛用する真紅眼の黒竜を撃ったかもしれません。そうして『吹雪』に勝った後、藤原に屈したのかもしれません。あるいはバトルしないままターンを終了し、翔との絆でもあるパワー・ボンドの効果で自滅したかもしれません。
そもそも最後に現れた藤原が本物であるかどうかもわかりません。